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2024年2月15日木曜日

投票権の帰結

投票権

民主主義国家では投票権がほぼ唯一の権利と言って良い。それ以外の権利は、民主主義国家でなくとも成立するが、投票権の絶対性は他の政体では必ずしも要件にならない。実際、人類の殆どは投票行動なく生きてきた。欲しいものがある場合はそれ以外の手段を用いる事ができた。

民主主義の投票権は別に欲しいものを手にするための手段ではない。しかし手段にも成り得る。つまり投票権はその内容を一切規定しておらず、その使われ方も規制しない。投票権はある。そして、それはひとりひとりが有する。それ以外については、この権利は何も要求しない。

権利について、ある、有する、持つなどと書くと、恐らく権利についての推敲が足りないという想いが強くなる。あると書けばないという仮説が成立する。有すると書けば有さないが成立する、持つと書けば持たないが生まれる。このような状況に落ち込むのは権利とは何かが見えていないからだ。

神でさえ居ると書くと居ないが成立する。言語が持つ否定性に抗う事はできない。否定できないものが存在しないと言う点でこのアルゴリズムは強力である。脳はそのような回路を持っているのだろう。だから言語にその機能を取り込んだと考えらえる。

投票権は必ずしも必要ではない。すると権利は〇×での図表化が可能という事になる。ある場合には×、ある場合には〇という風に取捨選択可能なものになる。

その意味で基本的人権でさえ"ない"と主張する事は可能なのであるが、人類は普遍に基本的人権はあると決めている。原則としてないを認めない。

人権が無いという定義は否定される。この権利は全ての人が有するのが原理だからだ。しかし、侵害はありうる。というか権利は全て侵害されえる。

よって権利の侵害について、本当にそれは侵害であろうかを決定しなければならない。そのための手続きが司法であるが、その結果として裁判官さえ脅迫すればこの世界の価値観は自由に操作できる。この点について憲法は裁判官の良心しか掲げない。

その良心が金になびくならそれを是とする。憲法は人類が如何なる状況に陥ろうが選択の自由を許容する。滅びたければ勝手に滅びるがいい。

権利はあると宣言する。それは全ての人類にかも知れないし、ある市民にだけかも知れない。その定義は人類の自由であり、我々が使用する言語の性質上、どのような定義も可能である。

その可能性の妥当さについては、理解する人もいれば理解できない人もいる。それを誰か一部の人だけで決めていいのか、同じ結論になるにしても、全員の投票が必要ではないか、その権利を投票権は与えている。恐らく唯一の方法である。決める事ができないものを決めるのに、神を持ち出すのか、神の声が聞こえるものを担ぎ出すのか、富ある者に従うのか、権利はその方法を選ばない。

だから投票権の使い方は其々の市民の自由である。その投票権を金で売り払っても構わない。その自由がある。そして投票権を売る者は必ず国家も売り飛ばす。それについて民主主義は沈黙する。禁止する如何なる原理も持たない。民主主義はその内に国を滅亡する仕組みを持つシステムである。

自らの滅亡、自死を内包する事によって、民主主義は投票による政権交代を成立させている。自死と再生をシステム化し、かつて革命と呼ばれたものを社会の中で何度も起こせるようにした。時に王朝の名を変え、時に元号を変える事象が選挙というシステムの中に組み込んだ。

この民主主義の原理原則は革命による国家の滅亡を組み込んだものだから、市民の選択が国売りとなっても許容の範囲である。それを恐れるようでは革命など出来やしない。同様に独裁制の成立も可能である。それも革命の一種であるから。その結果として投票権が失われたとしてもそれは憲法という紙切れに書かれた一文によってしかその不当性を主張できない。だから独裁者は憲法停止と改憲を実行するのである。

ならば権利には正当性が必要なのか。憲法に書かれない権利は消失するものなのか。権利は否定されようが侵害されようが存在はする。否定しも存在しうる事もまた言語の重要な性質である。否定したからと言って存在が消失する訳ではない。

権利は常に全てが無条件無制限に存在するのではないか。これを極限と取れば権利は自由と同値になるはずである。ならば権利は自由が相転移したものでなければならない。

その本質が自由であるから、不自由が可能となる。その点で、不自由の度合いが権利の本質ではないか。それを誰かどこでいつ決めるのか、と言う点を権利は何も既定しない。

権利とは自由に制限を加えたものである。基本的人権も無制限の自由は与えない。基本的人権は自由を制限し他人の基本的人権を尊重する事を要求する。

民主主義

投票権を全ての市民が有するという事は、市民の選択に基づいて決めるという事である。その前提として、多くの人が支持するものは、恐らく大きな可能性で起きる、少しの人しか支持しないものが起きる可能性は小さい、がある。

全員が参加するのだから、多くの人が支持する考えもあれば、小数の人しか支持しない考えもある。この同居を認めるのが民主主義で、これを否定するなら全体主義に至る。その場合は投票する価値はない。

人々の支持率にが将来への正しさと比例すると仮定した時、確率の大きさは必ず起きる事を意味しない。よって、少数意見にはそれが起きなかった時のバックアップの意味合いがあり、民主主義が準備を万端にしておく仕組みである以上は、其々の人がある発生確率に応じて準備を進めておくという事になる。

民主主義は原理上、早急な決断や全体の一致を不得意とする。故に前もって準備しておくのが民主主義の方法論である。準備を進めておくためには、人類は未来を見通せないため、様々な状況を想定しておく方がいい。しかしこれを個人が全て行う事は不可能である。

よって参加する人数は多い程よい。しかも全員が同じなら意味がない。多様な人々がそれぞれの考え方を持ち寄り、未来を拓くために準備をする事が民主政体の基本方針であって、その為に参加すべき人々は大勢が多様であるのが望ましく、それらを排除する事は望ましくない。

差別の根拠は、この準備するという観点から見れば弱体化しかもたらさない。誰かを排除する事はそれだけで準備を怠る事を意味する。それでは民主主義の中に致命的な穴となり、崩れてゆく事になる。民主主義の内側には使われる事なく無駄に終わった準備の残骸が散らばっている。それを記録し後世に残す事が必要だと人々が考える理由でもある。

そういう反応性の遅さは獲得免疫と同様のシステムに見えてくる。即効性としての自然免疫があるように民主主義はそれを多数派によって維持し、小数派によって遅延性の対応を行う。

これらの全てを投票権が担っており、この権利を通じて民主主義は社会と国家を維持し運営する基盤となっている。この権利を誰かに売り渡すのもいい、それを禁止する原理はどこにもない。それが正しいと思うならその行動をすればいい。その結果を民主主義は絶対に非難しない。滅亡を恐れない事がこのシステムの強さだから。

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