知識を伝えるだけであれば Power Point で10枚もあれば足りる。
数枚の論文でもこと足りる。
それとは逆にテレビでは詰まらない結論に辿り付くまでの長い間
どうやって人をテレビの前に留めくかの技術の蓄積に長ける。
さてほんの数行で書くことができる結論を
一冊の新書という本にする理由は何だろう。
論理を理解しようとする脅迫観念は強い。
だが論理だけを知りたければ本ではなく
論文を読むべきだろう。
論文は長い時間をかけて生れた一つの文章だ。
それも多くの言語、文化、時代を通じて人々に読まれてきたものだ。
それは小説や詩とまったく変わらない一つの形式だ。
だから論文にはひとつの構造がある。
今の教育では論文に触れるのは大学からであろうが、
小学生、中学生のうちから著名な論文に触れておくのは
有益だろうと思う。
理解するのが教育ではない。
見た事がある、聞いたことがある、
それで十分なものも多くある。
論文も誰もが触れておくべき国語の代表的な形式なのだ。
論文という形式は科学と密接な結び付きを持つが
科学だけの専売特許というわけでもない。
それはともあれ長い間に試行錯誤された形式であるから
その形式には意味も理由も権威もある。
wikipediaによれば論文はIMRADの形式をとるとある。
Introduction(序)
Method(方法)
Result(結果)
And
Discussion(まとめ)
それは再現可能な方法を記載し、データから考察し、そこから結論を記述する。
論文は、結論までに一つの道が通ってなければならず
それ以外の道を丁寧に検証したうえで潰しておくものだろう。
思考の分岐点となる所を洗い出すのが論理とも言えるだろう。
言葉にはそれぞれの表現形式がある。
誰もがそれぞれの表現形式を選ぶ。
目の前の問題や気持ちを伝えるために書こうとする。
生活のためだったり趣味だったり仕事のために。
いや逆だ、そこで選ばれた表現形式に書いた人の思いがある。
そこについてはどれほど深読みしても読み過ぎる事はない。
書いても書いても読んでもらえなかったり
書いた内容もきれいさっぱり忘れられたりしたら作者はがっかりするだろうが、
もし読んで楽しいと言ってもらえればそれは嬉しいことだ。
ましてや二回以上読んでもらえるのであればこの上ない喜びだ。
所でそれは作者の都合であって、それは読者の読む楽しみとは何の関係もない。
有意な知識を得るだけが読書の楽しみではない。
知識を得る以外の目的で読んでも読書というのは面白いはずだ。
本書には翼竜の結論に達するまでの長い間を現代の知識に振り回される。
そこが面白くなかったらとてもタイトルに偽りありなのだが
現代での研究が面白いものだからタイトルのことなど途中で忘れてしまう。
そして現代について十分な経験を積んだうえで著者の本論を聞けば
そこで得心がいくわけである。
巨大翼竜は飛べたのか、作者にその話を聞くためには、
ペンギン、ウミガメ、マンボウ、ヒメウ、ミズナギドリ、アホウドリ
様々な場所へ行き、様々な考察を聞き、作者の後を追い、追体験をしなければならない。
専門家ではないから数式や基本知識を知らなくても構いはしない。
別に採点されるわけでもなく親戚のおじさんくらいに思っていればよい。
作者と一緒にしばらく歩き回っていれば
だいたい彼の言いたいことやその根拠となる考え方は分かってくる。
専門家でなければ理解できない知識はあろうが、
専門家でなければ分からない体験というものは存在しない。
見よう見まねでいつの間にか覚えるのが教育の基本であろうが、
作者の後をおって一緒に歩いていればなんとなく分かってくるものがある。
それが経験というものだろう。
一緒にフィールドに飛び出て歩く必要がなければ
このような新書を書く必要はなかったはずだ。
ただ論文を書けばよい。
勿論、彼とともに実際に野山を歩き回った人には
その論文の内容も、そこで言いたい事もその考え方も良く理解できるだろう。
同様の研究者であれば考えに違いはあろうがそれが見当が付く。
しかしその体験がない人には論文では足りないかも知れない。
だからこの新書は読者を連れて一緒に研究現場を見てもらうように書かれている。
同じ物を見て、同じように疑問を持ち、同じように苦労し、考えてもらうために。
それを体験をするために。
そういう意味では本書は現生動物の行動学の学者が、
古生物学者を連れて自分の研究現場に行く物語なのだ。
ほらこれらの鳥を見てみてよ、
彼らはこういう飛び方をしているんだよ。
古生の翼竜だってそれと違うわけないじゃない。
そうでない我々はそのおこぼれに預かるというわけ。
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