なんとなくだが、たなか亜希夫の絵に似ている。それが線の細さなのか、タッチの質なのか、デッサン、造形にあるのかは分からない。ただなんとなくであって、作品に流れる空気の淀みのようなものは全く違うように思われる。
登場人物が結局は『よい人』であることが漫画の肝で、それは人間が群れる生物である限り、どれほど救いようのない作品であっても、揺るぐまい。
充足感のある漫画には必ず印象深い噛みごたえのあるキャラクターが登場する。そのキャラクターとの交友が漫画を読む意味でさえある。朋遠方にありとはそういう意味である。遠さは距離だけではない。架空世界とこの世界の間の距離でもある。
二巻で八郎の実父秀業が病に倒れる。ここで HUNTER×HUNTER のネテロかと錯視してしまう絵の印象が素晴らしい。あとがきにはノロウイルスの体験が書かれている。それを敷衍するなら冨樫義博もまた同様の体験をしたのであろうか。
「ひらひら 国芳一門浮世譚」の表紙は月岡芳年か。この人の絵は止め絵だと思う。それがコマの中に連続して描写されている。そして時間が進む。これは動画なのである。
現在の僕たちは江戸時代の絵師について知らなさすぎる。彼らの構図、独創性、描写。彼らの意図に近づくには、西洋絵画を見慣れた目では不十分で、やはり漫画で眼力を鍛える必要がある。
浮世絵師たちはどうもアニメーションをしたかったんじゃないか。その絵を動きの中の一枚として捉えれば、これは原画だと感じる。ただ動けば十分ではなく、流れの中で見得を切る瞬間がある。その一枚絵としての瞬間。この見得を切るという系譜の中に、第二巻の表紙があるように思う。
見得というのはポーズでもなければ、決め台詞でもない。劇中の見せ場でさえない。見得とは人間の力で時間を停止させる試みだ。全員の時間が止まるならば、それは世界が死んだという事になる。
ならば見得とはこの世界を一回滅ぼしてしまう事である。そこから再生が始まる。だから見得だけならそう難しくはない。その後に生を呼び覚ますことが肝心となる。この1秒の間に起きる死と再生が見得ではないか。
幕末は狂気の中で死ななくてもいい人間がたくさん死んだ。なぜ幕府側なのだという感想は、陽だまりの樹の時にも感じた。それ以来、どうも明治の終わりや大正まで生き延びた人の話にはほっとする。人間は生き残るべきだ。生き残る方が絶対にいい。幕末からでは想像できない未来がいっぱいあるのだもの。
@see遊撃隊・伊庭八郎: 今日は何の日?徒然日記
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