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2011年2月12日土曜日

戦闘メカザブングル - 富野由悠季

戦闘メカザブングルの本質には、良く泣くこと、気持ちいい泣きっぷりの健全さがある。

三日の掟は、物分かりがいい象徴であって、物忘れがいい事の象徴である。
三日逃げ切ればそれでよしとするあっけらかんとした世界で、
それを拒絶し過去に縛られる主人公アモスが仲間を巻き込みながら先の世界へと進んでゆく物語だ。

西部劇の風と荒涼とした大地で文明から逃れられないイノセントと
自分たちの謎を解き明かし生き方を決めていったシビリアンとを対決として描き切っている。

過去を忘れていないイノセントと対立する構図を通して、
文明とは、何時しか自分達の生き方さえ決められなくするのではないか、文明とは呪縛ではないか、
そんなテーマを予感させる構図となっている。

と思ったら大間違い。

嫌な事は嫌といい、主張しては大泣きする。
それだけの気持ちのいい話。

それが、この世界観と明るさ。

未来があるからみんなが明るいわけではない。
今を思いっきり泣き、笑い、悩み、動き、腹を立てる。

未来が明るい展望だから明るいなんて詰まらない。
不安と明るさの同居があるから、泣き、笑い、悩み、動き、腹を立てる。

何故、ここまでこの作品は明るく描けたのだろう。

セリフは観客を意識していた、つまり、作中に文化の香りとしての演劇が登場したが
彼ら自身、演者なのである。勿論、ふざけていたのだろう、スタッフが。

スタッフの悪乗りを通用させて、何をしようとしていたのだろうか。

視聴者の笑いを誘わなければ狙えない世界観があったはずなのだ。

視聴者が良く笑うから、作中でよく泣ける。
誰かを泣かすために泣くのではない、ただ泣くのだ、

悲しみを分かってくれとは言わない、
ただその悲しみの時間を待ってて欲しい。

この作品では人の死ぬシーンは極めて少ないが、
作中では簡単に死ぬし殺す。
三日の掟とは、命の軽さの象徴でもある。

それは何かのアンチテーゼになっているのか。

物語の都合で殺されるくらいなら、いっそ軽く死んでやる。
そういう世界観はあるまいか。

三日の掟とは、実はアニメーションのキャラクター達の使い捨ての象徴ではないか。

当時のスタッフがそう考えていたかどうかではない。
この世界をよく見渡してみれば、そう言う事もできないか、それを本質と言えないか。

それをキャラクター達は拒絶した、俺達は使い捨てされない、俺達の世界で好きにする。
イノセントはスタッフの象徴でさえあった。

であれば、主役達よりも前にサブキャラ達が既にイノセントと対立していた理由も分かりやすい。
彼らこそ、最もよく使い捨てされていたのだ。

そうやって、キャラクターが極めて作品から独立して存在する。
まるでイノセントのように、ストーリーを成立させるために作り出されたキャラクターではなく、
住む世界があり、キャラクターが生き、そこにわずかばかりのストーリーを重ねたのだ。
スタッフが作中からストーリーになりそうな出来ごとを見つけ出し繋ぎ合せたかのような作品だ。

ザブングルグラフィティが継ぎ接ぎだらけなのもそのためか。

彼らは渡された脚本の上でストーリー通りに演じることを嫌った。
嫌な事は嫌だ、と答えた。
彼らに与えられた世界は受け入れても、それ以上は嫌だと言った。

感動させる話?泣ける話?怒りの話?
そんなものは嫌だといい、俺達が感動した時に、勝手に感動してろ、
泣いた時にもらい泣け、怒っている時に、一緒に怒ればいいじゃないか、そういう話だ。

この作品は、ザンボット3、ガンダム、イデオン、ダンバインらとは違う。

何が違うかと言えば、地球が違う。
この作品には、この世界の延長線上にある地球がない。

そして、彼らは自分たちが生きられる世界をスタッフに要求した稀有な存在だ。
彼らはスタッフと裏取引をし、その世界で生きていった。

そうしなければ、このキャラクター達が生きていける世界にはならなかった。
演出に従って動き、本物であるかのように振る舞う演技なんざまっぴらだ、
その世界に生き、キャラクタ―がそのまま生きている、演じろというなら大根芝居でも見せるさ、

アニメーションの世界で物語の外に生きるキャラクターを創造したのではないか。

例えば、オープニングやエンディングの哀しげな風、ブルースが口ずさむ。
これは彼らの本心なのかもしれない。

スタッフがそこを離れ、その世界に残されたままになっても、今も彼らはゾラの大地に住んでいる。

この作品を見ているとチルの存在の大きさに気付く。
彼女の世界観は、作品の存在と大きく重なり合うのだ。
ストーリーと何も関係することなく、一番純粋な喜び、泣き、笑う存在。

このキャラクターがいることが作品に一つの世界を与えている。
この作品はチルのために存在し、その他はみな脇役だ。

だからといって、この子供が中心ではない、主役だが脇にいる。
脇役が中心にいる、そういう世界。

ザブングルとは作られたストーリーではない、一つの存在する世界だ。
どんな困難も局面も、それをどうするかはキャラクター達の好きにする。

これは、ザブングルというドキュメンタリーではなかったか。

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