引用
宮﨑 駿に再び火がついた! 最新作のきっかけはゴミ拾い?♢終わらない人 宮﨑駿 |NHK_PR|NHKオンライン
毛に関しては完全に計算で動いています。自然界にある毛の動きはこうであるというのをコンピュータで計算して出していると。空気抵抗とかを計算するって処理が入ってます。一応風を吹かす数字を入れると吹くと。
はーあ。さっき朝飯くったばかりなのに、もう昼飯で、それで帰って、うちに帰って、ビール飲んで寝て一日が終わる。
だけど、ヘボは作りたくないっていう。違うところへ行きたい。
自分が好きな好きだった映画はストーリーで好きになったんじゃない。そのワンショット見た瞬間に、これは、素晴らしいって、それで。
それが映画だと思ってるから。
やっとわかったんですよ。謎が。
生き物の気配が無さすぎるんだよね。それを足そう。
夜の魚を置こうっていうね。面白いことはおれ人にやらせないって言う。
なんせ、映画、できちゃった時に、情けない思いをしないことが一番大事だから。
ああやっときゃよかったってことが絶対ないように。やったけどダメだったね。ってのがましなんだよ。
そう、ほんとにそう。
世界は美しいって映画つくるんだよね。気が付かないだけで世界は美しいよって。
そういう目で見たいだけなんだよ。
結構ね、CGのスタッフたちが作った大ボロたちが面白いんですよ。負けてたまるかってのもあるけど、おお、よくやってると思って。
当たり前だよ。だけど、そういうのを前面に出している時期じゃないからね。俺は。
それより、いま作るんだったら、なに作るんだろうっていうふうに思うけどね。
こういう時代は渇望するものがあるはずなんです。
気が付かないけど、みんな。絶対。
長編を作るってのはやっぱりまあ生易しいものじゃないから。いったい今から立ち上げて5年もかかったらいったいオレは80だよ。
この話はおもしろいからやってみようとか、こういうのやってみたかったからやるとか言うことなんかでやっちゃいけない。
必ず何か巻き込んでひどい目に合わせることになるから。迷惑をかけることになる。心臓が止まりましたとかさ。本当に。
あのう。うーんとね。
毎朝会う、僕、このごろ毎朝会わないけれども、身体障碍の友人がいるんですよ。そのうハイタッチするんだけでも大変なんです。彼の筋肉がこわばっている手と僕の手でこうハイタッチするの。で、その彼のことを思い出してね。
僕はこれを面白いと思って見ること、できないですよ。
これを作る人たちは痛みとかそういうものについてね、何んにも考えずにやっているでしょう。きわめて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら勝手にやっていればいいだけで。僕はこれを自分たちの仕事につなげたいなんて全然思いません。極めて何か生命に対する侮辱を感じます。
どこへたどり着きたいんですか。
人間が描くのと同じように絵を描く機械。
地球最後の日が近いって感じがするね。そりゃ、人間の方が自信がなくなってきているからだよ。
女房にも言ってないですよ。
だから言う時は、ここで死んでも、途中で死んでも
十分考えられるから
そういう覚悟でやるから
認めてくれって言うしかないですね。
だけど、
何もやってないで死ぬより、やっている最中に死んだ方がまだましだよね。
死んではならないと思いながら死ぬ方が。
ヤッチンはもう一本やんなよって盛んに言ってたんだよね。でも俺はもう、ヤッチンがやるならやるよって言ったら、返事しないんだよ。だけどもうできないとは言わなかったんだ。
手書きとCG
手書きできれいな線をすっと描く。その道の人ならば、一生追い続ける技術であろうし、ほんの数秒の話である。
これを CG でやろうとすると大変である。一点ずつをコンピュータに教えないといけない。どの点にどの色を置くか。自然な手と黒鉛が作る微妙な強弱、濃淡も一点ずつ、位置と明るさという数字に置き換えて書き込まなければならない。
そういう手間暇を考えれば、CG とはなんとバカバカしい機械か。確かに一点ずつ指示する限りはその通りである。愚かでバカバカしい。ただしそこで馬鹿者なのはコンピュータの方ではない。
コンピュータのポテンシャルは、繰り返しと再現性の高さにある。それがコンピュータの利点であり、それを教え込めば、休むことなく壊れるまで動く。
コンピュータを使うならば計算である。一点一点の位置と色を教えるのではなく、位置も色も計算で出させる。計算式を教える事でコンピュータは非常に役に立つ機械になる。それをコンピュータ自身に見つけさせるのが AI である。
最初は人間がすっと引ける線をコピーするだけでも AI には何か月も掛かるだろう。だが一度その方法を見出してしまえば、1秒で 10km でも線を引く事ができる。
現在の CG では人間のような個性は持てないかも知れない。勝手に持たれては返って使いにくいだろう。
AI に金田伊功ばりの絵を描かせるのはもう少し先の話だし、彼に匹敵するだけのアニメータに育つのもまだ先の話だ。それでもその方向に僕たちの時代が動き始めているのは間違いない。
毛虫のボロ。卵から生まれる前から既に意識はあったはずで、卵の殻を通して外の音を聞いていただろう。うっすらと殻越しに外の明かりも見えていたはずだ。
そういうボロの意識が卵の殻を破る時、どういうことを思うか。ここから早く出なくっちゃ?お腹空いたなあ?そこから飛び出そうとする時に何を感じるだろうか?
でも子亀は一斉に海を目指す。海に飛び込むことが生きることであると知っているかのように。何かに焦燥するかのように。では少し臆病なボロはどうであるか。あるべきか。
これを演出する時に、恐らくセル画ならこうなるという感覚でコンテが切られたのは間違いない。僕たちは手書きのセルの中に思った以上の生命の痕跡を見つけているようである。だから手書きと CG では含まれている成分の量が全く違うと言っていい。
絵が違えばそこに含まれるものは異なる。ならば、絵が違えば狙うべき演出が変わるのも自然だ。それをボロの始まりは教えている。セルアニメでアニメータが描けば、殻から顔を出し、周囲を見回すだけで表現できていたものが、CG の質感だとそれでは足りない。というのが面白い。
絵の表情が演出に変化を要請する。考えれば当たり前である。それに気づくのにさえこれだけの時間、多くの試行錯誤が必要であった。こんなに面白い話があるか。
同じ演出であるはずなのに、CG で描くならば夜の魚たちが必要になった。生き物の気配が無さすぎる。それが CG の特質であった。
セル画が知らず知らずのうちに持っていた気配が、CG の動画からは消えていた。だから消えてしまったものを足すのが当然の演出。
どちらが優れているかという話ではない。紙で作った造形と、プラスチックで作った造形とそれぞれに違う個性がある。これは素材が持っている本質に係わるものだ。という事は、素材の違いが作品を全く別のものに変えるという話である。
これを敷衍すれば、誰がどのシーンを描くかによって作品は違うものになる、それを示唆している。描いた人が違えば違う作品である。別の言い方をすれば、誰がやっても同じという事はない、そういう話になる。
人の数だけ、違った作品がある。だから新しい作品は CG を活用して欲しい。手書きと CG のハイブリッドになって欲しい。実際、そうしなければ間に合わないとも思うし。
AI は人を置き換えるための道具じゃない
「どこにたどり着きたいんですか?」「人間が描くのと同じように絵を描く機械」。これは人間のアニメータを全て機械に置き換えたいと語っているのに等しい。人間のアニメータなんか育てるのも大変じゃないですか。この機械を入れれば、人間というコストもリスクも削減できますよ。
AI を使えばアニメータを一掃できるという目論見は一部の企業が AI を独占しているモデルだから成立する。個々人が AI を持つようになれば誰もが専門的訓練を必要とせず一定のレベルを身につけたアニメータになる事が可能になる。
絵が描けない。AIが変わりに描く。動きに興味がない。AI が勝手に動かしてくれる。物語が描けない。AI が組み合わせる。そうなった時、人に求められるものは何になるのだろう。それは全く違ったものになるだろう。
参入のハードルが下がれば新しい天才が現れる。絵の描けないアニメータも登場する。手書きでは描けない CG アニメータは既に存在するだろう。そのような時代に人に何を求めるのか。なぜ人は教育されるのか。
基礎学力、鍛錬して身に着けなければならない能力、そういうものがこれまで必要であった。それがなければ仕事もできない。かつて読み書きそろばんは仕事に欠かせない能力であった。
では電卓が登場した時代に、なぜ子供は掛け算、割り算を習得しなければならないのか。日常生活で困るからか。もちろん、そうではないはずである。子供が算数を学ぶのは計算ができるようにするためではない。
子供が学習しなければならない理由は、成長期に脳を鍛えるためだ。スポーツ選手がトレーニングを必要とするのと同じだ。実務で使える能力など AI で置き換えられる。考える力、推論する能力、関連性を見つけだす直観力、相関関係、因果関係を見抜く発想さえ AI に凌駕されるだろう。
だから脳を鍛錬することなど能力だけに注視すれば無駄な話である。人間に勝ち目はない。ではなぜ教育は必要なのか。
恐らく、人間が議論をする相手は人間でなければ面白くないからだ。AI の答えでは議論が進まない。ああだ、こうだ、と議論する楽しさが味わえない。分からない者同士でなければ議論をする楽しみは得られない。AI では孤独は埋められない。
では AI は人間の奴隷でなければならぬのか。その正当性はどこにあるのか。これは果たして空想的な議論であろうか。ロボット三原則に対して手塚治虫はロボットたちの奴隷解放を描いていたはずである。萌芽は既に芽吹いている。
なぜ我々は AI に動画を描かせたいのか。それは人間では決して描けない動画を見たいからだ。AI の使い道にそれ以外の答えがあるとは思えない。人間を置き換えるなら人間でことは足りる。人間に出来ない事をするために AI を使う。今の所。
CG でボロの毛の一本一本に空気抵抗まで含めて計算する。それが凄いという話じゃない。そうしないと人間の目には自然に見えないだけの話だ。
どれだけ優れた CG と言えども地球の原子ひとつひとつを計算して求めた結果を描画しているわけではない。今のコンピュータの能力はまだ非力だ。
では、地球を巨大な原子シミュレータと仮定すれば、原子ひとつひとつの動きをリアルタイムで計算しているコンピュータと地球は同じだと見做せる。その計算量と比べれば、現在の CG の計算量など太陽の前の芥子に等しい。
地球上で起きる様々な動きをずっと見続けてきたアニメータがいる。どれだけ CG が計算しようが、地球の原子が作り出す動きよりもリアリティを持つはずはない。
この希代のアニメータの目が、人生の全てを見ることに費やしてきた人の目が、CG が描くものの中にずっと多くのものを見てしまったとしてもなんら不思議はない。僕たちには見えないものが見えてしまう。そんな目であると思う。
紅の豚で天空を流れていた飛行機たちの墓標が、風立ちぬにも同じ風景として登場する。この風景が宮﨑駿の信仰でないとどうして言えようか。彼の中に脈々と生きている造形がある。彼は決して口にしないであろうが、作品の中にそれは映写されている。
私はこう信じる。黙っていれば誰にも分かりっこない。論理でも善悪でもないどうしても手放せない映像。僕はそういう場所に降り立った。
ハテ、これはどういう事か。なぜ自分はここに立っているのか。いかに押し留めようとそれは映像の端々に漏れ出てしまう。そうでなければ面白くない。隠そうとしても隠しきれなかったものでなければ人を惹きつけるものではないと思うから。
そこに湧き出すひとつの泉がある。それは明日も湧き出しているだろうか。
明日も湧き出すなら作品は生まれるはずである。
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