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2011年12月19日月曜日

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー - 押井守

responsibilityはラテン語のrispondereから来た言葉であり、もともとは応答するの意であった。

この応答とは自分の行為を他人に説明することであり、他人からの質問に答えることだろう。
時には詰問され、これに答えることがresponsibilityを果たしたことになる。

そこには自由主義の思想と深い関係があるような気がする。
自由に行動することを許す、それを担保するものが、
その自由な行動について他人に説明することであるとする。

後から説明できることが自由な行動の条件であり
もし説明できないのなら自由な行動は許さない。

自由を勝ち取るとは説明する事、
内容などはどうでもよろしい、説明している事を示さねばならぬ。

犯罪者が病理的理由にその行動の理由を説明できないのなら罰せない、はこの原則に由来する。
精神鑑定が必要なのはこの根幹を調べる必要があるからだ。
それを説明できない者は自由を拘束する、これがresponsibilityの考え方だろうか。

責任を問うとは、説明することに尽きる。
問われた事に責任者は答える義務がある。
そこで答えないのはresponsibilityがないと見做される。

responsibilityを責任と訳したのは西周らしい。

しかしこの考え方では日本語の責任を説明することが出来ない。

責任は古くからある言葉で
【責】は棘のある枝で貝(貨幣)を返せと責め立てる様から生れた字である。
【任】は人が荷物を背負う様子から生れた。

語源通りに解釈すれば苦役を自ら背負うくらいの意味でよいだろう。

責任とは茨を背負い歩く事であった。
それほどの艱難が明治にはあった、
それらを自ら背負い、それにより責めを負う事に成ろうとも背負おうとした人々がいた。
彼らの持っている人間の資質をresponsibilityと訳した。

武士が腹を切ったのは責任を取る為ではない。
この世でやるべき事が無くなったから腹を切った。
切腹は美学に過ぎぬ、おさらばするという決意に責任という概念はない。

いつの間にか腹を切るとは美学から他の目的に変わってしまった。
死んで詫びるという意味に切り替わってしまった。
詰まり相手を納得させることになってしまった。

我々が使う説明とは、説明する行為ではなく、相手を納得させることにある。
いくら説明を繰り返しても相手が納得しない。
そんな時、相手から出る言葉がある。
「責任と取れ」

これは我々が自由主義の責任に生きる者ではない証左であろう。

責任という言葉は次のように使われる。
「責任を与う」
「責任を持つ」
「責任を任す」
「責任の有無」

これらの言葉に共通することは、
責任のもともとの意味が何かが起きてから語られるものではなく
何かを始める前に語られるべきものである、という事だ。

何かを始める前に責任を与える、持つ、任す。
そうであれば、責任とは何かを始める前に発生し
その何かが終わった時点では消滅するのだ。

僕達はこの"責任"という言葉を知ら無過ぎる、
恐らく、戦後の混乱も戦後の欠落も全てこの言葉に集約させていい。

僕たちは先の戦争の"責任"という問題を抱えて未だに出口のない暗闇で迷い続けている。

責任とは何であるか、今でも僕達はその語源の通り棘のある枝を自ら背負い自問を続けている。
これは茨の冠とは違う何かなのだ。

責任と取れという言葉が存在する時、そこには誰にも何も出来ない状況が生まれている。
前にも進めず後ろにも戻れない、それは、戦争の責任と全く同じ構造をして僕達の前に立ちはだかっている。

そうではないのだ。

元来、責任とは取るものではない、執るものである。

責任は未来にしかない。
過去に対して取るべきは説明だ。

だが、僕達はこの言葉を未来に対して使っている。
戻す事のできない命やこの世界について。

失った命を戻すことは出来ない。
責任を取れ。
汚染された大地を前にして。
責任と取れ。

これは神に求める言葉だ。
人は神ではない。
ならば彼らは神への信仰を口にしたことになる。

彼らは怒りという感情を前にしてこういうのである。
責任を取れ。
どうしようもないこの怒りをどうしてくれるのか。
責任を取れ。

この責任を取れと言う言葉は神でなければ即ち腹を切れという意味なのだ。
それは自らの責任を取って死ねという要求に過ぎない。
死ねと言わずに責任と取れという時この言葉の根底に醜さや汚らしさがある。
それに気付かず相手に詰め寄る者は無垢な信仰の所有者だろう。

これは死にゆくものに語る言葉ではない。
生き残る者らが怒りを鎮めるために必要な生贄を希求しているのだ。

責任と取れとは、即ち神を希求する言葉だ。
その根源にあるのは神への助けだ。

我々の時代にも影を落とすあの戦争への怒りは
神によって鎮めるしかない。
説明によるresponsibilityでは解決できないのだ。

だが戦後、我々の世界に神はいない。

責任と取れとは、神のいない世界で敵の神を滅ぼすために語る言葉だ。

彼らは目の前で神を殺して見せよと要求している。
哀しみを慰めるものは、同じ哀しみだけだと考えている。
復讐の連鎖は過去から今の世界へとあちこちにある。

何故にお互いを許しあえないのか。
この世界から神が消えてしまったからではないのか?

信仰のない世界で我々はどうやって許し合えばいいのだろう。
それとも相手の神が滅びるまで責任を問い続けるしかないのだろうか。

誰かの神を殺して見せることは後戻りのできない世界を作り出す。
それを許す神を持たずしてどうして人はお互いを許しあえるだろうか。

夢の世界からこの現実に戻るためにはラッパが鳴り響く必要があった。
ラッパが鳴り響き、世界が瓦解を始める。

哀しみや憎しみが待ち受ける神のいない世界に戻るためには一つの約束が必要だった。

責任とってね

アタルは夢から覚め、鐘が鳴る。

ほんまあの人らと付き合うのは並大抵のことやおまへんで

これは演出家自身のセリフであることに気付く。

そして映画はオープニングを迎える。

観客は席を立ち、映画館を出る。

そこから本当の物語が始まる。

この映画はそれぞれの人のプロローグだったのだ。

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