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2018年4月3日火曜日

世界人権宣言第19条 / 表現の自由、言論の自由

Article 19
Everyone has the right to freedom of opinion and expression; this right includes freedom to hold opinions without interference and to seek, receive and impart information and ideas through any media and regardless of frontiers.
Universal Declaration of Human Rights

私訳
章 19
すべての人間は権利(the right)を、個人が意見(opinion)も持つ自由と表現(expression)する自由を持つ。この権利には次の自由も含む。干渉 (interference) されない自由、探す自由 (to seek)、入手する自由 (receive)、更に伝える自由 (impart)。これらは媒体 (any media) を選ばす、国境にも制限されない (regardless of frontiers) 権利である。

日本語訳は
 第19条
すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。
世界人権宣言(全文) : アムネスティ日本 AMNESTY

短くすると

第19条
人間は自由に考える権利を有する。しかし自由なのはそこ迄である。

考えるに

ヴォルテールはフランス人だが、次の言葉が言論の自由だと思う。
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it,
私はあなたの意見を受け入れない、しかし、あなたがそれを言う権利を守るためになら、私は死をも賭す。

言論には、グレーを白と呼び、黒と呼ぶ自由がある。だが、グレーを白く塗る自由も、黒く塗る自由もない。言論の自由は鑑賞をする態度と似ている。鑑賞してそれを自由に解釈する所までは認められる。言葉は人間の中から発する出力的な機能であるが、言論の自由は鑑賞する自由であって、それは入力的な部分に限定されているようにも見える。

考える事は大昔から自由であった。これはマタイの福音書を読めば分かる。
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに女を姦淫したのである。

心の中で考える事さえ禁止したキリストの言葉は激しい。人は自分の意識とは関係なく情欲する。誰もが心の中を読まれないから平素を装う事が出来るのである。もし誰かに知られたら生きてゆけないことなど幾らでも抱えている。

だからプライバシーという考えがあるのだし尊重されなければならない。それにも係わらず、キリストの言葉に誰もが首肯する。人は己に嘘は付けない。だから人間は自分を許すことができるのである。許せなければ死ぬしかない。誰かに知られたら生きて行けない。それに耐えられる人などいない。それを許さないという厳しさでキリストは心の問題を要求してきたのである。

人は誰も神の代理人にはなれない。誰かが神の言葉を聞く。僕はその体験を信じる。その声は真実と信じる。だが、その時に聞いた神の言葉が、今も同じであるという主張は受け入れられない。そういう考えは神を束縛している。神が自分に何かを語るのは自由だ。だが、その言葉が永遠に変わらないと主張するのは、人間が神を束縛している。神は、いつ誰に何を語ろうが自由であるし、その考えをいつ撤回するのも自由である。神の言葉は常に真実なのではない。神は全知全能だから相矛盾する言葉も同居させられるのである。

神の全知全能を否定できるならば、その人は神よりも上位の存在である。人間は神より上位ではありえないから、そう主張する人は、何かを間違えている。人間は神を強制する自由は持たない、神は人間の奴隷ではない。キリストは一度も神を否定しなかった。なにひとつ限定しなかった。だが、それをもってキリストを神と見做せるのだろうか。現代の預言者たちが人間であるのか、それとも神であるのか、どう考えても答えがない。

何を語るのも自由である。そこにある言論の自由には、正しさとか間違いを何ら保証しない。何を語ろうが自由であるとは、人間には真実を決められないという意味でもある。どのように正しそうに見えることも間違っているかもしれない。どれほど間違っているように見えるものにも真実はあるかもしれない。それを抜け落ちないようにする爲には自由が必要だ。

表現の自由には、表現をしない自由も含まれている。あらゆる考えは表現しなければならない、というルールがもしあったら、どこかの星にはありそうだが、それに人間は耐える事ができない。心の中にある限り、誰れも傷つけない。信仰の自由、思想の自由とはだれも傷つけないという意味だ。それは決して奪えない人間自身である。

表現の自由、言論の自由の前提にあるものが、心の問題である。心とは何か、それが声を出したり、紙に書いたりする。表現したいと願うのは人間の心の性質に違いない。

言論の自由は権利かも知れないが、言葉が誰かを傷つける事もある。よって言論の自由について考える以上、表現の暴力性は避けられない。

フランスで起きたシャルリー・エブド襲撃事件は、小さな事件だが世界中を震撼させた。テロリズムとは何と便利な言葉であろうか。テロと呼べば思考を停止できる。テロと決めればそれ以上考えなくて済む。この事件は相手がテロリストであろうと、言論の自由について考えなければならない契機となった。

911はテロリズムである。少なくともアメリカはそう考えた。人は報復するのにも正当な理由を必要とする。これが20世紀に得た人類の最大の知見ではないか。

正当な理由があれば敵を撃ち壊すのに躊躇は必要ない。これが人間の本性である。これが人間の悪性である。だが理由があるぁら、どこかで歯止めが効くのである。これが人間の善性ではないか。911の報復に異を唱えた人々がいた。当時は職を追われたり不遇に甘んじなければならなかった。それでもそれが歯止めの役割を担った。

世界で起きている事は、イスラム教とキリスト教の対立であるか。人種差別や経済格差に起因した出来事であるか。人間が喪失した何かを求める行動であるか。

言論や絵画、映像は十分に暴力的である。例えばリベンジポルノは暴力的である。どこまでが表現の自由で、どこからが暴力か。そのような区切りが付けられるだろうか。言論の自由には必ず暴力性が含まれている。そう前提する方が確からしい。

言論が暴力性を問わない自由ならば、暴力もまた自由でなければおかしい。

言論には言論で返すべきである。この正論さえ、言論の格差を考慮していない。出版社やテレビなどの巨大メデイアと個人が争うなど無理である。司法でさえ、金持ちと貧乏人が争えば、弁護士の差によって勝敗は決定的である。どれだけ司法が平等を訴えようと結論は明らかだ。権利は同じであっても、権利の行使には不平等がある。格差がこの世界の勝敗を決定する。

誰かが圧倒的な資本を使って言論による攻撃を開始したならば、どう対抗できるか。他人を嘲り笑う者は、相手の反論を聞きはしない。止めてくれと言われて止めない相手を止めるのに、どういう手段が残されているか。

我々の社会はそれを司法に託した。なぜテロリストは裁判所に訴えなかったのか。勿論、勝敗は明らかであった。どこに神のために言論の自由を制限するような判決を出す裁判官がいるであろう。

この社会では言論による争いは否定されていない。暴力は否定する。なぜなら暴力は社会を根底から崩壊させるからだ。暴力が使用されれば何もかもが覆る。だから我々の社会は暴力性を社会の外に置いた。社会を変えたければ言論によるべきである。

頬を平手打ちするのも暴力なら、数百万人の人間を焼き尽くすのも暴力である。暴力のエスカレーションには際限がない。だから暴力は注意深くなければならない。言論が物理的に何かを破壊することはない。

それでも言論には暴力性がある。物理的な破壊力ではなくとも、言論には人を破壊する力がある。それは人間が本来持っている攻撃性だからである。攻撃性は言論であろうが、物理的なパワーであろうが、同様に潜む。区別はない。

軍隊であれ、警察であれ、その実効性は物理的な暴力によって支えられてきた。我々の社会は暴力を如何にコントロールするかに腐心してきた。

だから言論に反駁するのは言論だけではない。言論に対して暴力で反論することもあれば、暴力に言論で対抗することもある。言論の暴力性は0ではない。

ハンムラビ法典の歯には歯をの昔から、刑法は罰則を決めてきた。ある暴力に対して何らかの罰を規定する。それが不完全だとしても、窃盗には5年、暴力には10年と刑罰を決めてきた。民法では金額に換算して決着する。この社会は異なるものに同じ価値を割り当てる。

言論と暴力もまた交換可能なのである。言論にも暴力性があるからだ。

同じゼスチャーが違う文化圏では全く違う意味を持つ。同じ表現も、人によって受け取り方は様々だ。これは同じ表現でも見る人によって暴力性が異なるという事である。ある人にとっての笑い話が、最大の侮辱なのかも知れない。

この暴力性の違いがフランスで起きた。中世から十字軍などで深く交流してきたにも係わらず、この地域は未だ分かりあえていない。異なるコミュニティが隣接すれば争いが激しくなるのは当然である。現代は世界が史上最も接近した。誰もが異文化の合流地点にいる。我々の思想は更に鍛えられなければいけない。

アメリカが三千人の報復にふたつの国家を崩壊させた。その残り火が IS となって燃え広がっている。IS をテロリストと呼ぶのは容易い。だが彼らの理想も目的も誰にも理解できない。少女を誘拐し自爆テロをしてまで手に入れたいのは何か。

それがイスラム教の暴力性であるわけがない。現在の状況が偶々そうであっただけで、歴史が違えばキリスト教がテロリストと呼ばれていたかも知れない。神から委任された人が神と同じであると誰が保証するのか。神はあたなへの委任をいつでの自由に取り上げられるし、それを伝える必要もない。だが、あなたは神から何も取り上げることは出来ない。

人間は思想によってさえ敵対する。共存できない理由はない。敵対するのは容易い。そこから抜け出すのにどれだけの血が必要であるか。

人間は原因を探し出す動物だ。その原因は正しくなくてよい。身近にあるものがいい。見つけ易いものがいい。そうでなければ探し出せないではないか。格差や人種、宗教ほど身近にあるものはない。だから、ほんの少し手を伸ばすだけで手に入る。人は意味もなく人を殺す。だが理由が必要だ。例え、太陽がまぶしいという理由であっても。それを不条理と呼び驚いていた時代は終わった。

なぜ彼らは風刺画のために命を賭したのか。彼らはそこに言論の自由の価値など認めなかった。彼らにとって風刺画は十分に暴力的だったのである。かつて、踏み絵を踏まずに殉教した人々がいた。踏み絵を差し出す側にとってそれは命を救う苦肉の策だったのである。踏みさえすればいいではないか。あなたたちの心の内など問わない、それでも踏むことを拒絶した人々が居る。それはただの絵ではなかった。絵も十分に暴力的だったのである。なぜ預言者は偶像を否定したのか。

言論の自由のために死んだ人も、言論の自由に殺された人も、その命は自由を守るために必要な経費ではない。我々が社会から追放した暴力が、自分たちが正しいと信じていた言論の中に見つかった。だからこれほどまでに人々は驚いたのである。

人、生まれて学ばざれば、生まれざるに同じ
学んで道を知らざらば 学ばざるに同じ
知って行わざれば知らずに同じ
貝原益軒

我々は言論の中に行動を見る。行動の伴わない言論の価値を低く見る。この考えに従うなら言論の自由は、そのまま行動の自由になる。それを否定したのが近代法の骨格であろう。言論と行動は分離しなければならない。かつて同じものだったものが幾つかに分離して考えなければならない。それは神とキリストを分離した後に、三位を合一した思想をモデルとするのではないか。

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