stylesheet

2015年6月25日木曜日

論説の技法

人が同意するためにはいろいろな方法がある。これは人間の理解する能力と人間の決断する能力のハイブリッドともいえる。

論理の流れ


恐怖にある人を憎しみの対象や敵である場合、同じ判断をすることができない。

論理の構成には立場が含まれる。つまり論理とはあくまでも前提と帰結の関係性に過ぎない。前提を増やしたり、考慮すべき前提が増えるとは、判断をするアルゴリズムの増大と言える。

つまり前提という入力から帰結という出力を得る間にあるものが人間である場合、

よって数学であったり科学であるものは、前提を限定する方向に動いたと言える。そこに含めてはならぬものを規定した。その幾つかは人間性であったり、国家であったり、政治や、神である。





安倍晋三という人は懐古趣味の全体主義者であるから、僕の趣味ではない。基本的に全体主義を信奉する人には頭の悪い人が多い。それはたぶん論理的にそうならざる得ないのであって、つまりひとつの価値観を信じられるという事は疑う能力が乏しい証拠であり、ハリウッド映画が何といおうと信じることが素晴らしいのではない、人間の知性の結実はすべて疑う所に凝縮する。

全体主義が生まれるためには中心が必要であり、その中心の価値観を他よりも高いと見做すものである。そういう点では全員がひとつの目標に向かおうという時には、強固された中央集権と、四の五の言わせぬ強権発動が必要な場合もある。

例えば戦争、これはどうしても全体主義的に動かざる得ないもので、敵を目の前にすれば、昨日まで争っていた派閥も一致協力する道理である。大政翼賛会も同様である。

日本における脅威としては中国の勃興が一番大きい。韓国のように軍事的には同盟であり、また戦争状態になってもまず負けない国を敵対する勢力も盛んである。

このような脅威に対するリアクションとしては、明治、大正期の人々はロシアであった。日露戦争で退けたが賠償問題では、状況を理解しない市民によって政府は瓦解したし、軍部は依然とソビエトの恐怖に対抗しようとした。

何等かの恐怖に陥っている国家というものは全体主義になりやすいだろう。また国外の恐怖でなくとも経済不況や格差拡大もその要因になる。

恐怖の心理とは解決策を見出していない場合に起きるもので、これは一種のヒステリーであろう。排外主義者がたいていヒステリーにしか見えないのも同様であると思われる。

本気で侵略をしたいならば、地道に計画を練るのみである。計画とは予算と人材である。大衆に訴えかけるなど馬鹿らしいほどに必要ない。なぜなら大衆に訴えかけて指示を得るためには、大衆はバカだから論理や計画など理解できないのである。そのため、どうしても個人のカリスマに頼るしかない。

所が個人というものは長くて30年程度でお陀仏様になってしまう。この後の権力の禅譲が偉く難しい。しかも個人に依存すると、そいつの間違いを全体でかぶってしまう。つまり中心こけたら全員コケるという集中型の利点がそのまま欠点になる。

インターネットの堅牢さというものを、全体主義的、集中管理式、中央集権的にせず、分散型、多重型、地方分権型にしたのはそういう欠点を重視したからである。つまり継続性を重視したわけだ。

集中と継続性はトレードオフの関係にあるのかも知れない。そうだとすると、とうぜん、全体主義はどうしても短期決戦型の方式である。だが、恐怖であるとか、出口のない状態で短期決戦など選ぶべきではない。短期決戦とはあくまで明確な敵が定義できる場合のみである。

すると当然、敵を作り出す必要がある。それが中国、韓国という事になるだろう。この二国を相手にする以上、明治以降の輝かしい歴史をお手本にするしかないため、復古主義に戻るしかない。

所で安倍晋三が目指す明治という治世は同然ではあるが、最後はアメリカ相手の大戦(おおいくさ)で大敗したのであるから、どうしても復古主義でいくなら、あれは勝てた戦争であるとか、あれは負けたが精神性は正しかったとか、大義名分を求めなければならない。

大義名分があれば良い、正義があるなら負けるはずがない、というのは、子供の御託である。相手に勝つのに必要なのは、集中と破壊あるのみ。そのもっとも確実で安全な方法が物量で押し切るという方法である。

正義で勝てれば苦労はしないというのは現場の声であろうが、これを信じているとしたら、これはバカの証拠として列挙していいだろう。

当然、勝ちたければ研究を怠らない事である。勝利とは準備した側にのみ授かる。くじ引きではないのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿