stylesheet

2012年7月3日火曜日

無敵鋼人ダイターン3 - 富野喜幸

ワン、

ダイターン3とは富野版ルパンである。

延々と続く話の連続体。

ダイターン3とはいい加減さだ。

いい加減はネタ切れに窮する所から生れる。

ダイターン3とは時間との格闘である。

制作とは〆切りが命題なのだ。

ダイターン3とは作家が育つための土壌である。

なんでもやってみるのである。

ダイターン3とはなんでも出来る所が大胆なのである。

大胆でいられるだけの自信がある。

ダイターン3とはどんな話でも成立するフレームである。

そのためにどんな構造を必要としたか。

ダイターン3とは小難しい話を放棄した結果である。

アニメなんだから何でもやるのだ。

ダイターン3とはあえてふざけて見せた会話劇である。

自分自身を縛る設定を排除したから。

ダイターン3とは物語とは何かを考えるためにある。

謎で引っ張って解き明かさずに終わる方法がある。

ダイターン3にはチャレンジと失敗の軌跡がある。

失敗したとしても放送は止められないのだ。

ダイターン3にはユーモアに満ちた失敗がある。

笑えなくとも放送はするのだ。

ダイターン3には能天気な会話にリズムがある。

韻を踏めばそれ以上の意味が加わる。

ダイターン3の作画にはクセがある。

作画に出来不出来がある楽しさ。

ダイターン3とは楽しさである。

これが全て。

ダイターン3とはガンダムの第0話である

敢えて言うなら。

ツー、

オープニング
オープニングの出来栄えが好きだ。三条レイカ、万丈、ビューティのポーズが堪らない。なんら言葉による事はない、目が喜ぶ。好き勝手にやっても目立ち過ぎるし抑え込むと詰まらない、超えてはならぬギリギリの処に境界美と呼ぶべきものがある。それがこのオープニングの作画だと感じる。

第2話 - コマンダー・ネロスの挑戦。
金田伊功の作画には造形ではなく奥行きがある。3DやCGでは見る事の出来ない奥行きがある。

第12話 - 遙かなる黄金の星
前半のモノクロの回想は金田伊功の圧巻。

第19話 - 地球ぶった切り作戦
月面上に積まれた鋸の壮大さが印象に残る。作画監督は加藤茂。

第20話 - コロスは殺せない
湖川友謙の安心。イデオンと同じコロスのアオリ、前後の瞬間移動は遠近法の応用か。遠近感、造形、CGとは違う立体がある。

第26話 - 僕は僕、君はミレーヌ
何となくだが未来少年コナン的だ、動きがコナンぽい。同じ時期に制作されたから影響されなかったはずがない。誰もかれもが未来少年コナンに驚愕し追い駆けたのだ。作画監督は富沢和雄。

第28話 - 完成! 超変型ロボ!
アニメ史上最高の必殺技、全話中の最高傑作。だれがこのようなサンアタックを想像しえたか。作画監督は田島実。

第31話 - 美しきものの伝説
タツノコプロ版のダイターン3。加藤茂の手によって、タツノコ色に染められた作画。これがダイターン?これもダイターン。

第33話 - 秘境世界の万丈
安彦良和である、人のうつむいたり横を向く事による感情表現、目や足の形、小さくよく動く演技、他とは違うし巨神ゴーグまで出てくる。ギャリソン大活躍も楽しいが目も楽しい。只野泰彦。全てを完璧に仕上げた訳でもなさそうだがそこがまたいい。

第37話 - 華麗なるかな二流
全話を通して走る作画には不出来なものが多い。それでも万丈と木戸川が走るラストのシーンはコナンとジムシーを思い起こす。作画監督は山崎和男。

第40話 - 万丈、暁に消ゆ
塩山紀生の圧巻、ひとつの作品と言っていい。目が楽しいと呼ぶしかない作画。


スリー
「ダイターンは1台でいいのよ」
「ヒーローですから」

これは最後のヒーローものであると言う意味にも取れる言葉だ。ヒーローものはダイターンで終わり、次の作品はヒーローものにはしない、そんな宣言のようだ。物語を持たないダイターン3は、お話が幾らでも作れる構造にしてある、そしてそのような作品作りはこれが最後となった。これ以降に作られた作品は物語を前面に押し出しストーリーで見せる作品となったのである。

まだある。

メガノイドの力があれば人類は地球以外の星に進出して行けると。そうなれば 地球上で人間が殺し合って戦いを起こしたりすることがなくなって 人類は永遠に平和になる

このコロスのセリフは、機動戦士ガンダムで設定された宇宙世紀の考えに似ている。ジオン・ズム・ダイクンのニュータイプの考え方とも通じる。宇宙に進出した人類には新しい考えが必要なのだ、という基本テーマはダイターン3から始まっているとも言える。

コロスの火星の地球落しはそのままジオンのコロニー落し、シャアのアクシズ落しへと続くのである。敢えて言うならダイターン3の最終話はそのまま逆襲のシャアのプロットなのである。

僕への謝罪のつもりか・・・? と、父さん・・・これは僕の、僕自身の力だ

恐らくこの作品がきっかけとなって新しい何かが育まれたのである。父親との決別というのが個人的な感傷から汲まれたものだとしても、何かと決別し何かが決意となって生れたのだ。

作品中、ほとんど登場しなかった父親を最終話に登場させたのは、恐らく単なる演出上の綾に過ぎまい。しかし、ガンダムのテム・レイと比べれば父親像の描き方には共通点があるように見える。父親に認められなかった寂しさを含めた思いがあるのかも知れない。だから僕は、これを富野喜幸の独立宣言、決別宣言と受け取る。

ぼくは・・・嫌だ

どうにでも解釈できるこの言葉は見た人の数だけの解釈があり、作者らもそのつもりであろう。話の流れの中で生れた言葉だから解釈はお好きにどうぞ、という立場だ。だから新しく解釈をひとつ加えても困る事はないのである。

この言葉は人間の愛憎が悲劇を生むことへの率直な拒絶ではなかったか。愛するが故に悲劇を生み出すのであればそれを忌避することはありうる。ダイターン3とは悲劇に対するひとつの贖いではないか。父親の罪を子供が背負うプロットは神話のようだ。ダイターン3が持っている世界像はギリシャ神話的かも知れない。

コロスとドン・ザウサーの最期に愛の悲劇を見た。愛情が悲劇を生むのであればそれを否定する。そんな感情が最後の寂しさへと導く。それでも明日になればきっと同じような生活が始まる、そんな未来が来るだろう。来ることが分かっている明日の喜劇は封印されなければならない。

悲劇に対して、喜劇で応じたのがダイターン3という物語であるのなら、この物語の根底にはニーチェがあるのではないか、それと同じものが。相反する二つ、アポロン的なものとディオニュソス的なもの それらが何であるかを論じる事は出来ないが、ダイターン3がアポロン、メガノイドがディオニュソスとして対立すれば十分である。何故なら、それらは悲劇の本質ではなく 悲劇の切り取り方だからだ。

破嵐万丈がなぜ人間離れしているかと言えば、超人の比喩と見做せる、そして悲劇と対峙する。では、メガノイドは何の象徴か、これは、超人に成りえなかった者、肉体だけが超人となった者達、か。近代文明が我々に新しい力をもたらすと信じた者達ではないか、科学を信じるならば銀河でさえ支配できると彼らは考えた、しかし、その根底にあるものは深い情念であった。

悪しき心というものも愛憎から生れる、愛するが故に、その情念の強さが哀しみを生むのだとしたら人はどうすればよいのか。その愛憎が近代科学と結びついて生まれたのがメガノイドならば、ダイターン3もまた愛憎から生まれ落ちた機械である。ふたつはなぜ対立したのか。これが明かされる事はなかった。それが明快なら、なぜコロスの悲しみを見せる必要があったろうか。

彼らは宇宙時代に対応しようとした存在であり、宇宙に生きる者と地球で生きる者の、機動戦士ガンダムから逆襲のシャアまで続く物語の萌芽と見て取れる。メガノイドの思想の妥当性はそのままジオン・ズム・ダイクンの思想へと繋がる。ジオンの系譜はその原始を破嵐創造に辿る。

だからダイターン3の最終話はガンダムの第0話と呼ぶ事が出来るのだ。

コロスの情念に万丈は毒気を抜かれ何も出来ずに恐怖した、あの万丈が、あの破嵐万丈が。その恐怖の中で例えば髪の毛が白くなったり、精神を病んだとしても不思議はない、そのようなエピローグも有りうる。だがそんな結末がいいんだろうか。

僕は嫌だ、とは作者の中から生れた言葉だと誰もが気が付いている、それは神は死んだと置き換えてもいいくらいの言葉だ。何が厭なのか、と言う問う。物語は死んだ、でも、物語を終わりたくない、どうとでも解釈可能だ。超人でいる事を主人公が拒んだ、と見てもいい。このような主人公で居続ける事に意味があるのか、超人の役に何の意味があるのか、と。

仕方ないわ、住む世界が違うんだから

鶏が鳴き魔法が解けた事を告げたのである。延々と続ける事が可能なダイターンという作品にここで決別したのだ。万丈が居ると思われる部屋から明かりが洩れる。

もう会わす顔がない、と言う事を物語は告げている、超人の時間は終わったのだから。何かと決別した相応しい最終話ではないか。

なぜラストは明るいか、これで自明である。それぞれが超人でなくともよいと告げたのだ。そうでなくとも生きてゆけると語る。彼らはやっと役目から解放されたのである。また始まる日常、ただ主役であった破嵐万丈だけが顔も会わせずに別れる、それはいつかまた呼び出されるかも知れない事を知っているから。

また今日と同じ明日が来るにしても、今はここで終わりにしておこう。もうここは住む世界ではなくなってしまうから。一度お別れをして物語を終えよう。そうすればまた明日が訪れるから。

それぞれが自分の役から解放されて自分の家へと戻る。これは彼らの始まりだから最後のオープニングテーマが流れる。たとえ明日また会うにしても。

そしてラストの、ギャリソンの1、2、スリー。

彼は知っていたのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿