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2020年3月4日水曜日

ダビデ王とウザ

ダビデ王は契約の箱アークを牛に引かせて運ばせた。ナコンの麦打ち場の前で牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱が落ちないように押さえた。神はウザに対してお怒りになり、ウザを打ち、ウザは契約の箱の傍らで死んだ。

もし神が怒りを発していなければ、ただ不思議にウザが死んだと人々は理解するはずである。そして、その不可思議の意味を知ろうともしなかったはずである。なぜ人々はウザの死に理由を欲したのか。

モーセの出エジプト記、民数記に記述がある。その取り決めを守らなかったからウザは死んだ。ダビデは知る。神の声を聞いたからでも、神の御業を目の当たりにしたからでもない。儀式を中断し、調べてみたら、原因があった。

神が登場したから、ウザの死は途端に不思議な死から理由のある死へと変わった。不思議の代わりに、理由が生まれた。神が何にお怒りになるのか、それを知っておかなければ、次のウザに自分がなる。理不尽な死など御免である。

ウザは地に落ちそうになった箱を落すまいと押さえた。もしウザが押さえていなければ契約の箱は地に落ち割れて砕けて散ったはずである。

そう考えたウザは神の怒りを受ける。彼は咄嗟に手を伸ばす。禁忌を厭わず手を伸ばす。その時、彼の頭の中に神はさっぱり消えていたであろう。箱を落すまいという意識が先にあり、神という存在はなかったのではないか。その刹那、ウザは信仰を持っていなかった。

それは神の箱である。だから決して地には落ちない、そう信じる事が出来なかった事がウザの罪である。もし彼に強い信仰心があったなら、箱を押さえようとはしなかったはずである。

ならば落ちないはずの箱は、なぜ落ちそうになったのか。神はウザを試そうとしたのか。なぜウザをか。それとも何かをダビデに伝えるために、ウザを呼んだのだろうか。

重力も神なら箱も神である。地面も神の一部であろう。ならば箱が地面に落ちて箱が壊れる事の何が神を困らせるだろう。箱が地面に落ちるなど右腕を左に動かしたに等しい。

ウザが箱が支えようとしたのは、箱が壊れたらダビデ王に恥をかかすと思ったからだろう。それは人間の都合である。ならば、ウザは神の怒りに触れる事を知りながら、敢えて、箱を押さえたのかも知れない。王に誤りを伝えるために。

神は生死を司る存在である。そして死は人間にとって不都合な出来事である。契約の箱に触れたから死んだ。それは神の怒りでなくてはならない。神の怒りであるべきだ。神の怒りとしか考えられない。なぜか。怒りならば避けようがある。もしこれが神の祝福なら避けようがないではないか。喜びをもって人に死を与える神をどう受け入れれば良いのか。

私が許した者以外が火に焼かれる事を許さない、と神が話した時、火災の教会から聖書を持ち出そうとして火に焼かれた者は神が許した者か、それとも神に罰せられた者か。神には法則がある。そこに例外などあろうはずがない、神は例外なく人を殺す、ウザの死はそう伝えているようだ。

神はお怒りになった。だからウザの死が理不尽に見える。神を信じるとは、神の御業の正しさを信じる事であって、その理由を信じる事ではない。その怒りの正しさを認める事である。だからウザの死が理不尽であるならばそこには理由がある。理由がなければならない。理由さえあれば、それは理不尽でなくなるから。

なぜ神がお怒りになられたのか。答えは知らない。誰も知っているはずがない。

聖書のどこにも神の声を聞いたとは書かれていない。だからウザの死に神の声を聞いた人はどこにも居なかったはずである。もし居たら書かれたに違いないから。神の怒りを見たり聞いたりした人はどこにも居なかった。ウザの死が神の意図であると知っていた人はどこにも居なかった。

ウザは偶々そのタイミングで死んだ。心臓発作でも起きたのだろう、何ら理不尽ではない。どこにも不思議はない。ただ珍しいだけ。

箱に触れた時にどこかの血管が切れただけの事。それが神の御業であろうと、なかろうと何ら差し支えない。

何の不思議もない出来事に、神という補助線を書き足すと不思議な死になってしまう。神が登場したから事件なのである。神によって理不尽になる。聖書に神の怒りと書かれているから、ウザの死に納得できないのである。

本当の所、それが神の怒りかどうかなど関係ない、神の怒りの正しささえどうでもよい。王が執り行う儀式で起きてはならぬ事が起きたのである。中止にしろ、中断にせよ、明確な理由がいる。ウザの死を整合性をもって説明しなければならない。

そうしなければ王が傷つく。それは神の怒りでなければならなかったのだ。

理由を求める以上、脳は一番近くにあるものを手繰り寄せる。これを説明するのに、神以外の説明よりも相応しいものがあるか。神の怒りであろうが、なかろうが、この不吉を説明するのに、神の怒り以外の何があるか。それ以外の理由を誰も知らなかった。

ウザは神の法を破ったから死んだのではない。神の定めたルールを人間が破れるはずがない。ウザは神の法に則って死んだのだ。その神の法とは何か。探せば見つかるものである。

神の怒りも、神の存在も関係なく、人々はこの逸話から如何に死を避けるべきか、法の存在を知る。それに則ってやり直せば上手く成功するではないか。ウザのようには死にたくない、法が存在する証拠である。

人は小麦に等しいとキリストが述べるまでは。

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