言葉と世界
全身が毛に覆われ、尾を激しく振る。真っ赤な口から牙が剥き出し、涎がだらだらと垂れている。見つかれば飛び掛かりあっという間に噛みついてくる。この魑魅魍魎の怪物がもし「犬」であるならば、単に飼い主とじゃれているだけではないか。言葉には命がある。言葉は世界を変える。バスカヴィル家の犬でさえ、所詮は犬ではないか。化け物、物の怪の類ではない。今日の自分たちはそう考える。
名前が付けられると、それは言葉による制限を受ける。行動も禁止される。犬に魔力があるはずがない。火を吐くはずがない。化け物でさえも名前を持つから世界に参加できる。なにも変わっていないのに。
自然の一風景として、たった一枚の葉が、秋の訪れを知らせる。もしそれが神の啓示だったら。そんなこと、どうして人に知れよう。太陽が隠れれば神の意図かも知れない。それを否定する合理的な理由があるわけでもない。それは単なる天体運動だよ、と言ったところで、全知全能の神である。
50億年前から計算し尽していたとして何の不思議があろう。それは啓示かも知れない。そうでないかも知れない。神の前では言葉は無力だ。この言葉の性質からは誰も逃れられない。言葉を失わない限り。
二項対立
保守、リベラル。左翼、右翼。伝統、革新。全体主義、自由主義。資本主義、社会主義。分散と集中。陰と陽。儒家と法家。デュオニソスとアポロン。縄文と弥生。人間は世界をふたつに別けて考えてきた。それがとても自然なのは、多分に脳の構造によるものだろう。宇宙のどこかには3以上でなければ理解できない知性がいるかもしれない。この星はバイナリな論理で構築されている。それはシナプスの運動ともよく符号する。人間がどれほど複雑な生き物でも、ON/OFF の集合体である事は疑いようがない。何億もの ON/OFF が多層構造となって重なり、どこかで発火する。ある閾値を超えた ON/OFF だけが人間の意識に捕捉される。
ニュートンやライプニッツが研ぎ澄ました微積法という刃物で、人類は手当たり次第に世界を切り刻んできた。中には切れないものもあった。発散と収束。有限と無限。脳は二項対立で考える癖を持っている。
細胞の内と外に境界がある。細胞はもしかしたらそういう仕組みではないかも知れないが、細胞を観察する我々はそのように理解している。そこに浸透圧があることも知っている。
外界とやり取りするのに沢山のポンプを動かしていることも知っている。生物は入力と出力を持つ回路である。組み立てられ、成長し、やがて停滞し、壊れてゆく有機物の化学回路。
ヘーゲル
テーゼとアンチテーゼが対立する。二項対立の関係性には、対立、妥協、敵対、競合、と様々ある。そうなる理由はひとつしかない。ふたつあるからだ。その対立の行く末はそう多くない。
- 共存する道
- 統合する道(アウフヘーベン)
- 隔離する道
- 支配する道
- 絶滅する道
ならば人間の態度は必ずどれかに分類できる。共存しようとする人、統合しようとする人、隔離しようとする人、支配しようとする人、破壊しようとする人。これらの態度が人間の行動を決める。それが言葉の端々にも現れる。どのような言葉も、この何れかに分類できる。
だから内容など聞かなくても、態度が分かれば何が言いたいのかが分かる。それが分かれば内容は特に必要ない。
これらの関係性の中で相手を滅ぼそうとする議論が問題になっている。同じ事件を悲しんでいるふたりが、急に対立しはじめ意見を戦わせ、相手を罵る。同じ方向を向いているのになぜ争うのか。
二つしかないから対立する。二つしかないから、相手を滅ぼす事を考える。現実の多様さ、違い、複雑な絡み合いを受け入れるならば、そう簡単に結論には至らないと知っているはずなのに。
統合もまた絶滅の道である。クラークが描いた幼年期の終わりのように。テーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンすれば、テーゼとアンチテーゼは消滅する。蝶から見れば、幼虫は消滅したと言えるか。夢の中の自分は目が覚めたら消滅したのか。
多くの生命がこの星で絶滅してきた。ある種は別の種となることで絶滅した。ある種は完全に命の螺旋を絶たれた。一度死に絶えた生命が再び出現することは確率的に無に等しい。人工的に再生することも困難だ。50億年もすればこの星は消滅する。それまでに地球の生命は宇宙へと進出できるか。
思想もまた滅びる。そしてリインカーネーションする。壮絶な体験で死に絶えたと思った思想が、復活する。打ち砕いたはずのナチスが蘇る。がん細胞が頑強なまでに増幅を繰り返すのと同じように。
相手を打ち砕くには暴力が必要である。論戦もまた相手を叩くなら暴力的である。言語が行動を伴うのも自然である。言論の自由はある。行動の自由はない。それが我々の社会である。だから行動を支える正義がいる。正義が絶対的であるほど、相手を撃つ力は強い。人間は正義を持たなければ虫も殺せない存在だ。
右翼と左翼
右翼と左翼の歴史はフランス議会から始まる。議長から見て右側にいる人々、左側にいる人々。最初から対立はふたつの間で始まった。三つはない。右翼にいた人々は保守であった。左翼にいた人々は革新であった。保守である人々は、昨日と同じ今日が明日も続くという考えに基づく。変化は緩やかな方がよい、大きな変化は大きな負担を生むという慧眼に支えられている。
革新である人々は、この世界は常に工夫し改善する余地がある。理想からはほど遠い。今日を変えれば、明日はきっと違う日になる。
これらふたつは、変化に対する態度に違いがある。変化への受容性が、そのまま時間感覚の違いになる。保守の人は自然とゆっくりとした変化を支持する。革新の人は一気に変わることを厭わない。ならその違いは程度の差とはいえ時間経過する速度の差に過ぎない。
だから、保守だから穏健なのではない、革新だから性急なのでもない。考え方の違いが自ずと時間に対する感覚の違いを規定する。保守と革新は、現状との差に着目して、大きく変わる方が革新、小さく変わる方が保守と分類できる。
20世紀最大の変革は共産主義であろう。この世界を二分する改革は、極めて人工的なものであったが、より変革的を求める共産主義が革新に、そうでない勢力が保守と分類されたのも当然である。共産主義は左翼、資本主義は右翼に分類された。森の奥深くに住む人々は置いてきぼりであったが、彼らはこの対立にほどんと無関係であったから無視できた。
こうして何かが起きる度に、それは革新か保守かという観点で左翼か右翼に分類される。容器がふたつしかないのだから、必ずどちらかに収納される。こうして物事は単純化してゆく。
日本が経験した次の変革は敗戦であろう。昭和20年以降に起きた社会的変革はアメリカ主導で行われた。これに賛意する側が革新、反意する側が保守になる。こうして、日本では左翼が戦後派、右翼が戦前派となった。
左翼と呼ばれれば、左翼的に考えるようになる。右翼と呼ばれれば、右翼的に考えるようになる。狂人と呼ばれれば、そのうち狂人と見分けが付かなくなる。徒然草にもそう書かれている。
(第85段)
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
右傾化は日本だけの現象ではない。すべての先進諸国で起きている。ヨーロッパでも極右政党が支持を伸ばしている。イギリス、フランス、日本、ドイツはどれも同じような問題に直面し、それぞれの方法で解決しようとしている。
右傾化する理由に急激な変化がある。100年かけて行うべき変化を10年でやろうとするなら右傾化する。10年でやるべき変化を100年でやろうとするなら左傾化する。右傾化、左傾化と時間の関数は常に一定であろう。
この時代の右傾化は、激動の時代に入った証拠であろう。反中、反韓、ナチス、都合のよい標語は歴史の中にある。だがそれは変化の本質とは何も関係ない。右傾化は変化に対するリアクションに過ぎない。嵐が来たからと言って、問題が解決するわけもない。
There's an east wind coming, Watson.
I think not, Holmes. It is very warm.
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