第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
第三十条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
短くすると
第二十九条 財産権。○2 財産権は、法律で定める。
○3 私有財産は、公共のために用ひることができる。
第三十条 納税の義務。
要するに
権利とは手に入れたもののうち、誰も奪ってはならないものであり、義務とは自ら進んで誰かに与えるもののうち、誰も所有してはならないものである。権利と義務の先には所有があり、その先には自然がある。考えるに
租税はかつて略奪であった。決して義務ではない。それをこの憲法は義務と言う。では略奪ではなく租税が義務と言える根拠はどこにあるのか。それが説明できなければ国家の寄って立つものも瓦解するだろう。人間は太古から色々なものを略奪してきた。隣人のもの、隣村のもの、誰かの手にあるものを、そして自然から。それは野生動物の行動と何ら変わるものではない。生命は命を略奪する。食べるためだけでなく、面白おかしくあるためにも。
しかし、野生生物に奪うという考えはあるだろうか。ヴィルスや細菌にそのような考えがあるだろうか。奪うという考えが成立するには、所有という概念が必要である。
自然には所有という考えはない。自然は誰かの所有物ではないし、財産でもない。冬に向けて木の実を集めるリスも、その所有権を訴えたりはしない。
奪うものは、誰かの財産である。財産は誰かが所有するものである。だから所有しているから略奪できるのである。所有していないものを略奪するなど不可解な話である。
しかしもともと人間は自然にあるものを略奪してきた。自然は誰かの所有物ではないから、何も問題は起きない。ただそれでは何かが不足しているので、自然を神のものと考える事で納得した。それは丁寧に祈りを捧げれば許す神である。山で誰かが死ぬとき、それは何かを破ったと納得する事ができた。
自然にあるものは誰の所有物でもない。それを人間の世界に持って来たら価値が付く。この価値が財産である。価値があるとはどういうことか。誰かと何かを交換できるという事だ。価値がある。それを同じ価値で交換する。そこに所有という考えが生まれる。
交換するためには境界が必要である。境界によって内と外を別ける。だから交換が可能になる。自然と人間の間にも境界はある。内と外で全く異なるルールが働いていても問題はない。
例えば、頭の中にある思考やアイデアも自然に属す。だから考える事はタダである。それを人間の世界に持ってきたら価値が生まれる。その価値は所有物のひとつなのでお金に変える事ができる。
人は自然から略奪してきた。略奪してきたものは私の所有物である。所有しているものは誰かと交換できる。物が交換される時、所有権も移動する。逆に言えば、交換に絶対必要なものは所有権の移動であって、物が移動する必要はない、とも言える。
ならば、略奪とは所有権が移動しない交換である、と考えてられる。自然から略奪するとき、そこに所有権はない。だから、自然から得たものに対して誰も文句は言わない。自然から略奪したときに、初めて所有権が付与される。
だが誰かが所有するものを略奪すると、所有権が移動したとは言えない。それは自然から略奪するときの方法だ。それを人間の世界で行っている。
略奪されて初めて人は略奪によって所有者を変えてはならぬ、と考えるようになった。これが正義の始まりである。略奪ではない正当な交換によってのみ所有者は移動する。そうでない交換は認めるべきではない。これが人間の世界だ。
ここに自然という世界と人間の世界のルールに違いが生まれた。人は自然界からは略奪する事しかできない。一旦、人間の世界に持ち込まれたものは人間のルールが適用される。
自然には所有という考えはない。よって誰かから略奪するとは、その相手を自然と見做している。それは相手を人間として扱っていないという事に等しい。
人間が所有するものをいつ誰と交換するかは所有者の完全な自由である。これが人間の世界の自由というものである。よって所有していないものを自由にする権利を人間は有しない。
すると自然の中には自由は存在しないのではないか。だから「自然状態」に完全な自由があると考えるのは、その時点でそこは所有のある人間世界の理想状態と考えなければならない。この自然状態においては、意思というものは人間が完全に所有していると考える。この前提があって初めて自由意志が成立するからである。
自然の中で生きる生物にももちろん意思の自由はある。右に行こうが、左に行こうが完全に自由である。では自然にある自由と人間の世界の自由は何が異なるのか。それが所有であろうと考えるのである。
人間にとって最も価値のあるものは命であるが、この命を人間は所有していない。自然が停止を要求すれば、我々はそれに抗えない。
所有できるものは交換できるものである。交換できるもののみが所有できるものである。命は交換できない。だから命は所有できない。
自然は命を奪うことを許している。だが人間が他人の命を奪ってもそれは所有できないものである。よって、その行動は自然からの略奪とは呼べない。もちろん、人間の世界にある交換でもない。
一般的に殺人は命を奪う行為ではない。命を奪うことは出来ない。なぜなら命は所有できないのだから。どういう理由であれ、殺人は命を所有するための行動ではない。
人は自然から略奪してもよい。だが人の世界では略奪は許されず交換しなければならない。だから、人の世界には人の世界のルールがある。自然の世界には自然のルールがある。このふたつの間を勝手に行き来することは許されない。勝手に境界線を決める事は許されない。
人をまるで自然にあるものと同様に扱うから殺人は激しく罰せられるのである。それは我々の世界にある境界線を無視した行為だからである。そのようなものは自然に追放するしかない。
自由とは交換する自由の事である。だから自由とは交換をする自由、またはしない自由である。そして所有している物に対しては完全な自由を有する。破壊することも改変することも自由である。
南部奴隷は白人所有者によって自由に扱われた。それは彼らにはその人たちへの所有権があると信じられていたからだ。だから所有権を否定すれば奴隷制度は自然と瓦解するのである。だからと言って所有権は人種差別の理由ではないのである。
時に女性を自分の所有物と勘違いする人もいる。これは価値があるものを所有していると考える方が安心できるからである。もし価値のあるものを所有していないと考えると不安で仕方がなくなるであろう。これが安心する仕組みでもある。
租税は我々の財産を国家が略奪する仕組みである。かつて、それは我々の財産ではない、と説明していた。農奴に財産の所有権はなかったからだ。
豊かな天然資源を持つ国には税金のない国家もある。だからといって租税が義務である、という考え方を撤廃しているはずもない。ただ必要ないだけで税金は必要なのである。
それは略奪ではない、税金とは国家のサービスを購入する対価である、という考え方もある。だが、それならば納税の義務とは呼ばないのである。それは契約である。
そもそも義務とは何か。それは権利の制限である。なぜ権利は制限されるか。それは他の権利を守るためである。誰かの権利を守るために、他の誰かの権利を制限する。それが国家の創発であろう。権利も自由も無制限に許されていたはずである。それが社会になれば無制限では済まず、権利の制限が必要になった。
国家を成立させ社会をそこに育むためには権利は制限される。その制限によってよりよく権利を守れると考える。その守りたい権利とはどうやって取捨選択するのか。その考えが公共である。最大多数の最大幸福。幸福の定義が曖昧な現代では最大多数の最小不幸という考え方もある。
憲法の義務は極めて少ない。それでも教育、勤労、納税は国として欠かせないものとして見ている。義務は他の権利のための制限だから義務を負うものにとって直接的な利益はない。だから簡単に放棄しうる。それを義務とし放棄は許さないとするのが憲法の立場だ。
安心するために核保有しようとする国家がある。核兵器を所有する自由はどの国にもあるように思えるが、使用する自由はないように思われる。
核兵器をどのような国家なら所有が許されるか、それは極めて歴史的な偶然に過ぎないが、使用は強力に制限しなければならない。これは自然と人間の対比というこれまでの考え方では説明できない考えである。なぜ兵器が強力になっただけでこれまでの考え方が通用しなくなるのか。
所有しているのに自由に使ってはならない根拠は何か。ただ兵器が強力になっただけなのになぜ自由を制限しなければならないのか。それを禁止したり制限する根拠が従来の考え方では示せない。
核兵器を前にして我々は何でも所有してよいという概念を失う。所有しているからと言って、自由にしてはならない。核兵器は「絶滅」を現実にする。それは自然からの略奪というレベルを超えている。
人間は多くの他の命を終わらせてきた。それは自然に生きる多くの生命も同様だ。この世界の命はまるで他の命に対して無関心である。種の絶滅に対してさえ自然は無頓着である。まるで原子、分子は何ひとつ変わっていないじゃないかと主張しているかのようだ。蝶を捕らえたカマキリには蝶の体が必要である。その結果、命が失われるのは不可分に過ぎない。
自然はそうかもしれない。だが、絶滅は、どのような神も思想も想定していない。
(国家はなぜ衰退するのか/ハヤカワ文庫)
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