知り尽くした材料を以ってする感傷と空想とを交えぬ営々たる労働、これは又大詩人の仕事の原理でもある。「ガリア戦記」という創作余談が、詩の様に僕を動かすのも不思議はない。サンダルの音が聞こえる、時間が飛び去る。
と、こう小林秀雄は締めくくった。
ジュリアス・シーザーが元老院に提出した報告書であるガリア戦記は、遠い過去の話ではある。
最初を読み始めるのに、少しばかりの躊躇を感じる。
遠い異国の街が昔の名前で紹介され、聞いた事もない人の名が羅列され、景色が描かれ、風俗が紹介される。
そんな昔の話を読んでなんの得でもあろうか、と思えば本は開けない。
だが、見た事もなければ、訪れる事もないであろう遠い過去の話に、綿密に調べる暇もなく物語に投げ出されてみる。
本には誰かを導く甘い書き出しというものはない。
本に入り込むには、先ずは読む側が歩いて飛びこまなければならない。
すると、見た事もない蛮族の服装はどうであったろうか、ローマ軍の騎兵はどんな馬に乗っていただろうか。
ガリアの地から海を渡った船はどのような木造船であったろうか。
ガリアは遠い将来フランスと呼ばれ、海を渡った先には女王陛下が御座します。
この遠く離れた過去の出来ごとに、僕の小さな想像力は出鱈目な装飾を施す。
恐らく正しくもない服を着せ、馬に乗せ、歩兵に槍を持たせる。
そのように装飾された彼らは何の感情もないように敵を殺し、味方も死ぬ。
装飾は僕がしたが、敵を殺したのは、当時の人々だ。
そう書いてある。
その他のものは皆味方の騎兵が追撃して殺した。(I-53)
死とはなんであるか、そんな身近になった思いが浮かぶ間もないように、騎兵は逃げる敵を殺す。
それにしてもローマ軍の強さは圧倒的でさえあって、どうも兵力の差を考えるとカエサルが戦争が上手いというよりも、ガリアの人たちが戦争下手なんじゃあるまいか、と素人ながらに思えてくる。
どうやらカエサルが負けることはなさそうだ、と途中で思い始め、何故、ローマだけがこうも強いのか、何が違うのか、と不思議な感じがしてくる。
この物語の中心にあるのはカエサルだが、カエサルだけの物語ではない、これはローマの物語でありガリアの記録であり、ヨーロッパの昔話だ。
それは楽しむというより読む事を味わうようなものだ。誰にも覆しようのない歴史でも物語でもない世界で時々一兵卒となり槍を振り回すのだ。
この物語には誰れ一人として迷いがない、敵、味方ともに戦況にさえ悩んでいない、自分たちの生き方に、世界に、人生に、裏切りにさえ迷わない。
人の思いだの思想に揺れ動く、心理だの感情に煩わされる事のないこの記録が、今の作家の手で描かれたらどうなるだろうと思う。
現代に生きる我々には、もしかしたらこの物語の世界は、想像するだけの世界かもしれない。
だが、当時の姿から変わらないこの戦記を前にすれば、自分の想像力はせいぜい、彼らの着る服を装飾し振りおろす刀の形を思い浮かべる程度のものでしかない。
振り下ろすその腕やその寛容といったものは、本書の中で、もう変えようがない姿で定着している。
だから、映画のように、アニメのように、漫画であるかのように、ラジオのように想像は自由だ、どんな想像をしても決して打ちひしがれる事のない強さはこの作品自身が持っている。
それは一遍のレリーフのようだ、と、そう言いたかったのだろう。
逆に言えば、想像する力だけが(想像であれ、空想であれ構わない)本書に飛び込むために必要な唯一つの僕達の力だ。
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