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2011年1月11日火曜日

ちはやふる 11 - 末次由紀

漫画の中には音がある。
音楽とは違う。

それは呼吸している気配であったり、歩く音だったりするが、
自然の音として普段の生活の中でも気付くことの少ない音だったりする。

漫画の中で音の表現は昔から幾つもの作家が幾通りもの方法で実現してきた。

擬音であったり音符であったり。声(セリフ)であったり。心の内であったり。
ただの一本の流れる様な線に音符を重ねて音楽となることもあった。

映画に類似されることもある漫画では、音は重要な要素であった。
ただ映画と違い、紙から音が出る事はなかった。

だから音の表現というのは案外に漫画の独特の表現であるのかもしれない。
絵画やイラストにそういうものがある印象は薄い。

音には、漫画の主題(背景)としての音楽があったり、碁石の音があったり、
ロケットの打ち上げや、笛の音や、雨音や、
海を泳いでいる音や、銃や、宇宙の音など様々である。
声が出せない人が話すセリフもある。

セリフは漫画の中の重要な音であるが、これは吹きだしの中にある。
吹きだしの中で読まれるものとして置かれている音であり、多くは声である。

そして吹きだしの外にも声がある。

ざわめき、声援、群衆、応援、人の声の擬音。

かるたという世界が主題のちはやふるは、
歌詠みの発声をセリフではない音として存在させている。
かるたを読んでいるいるとき、読手の声だけが響き、他の人は呼吸だけになる。

この漫画からは、その呼吸の音さえ聞こえてきそうだ。

この作者がどれほど丹念に登場人物を描いているか、
色々なコマの端々から想像するのが好きだ。

それは登場する人物、端役の人物を含めて、彼ら彼女達が
ちゃんと息をしているように描かれている事からわかる。
端役の人物にさえ、人生が将来が見えてくるようだ。

この作者がどれだけフェアであろうとするか、
それはセリフの端々から感じる。

男女の別なく
体格の別なく
年齢の別なく
知性と
体力の別なく
読まれた瞬間に
千年まえとつながる
そんな競技
いくつもない

稲妻が見えて暫くしてから落雷が響くように、
音として聞こえてから言葉になるまでのわずかな時間がある。
そんなわずかな音さえも聞こえてくるような気がする。

漫画の底には無音があるはずなのに。
だが、音は聞こえてくる、僕達の耳に届かないだけで
多くの音が、声が漫画の中から生まれてくる。

一コマでも、表紙でも見てみればいい、みんな何かを伝えようと声を出しているじゃないか、
息を吸って吐いて、踏ん張っているじゃないか。

それが全てのコマの全ての人がみんながみんなしているじゃないか。
だたの一人として息をしない人はいない、音を立てない人はいない。

生きているのであれば。

静けさの中にさえ、存在が音として聞こえてくる。

この作者は、届かない声を、聞こえない音を、僕達に届けとばかりに
ガラスの向こう側から懸命になって叫び続けているのかもしれない。

そこにあるのはただの声ではない、誰もが他人へと、誰かへとかける声だ。
誰かのために考える声だ、誰ひとりとして自分のためだけの声など発していない。

考えるだけの声ではない、思うだけの声でもない、
自分に語ることなく、この漫画の全ての登場する人物は、みな
他の人へと声をかける。

それは、自分の人生に向きあい行動することに等しいように思われる。


あさぼらけ ありあけの月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

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