stylesheet

2015年12月1日火曜日

歴史は「べき乗則」で動く - マーク・ブキャナン

Ubiquity - The Science of History... Or Why World is Simpler Than We Think
(偏在すること - 歴史の科学...または世界はなぜ我々が考えるよりもずっと単純なのか)

巨大な山の斜面に落ちるたった一粒の砂が、突如と山を大崩落させる。そこにはある法則が潜んでいる。

地震の予測が難しいのは、マッチ棒がどこで折れるかを特定するのが難しいのと同じだ。ある一定以上の力を加えれば折れる事は分かっている、だが一体どの場所でいつ折れるか。その都度、条件はさまざまである。だいたいこの辺りというまでは出来る。だが、ピタリと当てるのは難しい。

全てのデータが揃えば可能である。地殻だけでなく一粒一粒の砂、岩石と岩石の摩擦、水、大気、温度それら全ての関係を、原子、分子レベルまで再現できれば計算は可能なはずだ。それでも合わないなら、量子力学まで考慮すればいい。確率も入ってくるだろうが、そこまでするなら、地球と全く同じものをもう一つ造るのとあまり変わらない。

M9の地震を予測することは M1 の地震を予測するのと同じだ。地殻は常に滑っている。問題は、同じように滑り始めたのに、片方は小さく済んで、もう片方は巨大な崩壊をするのは何故か。どれもフラクタルのようにどこで切り取っても同じである。発生のメカニズムは全て同じだ。全て同じように起きるのに結果が異なる。

大きな地震だけを特別扱いしていては、とても地震予知などできまい。巨大地震を正確に予知したければ体感もできぬような小さな地震まですべて予知できぬ限り難しい。最初はどれも同じように小さなエネルギーから始まる。だのにひとつは小さな地震で終わり、もうひとつは巨大な地震になる。

これは何が違ったからだろうか。地震のエネルギーが物理的にどれほど異なろうとも、特別な発生の仕方をしたわけではない。ただ、岩粒や砂粒が連鎖を止めたか、止めなかっただけの違いだ。

起きやすい環境にある、それは経験則から知る事ができる。ある地域を危険として警戒することも可能だ。だが、海底において一粒の砂が何かの力を受けて滑り出し、次の砂を押す。この連鎖がどこまで続くか。

どれかの岩に当たって終わるか、それとも、次々と連鎖を繰り返し止まらなくなるのか。最初の砂が落ちた時に、どれほどの地震を生み出すかを知る技術は今の我々にはない。

後からなら、原因がその砂粒であると分かる。しかし、それが起きるまで、それはよくある一粒に過ぎなかったのである。起きる前にその砂粒を特定するのは難しい。巨大地震を起こさなかった砂粒と起こした砂粒に違いはない。

ほんの少し、当たる角度や初速、次にあたる砂の位置が違っただけだろう。ほんの少し、何かが違っていた。その全部が連続して起きた。

だから大きな出来事はべき乗則で起きる。べき乗則で起きるとは、小さな事象が絶えず起きていると言う意味だ。それが巨大化するかどうかは確率的である。

それは地震だけではない、と著者は語る。自然現象も株の暴落も戦争も似たような起き方をする。なぜ戦争が起きるのか。それは知らない。あの敗戦の原因を今も知らぬ。

だが著者の考えを敷衍するなら、たまたま我々が地滑りをする番だったという事になる。もしそこで起きなければ他で何かが起きていた。それではあんまりな結論なので、考えるのを止めたくはない。

0 件のコメント:

コメントを投稿