この漫画のドキュメンタリー性に引き込まれる。テレビで流れるドキュメンタリーの一年分よりもこの一冊の方が価値があるのではと思うくらいに。
音のない世界をシーンと表現する発明に匹敵すると思う。この漫画にある聴覚障害の表現は。音のない世界を音で表現する。聴覚障害を音で表現する。これだけ見事に表現しえたのは漫画であったからだ、と思うのは傲慢であろうか。
漫画は情報伝達に優れている。それは流れ(ネーム)で説明するからだと思うのだが、美味しんぼが古い情報を新しい情報で上書きするパターンだけであれだけ面白くしているのは流れが優れているからだろう。既知の情報をどう上書きするか、これが面白さの本質かも知れない。
耳鳴りや補聴器を使っても聞こえない表現を擬音や吹き出しを重ねて描く。吹き出しを幾重にも cascade する手法なら以前からあった。手塚治虫が既にやっているだろうし、手塚がやっていなくても誰かがやっている。
だが、騒音で聞こえないのと、聴覚障害で聞こえない事の違いがこうも見事に表現されたのを読むと、障碍者の置かれた苦労に圧倒される。聴覚障害とは音が聞こえないとか、聞きづらいではない。聞こえる者にはあくまで想像に過ぎないけれど、知らないよりはずっといいと思う。
と、ここで立ち止まる。本当に知る方が良いと言えるのか。ならば無関心と偏見ではどちらが望ましいか。無関心であれば、手を差し伸べない代わりに、苦しめもしない。苦しめるくらいなら知らないままの方がいい。本当にそうか。とまれ、知ってしまったなら仕方がない。それを昔の人はパンドラの箱と呼んだ。
聴覚障碍者も音は聞えている。それに驚いた。少し考えれば当たり前の事でさえ、無関心は盲目である。今の社会から障碍者が消えたのではない。狐や狸と同様に暮らしている姿を見かけないだけだ。
あのう、テレビや何かで言うでしょう。開発が進んで、キツネやタヌキが姿を消したって。あれ やめてもらえません?そりゃ確かに狐や狸は化けて姿を消せるのも居るけど…
でも、ウサギやイタチはどうですか?自分で姿を消せます?
平成狸合戦ぽんぽこ
聴覚障害者は気付かれにくい。僕たちは目が見えなくなる恐怖を想像する事はあっても、耳が聞こえなくなる恐怖を想像する事はない。
どちらをより無意識に処理しているかの違いであろう。脳の情報処理は視覚が中心である。だから視覚が意識されやすいのは理解できる。だが他の感覚がないわけではない。それらは無意識で処理されている。
だから、どれだけ音に頼っているかを我々が忘れがちだ。という事は、それだけ根源的な能力という事だ。意識しなくても処理できるまで自動化を進めたからである。誰も消化液の出し方など知らないが、病気でもない限り、苦労なく消化しているのと同じだ。
だから我々は意識的に周囲の音を遮断する。歩きながら、駅で、音楽を聴く。音のある世界も孤独なのだろう。音のない世界も孤独なのだろう。音楽で音を埋めてゆく。
街に出れば、スマホを覗き込んでは笑っている。何かと何かを結び付けているらしい。何もない(ように見える)空間に向かってアクションをする。以前ならば幻想でも見ているのかと思われた風景も、今では AR (Augmented Reality) と理解している。そこに何の不思議もない。
知らない言葉を話す人の中に居れば疎外感を感じるし、同じ話題で盛り上がれないのも悲しい。手話でもチャットでも同様である。生まれた時から音の聞こえない人には周囲の人が口をパクパクする姿がなかなか理解できなかっただろう。ヘレンケラーはそれを見ることもなかった。それでも彼女は言語を獲得した。
日本の障碍者への対応は世界でも遅れている方である。それは想像に難くない。厚生省の管轄だから、当然と言えば当然である。逆に厚生省が世界でも最も先進的であったら驚愕する。
佐村河内守の騒ぎは音楽にスポットを当てたが聴覚障害はフォーカスされなかった。もしこの騒動がなければこの漫画の在り方も随分と変わったであろう。FAKE (映画) と時期が重なった事が更にこの漫画を面白くしそうだ。タイミングが良い。
ここで重要な事は佐村河内守の音楽の話ではない。多くの人が障碍者に騙されたと思っている点にある。音楽に感動したのか、障害に感動したのか区別が付かなくなった点にある。
私たちは他人の障害をどうしても理解できない。障碍者であろうが、健常者であろうが、他人の苦悩は理解できない。それはあくまでも個人的な体験だからだ。だから、寄り添う事でしかできない。
その寄り添う心を利用されたのだ。だからその詐欺性を非難した。では音楽への感動とは何であったのか。あれは音楽に感動したのか。それとも障害に感動したのか。
僕たちは聞こえなくなる程、聞こえた振りが上手くなる。
障碍者の友人が「おれ、お前が耳悪いの知っていて」と肩を震わせるシーンがある。これこそ第一巻のクライマックスだ。このシーンにたどり着けたなら、もう何もいらない。全てはこのページをめくるための長い序章であった。
この何気ない会話の中に幾重にも重なった人間がいる。難聴者を友人に持つ事、それでも障害の詳細は知りえない事、そして人間は障害など関係なく互いに慈しみ合えること。
作品に価値というものが本当にあるならば、作者などどうでもいい。犯罪者であろうが、剽窃であろうが。誰かが作った作品など幻想である、そう思っておけばいい。天空の城ラピュタは宮崎駿の映画であるが、鳩を描いたのは二木真希子である。
ヴェロッキオの作品には自身がほどんど加わっていないものがある。彼の名前とは工房の名前と同じである。作者など抽象概念で構わない。誰が作者であろうと、作品の価値は何も変わらない。そう信じる。
本当にそうか。我々の脳は作者と作品を本当に切り離して考えることが出来るものか。脳の中で結びついたふたつの情報をそう簡単に切り離せるか。意識がそれを許しても無意識はどうなっている。
僕たちは本当に何も知らない。
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