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2017年7月8日土曜日

日本国憲法 第二章 戦争の放棄 II

第九条
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

短くすると

○2 陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

要するに

軍隊を勝手に使うな。

考えるに

戦争はあらゆる権利の複合体である。その中にも使える権利と使えない権利があるはずである。世界はある条件下における戦争を禁止した。逆に言えば9条第1項は条件付きでの戦争を許可する。その条件が何であるかを追求する必要がある条項である。

第2項はその権利の行使を禁止するだけではなく、その権利を実現するための組織や団体の保持を禁止した。手段までも奪う事で強く禁止を強調している。これは厳重な防止策である。

交戦権だけでは実行部隊を保持できない事をこの条項は明示している。逆に言えば「その条件」に抵触しない陸海空軍の保持は許される。ある条件下でならば戦争も許される。

日本国憲法は決して戦争がないことが平和である、とうたった憲法ではない。

では具体的な「権利」「条件」とは何であろうか、という話になる。

明らかに言えるのは、これは他国との間に発生する、他国に対して行使する我が国の権利、が論点である。その権利を禁止すると9条は要求する。その権利とは、例えば他国や他民族を支配する権利、他国を滅亡する権利、他国の独立を脅かす権利であると定義してもいい。他国の政権を変える権利、他国に賠償金を請求する権利、戦争犯罪者を追及する権利としてもいい。我々はこの権利をもっと細分化して考えるべきだ。

戦争を始める事は容易い。今の日本でさえ武力攻撃を受けたならば自然と交戦状態に入る。それは非常に容易い。だが戦争を終結するのは難しい。仮に非武装を選択しても交戦状態は終結せねばならない。我々は戦争の終結について経験に乏しく、特に敗戦は4度しか経験していない(白村江の戦い、薩英戦争、馬関戦争、太平洋戦争)。

敗北の時にどういう行動を取るのか。そこに国家のすべてが集約すると言っても良い。世界を道連れに滅びの道をゆくか、それとも奴隷になってでも生き残るか。世界を道連れにするのは簡単である。全ての原子炉を暴発させ世界中を汚染する。使用済み核燃料で大気を汚染する。その代償が滅亡だ。滅亡する代わりに我々は敗北を知らないで済む。

相手がそのような行動を取る可能性もある。どうやって我々は戦争を終結させるのか。それは戦争に勝つ事より遥かに難しい。核兵器の登場が、敗戦を困難にした。それは勝っている側にも同等の困難をもたらす。核兵器がある限り、相手は戦争の終結を受け入れないだろう。どう戦争を終結すればよいのか。これが核兵器の抑止力である。

尖閣諸島を日本の領土ではないと主張する勢力がある。日本には日本の主張がある。その最後の根拠は広く世界の同意に依るだろう。だから相手は武力よりも先に世界の同意を切り崩す言葉を模索するはずだ。それが 4:6 になれば武力の正当性が生まれる。世界は真実では動かない。信じる事で成立する。戦う前から勝負はついているとはそういう事だ。

竹島を実効支配する勢力がある。その奪回は憲法上は禁止されていない。自国に入り込んだ勢力を追い出すだけだからだ。つまりそれは戦争ではない。内政である、と強く訴える事もできる。しかし相手はその主張を認めまい。

お互いの言い分が相反する場合、どちらの権利も成立している状態が生まれる。それを争うのが市民同士ならば裁判に訴えればよい。それができない場合に戦争となる。戦争は裁判の変わりに権利の両立状態を解消する方法のひとつだ。

争いは権利の衝突である。我々は権利を主張し続けた結果、先の戦争に敗北した。支那事変も権利だけ聞けば正当に聞こえるかも知れない。それは当然である。相手の言い分を聞いていないのだから。それでは裁判にさえならない。相手にも異なる正当さがある。

権利はある。権利の行使もある。誰がその権利の正当性を決めるのか。ここにおいて憲法は権利を記述するが、権利の正当性は決めない。憲法は権利の正当性の根拠にはならない。

では誰がそれを決めるのか。何がそれを判断するのか。世界にはそれを決める存在がない。その意味では自然状態である。

国家間の正義とは何だろう。この世界は真実よりも信じる事で動く。世界の足場は幻想で出来ていると言ってよい。不思議なことに、それは正義という釘で打ち付けられている。

我々は正義とは何かを説明できないが、それが正義であるかどうかは、ほとんど常に正しく判断する能力を持っている。より広く見る事で未来を担保したい。正義は広く見る事を要求する。

この世界には広い正義と狭い正義がある。広くても間違っているかもしれない、狭くても正しいかも知れない。だが広さ以外に正義を支えるものが見つかりそうにない。だから正義の広さを人々の意志に求めたものが民主主義の数の論理と呼んで差支えなかろう。

我々は裁判についてもっと知らなければならない。それが戦争を知る道である。我々はもっと正義について考えなければならない。それが我々の希求が世界のすべての希求と一致する道だろう。

もし、それが見いだせないのならば、我々は同じ失敗をするだろう。もし、それが見いだせたなら、我々はこの世界の未来に参加できるに違いない。

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