stylesheet

2015年12月13日日曜日

モーセの十戒

汝、殺す無かれ

如何に苦しみがあろうとも、生命は生まれないよりも生まれる方がいい。神は全ての誕生を祝福するから。それが如何なる命であろうと。それ以外に言葉はない。

神は祝福する。その誕生を。どのような誕生であれ。神とはあらゆる生命の誕生を意味する存在ではないか。誕生が神であるなら、この世界に命に溢れるのは当然かも知れない。それが神の御心だからである。

神はいないといった所で生命はある。それが分子、原子の意志だとしても命はある。神がいないと言ったところで命はある。

だから、生まれた後にどう生きるかを問うようになれば世界が悲哀に満ちるのは当然かも知れない。神は苦しみからは救わなかった。何しろあらゆる誕生を無条件で無制限に祝福しているのであるから。それが悪魔であろうと神はその誕生を祝福する。

神は祝福する。そして誕生してきた全てのものを受け入れる。誕生したものが起こす全ての出来事を受け入れる。それを神は許す。若ししてはならぬのならそれを神は禁止しているはずである。

神は生みだす事に忙しい。そして等しくあらゆる生を慈愛されているのだから、生命同士が起こす悲しみも祝福しているに違いない。少なくともそれを禁止するようには生命を生み出していない。

生まれるだけで神が祝福する理由になる。等しく全ての命と命が生まれることを神は祝福する。さあ生まれよ、そして生きよ。どう生きようとも、その命を神は祝福する。例え生まれてすぐ失われる命だとしても、神は祝福しているに違いない。

人をなぜ殺してはならないか。神が祝福しているからか。命は神のものだからか。しかし神はそれを禁止していない。その理由を人間に分かるだろうか。だからモーセの十戒に記されたのではないか。

モーセの十戒
  1. ほかの主を神とするな。
  2. 偶像を作るな。
  3. 主の名を唱えるな。
  4. 安息日には休息せよ。
  5. 父母を敬え。
  6. 殺すな。
  7. 姦淫するな。
  8. 盗むな。
  9. 偽証するな。
  10. 財産は施せ。

「あなたは私のほかに何者をも神としてはならない」

もし神が全知全能であり、唯一の神ならば、他の神を存在させないことができるはずである。しかし全知全能ならば、ただひとつの神にして、多くの神が存在することも可能なはずである。

だから、この言葉に明らかな他の神の存在が示唆されていたとしても、神が唯一の神であることとは矛盾しないし、しかし、他に神がいることとも矛盾しない。神が唯一であるか、他にも居るのかは信仰とは何も関係しない。ただ己にとって唯一であれば良い。

しかし唯一の神を信仰するとして、他の神を信仰する人をどう考えるべきだろうか。もしわたしの神が唯一の神であるならば、他の神はまがい物である。これは信じるも信じないも関係ない。ただひとつの神とはただの事実である。

ならば偽物を信仰する人がただ一つの神を信仰するように導くことは、人間の正しい行いではないか。それは井戸に落ちる子供を助けようとするのと同じくらい、騙されていたり道に迷っている人をその暗闇から救うのは正しい行為ではないか。

神が唯一でなく多くの中から「この神だけ」を選んだのならば、これは信仰になる。信仰はわたくしの選択となる。もし唯一しかなければそれは選択とは呼べないのではないか。

否、仮に唯一しか選択肢がなかろうとも人には選択の意志がある。選択するのか、それとも選択をしないのかの意志である。ふたつの選択がある。唯一であろうと、多神であろうと、信仰の妨げではない。

神でないと思われるものを神として信仰しているのは滑稽であるか。例えばイワシの頭のような。しかし、神でない人間になぜそれが神でないと言えるのだろう。神は全知全能であるから、イワシの頭であることも可能なはずである。

もし、それ以外の神が存在してはならないのなら、我々はどう行動すべきだろうか。我々の手で他の神を滅するべきであろうか。

しかしどうすれば他の神を殺すことができるのだろうか。信仰するすべての人間を消しされば神も消えるものだろうか。これはとても合理的とは言えない。人間の存在とは関係なく、人間の信仰とは関係なく、神は存在するはずだからである。

人を滅すれば神が消えると信じる者が、しかし、言語の中に神の複数形が存在することを許容する。どう信じようと人間の中に複数の神を考える能力がある。それを神は禁止していない。

「わたしのほかに神があってはならない」とは、他の神を殺せと命じたのであろうか。しかし神は全知全能であるから他の神を消せないという事はあり得ない。他の神があってはならないのなら、既に神がそうしているはずである。

ならば他の神を人間に殺すよう意図したものだろうか。しかし、神は全知全能である、昨日言った言葉が今日も同じである必要さえない。またそれを人間に語る義務もない。

神の御心は自由自在なはずであり、それは全知全能である。神は間違えないと信じることは、神の全知全能を疑うことである。間違えることが出来ないのならば、神にできないことがあることになる。できないことがあるのなら、それは全知全能ではない。それは神ではない。

神は全知全能であるから、神が存在しないということもできるはずである。神が存在しないのも神の力である。人間のではない。

神の言葉を一字一句間違いなく解釈することは、本質的に人間には不可能である。神は全知全能であるから、我々の解釈が正しいとは他の意味を失うことであり、それは神の全知全能と矛盾する。神にできないことがあってはならないのである。

神の言葉をひとつの解釈が正しいと見做すのは神を疑っているに等しい。神の全知全能を信じていないのである。神は人間のあらゆる解釈を知っているはずである。どのような解釈であれ、どれが正しいも、どれが間違っているかも神の自由であり、それを明日否定することも神の自在である。

すると、わたしの他に神があってはならない、も、少なくとも、人間には神の意図を正しくは読み取れないことになる。どのような解釈であれ神の真意とは異なる可能性がある。すると、そこで人間に何ができるのか。

神の言葉から「人間を神としてはならない」という別の言葉を生み出すのであれば、これは神の言葉を勝手に解釈したことにならない。神の言葉から得たインスピレーションを元にして、人間の言葉を紡ぎだす。これは神の言葉ではない。神が生んだ生命を神としない、という別の言葉が生まれる。

我々は神の言葉を知っている。そう言っていいだろう。いろいろな書物の中にそれを見出すことができる。しかし、その言葉について何を語ろうと、全知全能の神の意図を誰が正しく汲み取れるだろうか。

神は常に正しい。それは間違えないという意味ではない。矛盾しないという意味でもない。もし神が間違えていけないのなら、それは全知全能ではない事になる。間違えることも矛盾もすべて正しいから神は全知全能なはずである。

無限であり有限であり零である。始まりであり途中であり終わりである。全てが正しく全てが間違っているはずである。あらゆるもの、無限の総和以上のものであるはずである。

よって神が苦しみを救わなくとも正しい。わたしたちが知る限り、この世界から誕生が止むことはない。今のところ。

神よ、神、なぜ私を見捨てたのですか

ならばこの世界にある苦しみをどうするのか。誰がその苦しみに寄り添うてくれるのか。

イエスがそうなのか。私はあなたの苦しみを見捨てはしない。神はどれほどの苦しみも祝福する。それも誕生であるから。そのために神は私を使わしたのだとイエスは語っただろうか。その苦しみと向き合うために。

明日、仏陀と出会ったとしても汚いじじいなどと思わない自分でいたいものだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿