宿題
敵を知り己を知れば百戦殆うからず(孫子)
読書感想文の主な用途は夏休みの宿題で、宿題である以上、そこには必ず出す側に意図がある。その意図を満たせば模範解答となる訳ではないが、その意図を知る事は役には立たなくとも無駄にはなるまい。
夏休みの宿題はもちろん全生徒を対象とするが、実際には、それぞれの生徒の個性に応じて、それなりの働きをするであろう事は想像に難くない。大きく叩けば大きく響く、大きく叩いても小さくしか響かぬ、様々な子がいて、様々な教科がある。
それぞれの科目がこの一か月の学習を想定して考え出されている訳で、遊んでいる間に学習した内容を忘れてしまうのでは惜しい。何かを毎日やるという習慣も身に付けて欲しい。
どうせ遊びに忙しいのなら尚更それとリンクして学習と結び付けられないか、夏休みはその絶好の機会である。
スポーツ選手が一日休んだら元の状態に戻すのに一週間かかると聞く。子供の仕事は成長する事で、成長の手段のひとつが学習であるから、ランニングが基礎体力を養うように学校の教科が脳のランニングとなる。
怠惰ではこれまでのトレーニングの効果が失われてしまう。だから宿題である。そう、ずうっとトレーニングは続けて欲しい。
では、夏休みの読書感想文の意義はどこにあるのか。指定された本を読む、読んだ後に感想文を書く、それだけ。その課題は、意図は、目的は。
教科書よりも長いひとつの本を最後まで読む経験、その後に原稿用紙2~3枚程度、1200文字を埋める。
これが課題として求められている事であり、それをやるのに絶好のチャンスが夏休みだと捉えている筈である。
チャンスとは、出す側としては、今ここでやっておかないと一生本を読まないかもしれない子がいる。これだけの長文を手書きするのもこれが最後かも知れない。
パソコン、スマートフォンが中心の生活である。長文を手書きする経験はこれからどんどん減ってゆく。これが最後の体験かも知れない。その経験は無くても困らない経験ではないか、と問われればその通りである。
しかし、多くの時代、人間は手書きで文章を残してきた。それを一生に一回くらい経験しておく事は無駄に終わっても惜しくはないだろう。先生はそう信じている。
論文
最終的には読書感想文の先に論文と呼ばれるフォーマットがある。論文は人類が数千年の時間を費やして改良に改良を繰り返してきた到達点である。このフォーマットは歴史の中で自然淘汰され洗練されてきた。だからこれは人類共通の財産である。
論文は自分の経験を他人に伝えるためのフォーマットであり、正しいか間違っているかを書くものではない。必要なのは再現手段を記述する事。
論文の目的、研究の対象、数学、物理学、化学、社会学、経済学、文学、歴史学、人が研究するもの全てで、表現の仕方は違おうと、骨子は同一である。
自分はこういう事をした。それを試したければこの手順で確認できる。料理のレシピも、炊飯器の説明書も基本は同じで、それを記載する方法があり、過去の経験から生まれたルールには先人たちの合意がある。
書く
読書感想文が感想を書くものと思っているなら、最初のボタンから掛け間違えている。感想文だから感想を書くのではない。大人ならいざ知らず子供たちの宿題である。どう書いた所で別段の処罰が待っている訳でもない。
工作の宿題にプラモデルを出した所で何の咎がある。創造性が素材だけで決まるとは思うなよ、である。
それは先生も百も承知の助である。感想文とは何を書いてもよいというメッセージである。
先生たちの最低限の要求は『なんでもいいから文章を完成させて提出しなさい。』であって、指定された文字数を兎に角埋めろ、それで最低限の要求は満たしている。
文字を書くだけなら写経でも構わない。しかし坊主の小僧どもではあるまいし、全生徒に経典を配る訳にもいくまい。
どうせ書くなら本の一冊でも読む切っ掛けにしたい。こういう機会でもなければこの本を一生読まない子もいる。何千、何万の本の中から一冊を選ぶ。誰のどの作品にしようか。
宮沢賢治に触れるのもこれが最後のチャンスかも知れない。この一冊がその子の未来を大きく変える可能性さえ秘めている。
本を読み、それを切っ掛けとして何かを書く、この体験だけでいい。それが豊かな人生と結びつく。そう信じられる力が本には備わっている。
これが読書感想文の目的である。文章を書く、それだけで訓練になる。漢字を書く、それだけで経験である。本を写すだけでもそれも工夫。本当にそれだけでいい。詰まらないと感じても構わない。これが先生の願いである。
感想文
そうして生まれた読書感想文が夏休み明けには提出されてきた。本を読み、長い文章を書くという先生たちの目論見をそれは満たしている。所が、多くの生徒にとって、それは「何故」という疑念を残してきた。「何」が感想文であるかを誰も知らないし答えもない。自分が書いたものは本当に感想文と呼べるものなのか、と言う疑問は今も解決していないはずである。
読書感想文という他の宿題とは大きく異なる独特の記憶は今も多くの人の中に残っていて、読書感想文の経験は決して無駄ではなかったのである。
そうなったのは、子供たちが何を書いて持ってきても「これが感想です」と言いさえすれば反論できない仕組みを先生たちが組み上げたからだ。そうする事で宿題としてのハードルを極端にまで下げる事に成功した。
それが、多くの人にとっての感想とは、漠然としたもやもや、自分でさえ何を書いたか覚えていないもの、けれども提出はして特に怒られなかったもの、という経験の沈降となった。
読書感想文で表彰された、書くのが好きで何の疑問も感じなかったマイノリティを除けば、多くの人に刷り込まれた読書感想文は、訳は分からないけれど、とりあえず成立する何かとして記憶だけが残った。
だから感想が侮蔑語として使われた時に、初めて多くの人がハッとしたのではないか。
それは、あなたの感想ですよね
この言葉がこれほど短期間で膾炙したのは、読書感想文という伏線があったからで、それをうまく回収したから、これだけ多くの人にこの言葉の正確なニュアンスが伝わったのではないか。この言葉の微妙なニュアンスは読書感想文を経験していない人には伝わらないと思われる。
もちろん、それを独特な抑揚や語尾変化で的確に表現した話者の力量が加わる。
対面で人を「あなた」と呼ぶ。初手からマウントを取りに行っているのは明白である。
「あなた」という呼び掛けには明白な対人関係の提示がある。「君」では馴れ馴れしい。「あなた」なら丁寧であるが、それをよくは知らない、親しくもない、親密になる気もない人に向けて発する。だから、これは宣言なのでである。
わたしとあたなは他人ですよ、慣れ合う気もなければ親しくなる気もありません。私のパーソナルスペースへの侵入は禁止です。私にとってあなたは取るに足らない他人です。この距離感が相手を自然と遠くに小さな存在とする。
その上で「ですよね」で語尾を畳み掛ける。
よもねも念押しの終助詞である。念押しをするという事は相手の理解力に疑問を持つからだし、それを丁寧に馴れ馴れしくするのは、相手との力関係を瞭然とするテクニックになっている。
感想
これが成立するという事は、このディベートの場所では権威や権力は役に立たないと宣言しているように見える。まるでジャイアントキリングの構図で、相手は無条件でゴリアテである。その相手の言葉が「感想」である。あなたは気付いていないでしょうが、は省略されている。
あなたの主張は、何を書いても怒られない読書感想文程度の内容、だから取るに足りません、と指摘している訳である。
では、「感想」の反対語は何であろうか。何を語れば説得力があると言えるのだろうか。面白い事に読書感想文に反対語は存在しない。よって、何を持ってきても全て「感想」が成立する。
何でも感想である。何を語ろうと感想と言われればその通り。感想って何?という事に、我々は読書感想文以外の答えを持っていないから。
感情も感想、考えた事も感想、証明も調査も感想と言えば感想、解析も感想。人の言葉は全て感想である。だって夏休みの宿題がそういうものだったんだから。
所詮はあなたの読書感想文でしょう?あなたが好き勝手に書いたものでしょう、と言えばそれまでである。例えアクセプトされた論文であろうと、そう言い切ってしまえば、多くの観客にとってニュアンスは理解できてしまうのである。
読書感想文を再発見したという点が画期的だったのだろう。多くの人にとって読書感想文はそういうものであったでしょう?と思い起こさせた時点で、人々の関心は討論の場から、そういえば読書感想文ってなんだったのだろうという方に移る。そこで終わり。そういう修辞技法のメカニズムが背景にある。
つまり、読書感想文と結びついたから破壊力があるのであって、その力学さえ理解すれば、言葉自体には議論を終わらせる力はないと気付くであろう。
つまり、英語などの他言語に翻訳してみたら突然と意味をなさないであろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿