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2012年8月8日水曜日

礼について - 刀と銃の文化

アメリカのドラマを見ていると銃の取り扱いはシビアに描く。容疑者がキッチンの戸棚を開けようとするだけで牽制する。おい、まてまて、勝手に開けるんじゃない。開けたら撃っちゃうよ。

犯人を追いつめて相手が背広の内側に手を入れたらダン。そのまま射殺。これで正当防衛。拳銃の世界では相手より速く撃つ、と言う発想が自然である。撃たれたら終わり、二発目はない、という思いが強い。

銀河鉄道999でも鉄郎が云われていたね。
撃たれる前に撃て
って。

この感覚は銃の伝統がない日本人には馴染みがない。しかし日本人は刀に関する感覚は分かっていたりする。だから日本とアメリカの違いは刀と銃の文化の違いじゃないかな。

僕らが知る歴史は卑弥呼、飛鳥、奈良、平安の時代から源平、南北朝、戦国、幕末ロマンまで銃よりも刀だ。多勢に無勢というのは刀でも銃でも有り得るが敵の真ん中に立って見得を切るのはガンマンの世界では通用しない。殺陣で大勢を相手にするのとガンマンが大勢を仕留めるのは見せ場が大きく違う。

刀では居合抜きと抜刀術があって相手に先に切らせこれをいなして切り返す。銃であれば相手に先に抜かせてこちらが先に撃つ。刀では切られてからでも切り返すことは可能であるが銃では弾丸が発射されたらもう間に合わない。時間に関する余裕が刀と銃では全く違う。

日本でも織田信長、幕末、日清、日露、日米と戦場ではよく銃で戦った。それでも一般的には銃についての知識や常識は僕達には薄い。僕達は刀なら何となく分かる、そういう素養を持っている。

武道には礼がある。この礼は刀の世界から発生していると思われる。柔道の世界大会などで米人や仏人がする礼には違和感がある。どうも礼になっておらず頭を垂れるだけだ。それは強さの違いから来るものではない、相手に対する敬意でもない。オリンピックの金メダリストでさえ日本人の子供の礼とは明らかに違う。

思うに日本人の礼と言うのは、お互いが頭を下げる仕草ではないのである。相手への感謝とか丁寧さでもない。ましてや相手への尊敬でもない。囲碁であれ、将棋、柔道、空手、合気道など礼に始まり礼に終わる全てで礼が違う。

日本人の礼と言うのは頭を下げる儀礼ではない。あれは首を差し出す行為なのだ。昔の武士が切腹の時に頭を差し出す。どうぞ介錯をしてくださいと頭を出す、これは首を切ってもらうためにする。命を差し出すために首を差し出す、その時の介錯する人への気遣い、己が首を斬りやすい形にする、これが礼の形ではないか。これが礼の根本にある姿ではないか。

互いに礼、とは競技者が互いに首を差し出す事だ。誰が、とはお互いに。誰に、は立会人に対して。

立会人に対して、もし私が誤った事をしたと思うのであればどうぞ何時でも首をお跳ね下さい、と言う意思表示が礼という動作である。それが果し合いの覚悟である。途中で不正をしたりルールを破ったのであれば何時でも首を跳ねてください、私にはその覚悟があります、と宣言するのが礼なのだ。立会人に対しても競技者に対してもそう自らが宣告する。

選手宣誓などと言葉にする必要もない、一礼をもって全てに変える。これが刀が生み出しものじゃないかと思う。銃の世界では首を跳ねるという行為は生まれない。ギロチンの中に首を自ら入れる、という行為かも知れないが、ギロチンは人道的な道具であるし覚悟とは少し異なる。銃を相手に預けるとも少し違うかも知れない、何時でも私を撃ち抜いてくれ、というのはどう演出するのだろうか。握手、がそれに近いだろうか。

銃の世界には銃の世界での美意識というものが生み出されており、刀の世界では刀の世界としての美意識を生み出している。僕達の知らない世界で、銃や刀のように文化を生み出したものがある。これらの文化を持ち寄って混じり合って新しい姿が見えてくる、オリンピックもそのひとつだろう。

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