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2012年7月7日土曜日

宇宙戦艦ヤマト2199 - 出渕裕

先の大戦で大和は沖縄防衛のための菊水一号作戦に参加した。終戦間際の作戦名だけが一人前であらゆる点で耐え難き戦であった。坊ノ岬沖海戦において僅か二時間で沈没し連合艦隊は壊滅した。

何のために、という気持ちがこの艦を宇宙戦艦に変えた。日本が生んだ最強の宇宙船はしかし日本人の何を抱えて飛び立ったのか。

時に西暦2199年、この著名なナレーションで始まる物語は沖田十三のキリシマ艦隊が冥王星沖会戦に突入する所から始まる。この屈辱的な地球艦隊の敗戦はしかしこの物語の起爆剤である。この海戦がなければ誰が宇宙戦艦ヤマトの16万8千光年の航海を見ただろうか。ヤマトという物語はこの艦隊戦がきちんと描けていれば全体の八割が完成したようなものだ。

この圧倒的なまでの戦力差の艦隊戦において生き延びた事が奇跡的でさえある、これだけの敵を相手にどう算段すれば勝機が見いだせるのか。苦難し工夫し抜いた作戦が其処に見いだされなければこの戦いには価値がない。そう描かれていなければ製作者の怠慢である。

この敗戦に日本中の誰もが痺れたのだ。斯くも美しく負けるものか、敗戦とは斯くも甘美で屈辱的なものか。不屈の沖田という男はなんと逞しい人であろうか。この物語はどこに行きどう終わるのか。

誰がどう見ても敗戦の中から立ち上がったヤマトに日本が重なる、希望というものを見る以上そうでなければおかしい。我々は地球に日本の象徴を見たのである、同様に敵国であるガミラスにアメリカを見たのである。ガミラスは如何にも同盟国であったナチス的に描かれているが、敵国である以上アメリカでなければ道理が立たない、この物語は太平洋戦争の再来でなくてはなるまい。

今度こそは勝つという戦いでなければなるまい。

地球を救うためにインスカンダルに行く、イスカンダルはしかし、どこの象徴であろうか。ガミラスをアメリカと仮定するとインスカンダルの問題を解く事が出来ない。勿論インスカンダルはストーリー上の架空である、現実の投射ではないと言う回答を得る事はできる。

だが、何故ヤマトは繰り返し繰り返し続編が作られなければならなかったか。まるで解けない方程式を解き続けようとするかのように。何か強力で解答のない矛盾を抱えているかのように。繰り返し。

イスカンダルを架空として解決にするには余りにも重要なのである、これが架空であれば、日本とアメリカという図式も成立しない、だがそれでは物語の根幹が揺らぐ。だから繰り返し、日本とアメリカであると確認が必要なのだ、ヤマトは日本であるとそう描き続ける必要があったのだ。だが腑に落ちない。

この解けない謎を抱えている限り、作品は何度でも蘇る。誰かの手によって作り直される。そして矛盾を解かない限り輪廻となって人々の前にまた現れる。

そこで敢えて逆に置いて見てはどうか。

地球をアメリカと仮定してみる。乗組員が全員日本人であるのも大和という戦艦も全てこのカラクリから人々の目を欺くための巧妙な演出であったと仮定してみる。

するとガミラスが日本である。

そうしてヤマトのストーリーと太平洋戦争を一致させてみるのだ。

遊星爆弾は日本の真珠湾攻撃と重なる。
七色星団の攻防戦はミッドウェー海戦。
ガミラス本星の戦いはB29の空襲。
デスラーの最期は菊水特攻作戦。

ドメルの最期の言葉。

そうだ、これが私の最後の決め手だよ、ゲール君。
沖田艦長。あなたが地球を救うために戦っているのと同じように、私の戦いにもガミラスの命運を懸けているのだ。私は命を捨ててもヤマトをイスカンダルへは行かせぬ。あなたのような勇士に会えて光栄に思っている、ガミラス星並びに偉大なる地球に栄光あれ!

これのどこにアメリカ的なものがあろうか、ドメルは日本の侍以外の何者であろうか。

冥王星司令官シュルツと副官ガンツの言葉。

諸君、長いようで短い付き合いだった、これよりヤマトへの体当たりを敢行する。それ以外に活路はないのだ。
何処までもお供します。

シュルツと最期を共にしたガンツは日本人そのものであった、最後まで日本的であった。彼らこそ日本の代弁者たり得たのだ。だが彼らは戦い敗れた。

物語の背景には地球の危機がありデスラーを悪と見做す事でヤマトは正義という構図で描く事が出来た。そんなヤマトの視点は戦争中のアメリカそのものであった。

しかし、勝つ者がいれば負ける者もいるんだ。負けた者はどうなる?負けた者は幸せになる権利はないというのか。今日まで俺はそれを考えたことはなかった。
ガミラスの人々は地球に移住したがっていた。この星はいずれにしろお終いだったんだ。地球の人も、ガミラスの人も、幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに我々は戦ってしまった。我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない、愛し合うことだったんだ。勝利か、糞でも喰らえ!

戦争に負けるとは斯くも惨めなのだ。ガミラス星での古代の言葉は勝者の懺悔に過ぎない。滅びたガミラスの人々の声ではないのだ。ガミラス星ではもう砲撃をやめてくれと思った市民も沢山いた事だろう。しかしヤマトの砲撃が鳴りやむ事はなかった、ガミラスが完全に沈黙してしまう迄。

総統、お願いです、もうお止めください。まだお気づきになりませんか、大ガミラスと言えど敗れることはあったのです。これ以上の戦いはガミラスの自殺行為です。
遅まきながらヤマトとの和平を、話し合いによる地球との共存の道を・・・

和平を訴えて始末されたヒスの存在を忘れてはならない。デスラーが独裁者であるから仕方ない事だったのだろうか、そう割り切ってしまえるだろうか。日本は軍国主義に陥ってどうしようもなかったから負けたのだと言えるだろうか。

ガミラスの戦争下手というのは作品を追い駆けていけば良く分かる話だ。圧倒的な科学力と艦隊を保有していながら、遠く冥王星に前線基地を構築しておきながら、彼らは地球への上陸を遂に果たせずに終わる。なんと弱い軍隊である事か、艦隊戦で敗れていく様はミッドウェイで大敗した日本の様ではないか。

ガミラスの姿は戦争に負けた日本そのものだ。それをこの作品は勝利者の立場から描いた。誰もが勝利者を日本だと思っているがそれが大きな矛盾を生み出したのだ、我々は勝利者であるヤマトでありたい、しかし我々の歴史はガミラスそのものである。我々の声は負けた側の言い分であるはずなのに、この作品ではヤマトが勝者の論理で平和を悲しみを愛を語る。

我々は勝った者の謝罪を受け入れるのか。生き残った者が滅んだものに向かって言う謝罪、後悔、懺悔を受け入れるのか。滅びた後の涙にどれだけの価値を見いだせと言うのだろうか。滅ぼされた側はその涙を見る事もなく何も言い返す事も出来ないのに。

この敗者が描く勝者の論理こそがヤマトという作品の次々と続編を生み出す原動力であろう。解決する事の出来ない勝者の原罪を拭えないままヤマトは更に多くの敵を滅ぼす。彼らは滅ぼしては許しを請う繰り返しの為に斗う。愛という思想でそれを覆い隠しているがそこにあるものは勝者の優越なのだ。我々はその勝者の優越を欲して堪らずにいるのだ。

少し見方を変えればガミラスは軍国時代の日本であるとも解釈できる、地球は戦後の民主化された日本である。インスカンダルこそがアメリカの象徴である、とも。

いずれにしろ、我々が打ち滅ぼしたいものはあの敗戦ではないか、あの惨めで忍び難き敗戦をどうやって乗り超えるのか、これがヤマトのテーマではなかったか。

そして軍国主義の日本をデスラーに背負わせ其れを撃つ事に快楽を見い出しているのではないか。我々はこの作品が抱えた矛盾を何ひとつ解決していない。我々は敗北した日本を無条件に悪呼ばわりなどできない、そう古代進がはっきりと言ったではないか。

死んでいったガミラスの人々は我々自身だ。東京の野原で、広島で、、、焼け焦げたその人だ。そこにアメリカの兵士の言葉ではない、我々自信の言葉でなんと声を掛けるのか。

その答えを探してヤマトがまた作られた。

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