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2026年8月12日水曜日

保守とリベラル、二項対立について 2

From 保守とリベラル、二項対立について

縄文と弥生

この国の多様性は二項対立の内包に支えられている。それが縄文と弥生である。ニーチェが{アポロン的 , ディオニュソス的} と言うとき、わが国は {縄文的 , 弥生的} と答える。

この国は決して単一ではない。多種多様な民族、文化の混在である。近年、様々なバックボーンをもつ方々も帰化している。この国は大陸の終端にある。そもそも、此処は逃げてきた人々の吹き溜まりである。そうでなければ誰があんな厳しい海を越えてまで辿り着こうとするものか。

この国には雑多なものがある。誰もが雑種である。それだけがこの国の強みだ。ではこの国の統一感は何が支えているのか。ひとつには日本語がある。ひとつには天皇がある。それ以外の何があるだろうか。

江戸時代は藩の連邦制が敷かれていた。およそ三百年という鎖国の間には、国内の流通も制限された。多くの人が自分の生まれた土地で一生を終える。それが一種の純化を促す。国学も朱子学も蘭学もこの時期に磨きに磨きぬいた。この蓄積が明治維新で爆発し近代国家への乗り換えを支える。それは今も県民性として残っている。

この国にはなんと多くの二項対立を見出すことができるか。だれか一人の突出がない。必ずもうひとつの価値観が生まれる。そのどちらかだけを選ぶなんてできない。例として北山、東山がある。

アジアと西洋

アジアにはアジアの統治思想がある。中国に生まれた様々な思想家の手によって紀元前には体系化されていた。日本はこの考えに影響された上で国を作ってきた。それを支えるのは「天」という思想であろう。

西洋はキリスト教の影響を強く受けてきた。近代国家の統治思想は、ヨーロッパ、中東などを経て、権力(王)と権威(教会)という二軸の中から誕生する。それが権利の章典である。この時点で法が王、教会と並び立つ。王と雖も法を自由にすることは禁じられた。王、神、法という構造が、行政、立法、司法にシフトするのは自然だと思う。アメリカに近代国家が誕生する。フランスで革命が起きた。

江戸時代に人々は科学技術に支えられたヨーロッパの圧倒的な軍事力を背景とする恫喝と出会う。我々の統治思想ではこれらの軍事力に対抗できない。だから、我々の統治思想は見直されなければならない。それともアジアの統治思想でもそれは可能であるか。

長い鎖国があったからこそ、日本は西洋から入ってきた技術に少しも躊躇しなかった。それを取り込んで自らの手で組み立てるのに多くの時間は必要なかった。だが、歴史は試行錯誤するほど多くの時間は与えてくれなかった。

明治維新において我々は、アジアの統治思想の上に近代国家を構築すると決めた。ペリーと通常条約を結んだ幕閣たちはアジアの統治思想を携えてヨーロッパと向き合った。伊藤博文は西洋のセの字も知らなかったはずだが、彼の手になる帝国憲法は、よく西洋を理解しており、彼の慧眼には驚くべきものがある。

どうして我々はこんなにも簡単に近代国家に乗り換えることができたのか。キリスト教の代わりに天皇を権威に据えた。これが日本の独自性であった。誰かが、彼らを支える教会が、我が国では天皇と同じであると気付いた。小室直樹によれば、ここに日本の悲劇がある。

我々はヨーロッパとアジアのハイブリッドとして国家を樹立した。だから、憲法をよく学ぶだけでは足りない。同じ熱力で論語も必要としている。それは今もである。

法と統治

日本人は理念、理想を絵空事と考える。ヨーロッパの人々が考え抜いてきた思想であっても、借り物と呼ぶ。自由民主党の憲法私案は近代国家をなにひとつ理解していない証拠として挙げられるが、それで困ると考える人は少ない。彼らは憲法を武家諸法度の延長と考えている。

憲法は理念を記述する。その理念に基づいて権力を制限する。だが、我々はそれを絵空事と考える。ルールは重要であるが、守る事でうまく動かないなら守る必要はない。

我々はそういう方法で十分だと考えている。ここに日本の法体系の源流がある。我々にとって法は建前であって「規則は規則」である。力を持つものがその気になればそれに抗う方法はない。それを体験的に知っている。それに対抗するのは力しかない。

なぜそのような通念でよいのか。なぜヨーロッパにある法の強靭さを信じる事ができないのか。

日本は治世で成り立っているからだ。治世が最初にあり、その次に法が作られる。法に理念を書く必要ない。なぜなら治世という考えの中に理念が含まれている。我々にとっての理想とは治世の理想であり、その源流は堯舜にある。

なにも悪い事が起きず生きられる、なんと素晴らしい事か。

我々の統治思想は、自然発生的な考え方に近い。それは勝ち取るものでも当然の権利でもない。基本的人権を幾ら叫ぼうとも津波は人を飲み込むではないか。

治世の理想が根底にある。憲法は最上の法律かも知れないが、統治機構の最上位にあるものではない。そういう統治思想がある。我々には法の理念よりも更に上位の統治理念がある。

だからこの国は法に明記しない所をぼんやりと運用するのに長けている。現場の判断でうまく処置するのに重きを置く。明文化すると、切り捨てられるものがあることを知っている。正体ははっきりとさせないままにする強靭さと永続さを知っている。不可思議のまま置いておくほうが、きっと役に立つ、そういう考えがある。

理想、理念から出発して原則を大切にするよりも、状況に合わせた運用の妙に重きを置く。だからヨーロッパのように法や原理を最も重要と考えていては理解できない部分があるのは当然だ。

自然観と統治

ヨーロッパでは、キリスト教によって自然は神の造形物となった。一神教の思想と砂漠はよく似合う。ヨーロッパが深い森に覆われていた頃、おそらくキリスト教は一神教ではなかった。

人間が神にとって特別の存在であるならば、神が造形した自然は人間にとって恵みである。自然にあるものをどう使おうが勝手である。聖書には似せて造ったと書いてある。それだけで自分たちを特別と信じてしまう。

日本の自然観は、自然の強靭さに裏付けられている。少なくとも、産業革命以前の人間の力でどうにかできるようなものではなかった。そういう歴史が、人間程度に打ちのめされるものかという幼児のような無邪気さの裏付けになっている。科学的根拠を示されても絶滅など信じられない。我々の自然は強い。その程度の自然観である。だから、どこかで生きていると信じている。

アジアでは王に権威があった。権力は家臣が持っていた。教会ではない。なぜ法家は三権分立を生み出すことができなかったのか。

先に進むために

ヒットラーがあれだけの大事業を成しえたのは何故か。その切っ掛けは右傾化にあると思われる。それが彼を打ちあげるためのブースターとなった。打ち上がれば切り離される。

大勢力とはそういうものだ。それが民主主義である。多くの為政者が危険だと知りつつも、袋小路から抜け出なかった。それと比べれば、少なくともヒットラーは袋小路に立ち止まる人ではなかった。それがどのような悪夢であれ立ち止まるよりはましだと考えた人は多かったであろう。

彼らは変化を求めた。そういう意味では革新であった。だが戻りたいのはもと居た場所だった。そういう意味では保守であった。もと居た場所に戻ろうよと言う人々と、別の場所に行こうよという人々がいる。場所が遠くなるほど、彼らの希求は強くなる。願いが強くなれば暴力的になる。

兵庫県警察-雑踏警備によれば、群集心理は通常とは全く異なる振る舞いをする。

明石歩道橋事故の教訓を受けて、人間の心理から問い直した素晴らしい仕事であるが、それの教える所によれば、どのような人であっても、ある条件下においては豹変する。人間はそのような動物なのである。なぜなら人間はそのような状況を前提として進化していない。蟻たちとは違う進化をしたからである。都市化によって初めて起きる状況に生物として対応しきれない場合があるのは当然と考えられる。

このドキュメントが示す群集心理の特徴、軽薄性、無責任性、興奮性、暴力性、直情性、付和雷同性を眺めていると、これがそのまま炎上と呼ばれる現象と類似している事に気付く。インターネットではそういう状況に好む人もいる。ネトウヨと呼ばれる人たちの議論もこれと同じだ。それらはまるで群集心理のように振る舞う。それは現象である。

インターネット上ではこれらの群集心理は一過性のものではなく、継続性を持っている。ここが大きな特徴とも思われる。インターネットという特殊な状況が、この興奮状態に対して、一種のハレを求める、一種の依存性を持っていると考えられる。これが大きな流れを持てば人間の力では如何ともし難い潮流を生む。米内や井上ではその流れを止めようがなかった、そういう無力感がある。

なぜ我々はこうも簡単に二項対立のどちらかに落ち込んでしまうのか。

警戒心と依存心、忌避と賛意、左翼は政府に銃を向けられて戦場に立つのを警戒する。右翼は近隣諸国に征服され奴隷となるのを警戒する。彼らが語るものは国家のようで国家ではない。世界でもない。平和でもない。なぜ対立が必要なのか。ふたつあるからだ。

絶滅の科学

現在は、経済がすべてを決するという考えが先鋭化した時代と言えるだろう。かつて、我々の価値観は、目先の利益に走るのを由としないものであった。平家物語を読まなくても、「奢れるものも久しからず」という考えがあった。

この世界は、未来永劫つづいてゆく。この世界もずっと続いてゆく。そう信じるならば、未来に対してどういう生き方をするかという考え方も重要であろう。

核兵器の登場が、人類の絶滅を現実化した。この現実が、未来永劫という考えを揺さぶる。もし滅びるのなら、滅びる明日よりも、今を謳歌する方がよい。手に入るかも分からない10年後の利益よりも、目先の利益を最大化する方が生き残る可能性は高くなる。

これが20世紀の価値転換ではなかったか。

天という思想、神という存在は希薄になった。核兵器の前で神が無力であることは広島、長崎が教えてくれている。

快楽の追求はいつの時代も、どんな場所でもあった考えである。ギリシャの哲学者たちだって考えていた。それでも未来を疑った者は少ないであろう。黙示録に恐れるのは永遠を信じているからだ。

科学が永遠を児戯にした。いつか滅びる、いつか絶滅する、宇宙さえも希薄になる。原子さえ存在できない未来が来るかも知れない。目の前の利益を追求することに躊躇する必要はない。今日の勝利者になるべきだ。

この時代とイスラム過激派には何か関係があるようにも思える。永遠という概念が世界を形作ってきた。あらゆる宗教はそれを前提とする。それが崩壊した。これほどの変革が時代に激動を与えないはずもない。

権利

失われることに人間は耐えられない。失った悲しみを乗り越えられるほど人は強くない。だから永遠性を必要とした。我々が寂しさで絶滅せずに先に進めるのは脳がそれを発見したからだ。永遠がある。だから、それは悲しくはない。そういう知性をもった生物として誕生した。寂しさで死ぬのは人間だけではない。

永遠が失われれば、国家が肩代わりする。右傾化はそういう流れだろう。永遠の代わりをどこかに見つけなければならない。国家はその中で最も簡単に見いだせる存在のひとつだ。

人間は時間が一過性の一方通行であると理解している。時間は巻き戻せない。と同時に時間が終わるという事も想像できない。自分が消えても時間は動いているはずだ。人類が滅びても世界は動き続ける。ならば時間とは動くことか。すべての物質が絶対零度で止まっても、時間は流れているはずだ。人間は時間が終わるという状況を考え出せない。

時間を永遠と仮定するから様々な思想が成立する。永続の具象として神や天が仮定された。その補助線を頼りに、思想を発展させてきた。

もし、それが消失したらどんな事が起きるだろう。

なぜ人間は権利を考え付いたのか。

権力とは禁止する能力のことである。権力の源泉は許可にある。そのためには禁止するための何かが必要である。人々を説得するだけの。それが力にあればこれは権力であろう。これが命令にあるならばそれは権威であろう。これが正当性にあるならば法であろう。

権利の根源は所有にある。私が所有するものは奪われない。これが権利の基本だ。よって権利は所有の延長にある。そして所有とは自然から略奪する事である。

この命さえも自然から略奪した。だからこの命は私のものと考える事ができる。恐らく虫たちはこういう考えをしていない。そして、自然から略奪した以上、そこに正当性はない。奪ってきた、そして私がいま所有している。他の誰かに奪われた所で、何の文句を言えよう。アフリカのサバンナではよく見る景色だ。

永遠を超えて

所有を守るためには力がいる。命令がいる。正当性がいる。そういう守られているという考えから、最初から所有しているはずだと思想を転換した所に近代国家の根本がある。人間もまた自然の一部なら最初から所有しているものがあるはずだ。それは決して人間と切り離せないものとして存在しているはずだ。

神が与えたものは神に奪われるだろう。誰かが守っているものは、誰かに奪われるだろう。だが最初から所有している権利は奪えないはずだ。その人の腕をもぎ取ろうと、その人の権利は奪いようがない。この考えが基本的人権の正当性を裏付ける。

自然から奪ったものに権利はない。所有した瞬間から権利が発生する。この考えならば太古からあった。全ての法律は所有に関する係争を裁くために存在している。

近代国家は、新しい権利を発見した。人間が自然から奪ったものだけが権利ではない。我々の中にも権利がある。それは所有というよりも、不可分なものである。だから奪えない。不可能なものの正当性を論じても意味はない。そういう形の所有を発見した。

誕生したものはすべて祝福される。誕生はすべて正しい。これが神の意志である。その1秒先に例えどのような運命が待って居ようと。その瞬間にすでにある権利を持っているのだ。この考え方に永遠は必要なかった。

神に与えられるのならば、それは永遠であろう。そうでなければ説得されまい。だが生まれつき持つ権利という考え方に永遠は必要ない。永遠などなくとも納得できる。それが近代国家の出発点となった。その始まりから永遠を排除できた。

永遠によって支える必要のない価値観。永遠を必要としない正当性。もし永遠を信じることができないならば、それは忘却してしまえばいい。考えなければ、それは存在する。否定しなければ、それは存在できる。存在しようがすまいがどちらでもいい。

なぜ我々は意味もなく否定するのか。ふたつあるからだ。

人が生まれながらに権利を持つといえば、孔子は笑うだろうか。キリストは興味のない顔をするであろうか。

2026年8月1日土曜日

弱肉強食の進化論

弱肉強食

弱肉強食は唐の時代の送浮屠文暢師序に由来する。

韓愈(768-824)が野生を表現するための言葉(弱之肉,強之食)で、野生で生きるなら毎日誰かに食われる事を心配し、今日の食べ物の心配も欠かせない。それと比べて人間社会はそういう不安を減らしてきた。人間社会との対比としての野生状態を示した言葉になる。

食物連鎖について深く思索した言葉ではない。どちらかと言えば、野生で生きる事の不安を強調するために自然の一部を切り取った言葉である。

韓愈の関心は人間の社会にあった。当時でさえ弱を草食、強を肉食の意味では使っていない。それを草食動物、肉食動物に当て嵌めるたのが現在の状況である。

肉を食うのが強くて、草を食うのが弱いと誤解するのは何故だろう。食性の違いを強い弱いにする理由、恐らく野生の王国での捕食シーンを見て、命を奪っている=強いという式が浮かんだ。もちろん、そこに植物の命は含まない。子供の手でも手折れるから。微生物も含まない。目には見えないから。

命を奪うとは、乃ち痛みを感じるという事でもある。そこで痛みを与える側、痛みを受ける側に分けられる。そこに強い価値観を割り当てた。相手を自在に扱える事を強いという言葉で呼んだ。

例えば魚には海で呼吸する能力がある。これを強いとは呼ばない。魚は生態によって泳ぎ方が異なる。早いほど強く感じる。強さの割り当ては人間側の切り取り方であって、そこには多分に暴力性が含まれる。早ければ追いつける、力があれば拘束できる、などその発想は暴力性と直結する。

その背景にあるのは自分は食べられる側になりたくないという恐怖心だろう。その本能的な拒絶が弱肉強食という概念に取り込まれた。

弱い立場になりたくない、というのが社会的な圧力からきたのは確かだろう。その正当性を自然の中に見出す事で良心的な呵責を失くす事ができる。それで弱い立場に対して良心の痛みなく搾取し無視し無関心でいる事ができる。

人間は相手の命を奪うという命題に対して自然の中にその理由を見出した。自然が許しているのだから自分たちも許されると。

なぜ肉食が強いかと言えば、微生物は小さくて見えないからだ。微生物の肉食は腐敗と呼び区別している。病原菌の増殖で命を失っても弱肉強食とは呼ばない。病死と呼ぶ。

草を食べるのは命を奪っているようには見えない。ある程度の大きさの命を奪うという行為でなければ認識できない。それは肉食動物か、人間の戦争でしか確認できない事象である。

人間はそうやって極悪な事にも理由を必要とする。弱肉強食はその理由にしやすい。生存者バイアスである。

食物連鎖

強いものが食べ、弱いものが食べられるという構図は食物連鎖の実体からはかけ離れている。弱いから食べられるのではない。強いから食べるのでもない。

食べる相手を捕食できる能力を持っている。その能力を強いと形容した。肉食動物に狩りをする能力があるのは自然である。そうなるように進化してきたのだから。強くなるためでも負けない為でもない。ただ飢えない為に。

食性は外部からエネルギーを取り込む手段であり、その違いはそれぞれの生命の進化の結果に過ぎない。その食性で維持できれば生存するし維持できなければ途絶える。または別の種に進化する。

野生では小鹿を慈しむライオンが観察される事もある。一様な単純化に当てはまるほど自然は脆弱でも強固でもない。エラーは進化の土壌だ。

植物は太陽光を使い糖を生成する。草食動物は植物の細胞からエネルギーを取り込む。肉食動物は動物の細胞からエネルギーを取り込む。

食性の違いはそれぞれであるけれど、どの動植物も、採餌に適切な消化器官を持つ。歯の形もそれに合うように進化している。捕食に相応しい能力をもってそれぞれの生命は誕生する。

植物は移動しない代わりに細胞壁が頑丈である。これを消化するのは肉食動物には出来ない。これは目に見えない機能だから気づくには学習が必要だ。

動物は移動する。その変わりにその細胞は消化しやすい。食性にあった採餌でなければ生物は必要なエネルギーを取り込めない。

強さ

鳥類で最も繁栄しているのは鶏と言われる。ただしそのほぼ全ては食用となりケンタッキーの店舗に並ぶ。それは人間が強いからか。鶏が弱いからか。それとも人間が賢いからか。鶏が愚かだからか?

牧畜・農耕は、自在に他の生物をコントロールしているように見える。それは人間の発見した方法論であるが、それは人間がこの星の生物界の頂点に立っているから可能なのではない。人間にはその手段があった。それを進化の過程で獲得していた。

それはそれぞれの食性とも関係ない。捕獲し育て食用にする。その為に必要なのは柵を作る事だ。あと所有の概念が共有される事だ。

どちらかと言えば所有の概念がある事が他の動物との違いだろう。なら強いとは所有権を主張する事ではないのか。それを他の動物が理解しないとしても何も不思議はない。所有と強さを混在する方が余程に愚かだ。

肉食

肉食は動物を選ばない。

だから誕生したばかりの肉食動物は他の肉食動物の獲物である。老化してもまた捕食の対象である。怪我や病気でも捕食の対象になる。

肉食動物だからといって常に捕食する側ではいられない。捕食が常に成功するとは限らない。肉食動物の狩の成功率は10割ではない。

肉食は大変である。だから数が少ない。それは別に選ばれたからでも能力があるからでもない。その動物が住む環境で維持可能な数量を超えないだけの事だ。選民思想の人は恐らくここでも勘違いできる。選ばれたから数が少ないのだと。

草食動物は肉食動物よりも数が多い。植物は草食動物より数が多い。微生物の数は更に多い。食物連鎖のピラミッドは下層ほど数が多くなる。なぜなら数の多い順に積んでいったものだからだ。

しかしそれは下等の意味ではないし階級の意味でもない。原理的に肉食動物は草食動物の数を超えられない。よって数の調整機能は肉食動物にも働いている。バランスの上に数が成立している。つまり増えすぎた肉食動物はどこかで餓死している。

殺して肉を食べる行為が強く見えるから牙が強さの象徴に見える。すると牙が大きいほど強いと感じるのも仕方がない。沢山の牙が生えているのも強く感じたりする。悪魔の歯列が沢山の牙である理由である。

巨大な犬歯を持つサーベルタイガーやティラコスミルスが大型哺乳類に合わせた進化をした。巨大な犬歯で相手の動脈を切断する。大型哺乳類を捕食するにはそれが最も効率的だったのだろう。

氷河期が終わり哺乳類が小型化すると捕食方法が変わった。現在の肉食動物は、相手の首に噛みつき窒息させる方法を採用している。その方が効率が良いのだろう。サーベルタイガーは絶滅した。

弱いから肉になるのではない、強いから捕食するのでもない。弱いから植物しか食べられないのではない。強いから肉を食べるのでもない。どの個体にも餓死の危険はある。捕食される可能性もある。

肉食動物は強いのではない。草食動物は弱いのでもない。どちらも捕食されるまでは生き抜いている。そして多くの動物は草食肉食関係なく最後は捕食され死亡する。

適者生存に従うなら捕食に成功した個体が生き残る。繁殖に成功した種が繁栄する。それを毎年のように繰り返している。

肉食動物にとっては数の多い草食動物を選ぶ方が、数の少ない肉食動物を捕食するよりも生き残る可能性が高い。だから多くの肉食動物は草食動物を捕食する方向で進化する。それは決して肉食動物を捕食しないという意味ではない。

肉食動物も常に捕食される危険性があるし、それ以上に常に餓死する危険性がある。狩りの時に脚を挫けばそうなるし、歩いている時に棘が刺さればそうなる。傷が化膿すれば狩りができない。捕食できなくなれば、がりがりに痩せたライオンが出来上がる。これが全ての肉食動物の最後の姿である。

草食動物も怪我や病気になれば逃げられない。肉食動物も弱っている個体から優先的に捕食する。逃げる力に優れている個体はそう簡単には捕まらない。草食動物は草を食べるから飢え死にする心配はない、とは限らない。アフリカでは季節ごとに草を求めて大移動をする。それが出来る体力がなければ途中で死ぬだろうし、渡河で流されて死ぬ個体もいる。

イルカやクジラは老いると泳げなくなり最後は溺れ死ぬらしい。

エネルギーの循環

生命はエネルギーの循環にも例えられるだろう。それは自然現象(生物を自然現象に含まない場合)よりも早く大量に循環できる仕組みとも言える。

供給するエネルギー量を超えて生命は生存できない。地球に降り注ぐ太陽エネルギーがその上限になる。草食動物は草原にある草の総量を超えて増える事はできない。肉食動物は獲物の数に制限される。

どの動物も定期的にエネルギーを摂取しないと生きて行けない。そのエネルギーは生存中はずっと必要だから、継続的に供給できる環境がなければ死んでしまう。春夏秋冬のそれぞれでそれが維持できないと生き残れない。

肉食の利点は一回で得られるエネルギー量が多い点にある。その代わり相手も逃げるので捕食は困難である。草食の利点は草は動かないから捕食が簡易である。難点は細胞壁を破壊するコスト。それぞれが淘汰圧を跳ね返すように食性を獲得してきた。生き残っている生物はどれも進化しながら種を繋いできた。

老いと群れ

群れを作る動物は何故老いるのか。捕食者は弱い個体を優先的に狙う。故に子供が最初のターゲットになる。そして子供ばかりが捕食されれば、その群れは遠からず絶滅する。

すると、群れは子供を守る方向の淘汰圧を受ける。その為には子供以外の個体が捕食される必要がある。老いはこれに対する回答のひとつだろう。

老いて肉体的に弱くなり足が遅くなる仕組みがあれば、捕食者はそれを狙う。脳の機能が弱り、逃げない個体がいれば、捕食者はそれを狙う。老いる事で捕食しやすい個体が増えればその群れはそれだけ子供が生き残る可能性が高くなる。

もし老いても能力が落ちない個体ばかりの群れなら、その結果として、子供が優先的に捕食される。老いた個体が生き残り、若い世代が死に絶えてゆく。

数世代先には絶滅するだろう。そういう方向の進化は絶滅に直結する。そして淘汰される。だから群れを作る動物では、老いる必要があるし子供より老体が先に捕食されるように進化が進むと考えられる。

ならば、同じ子供が捕食されるにしても、雌よりも雄が優先的に捕食される方が生き残り易いのではないか。そういう淘汰圧があるなら、比率として雄の方が好奇心が旺盛で、一人でも遠出する個体が多いなどの傾向の違いを説明できる。そういう淘汰圧で子供のうちの雌雄の性格差を説明できる可能性がある。

とはいえ、雄雌の差は固定化されないし環境の変化に敏感に反応し変わってゆくものだろう。数世代で簡単に変わるような固定の強さには幾種類もある気がする。生き残るべき相手は捕食者だけではない。様々な可能性を模索する中では、雌雄別なく好奇心旺盛な個体が一定割合に生まれる方がいい。

同時に臆病な個体も一定数で生まれる方が期待ができる。進化は曖昧さの中に活路を見出す。固定化しない事が進化の戦略と思える。

なぜ人は老いるのか、老いない個体の群れは子供から先に捕食されるので遠からず絶滅するから。