stylesheet

2026年9月22日火曜日

∀ガンダム I 地球光& II 月光蝶 - 富野由悠季

組織論で見れば、宮崎駿と富野由悠季はうまく対比できいるのではないか、という考えに至った。両者の作品を組織と個人の関わり方を切り口にすれば、彼らの普段の主張とはまた違った側面が見れるのではないか。

ザンボット3でも自衛隊に併合される話があったが、富野由悠季の作品のキーは組織だと思う。その組織とは官僚制度の事だ。ガンダムがあれほど人気が出たのも軍という組織の中で立ち振る舞う人間のドラマだからではなかったか。民間人という部外者が、次第に軍人になってゆく。好むと好まざるとに関わらず。登場人物たちは自分の人生の中で、組織を通じて出会い、影響を受けあいながら生きていった。

斯様に富野由悠季のドラマは、組織の中に人物がいる。そこでの軋轢、葛藤がドラマの中心となる。イデオンは組織から見捨てられた人々と、国家という組織の対立が置かれていた。ダンバインは王政という組織の中で戦いを続けた。

では宮崎駿の作品に組織がないのかと言えばそんな事はない。未来少年コナンのモンスリーは明らかに組織の人であった。その行動を支える思想も、自分が愛するものたちもすべて組織の中にあった。

だが決定的に違うのは、主人公たちがどの組織にも参加しない。組織からは距離を置いた場所にいる。

俗な見方をするなら、組合活動に参加し、東映動画で社員として生きた宮崎駿と、虫プロ以降、その殆どを自主独立のフリーとして行動してきた富野由悠季のそれぞれの歩み方と作品の中の組織がなんとも相関しているように見えるのである。自分の中にないものが作品に表出した、そう考えても差し支えなさそうであるが、こういう類の進め方は作家論としても作品論としてもいわゆる三流の域を出ない。そのような見方であれらの作品群に立ち向かえる訳がない。

彼らの眼差しの先には、組織がなかったはずはない。それをどう扱うかに斯くも作家性が色濃く表れるのかという驚きさえある。宮崎駿の力量に打ちのめされた、挫折した作家のなんと多いことか。彼の作品に最も衝撃を受けたのはそういう人たちだろう。宮崎駿が大河の本流であったのだろうよ、そういう声を発する作家はたいへん多いのである。

だが、宮崎の作品群はどれも単発で続編がない。誰も彼の作品の後を継ぐことはできなかった。巨大だが、彼の作品は彼の代で終わってしまう。それはまるで彼の作品の中で主人公たちが組織と与する事をしなかった事の当然の帰結にも見える。巨人が倒れた後に何が残るのか。その跡に草が生え、いずれは森となるだろう。

一方、富野の作品群は、たしかに主としてはガンダムだけではあるが、何度も作り直されてきた。色んな作家が自分の解釈として新しい創造性を加えてきた。様々な形式を追加してきたが、そのどれもがガンダムというフォーマットで通用している。

それを支えているものがガンダムという世界観の中に存在する組織ではないか。もっと言えばジオンという組織の存在がガンダムという世界を形作っている。ジオンが登場する必要はない。その理念的なものが和音として流れていれば十分である。

宮崎駿の作品も富野由悠季の作品も多くの名台詞がある。だが働いている人の多くの口から発せられるものは富野の作品由来ではないか。組織の中にいる人の共感を得る。それは作品が組織を描いているからだ。その親和性が、若さゆえの過ち、性能の差が戦力の差ではない、坊やだからさ、ザクとは違うのだよ、ザクとは。敢えて言おう、カスであると。あんなもの飾りです、どれも組織の中に生きる言葉であり、使いたくなる言葉である。

40秒で仕度しな、バルス、みろ、人がごみのようだ。飛ばねえ豚はただの豚だ。いずれも、組織とは関係ない。どちらかと言えば個人の決断を後押しする類の言葉である。組織を背負うな、お前の野心を隠すな、そこに活力がある。

同世代のふたりにとっての戦争がどれほど色濃く強い影響を与えているかは知らない。しかし、同じ体験をしても受け取り方は様々なはずであるから、それがどう影響したかなんて本人さえも分かりはしないものであって、それをはっきりとさせた所で、嘘八百にしかならない類のものだ。ということは、本人が語っている言葉さえも信用できないという話になる。ああいう大きな出来事はどこからしらそういう側面はあるものだ。己の信念、思想がそのままの形になるほど映画は甘くない。なめちゃいけないよ、と言われて終わりだ。どのような大木もまっすぐには育たない。幹が太くなったから少しの曲がりが飲み込まれただけの話なのである。

宮崎駿が手塚治虫の逝去に送った言葉を読めば、彼がいかに真剣に手塚治虫を超えようとし、越えられずに何度も跳ね返されたかが分かる。なんとしても勝ちたいというファイターの血が感じられる。その彼もまた自分が所属する会社を飛び出た。明日からの暮らしの目途も立たずとも出て行った。

どのような物語であれ、社会との係わりを抜きにして成立はしない。自分ひとりの心理描写でさえも社会の存在は不可欠である。何より言葉が社会を包含する。他者が登場すればそれは社会へとつながる。

宮崎駿の作品がどれもそれまで所属していた場所から出てゆく物語であるのに対して、富野由悠季の作品の多くが、新しい社会の中へと参加する物語であるのはいい対比だと思う。こういう視点が彼らの作品については何も語っていない事は明らかであるが、それでも、外堀を埋めるまでは行かないとしても、遠見櫓での箸休めくらいの視点くらいにはなりはすまいか。

「原点」に書かれているとおり安彦良和はガンダムを「分かり合えるため」の物語と定義した。それに従うならばニュータイプとは分かり合うための装置としての役割が与えられた筈だ。なによりその筆頭がロボットに乗った者同士が通信機を使わずに都合よく会話するための演出である。登場人物の会話にリアリティを持たせる設定が必要であった。そういう話になる。

「分かり合う」ための戦いがどのような結末を迎えるか。富野由悠季はそれぞれの作品の数だけ、それぞれの結末を用意した。どれが好きかは知らないが、どれかになるのは間違いなかろう、そんなメッセージが込められているかの様だ。

宮崎駿の作品もまた「分かり合う」ための物語であったと定義しても違和感はない。そのどれもが、通じ合うための物語であった、とも読める。しかし宮崎は最初から分かり合っていた人の所へ戻るだけ物語のような気もする。

とここまで書いて∀ガンダムの魅力になにひとつ触れわれていない事に気づく。ターンエーには解析しても辿り着けない魅力がある。それは音楽であったり、声優の声やセリフの魅力だったり、作画のリズムであったりする。

止め絵の不恰好さというものは確かにある。どこからどう見回してもカッコ悪い。魅力はない。どうしてこんな姿にしたのか。何を考えて Go を出したのか。誰が責任者か、少し呼んできなさい、と思う所がない訳ではない。所が、動かしてしまえばどんなものでも魅力的にできる、そういうアニメータの自負で始めたらしい。

ターンAは動かないとその魅力は分からない。映画は動くものだから鑑賞するまでその魅力が通じない。そして見てしまえば、これほどの作品はないのではないか、と強く思う。これは戦争と平和である、とでも言いたくなる。この作品はとてもスケールの大きい。

もちろん、ターンエーがガンダムである必要性は何もなかった。

時代は19世紀、かつ人類が滅亡の危機を乗り越えた後の世紀である。∀は未知の遺跡であるが、誰もその本当の所を知らない。地球と月の争いにガンダムを埋め込みその先のGのレコンギスタへと続ける。月の政治は王政であるがダンバインとは違う。破滅後の世界はザブングルのそれとも違う。ザブングルの後の世界にも見える。

力は行使するためにある。では力を持たない事が使わないための唯一の方法か。力を持ちつつ制御する事は不可能であるか。物理的な制約は必ず破られる。使う事が可能なら必ず使われるだろう。ならば使わないではなくどう使うかをコントロールする。それはできるのか、それしかできないのか。だからターンエーは封印されたのか。今はそれが分からないから。あれを封印した人たちの物語も確実にある。

ターンエーとは果たしてナウシカへの返歌であろうか。

ターンAのかっこのよさは、触れる程度では分からない。目の前で動かしてみないとだれにもその洗練さは分からない。

この作品はその最期の6分にすべてが込められていると思う。ディアナに仕える事に自らの人生を決めたロランの決断を肯定するために、それまでの物語があった。それはロランがソシエを拒否した理由にもなる。そういう説得力の前ではディアナが数年の命だろうが、これから50年を生きようが関係ない。

誰を選んだかではない。なぜディアナは他の人たちとの接触を避け、人里離れた場所に居を構えたのだろうか。あの聡明な女性が社会から引く事を選んだ。自分の価値を知っているからだろうか。それとも鎮魂のための出家だろうか。

人間はどんな行動をする時にも理由を必要とする。人を殺す理由がなければ耐えられない程に。その理由を見出すためなら「太陽」さえ略奪してくる。逆に言えば、理由を消去すれば記憶から取り出せなくもなる。その理由が何であるか。

その物語を作者は描かなかった。それはつまり、それを描くのはあなた方だよというメッセージだと受け取っている。


(2019-04-27 22:39)

0 件のコメント:

コメントを投稿