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2016年1月16日土曜日

フラジャイル - 恵三朗, 草水敏

テレビドラマでやるので広島駅で第1巻を購入した。東京に着くまでに全巻買うと決めた。上野駅で4巻まで買い、読み進めたが面白さに疑いない。

ドラマはドクターハウスの影響があるように思えるが、マンガはどちらかといえば「獣医ドリトル」に似ている。偏屈な医者とひよっこが織り成す。絵が違うので、ふたつの漫画に同じ色は感じられない。それぞれが別のものとして成立しているように見える。

この漫画で始めて病理学の具体性を知った。そういう仕組みを教えてくれただけでもこの漫画には価値がある。偏屈な医者を主役に据えると話さないし動かない。だからこんな主人公ではドラマが成立しない。

そこで読者の視点を肩代わりするキャラクターが必要になる。シャーロックホームズにおけるワトソンである。本作は三人の人間を中心にドラマを回す。人数が増えた分、主人公の印象は弱くなるが、それはソリストとしての際立ちよりも、三重奏に重きを置いた感じである。医療ドラマの主人公は大抵が変人である。これはブラックジャックの影響もある。

技術が重要な役割をもつドラマでは、その技術を多くの視聴者は知らない。そのため、技術がドラマの中で重要な意味を持つためには、その前に人間ドラマを際立たせておく必要がある、そして人間ドラマを通じて技術が説明されてゆく。

読者が知らないのだから、初めて会う人は偏屈である方が説得力を得やすい。キャラクターの偏屈さとよく知られていない技術とが脳の奥で結びつく。キャラクターへの距離と技術への距離は等しく遠い。

最近の邦画やドラマは、マンガ的なキャラクターが多くなった。漫画がドラマの演技を規定する。現実にはいない人間をどうすれば現実の中に持ち込めるか。マンガ的なキャラクターをどう演出し演技し撮影すればよいか。新しい演劇論が生まれる。

もともと漫画は絵空事である。だから子供の読み物であり、昔の人はポンチ絵とよんだ。現実との乖離、現実離れした空想、もちろん、兄貴、のらくろは俺の分身だという義弟の告白を聞き自分の迂闊さを感じた人もいた。荒唐無稽は漫画の魅力である。CGはリアリティを変えた。アベンジャーズを見て荒唐無稽という人はいない。

漫画の中に人間の可能性を見いだすこと、表現の可能性を拡張したのは手塚治虫と同時代の人々である。漫画は絵空事かも知れないが、まだ誰も手を付けていない荒野であった。

彼/彼女らが開拓した漫画は架空だろうが、読者はそう感じない。あれこそが現実である。現実の人間ではないかも知れない。だがドストエフスキーが描いた人物を実存すると思えるのと同様に、漫画のキャラクターも実存した。

インターネットの向こう側にいる人間よりも、物語のキャラクターの方に親近感を感じる。現実という理由だけでは実存とは言えない。お前にはキャラクターがない。漫画の中のキャラよりも劣る存在感とは何だ。他人であれ、自分であれ。存在とは何だ。孤独から抜け出そうとナイフを手にした人もいた。

現実を誇張(デフォルメ)するマンガ、歌舞伎、狂言等々から実写への流れ。作品の中に人間がいるなら、それを実写でも表現してみたい、と思うのは自然な欲求だろう。マンガにしか存在しないキャラクターなどありえない。ならば絵空事ではない。そこに共感があるなら、舞台は選ばない。

インターネットの中ではキャラクターでなければならぬ。テレビで生きる人は自分のキャラを立てて勝負する。それはイメージだけではない。イメージを伴いつつ、レスポンスする。レスポンスがイメージを更新する。それがキャラだ。ならばキャラとは歴史か。

うまくレスポンスすればAIと人間の区別は誰にもつかない。人間というキャラクターがある。キャラクターであるならば人間である必要さえない。

キムタクはキムタクを演じている。女優は女優を演じている。AKBという集団もキャラクターである。キャラクターにも文法がある。歴史を持ちレスポンスするものがキャラクターである。人間はどんな存在にも実存を見いだす。

バイクのエンジン音が人の声と同じに聞こえる。自然の木々に何かを感じる。人間は生命を見いだす。孤独だからではない。ディズニーランドが極めて巧妙に現実から浮遊し、人間をキャラクターとする空間を作った。幻想と現実に区別はない。2000年前の人が我々の文明を見たら荒唐無稽と感じるだろう。

キャラクターだけが必要だ。

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