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2016年1月17日日曜日

あしゅら男爵の最期

沈みゆく海底要塞サルードは火に包まれていた。

あちこち破壊され浸水も激しい。作戦室にも浸水は始まっていた。辺りは火に包まれ煙が充満している。

非常灯が煙の中で点滅し薄暗く倒れた兵士たちの死体が浮いていた。水は兵士たちの血に染まり赤かったに違いない。ブーンと生き残った健在な装置だけがまだその役割を果たそうと働いていた。

「ここまでか。」

朦朧と立ち上がったあしゅら男爵はそう呟いた。

彼の脳裏には遠い昔の光景がよみがえっていた。

「わしらは前もこのように火に焼かれそうになったことがあったな。」

「そうだ、わたしは前にもこのような戦火の中にいた気がする。」

ふたりはお互いが夫婦であった遠いミケーネの時代を思い出していた。

「あ、そうだ。わしはいま思い出した。」

「ああ、そうだ、わたしはいま思い返した。」

「おまえはわしの妻であった。」

「おまえは美しくかわいいわしの妻であった。」

「確かにわたしたちは夫婦と呼ばれるものであった。」

「しかし、わたしは今はっきりと思い返したのだ。」

「わたしの心は一度たりとてお前の妻であったことなどないことを。」

「わたしはいまおぞましさに打ち震えている。わたしがお前に妻として抱かれていたことを。」

「わたしは世界で最も悲しい存在だったのだ!」

「なんと、それでおまえはわしにああいう態度であったのか。そうか、おまえの本心を初めてその口から聞いたぞ。」

「だがわしはおまえを心の底から愛していた。それはおまえも知っていたのだと思っていた。」

「果たして、あれが愛と呼べるものか。」

「奴隷として売られそうになっているおまえを引き取ったのはこのわしではないか。」

「わしは感謝こそされ恨まれているとは思わなかったぞ。」

「わたしは、お前がわたしの体に触れるたびに、おぞましい虫に体を這われる方がましだと思っていた。」

「わたしは、お前の唇がわたしに触れるたびに、ヒルに食いつかれる方がましだと思っていた。」

「わたしは、お前の腕に抱かれるくらいならば。蛇に巻き付かれて命を絶える方がどれほどましか。」

「わたしにとって、お前が愛とよぶ毎日の凌辱に耐えるだけの日々だったのだ。」

「わたしはただお前をいつか殺してやると、それだけを思い生きていたのだ。ああ。」

「そうだ、夫であるお前は加害者であり、妻であるわたしは被害者だった。」

「いや、いま思い出した。そうだわしはおまえを愛していた。そうだ、おまえはわしを愛してなどいなかった。」

「ああ、そうだ。わしはそれに耐えられなくなり酒に溺れた。だから、わしは次第におまえを殴るように変わったのだった。」

「わたしはその暴力と辱めの中に生きていた。」

「だが、わたしはお前に心を奪われたことなどなかった。刹那の間さえ。それだけがわたしの誇りだったのだ。」

「わしは悲しい、なぜおまえは一度もわしを愛さなかった。最初から。ほんの数日、いや数時間、たった数秒でさえ。」

「なぜそうもおまえはわしを毛嫌いするのだ。わしがおまえに何かしたのか。わしが斯様にも醜いからか。」

「そうではない。お前の醜さなどわたしは気にしない。」

「お前は忘れているのだ。」

「わたしの国に攻め込み、わたしの夫を殺し、わたしの目の前でわたしの子を犯したことを。」

「わたしの目がお前の顔を一日たりとて忘れるとでも思うのか。」

「ああああ。そうか、そういうことか。」

「そうだ、お前はその罪によって永遠に身を滅ぼされるがいい。それこそがわたしの本当の願いだ。」

「この世界の誰一人としてわたしを救おうとはしなかった。そんな世界は滅びてゆくべきだ!」

「いや。いいや、そうなのか。わしはいま初めて真実を知ったぞ。」

「そうではない。おまえは誤解しているのだ。」

「おまえをそこまでひどい目に合わせたのはわしではない。それはわしではないのだ。」

「なにを今さらのことをいうのか。このわたしがお前のその顔を見間違えるとでも思っているのか。」

「そうだ。おまえがそう見間違えるのも仕方はない。」

「いまさらそのような言い訳が通用するとでも思っているのか。」

「そうか、わしはそれを信じろとは言わぬ。しかしお前に語っておく。ことの真相は語っておく。」

「真相であると?ここに至りお前はまだそうやって自分を誤魔化そうとするのか。」

「お前はそうやって常に逃げ続けてきたのではないか。」

「よいか、聞け。信じようが信じまいが、それはわしとは関係ない話だ。しかし、わしはこれをお前に話しておく。」

「ええい、わたしはお前の戯言を聞くものか。」

「それでも聞け、こうしてわれらは一体でいるのだ。おまえは聞くことから逃れられはせぬ。」

「よいか、誓ってそれはわしではないのだ。」

「その残虐な行いをしたのは断じてわしではない。」

「なにを、お前と同じ顔、同じ声、お前意外の誰だというのだ。」

「ミケーネの暗黒猛将。わしの叔父だ。そうお前の国を攻めたのはわしの叔父だ。」

「なにを、ミケーネの暗黒猛将とはお主のことではないか。それ以外の猛将など聞いたことがない。」

「そうだ、おまえと出会った時には既にわしが暗黒猛将であった。」

「なぜなら叔父上はあの戦争で戦死したからだ。」

「どういうことなのだ。」

「わしは叔父上の影武者となるよう育てられたのだ。顔も声も身振りもすべて叔父上の替え玉となるために生まれてきたのだ。」

「わしが暗黒猛将を引き継いだのだ。戦死した叔父上に変わりわしが暗黒猛将となったのだ。だからおまえが知らぬのも当然だ。」

「ええい、信じられぬ。なぜお前と叔父がそこまで似ておるのだ。」

「わしの顔は叔父上と似るよう手術を受けておる。」

「ふふふ、醜いであろう。わしでさえわしの本当の顔など忘れておる。」

「ではあれはお前ではなかったと言うのか。」

「そうだ、わしはあの戦争には行っておらぬ。おまえを苦しめたのはこのわしではない。」

「もしこの言葉に疑いがあるなら、おまえの剣でこのわしの心ノ臓を突け。」

「知らなかった、わたしは何も知らなかったぞ。」

彼女は呆然とした。その目には知らぬうちに涙が溢れていた。

「妻であるわたしが加害者であり、夫であるお前が被害者だったのか。」

「いいや、それでも妻であるおまえが被害者であり、夫であるわしが加害者だったのだ。」

「おまえをここまで苦しめていたことに気づかぬ愚かな夫であった。」

「きっと、わしはこれを伝えるために生きてきたのだ。ミケーネ神はそのためにドクターヘル様を使い私を蘇らせたに違いない。」

「この世界の女たちは誰一人としてわしを愛しはしなかった。そのような世界は滅びても構わぬ!そう思って生きてきた。」

「だが、わしには愛する者が居た。」

「そうか、おまえは最初はわたしを救おうとしてくれたのか。」

「おまえはわたしを救おうと懸命であったのだな。」

「だがわしは自分の弱さが許せぬ。おまえを殴ってばかりいた日々が確かにあったのだから。」

「わしの弱さを許してくれ。おまえの憎しみを癒すためなら、この身が業火に焼かれても構わぬ。」

「そう焦らぬとも良いではないか。我々はもうじきサルードの業火に焼かれるのだ。だが、」

「わたしは知らなかった。おまえが常にこのわたしの傍にいてくれたことを。」

ふたりの目には涙が流れていた。その流れが最後まで止まることはなかったであろう。

「わしは知らなかった。こんなにも長い間おまえを苦しめていたことを。」

「わたしは知らなかった。こんなにも長い間おまえを苦しめていたことを。」

「わたしはいま初めておまえの妻になれる気がする。」

「わしは初めてお前の夫となれるのか。ならばこの業火さえわれらを祝福しようぞ。」

あしゅら男爵は立ち上がった。最後の力を振り絞っている。

ふたりの喜びの声が指令室の中で響いた。

ゆっくりと沈む海底要塞サルードは突然に大爆発を起こした。

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