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2011年12月7日水曜日

南野陽子

私の中のヴァージニア
20年前に好きだった。
既に通り過ぎたはずの流行歌に今さらまた聞き浸っている。
昔と変わるはずのない音なのにそれでも昔のようには聞こえてこない。

これは僕の方が勝手に変わっているのであって
実在の彼女と何か関係があるはずもない。

昔は恋だと思っていた。
でもそれが今では恋の歌には聞こえない。

そこには恋という一つの出来事と対峙している一人の少女がいる。
恋が全てという人生ではない、恋に出会い戸惑う、悲しみ、その想いを歌う。
そういう女の声だ。

彼女は恋という幻想を演じきれなかった歌手だ。
恋の詩を歌うその背景にある姿まで透かせて見せてしまう。

恋の歌に留まらずそれを歌うスタジオの景色までも思い浮かべさせてしまう。
それは幻想であるにはあまりに近く女性の姿を幻燈する。


花びらの季節(ころ)
これは恋ではない、存在そのものだ。
確かにそれはそこに存在している、
それがどこにもない実態だとしても存在している。

写真の中の彼女のように、
今ここにはいないどこかに消えてしまってもそこにあるもの。

声はそれを如実に出現させる。
恋など歌の表層に過ぎない。
この歌にある懐かしさやどことなく悲しい響きは恋の寂しさではない。

これは人が生まれ落ちたこの地球の悲しさそのものだ。
それは誰もが生れ、生き、そして朽ちてゆくそういう生命のように聞こえる。

それを昔は言霊というのではなかったか。
言葉の魂ではない、楽曲に乗り移り聞こえてくる声に宿った存在感だ。


宝石だと思う~ノエルの丘で~
流行歌というのは、時代とともに消えてゆくのかも知れない。
それでも歌はいつも存在している。

歌謡曲には他の楽曲にはない特有の難しさがある。
その難しさとは歌い手が歌を選ぶ権利を持っていない事だ。
歌手に歌を選ぶ自由はない。

歌が歌手を選ぶ。

曲に選ばれた人でなければ何の価値も持たない。
歌唱力も音楽性も知識も愛情も情熱も何もかも関係なく。
音楽への力も願いも思いも愛さえも全てを拒絶して歌謡曲は存在している。

自分にある全てをぶつけてみようが歌に拒否されたらおしまい。
弱々しかろうが音楽の才能に乏しかろうが音楽への信仰がなくても
曲が微笑みさえすればその者に全てを与える。

選ばれた者には全ての力を与える、それが歌謡曲というものだ。
どのようなオペラ歌手であっても歌謡曲を歌う事は難しい。
曲に選ばれるという点ではどのようなアリアよりも難しい。

歌謡曲とは一つの神託だからだ。


カナリア/秋のIndication
何も歌っても恋の詩になるのが歌謡曲だと思っていた。
しかし彼女の歌はそういう風には聞こえてこない。

恋の歌を歌っている時でもその声が届く先にあるものは
なんというか人間らしい何かだ。
それを優しさとでも言おうか、生きて匂ってくるような女の姿とでも言おうか。

人生とか生き方というような大仰なものでもない。
激しい恋というほどに刹那でもない。

歩いている風景や風のささやきほどに近く
息遣いや表情ほどに親しい。

直ぐそばにいて生きているそんな感じがその吐息から聞こえてくる。
これは録音された音というよりも写し取られた彼女の存在に聞こえる。

彼女はコートを着て北風に吹かれている。
歩きながらそんな景色が目の前にあるかのように聞こえてくる。


フィルムの向こう側
それにしても何故これ程までに流行歌は郷愁を誘うのだろうか。
歌謡曲にあるほろ苦さはどういう音楽の力によるのだろう。

若いときにしか分からない切なさがある。
年を取ってみなければ感じない郷愁がある。

音楽はそれぞれの人に違うものを奏でる。
流行歌は聞く人に違う景色を見せている。

歌は時代を切り取り空、海、春、星を描く。
空気、色、景色、思い出を記憶の隅から映し出す。

ある時代の言葉が歌として声を震わす。
それはある者には街の景色を見せ、
ある者には海の景色を見させ、
また別のある者には帰るべき人の姿を見せる。

そしてその声が消えた時、
誰もがそこにあったものが何かを忘れてしまう。


シンデレラ城への長い道のり
音楽は世界を救いはしない。
人々を孤独にさせてゆく。

イヤホンで世界と隔離し孤独な音の部屋に閉じ込める。
そこで人は何かを忘れ音楽に揺られている。

音楽と対面しているとき僕達は何を見ているのだろうか。
郷愁とは失ってしまった記憶だろうか。
切なさとはこれから来るはずの透明な予感だろうか。

その悲しみは彼女の声と共にやってくる。
その声は彼女の心だと思う。

懐かしいその声はどこかで聞いた誰かの声だ。
子供のようでいて母のようでいて
恋人のようでいて友人のようである。

彼女の声に心を見たのは自分だろう。
それは自分の心に届いた彼女の姿であり
自分の心が描いた彼女の姿でもある。

彼女の足取りは未来へと続く。
音楽は未来に向かってしか流れない。
懐かしさに佇んでいる人を歌は未来へと押し流してゆく。


うつむきかげん
歌を聞けば彼女の体のラインから
その肌の色までが見えてくるような気がする。

そういう実体感というものがあって
これが幻覚であったとしても
この生々しいさはどうだろう。

こういう想像力を喚起するのが彼女の声の魅力だ。
他の何も必要としない彼女の力だ。

声が全ての存在のような歌手だ。
音階に乗せた声だけで他は何もいらない。


リバイバル・シネマに気をつけて
彼女は女ではある。
だが恋や愛などは苦手だろう。
実生活での話をしているのではない。

彼女の歌に恋や愛の表現はどこにもない。
あるのは歌詞にだけであってそういう表現ではない。

彼女が好きという言葉を言うとき
それはエロスよりもアガペーやフィリアに近い。

女としての色恋の感情よりも自然を描写する艶めかしさを感じる。
女の感情よりも女性の心という方により近い。


砂に埋めたSECRET
歌を一つの形にするために多くの人が携わっている。
彼女の声を取り巻く幾つもの楽器やコーラス。

それらを編曲した萩田光雄について僕は詳しく知らない。
それでも彼がこれらの歌の魅力を構築する中心にいた事は間違いない。

幾人もの作詞家や作曲家、演奏者に支えられた上に彼女の声が乗る。
それらは彼女の声を支える舞台装置のように存在する。

この編曲家についてはもっと語られるべきだが
それが奏でる音楽の彩りと心地よさや世界観その上に彼女の声が乗る。

それが一つの歌謡曲として僕の耳に届く。
僕の耳はその楽曲の上で流れる彼女の声から何かを受け取っている。

彼女の声だけではこれほどまでにこの歌を好きにならなかった。
それは間違いないことだ。


すみれになったメモリー
あの頃これらの歌を聞いていた僕は
そこに何かを見ていた。

あの頃に見ていたものが
今も僕の手には入らぬままでいるのか。
だから今でもこの歌を聞いているのか。

僕の心を打ったそれは何であったのか。
この曲を聴く以外の手段で僕はそれを手にすることができるのか。

僕はこれらの曲を聞きながら
手にしたいものがあったはずだ。

音楽で見つけたものを
他の場所でも手に入れようとしたはずだ。

興奮や恋心は音楽だけが表現できるのではない。
だが、未だにこれらの曲の上以外では見つけられないでいる。

この郷愁や懐かしさ嬉しさというものは
音楽以外のどこにもなかったのではないか。

そうだ、音楽を聴きながら欲しいと思っていたものは
その当時から今に至るまで一度として手に入ることはなかった。

音楽は奏でられ人を誘い
そして消えて行ってしまった。
残酷なままに。

音楽でしか手に入らない世界が存在するのか。


White Wall
消えて行ってしまったものの先に何かがあったか。
その先に行ってみてもまた過ぎ去っていく。
ずっと手に入らない何かが奏でられては消えてゆく。

聞こえていた声は今も変わらない。
僕は変わっていないという幻想を抱えたまま
あの日が蘇る。

あれはいつの日の川だったか、海だったか。
空の星だったか。

そう変わらない。
この空を覆う雲が流れて行ってしまっても。
空が空であり続けるように。

波が一つとして同じ形をしていなくとも
海が海であり続けるように。

音楽は昔も今も同じ音を繰り返しながら
今も僕の掌からこぼれ落ちてゆく。

それでも少しだけ立ち止まって
後ろを振り返るようにこの曲が流れている。


曲がり角蜃気楼
声は魂となって通り過ぎてゆく。
肉体をどこかに置いてしまったまま。

南野陽子という少女が
歌を失って既に久しい。

きっと彼女も掌からこぼれた何かを見つけようとしたのだろう。
彼女は歌は失ったかもしれぬが
その声までも失ったわけではないだろう。

場末のような劇場でその声が響く。
その声の響きはきっとシナリオとも演出とも関係なく
彼女の存在そのものを乗せて届いているはずだ。

曲がり角で彼女は新しい道を決めた。
後ろを振り返ることもなく。
僕達に幾つかの歌を残していって。


思いのままに
見た事もない風景を見せてくれる。
それは記憶の中に残る風景を原画にして
新しいキャンバスに描き出されているようだ。

春景色や砂浜の匂い。
図書館の薄明かり、雨の降る歩道。
これらから感じる懐かしさというものがある。

だがそういう空想は弱いものだ。
意味のない音そのものに感じる彼女の存在のほうがずっと強い。
その風景の中に彼女の姿がなければなんの価値があるだろう。

この歌にある悲しみは少女ではいられない未来図だ。
歌はそのままの姿で残るのに歌う本人は未来へと押し流されてゆく。

恐らくこの懐かしさに初恋は無関係ではいられない。
懐かしさとは遠くに過ぎた初恋を思い出そうとしているのかも知れない。

僕は何か大切なことを思い出そうとしているのかも知れない。
だがそれは思い出すには余りに遠い。

こぼれて行ったものは初恋であるとか美しい女性の姿であるとか
忘れていた手紙、記憶を呼び返す心に生み出された風景。
記憶とは常に今作られているのだという事を知る。

僕はこの懐かしさとは決別の事だと思う。
今を生きるから思い出が生まれる。
それはまさに音楽が今ここで流れているという事に等しい。

初恋の水の流るる面影はここにありて遠きにもあり


星降る夜のシンフォニー
まるで小説や詩のような響きを持つ曲がある。

恋でもなく愛でもなく、ましてや人でもなく、
ただ女の声が流れる。

慈しむでもなく憐れむでもなく、ましてや思いやるわけでもなく
ただ満天の星のような景色がその声の向こうに見える。

意味があるわけでも言葉になるわけでもなく、ましてや感動があるわけでもなく
ただ発せられた調べに合わせた女の声が聞こえてくる。

何故だろう、
この曲から夜空の星空が見えるのは。
その星を見る少女が歌うのが見えるのは。

何故だろう、
この歌が遠い過去にあった星の姿には見えず
星達が遠い未来に向けて発したメッセージに聞こえるのは。

何故だろう、
この曲が僕に与えてくれるものは
力強く輝く星が光る今まで見た事のない空であるとは。

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