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2017年6月30日金曜日

日本国憲法 前文 I

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

短くすると

日本国民は、政府によつて戦争が起ることのないやうに決意、主権国民を宣言する。国政は国民の信託、権威は国民に由来、権力は国民代表者が行使、福利は国民が享受。これ人類普遍の原理、これに反する一切の憲法、法令詔勅を排除する。

要するに

さきの戦争は大変だっただろ、こうなったのも民主主義が機能していなかったせいだ。軍部の独走を政府が止められなかったせいだ。これは民主主義の機能不全である (と我々は見ている)。国民が悪かったとは一概に言えない。だからこれからはまっとうな民主主義でやってけ。その方法をこれから記載する。 

考えるに

日本国憲法は女性的な憲法であると思う。この憲法は「日本国民」から始まるが、日本国民が書いた感じはしない。どちらかと言えば、子供に言い聞かせる母親の趣である。

だが制定された当時の状況を鑑みれば致し方ない。新しくアメリカの民主主義を日本国民に広く知らしめようとする時に、憲法ほど相応しい媒体はなかった。どんな教育や宣伝よりも憲法が相応しかった。憲法は宣言されたものであるが、日本国民にとっては、これから学んでゆくという意味合いが含まれている。

「人類普遍の原理」とは大仰ではあるし、その原理が否定されたらこの憲法の根幹は揺らがざるをえない。正直に言えばこれはアメリカの原理であろう。だがこれは不変ではなく「普遍」であると言う。民主主義は最低だが、他はもっと最低である。これ以外の選択肢がない、ここから外に行く方法もない。そういう点に我々はいる。

そこをわざわざ子供に言い含めるような言葉で「普遍」と説く所に、どこまで強く言った方が分かってくれるのだろうか、他の言い方では誤解されないだろうか、と憲法起草者たちが思い悩んでいた様が見てとれる。

「国民の厳粛な信託」は社会契約の考え方であろう。ジョンロックかルソーの社会契約かで国民に対する制限も変わるのであるが、いずれにしろ契約の大前提にある考えは、契約である以上、そこには条件がある、もしそれを破れば契約を破棄できる。その破棄してよい条件が憲法である。

結びにある「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」は力強い。憲法でさえ排除するとは、そういう改正は認めないと言っている。この言葉を入れた時、いつか誰かがこの憲法を骨抜きにするだろう、という事態を想定していた事が分かる。

これはドイツのワイマール憲法がナチスによって死文化された歴史と無縁ではない。全権委任法とその前に成立した幾つかの法案によって憲法が死文化するという歴史がありそれがあの戦争を可能にした。それを食い止める確実な方法はこの世界に存在しない。だから起草者たちは「憲法」を含めて「排除する」と記載したのであろう。

その時に、この一文がそれに反する人々を擁護しようと言うのである。この一文は未来に向けて打ち込まれた楔である。

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