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2017年12月17日日曜日

日本国憲法 第二十六条 教育 再考

第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2  賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3  児童は、これを酷使してはならない。

権利を有し、義務を負うという一文を以ってしても、起草者たちが憲法を通して日本に「民主主義の理念を理解すること」を求めているのは疑いようがない。

権利を有するのは分かる。誰も働く意欲を奪い去ってはならない。この理解は、人間の自由意志と絡めても分かりやすい。それで終わるなら、なんら考える必要もない条文である。

だが、義務とは何か。働く権利がある。ならば、その権利を放棄する自由も持っているはずである。

所がそれは違うと憲法は言う。権利もあるが義務も負う。権利はあるが、勝手に放棄してよいものではないと言うのである。

権利は人間が生来持っているものである。民主主義がそう規定するのだから、権利は民主主義に特有の考え方かも知れない。そうであったとしても、自由意志は民主主義の専売特許ではない。権利と同等の考え方なら民主主義でなくても見つけることはできるだろう。だが労働の義務とはどういうことか。奴隷でさえそのようなものを有していたか。

人間の自由は社会契約によって制限されるというホッブズの考え方を敷衍すれば、労働は契約によって人々に課せられたものであろうか。必要な経費と考えるべきであろうか。だが、それでは義務とは国家からの強制力として存在することを許す。そのような考えを民主主義は許すだろうか。なにひとつ国は市民に対して強制することはできない。それが理想であるはずだ。

民主主義からどうしても奪えない権利があるとすれば、それはロックの言う革命権であろう。選挙はこの革命権を体制の中に内包したものである。仮にそれ以外のすべての権利が消失したとしても革命権が残る限り民主主義は存続する。

アジアでは体制を打ち倒す正当性に易姓革命があった。どのような国体であれ政府を打ち倒すのにはそれなりの正当な理由が必要なのである。民主主義だけがそのような理由を必要としない。ただ勝て、選挙に勝利せよ。どのような方法であれ、勝利者がこの国を運営せよ。

だから民主主義では国家はなにひとつ市民に強制はできないはずである。選挙で勝つことは、国の独占ではない。好き勝手に何をしていいのでもない。義務を押し付ける自由を権力を持たない。

ベーシックインカムやAIの出現によって、働かなくても生きて行ける福祉社会が到来するだろう。それが絵空事ではない時代に、勤労の義務を理解するのは難しい。

もちろん、勤労はあらゆる労働を義務としたものではない。奴隷としての労働を求めているのではない。果たして勤労とは何であるか。憲法は二十七条を通して勤労とは何かを国民に問い掛けている訳である。

日本国憲法はその出自からして日本国民に民主主義の理念を教えるテキストの役割を負ってきた。これが他の憲法とは異なる特異性であろう。

日本国憲法は人間が探求してきた理念や正義という概念と向き合わざる得ないように書かれている。その一文の中に憲法としての役割だけでなく、読む者に理念の探求を求めている。

もちろんその理念の多くはヨーロッパで生まれたものであり、アメリカで今も壮大な社会実験が進行中である。日本は明治にそれらの憲法を学んだが、その多くは伊藤博文に負った。彼の慧眼が憲法と西洋の法体系を極めて正しく理解していたことは疑いようがない。

にも係らず、大日本国憲法はそれから70年近く一度も改正されなかった。最初に書いた憲法の中にどんな間違いもなかったなどあり得ない。70年もの間に世界の変化や新しい価値観の登場が憲法に修正を必要としなかったなど考えられない。それが一度も起きなかったと戦前の憲法は言っているのである。つまり日本人がどれほど憲法というものが分かっていなかったを示す証拠なのである。

アジアにはアジアの法体系と理念がある。特に、東アジアで生まれた政治理念とヨーロッパを発祥とする理念(ここではアフリカやイスラムなどは触れない)を、我々は完全には統合できていない。その綻びは長い間、この国の中で不協和音や矛盾、誤解や無知として残っているはずである。

この国の不幸は官僚と言えども憲法を読んでいないことにある。小学生が憲法を読むこともない。戦前は教育勅語を暗唱していたことからくる反動であろうか。まさに誰も憲法が何であるかを知らないのだ。誰もが数学オリンピックの順位で一喜一憂するが、憲法を読まないことを憂える人はいない。

この国の人々は元来が実学にしか興味が湧かないのである。短期的な利益を追及することに最も勤しむ人々であった。もちろん空襲中の空母の甲板で親鸞を語っても仕方がない。それはそうであろう。同様に明治の開国期に実益を重要視したのも致し方のない事であったろう。

しかしどのような実学も文化があり理念という背景に支えられるものである。それがしっかりと後ろから支えなければ長く続くものではない。目先のことばかりに心を奪われて、長く遠くを見る力が欠落してはさほど遠くへはいけない。

戦場での武勲ばかりに興味がゆき、一週間程度の戦闘に勝つことしか興味のない連中が短期決戦を挑んだ。短期の実利ばかりを追い求めるから二年以上の長期戦を戦い抜ける人材はどこかに飛ばされてしまった。

戦争とは補給が長く続いた方が勝利するという当然の帰結を失った軍隊がどのような末路を辿るかを証明するためだけに戦争を挑んだようなものである。

日本が実利の探求を重視する短期指向が強い事は、この国の伝統かも知れない。憲法を教えていない以上、理念などで国を動かす気はないのである。短期的な実益を追い掛ける人材が優秀だと言っているのである。そうやって短期戦に勝つことばかりに目が向いて、長期戦など忘れ去っている。敵が短期戦を挑んでくるとは限らないのに。

大方針は長期戦で構えるものである。どのような国もそうやって国を営んできた。アメリカもそのように戦ったし、中国も同様である。

尖閣諸島は、40年以上も前に打たれた鄧小平の捨て石であった。この捨て石が息を吹き返す。40年以上の無言の意思のリレーがある。

長く忘却せずに根気強く活用の機会を伺う方法もあれば、終わった事はきれいに忘れて再構築する、問題が起きたらその場で対処する方法もある。

重厚な布陣と堅牢な要塞に立て籠もる持久戦と、軽快な立ち振る舞いと軽やかさで戦場を駆け抜ける騎兵のようなものだ。得意不得意はあれども、国がこれしか採用しないなどということはあり得ない。

たったひとつでも弱点があるようではプロと呼べないと語ったのは米長邦雄であった。相手が腹を据えて持久戦に持ち込んできたなら、こちらにも長期的な戦略で立ち向かうしかない。

長くこの国を守りたいのであれば、小学校で憲法を通読する所から始めるべきである。

我々はみんなが義務を負う。だがそれは憲法に書かれているからでも、国家から強制されたからでもない。義務を果たすことは権利を要求するための条件でもない。

なぜ憲法に義務の記述があるのか。国は何を市民に求めるのか。そうではない。義務を負うのは国であって、市民ではない。教育の義務を負うとは、国家は教育が施せるだけの環境を整えなければならないという意味であって、教育を強制されることではない。

もし教育の価値を認めないなら受けなければよい。好きに生きればいい。少なくとも飢え死にしないだけの面倒は見るよと憲法には書いてある。そのような人生観であっても非難しない、それがこの憲法である。

勤労の義務とは国家は勤労を可能とするだけの労働環境を整えなければならない、という意味だ。そうしたところで市民がさぼろうが、遊ぼうが、それは自由である。義務は国家に帰属する。権利は市民に帰属する。

さて、問題がひとつある。納税の義務である。こればかりは、市民も逃れようがないのである。

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