stylesheet

2017年10月7日土曜日

風姿花伝 - 世阿弥

1363年生れ、世阿弥。観阿弥の子。室町時代 希代のプロデューサー。

風姿花伝の一節、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」

折に触れ この言葉を思い出す。古典がどのような読み方も許し、受け入れるものである以上、ただひとつの答えがあるとは思わない。この言葉は、その時々で何かを訴えてくる。自分はこう読むという以外、どんな面白みがあろうか。

この芸、その風を継ぐといへども、自力より出ずるふるまひあれば、語にもおよびがたし。その風を得て、心より心に伝はる花なれば、 風姿家伝と名附く。

この芸は、猿楽から発したものだが、一種独特のものがあって、その機微を伝えるのは難しい。猿楽から始まり、どう変わっていったか。その変わるものが花だ。この変わってゆく力が花だ。

風の姿を花の姿で伝える。風は目に見えない。だが花が揺れれば風があると分かる。花の姿を使えば風を伝える事ができる。同様に風の姿で花を伝える事もできる。風が吹いている所作に花を感じる。花を伝えるのに花である必要はない。花の姿で風を伝え、風に舞う姿で花を伝えてみようと思う。

花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりをわきまふべし。花と申すも、去年咲きし種なり。

なぜ世阿弥はすべてを花に例えるのか。

花は消えてゆく。能もどこにも残らない。では何が残ってゆくのか。能という芸であり、それを演じる人である。恐らくそれが種であろう。花を咲かせる種もあれば、咲かない種もあるだろう。ある季節だけ美しく咲き枯れる花もあるだろう。枯れた姿が印象に残る花もある。

花は人の心を種としてまた次の花を咲かせる。

古きしては、はや花失せて、古様なる時分に、珍しき花にて勝つことあり

猿楽は、当時、勝敗を争う勝負の芸であった。立ち会い能と呼ばれるもので、どうやって勝敗をつけたかは知らないが、最後は観客の喝采がそれを決めたに違いない。それは芸術というより芸事なのである。囲碁や将棋と同様にかつてはこういうものにも勝敗がついた。そういう歴史が自分には分かる気がする。何事にも勝負を感じる心がある。

秘すれば花、秘せぬは花なるべからず

世阿弥は花を秘せよ、と言ったのではない。隠し続けよと言ったのでもない。そういう類のものは勝負を一回しか仕掛けられない。マジックのトリックではあるまいに、相手に知られたら終わりというものではない。

隠している間はそれを花と呼べ。みんながそれを花と思うだろうから。それを開いた時に花のままだったら驚きがない。それでは隠した意味がない。

人の心に思ひもよらぬ感を催すてだて、これ花なり。

何を秘しているかは観客の思い込みである。勘違いするのは演者ではない。だから隠している事を上手に見せる必要がある。

何かがあると思わせる事、これが重要であって、何もないと思われたら終わりだ。それを最後まで隠し続けるのが能のはずもない。隠しているものを最高のタイミングで表に出づ。その時、それはもう花ではない。

秘する花が重要なのではない、それを隠し続けるのに意味があるのでもない。秘する花は、ある瞬間に隠さないのである。その時にどうするか。

この物数を究むる心、則ち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。

花を伝えるだけなら、例えば、ただ手に持っている所作をすればよい。演者はそこに花がない事を知っている。観客も知っている。それでも舞台の上に花がある。

そこに風が吹いた所作を加える。本物の花が揺れる必要はない。ただ風が吹いていると伝える。演じるとは観客が勝手に花が揺れるのを見ることだ。花が揺れたなら、今度は風が吹く。風が吹けばまた花が揺れる。観客のその読み取る力の前では、演者の所作など小さい。観客に花が咲く。演者には風がある。

出来庭(できば)を忘れて能を見よ。
能を忘れて為手(して、演者)を見よ。
為手を忘れて心を見よ。
心を忘れて能を知れ。

心など忘れてしまうがいい。そんなものでは能には辿り着けない。

舞台の景色から離れて、能を見よ。すると、能は失われて、演者だけが見えてくる。演者だけを見続けていると、その姿も次第に消えて、心の動きだけが見えてくる。その心さえもどうでもいいものになってきた時、そこにあるものが能である。心など忘れてしまって構わない。感動など花が風に揺れたようなものだ。そんなもの花でもなんでもない。

人間などいらない。花があればいい。彼はそう言いたかったのではないか。

0 件のコメント:

コメントを投稿