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2012年7月18日水曜日

科学的とはどういうことだろうか

国会事故調 - 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会 報告書
http://naiic.go.jp/pdf/naiic_honpen.pdf

こんな報告書ではとても戦争は遂行できまい。大きな混乱が予想される戦争を実行する能力が我々にない事をこの報告書が露呈してしまった。想定通りに進むわけがなく、ましてや合理的判断など下せない状況で、ノイズだらけの混乱の中で何が起きたのか、幸運であったという結論にはせず、だからどうするべきであったかも言わず、矛盾と不合理の中で何が出来たのか、これを少しでも良くするには今後どうすべきか。混乱とはそういうものではないか。

科学的、合理的という視点は重要である。しかし、ミミズでさえ合理的である事をよくよく知れば、合理的という言葉の持つ危うさに気付いても良さそうなものである。ヒトでさえミミズと同じ知覚しか得られなければ、彼らと同じ行動しか出来ない、という事さえ知っておれば、合理性というものは前提条件の上にしか成立しないものであると分かる。

ビッグバン理論とフレッド・ホイルの定常宇宙論の論戦を知らないのか。科学的とはどういう事か。科学はクイズではない、正しい答えを当てることでもない。新しいものとは知らないものだ。ならば科学的であるとは知らないものに対してどういう態度を取るか、としか言いようがない。間違った学説であっても科学的かも知れない、正しい学説であっても非科学的かも知れない。

20km圏の合理性について
この報告書は 20km 圏の取決めに合理性がないと指摘する。当たり前ではないか、事故以前に考え抜いたものが 10km である(EPZ)。その前提が崩れれば、20km がいいのか、80km がいいのか、200km がいいのか、誰も想定していなかったものに基準がある訳がない、基準があればそれを使ったに決まっている。

官邸5Fでは、菅総理、斑目委員長、平岡保安院次長、福山哲郎内閣官房副長官などが集まり、半径3km圏内の避難区域が決定された。その際、原子力専門家である斑目委員長や平岡保安院次長などから、過去の原子力総合防災訓練の経験や、本事故前に関係各省庁で進められていた予防的措置範囲(PAZ)等の国際基準を導入する防災指針の見直し作業を基にした助言を得た(「4.3.1.5参照」)。

これに対し、その後の半径10km圏内、同20km圏内の避難区域等の決定は、これらの知識に基づいてなされたものではなかった。半径10km圏内の避難区域は、ベントが一向に実施されず、このまま格納容器の圧力が上がっていくとすれば、半径3km圏内の避難区域で十分かどうか不明であるという理由のみから決定されたものであった。半径10km圏内としたのは、それが防災計画上定められた防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲(EPZ)の最大域であったためにすぎず、何等かの具体的計算や合理的根拠に基づく判断ではなかった。また半径20km圏内の避難区域は、1号機の水素爆発を含む事態の進展を受け、半径10kmを超えた範囲としての20kmという数字が挙げられ、一部の者が個人的知見に基づき大丈夫だろうと判断した結果決定されたもにすぎず、これも、合理的根拠に基づく判断とは言い難い。

3.3.4 官邸による避難区域の設定 (P.317)
3) 根拠に乏しい避難区域の決定 (p.320)

咄嗟に 20km 圏を決めるに当たっては、考えうる科学的知見は使ったはずである。その知見の上でひとつの結論を下した事は相違ない。だが科学的知見に基づいた決定が科学的かと言えば違う。彼らには科学的手法を使って基準を決めるような時間的余裕はなかった。科学的裏付けのある決め方は出来なかったはずである。であれば彼らの結論は科学的かと問えば、否、非科学的である、しかしそれが合理的でない理由にはならない。

合理的であるとは、科学的裏付けがある事ではない。限られた情報から結論を得る過程に、推論の流れがある事である。論理的とはその結び付きが説明可能である事を指す。合理性とは前提条件に基づいた推論である事を言う。この報告書は前提条件が揃う事を前提としている。

時間軸を無限とする考え方
これは時間を無限とし前提条件を有限個とした議論だ。時間が無限にあり議論の元となる前提条件が有限個ならば、これを全てを明らかにする事で、どんな事も説明可能であるとする立場だ。その前提はこの事故において成立したのであろうか。事故は時間が極めて有限に限られた中で進行した。前提条件は無限に等しく未知数の状況の中にあった。無限とも言える可能性の中から僅かに限られた情報だけを基に歩を進めた。

勘であるか、と言われれば、最後は勘であると言うしかあるまい。その根拠はどこにあるのか、と詰問されたならば、そういう確かめ計算は避難が終わった後にゆっくりとやれ、と言い返すしかない。こういう時には坂の上の雲のあのセリフが思い返されるのである。

そういう砲牆づくりは、いくさが終わってからやれ。いまはいくさの最中だ。(巻5、頁126)

避難
20km という距離は結果として見れば、ある人々にとっては必要にして適正な距離であった、ある人々にとっては過剰であり不要であった。そしてある人々にとっては不十分であった。それはその時に風向きが決めた。

電気もガソリンも途絶えた状況で避難する人にどうやって情報を伝えるのか、避難先に放射性プルームがあると分かったとしてどうするのか、軍隊であれば適時適切に動けるだろう、だが避難の半分は軍隊にも消防にも頼る事なく自力で逃げている人々ではないか。正しい知識があったとしても防げない事はある。正しく動けば戦争に勝てるというものではない。

なるほど、確かに後から見ればもっと上手い方法があるような気がする、いや、あったに違いない。幾つものこうした If を拾い集めておく事は重要だ。だったら失敗した奴にリベンジさせるべきだ、一番悔しいと思っている奴にもう一度やらせるべきだ。なのにこの報告書の構成員の中になぜ県庁や市役所の担当者が入っていないのか。原発事故の作業員がいないのか。

事故がもっと深刻であったなら、政府と雖もどこかで支え切れず行政は決壊したはずである。そのような状況の中で、分からないけれど決めたのである。分からないのに決めたのである。何故そうしたかと言えばもう時間がなかったからではないか。

決めなければ何も動き出さない。混乱から抜け出す唯一の方法は動き出す事であった。動き出すために必要なのは具体的な数値、目標であった。これが混乱から抜け出すただ一つの方法であれば決める事が優先した。正しく決める前に決める必要があった。

科学とは
一本の縦糸に問題があったからこれを差し替えさえすれば良かったはずである、とは歴史が機械の部品であれば成り立つだろう。だが一本の糸が変われば歴史がどのような色を成すかなど誰にも解るはずがないのである。それが今よりも良い未来とも言えない。バタフライ効果がもたらす結果を科学は予測する術をもたない。

もしこれが科学的とは認められない、And 科学的でないと認められない、と主張するのであれば、彼らもまた科学的根拠をもった結論を提示すべきである。結論かくあるべし、と主張すべきだ。それと比較し、明らかに劣っている、だからこうすべきではないか、と検討するものではないか。各々の時点でこうしていれば防げたという主張は、太平洋戦争こうすれば勝てた、と同じだ。そうだ、そうすれば勝てたのだ、それを当時の人が分かっていかったと思っているのか、想像力が欠けているのはどちらなのか。

人間は感情の動物であると言われる、もちろん、人間だけが感情を有するのではない、生物の本然的な要求が感情であって、言葉を獲得する前から感情と呼ばれる機能は存在していたはずである。だが感情が真実や法則を変える力を有しているわけではない。科学とは、感情に左右されない結果を研究する事である。

科学から政治へ
政府は、避難区域も除染区域も政治的に決めた。それを決める上で根拠とした科学的知見はある。しかし、科学的知見だけではなく、国民の意見を聞き、世論の流れを読み、予算を調整し、選挙を考え、トレードオフを考えながら決定したはずである。彼らは言いたいはずである、科学的根拠だけで決めていいのならこんなに簡単な話しはない。

政治的決断の根拠を科学だけに求めてはいない。科学は常にその時の確からしいしか示さない。どの程度の放射線が確実に危険であるかを科学は言えない。だから安全とは言えない、同時に危険とも言えない。そのとき、科学は分からないとしか言えない、ただフェールセーフを主張するしかない。

津波の高さを警告したのが科学者なら、津波への対策に合格を与えたのも科学者である。どちらの説が正しかったかは今や明白である。しかし、確からしいとしか言えなかったからそれは科学だったのだ。もし断言をしていたのであればそれは科学ではない。

政治とは状況証拠で被告を裁くのと同じなのだ。合理的も論理的も科学的も、政治では全て確からしいものを確かへとする方便である。科学はどれも確からしいまま立ち止まる。確からしさを持ち寄るのが科学であれば、それを確かに決めるのが政治だ。その後押しを科学はできない、ただ利用されるだけなのだ。

決断
問題を解決するのが政治である。確からしいだけでは何時まで経っても決まらないから其れを決めるのが政治である。であれば、この事故は政治の責任に帰結しなければならない、決めたのも政治なら、その後始末も政治しか出来ない。もし使っていた科学に誤りがあったというのなら、ではどういう科学なら間違いを犯さなかったかを検証すべきだ。どのような道具なら防げたというのか。

だがそれを検証をする前によく考えて欲しい。民主主義も科学も間違いを少しずつ訂正しながら進んで行くものだ。どちらも間違いを前提として存在しそれを訂正しながら進める手続きである。だからこの両者は共にゆっくりとしか先に進まない。仕組みからして莫大なコストをかけて後戻りをしながらゆっくりと進むように出来ている。我々はこの間違いを訂正する事はできる、しかしもう二度と間違いを起こすなと要求する事は不可能なのだ。

間違いを起こすのなら、原子力発電のように危険なものは使わない方がいいのではないか。このような主張は最もである。しかし、この主張は間違いを認めない考え方から生じていないか。間違いがあるのなら気を付ければいい、政治も科学もそうしか主張できない。原子力発電を使うか使わないかは、政治とも科学とも違う要請だろう。その要請がどこから来ているのか、そこを突かない限りこの問題に解はあるまい。

我々は"科学的"という言葉を聞くと何かしら確からしい気がする。だかこれは確かとは違う。もし確からしいものを信じたいのであれば、それは科学の問題ではない、信じるか信じないかの問題は信仰である。過去に遡ってみれば科学は宗教から生まれた。科学がもし科学への信仰に過ぎないのであれば、これは科学の先祖帰りである。

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