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2017年8月20日日曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 II (第十五条~第十七条, 公務員)

 第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
○4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

第十七条  何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

短くすると

第十五条 公務員を選定、罷免は、国民の権利。
○2 公務員は一部の奉仕者ではない。
○3 公務員は普通選挙を保障する。
○4 投票の秘密は侵してはならない。選挙人に関し責任を問はれない。
第十六条 損害の救済、公務員の罷免、法律、命令、規則、廃止、改正に請願権を有し、差別待遇も受けない。
第十七条 公務員の不法行為により損害を受けたときは、国、公共団体に賠償を求めることができる。

要するに

実際のところ、国政において国民が行使できる権利はただ投票権だけである。

考えるに

公務員(public servant, civil servant)という思想は近代国家の成立と連動している。その背景に公務(Public Service)という概念がある。この Public という概念を理解する必要がある。おそらく public は公というアジアの思想とは異なる。

これは国家が Public という概念に昇華するのと関連しているのではないか。これは所有という概念とも関連している。つまり政治体制と経済は深く結びついているはずである。これを逆に見れば、近代国家という政治体制は、ある経済活動を最適化するために存在しているのではないか。

一般に、公務員とは官僚のことを指すが、憲法の定義はもっと広義である。ざっくり言えば、法に関係する仕事に従事し、生活の基盤を税金で賄われる人の総称である。つまり三権分立の構成員である(弁護士は除く)。

普通選挙を保証された公務員とは政治家のことである。このことからも政治家の資質に専門性がないことは明らかである。市民に専門性を問われても判断などできない。誰もがそれぞれの専門性を持っているとしても、ある特定の専門性を問われると困る。

よって選挙の争点が専門性になっても、そこに望ましい投票結果を期待することはできない。その当然の論理的帰結から、我々が自信をもって一票を投ずるためには、誰もが持っている一般性や常識に根付くしかない。つまり投票結果が示すものはその国が持つ総合力になるのである。

民主主義とは公務員を投票によって選ぶ仕組みである。投票を超える制度は今の所 見つかっていない。AIが実用化すれば何か別の方法が見つかるかも知れないが。

選挙によって選ばれた公務員が立法を担当し、立法に基づいて公務員が行政を執り行う。そこで起きる様々な争点は司法が結論する。この三権の特徴は、権威の立法、権力の行政、強制力の司法となる。

この体制において予算の分配を決めるのが立法であり、予算を実際に分配するのが行政である。予算を分配する根拠に法がある。よって法のない所に予算は付かない。

公務員、官僚は、必ず各自が担当する法を持っている。法の擬人化、具現化である。

省庁は縦割りと言われるが、各々が法を超えないように行動すればテリトリーと棲み分けが生じるのが自然だ。それを勝手に縦断したいと思っても、それを根拠とする法がない。

公務員、官僚は、各自が担当する法を通じて社会に奉仕する。そこで最大の奉仕をしようと努めるならば、良心に従う公務員は最大の予算を獲得しようと働きかける。その獲得した予算を社会に還元するのが彼らの業務である。もちろん、本は予算の分配にあり、問題の解決はその従である。

だから予算が増えてゆくのは自然なのである。その予算が適切に効率良く使われているかどうかは別の課題である。

いずれにしても、予算を増やしたくても、国家予算は有限な資源だから頭打ちするのは当然である。この有限のリソースをどう分配するかを決めるのは行政の仕事ではない。行政機構は肥大化するものだが、これを抑制する仕組みを行政は内蔵していない。原理的にそのような仕組みは持てない。

どのような国も肥大化する行政をコントロールする仕組みを行政の外部に持っている。明治期の日本ではそれが元老である。構成員が寿命を迎えた時 官僚の肥大化はコントロールを失った。と考えることができる。

民主主義の基本レイアウトは肥大化する行政を立法がコントロールする。立法は法を通じて行政を支配する。支配するとは具体的に言えば、予算を減らす事である。如何に行政が強力であっても予算を絞られればたちまち枯れる花である。立法が予算の権限を持つことで行政は限られた範囲でしか増殖できないようになっている。

投票によって選ばれた政治家が予算の分配をコントロールする。これが間接的に国民が行政をコントロールしている構図である。

では、正しくコントロールされているかどうかをどう評価するのか。そのためには予算を指標とし、運用の適切さをチェックするしかない。または現実の目の前で起きている問題が解決されたかどうかで決めるしかない。

そしてもし立法が暴走していると見れば、選挙によって公務員を取り換える。そのためには情報が必要である。それが情報公開である。もし法に違反していると考えるならば、司法に訴えればよい。

だが立法を支配するための最大の抑制力は、多くの政治家を選ぶことである。民主主義とは狂信者を選ぶことと違わない。狂信者を独裁者や絶対君主などのようにただ一人にしないために、たくさんの狂信者を選ぶのである。そうしておいて互いを牽制させる。これが民主主義の画期性である。

我々は15条が示すように選挙の秘密も責任も問われない。つまり、誰に投票するのも自由、その結果 国が滅んだとしても責任を取る必要はない。もし国が滅んで他国に侵略を受け皆殺しにされるとしても、それは誰のせいでもない。それを選挙のせいにしても仕方ない。つまり憲法は、もしそうなったら粛々と死ねと言っているのである。

もし三権のすべてが結託して劣化したらどうすればよいだろうか。コントロールできない行政の行く末は先の大戦で明白である。もし官僚のコントロールに失敗していなければあの敗戦は回避できただろうか。先の戦争は、この国の民主主義にとってよい試金石である。

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