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2018年4月10日火曜日

言論統制と言論の自由

言論統制をせよ、と主張するのも、言論統制をするな、と主張するのも、同じ構造を持つ。

なぜなら、誰かに言論統制をせよ、というのは誰かの言論に禁止することである。そして言論統制をするな、と主張するのも、特定の言論を禁止することである。言論に禁止事項を設けるという点では全く同じエフェクトを持つ。

では何が違うのか。言論統制せよ、が禁止するのは、特定の集団が決定しそれ以外の集団に対して強制する、という構図である。

言論統制をするな、が強制するのは、あらゆる言論は自由である、というものであって、それがカバーする範囲は例外なく全てである。よって、言論統制をするな、は本質的に、言論統制せよ、という主張を包含している。ならば、言論統制をするな、と主張する人は言論統制をせよという主張を認めるはずだ。

よって、そのような言論は認めるが、それを実行することは許さない、という主張になる。

実行を禁止するのであれば、言論統制をするな、ではなく、言論統制をせよは禁止せよ、という同値である。ならば、言論統制をするな、とは、言論統制せよの一派生、特殊形に過ぎないという事になる。

どうやら言論には全く人々の行動を制限するものと、制限しないものの 2種類がある。例えば、このリンゴは青い、という言葉は人々の行動を制限しない、と考えられる。だが、この言葉も、何かの広告に使われれば、購買意欲を刺激するかも知れない。それも一種の行動をコントロールしていることになる。行動を禁止しないが刺激するのは許されるのか。ヘイトスピーチが容易く暴力行為に結び付くのと同じである。

人々の行動を制限しない言論は本当に存在しうるのか、もし存在しないのであれば、言論の自由は行動の自由をどういう論理で制限するのか。

いずれにせよ、特定の言論を禁止する、というのは、言論の自由の観点から見れば禁止すべき主張である。ふたつの主張は両立しそうにない。だが、言論の自由を掲げる国でも、実際には多くのタブーがあり、タブーを破る発言は、もちろん生物学的にその自由を有するが、社会的には抹殺されるのである。

監視社会というものは、多くの言論に対して禁止圧力として働くと想像される。だが、監視カメラ、メール閲覧、音声収録などが、多くの犯罪に対して有効に機能する。すべてを一概に反対できるものではなく、利益と損失のバランスがある。

監視社会が市民の権利のうち、最も浸潤しているのは革命権である。18世紀1789に起きたバスティーユ襲撃と比しても、革命のしにくさは増大している。それは統治機構が強力に洗練されており、警察、軍の能力も向上しているからである。

A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.
- The Second Amendment (Amendment II) to the United States Constitution

(私訳)
良き規律ある市民武装は、自由の国家のために必要と思われる、から、人々の権利として、武器の保有、携帯についても、これを侵害してはならない。
アメリカ合衆国憲法修正条項第2条

この条項がある以上、連邦政府が強力になるのに比例してアメリカ市民が携行する武器が強力になるのも自然と思われる。その当然の帰結が、銃被害の増大である。利益と損失のバランスが限界を超えるまでは見直されない。自由の国家を守るためにどういう武装が必要なのか、その権利を支える武力は銃だけなのだろうか。

併せて銃はアメリカのアイデンティティを支えている。アメリカを象徴する。だからそう簡単に銃を否定できるとは思えないが、現在の最新銃器までがアメリカを象徴するかは疑問もあるだろう。

科学技術が発展し 17世紀の常識やその延長線上にある結論を覆す事は 20世紀になって頻繁した。AI の登場が、それまで考えられてきた近代国家の構成さえ覆す可能性がある。まずは金融から始まるであろう。

人々が敵対すれば、人間の元来の性質からいって、集団化しようとする本能が働く。それが敵対者に対しては攻撃的に、コミュニティに対しては同調的に作用する。これは集団を維持する生物の持って生まれた性質である。

当然ながら、この本能性を利用して世論を形成する技術はある。攻撃性に満ちた言葉には、この人間の自然な集団性を利用する意図が見え隠れする。それを使用して巨大な集団を形成することが勝利へと導くと本能的に知っている。

中には組織を嫌い抜いて単独でしか行動しない人もいるだろう。だが、そのような場合でも、周囲は集団を形成するのである。

この集団性から離れるためには、そこから一歩引くしかない。それはさっさと通過してしまうこと、見て見ぬ振りをすること。無関心であることである。無関心は無知より恐ろしいとは集団からの言葉であるが、集団から離れたい人からすれば、それこそが身を守る方法なのである。そのような闘争に自分たちを巻き込まないで欲しいという意思表示である。

闘争が今も続いている。それは組織化し集団を巨大化する道だ。このような技術について、過去の歴史から、様々な演説から、研究を尽くしている人もいるはずである。一方で天才的な嗅覚から、自然とこの技術を身に着けた人もいるはずである。

我々が流されるだけでなく、意識してこれを知り、相手を知り、そして選択してゆくには、言葉の端々に現れる無意識の主張、潜在意識への刷り込み、巧みに編み込まれた言葉の構造を、意識して指摘する必要がある。その一助になれば幸いである。

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