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2015年8月22日土曜日

鉄十字勲章

鉄十字勲章Iron Crossの中央にハーケンクロイツ(卐/右卍)をあしらったものはナチスが制定した1939年章として知られる。

ナチスが 20 世紀に人類が生み出した政治体制の中でも最悪の部類に類することは間違いあるまい。しかしそれがドイツのすべてを否定するものではないし、当然ながらナチスというものが指し示す何かは複雑である。

歴史的な実態を持ち、政治体制として、軍事組織として、ドイツの生活として、戦争を実行した主体として、さまざまな側面を見せるものである。我々には組織をひとつの人格と見做そうとする癖がある。

あれだけの大多数の人々が関わったナチスをひとつの人格で理解するなど無理に決まっている。それでもナチスはある抽象的な概念に昇華しようとしている。その精製過程で起きる混乱は、ひとりは水を氷と呼び別の人は雲と呼ぶ。そんな感じである。

死者数だけで言えば、ナチスよりも遥かに多くを殺した指導者は居る。民族浄化の歴史も枚挙に暇がない。しかし、ナチスが近代的官僚制度を用いて実行したことに人々は恐怖した。よく整備された官僚制度が効率化を追及すればあれだけのことがでできる。

効率化は現在も多くの企業が最上位に置く価値である。ならば企業もひとたび狂えばナチスと同じ行動を起こすのではないか。効率化を進めていけば必ず人間性と対立する場所が来るだろう。そこで立ち止まれるのか。

人類の歴史を紐解けば、民族の滅亡など幾らでもある。大航海時代以降には、持ち込まれた伝染病で活力を失い、狩猟の対象にされた人々もいる。遠い過去にはネアンデルタール人を絶滅させたのはホモサピエンスであるし、多くの動植物が今も絶滅している。その事実が深淵となって我々を飲み込みはしない。それは過去であり、克服すべき課題であっても、忌み嫌うようなことではない。

恐らくナチスは今も我々の鏡なのだ。覗き込めば、なんとも不気味な自分の姿が見えてくる。その深淵に落ちてしまいそうだ。もしあの状況に自分が置かれた時、誰が抗えたであろう。そう自問せざるえない。誰に否定できるだろう。

近代化された効率的な官僚制度、民族に基づく全体主義。そこに囚われれば、またあの事件が起きる。そこから逃れる術はまだ見つかっていない。だから、ただ警戒せよ、近づくな。

ナチスが勝利していれば、もちろん歴史は全く異なる局面を見せただろう。それがどのような世界をもたらすだろう。ナチス政権下のドイツの人々にとって、ナチスはどういう生活を提供したのか。誰もが逃亡した奴隷のように隠れていなければならなかったのか。それは今も爆撃にされされている地域よりも暮らしにくい世界だったのか。ジェノサイドは決して悪夢ではない。それに近いことは今も世界で起きている。

ナチスの象徴性は、時間経過とともに変わってゆく。時代を経ればどのような悪夢も薄れてゆく。その評価も非難されたり見直されたり再発見されてゆく。次第に変わってゆくものならば、結局、自分たちにできることは、生み出されたものを歴史の判断にゆだねてみるしかない。だから今の価値基準で全てを葬ってはならない。許されるのは封印までだ。

千年後を考えてみる。その頃の人々がナチスのデザインを見て何を感じるだろうか。我々が十字軍について思うのと変わらぬであろう。それは既に過去であって感情的に語られはすまい。彼らはデザインのひとつとしてそれを楽しんでいるかも知れない。デザインから象徴性が失われているのである。

しかし、それは将来の話であってナチスを連想させるものはまだ風化する途上にある。そこには深淵があって、近づけば落ちてしまいそうだ。

デザインが純粋に形状だけを意味するのであれば、どのようなデザインもこの世界に存在可能である。それは言論の自由があらゆる言葉の存在を否定しないのと同じである。

しかし、個人の思想も言論も造形も信仰の自由も、社会が無条件でそれを許容するわけではない。世界が広がれば人々が増える。社会は自分だけの世界ではない。お互いの許容で社会が成立するから、そこには合意という制限が起きるのは自然と思われる。

何を許容するか、何を禁止するか、それは法が規定するのではない。法はその幾つかを再定義したに過ぎない。法は罰すべきものを罰するために必要なのであって、社会の許容範囲を記述したものではない。全体主義ならば全てを法に記述するかも知れない。それは教義だ。

だからといって法に書かれていないことは全て許されるという主張には現在の定義を完全なるものと見做している短絡さがある。社会の変遷を法は追いかけることしかできない。社会は常に変化している。

昨日まで許されていたものが明日もそのままとは限らない。昨日まで許されなかったものが明日もそうとは限らない。だから許されているから正しいという論理は成立しない。

誰もが同じ場所に居るわけではない。誰もが同じ座標に居るわけではない。誰もが同じベクトルで動いているわけではない。あたかも統計力学の気体運動のようなものだ。個々の議論を見れば互いに衝突することはある。

ナチスを知らなければ、右卍はただのデザインであって、好き好きの問題に過ぎない。しかしナチスを知っていればデザインが好きだけとはもう言えない。その好きという心理が、ただの形なのか、ナチスの思想に同調しているのかを他人は区別できない。形が好きという心性の底に潜んでいるものを誰が分かるだろう。

再びナチスを生みださないためにはどうすればいいか、と危惧する。ヨーロッパは未だそこを乗り越えていない。だから今は徹底的に封じ込めておく。それでも貧困と格差が一部の人々をネオナチに向かわせている。

それは日本が先の敗戦を再び繰り返さないためにどうすればいいかを分かっていないのと同様だ。こうして僕はあらゆる局面に同型を類型を見つけてしまう。それを同じ場所で足踏みしているだけかもといぶかる。

とまれ、ナチスへの熱狂、近代的官僚制度、資本主義経済、石油に依存する文明、軍隊の機械化、国家の総合力としての戦争、敗者からの解放者。その向かう先が何であれ。

もう一度と願う人々が欲したのは何かの優越感だったのか。それは不安からの逃避であったろう。抑圧された精神の開放であったろう。その先に深淵が待っていようと構わない。ここではないどこか、そこならもっと上手くいくに違いない。そういう希望はなかったのか。

その先の深淵に落ちたのではないか。いまだ封じ込めるしかない歴史がある。我々は何をしてしまったのか。なぜあのような狂気が起きてしまうのか。ヒットラーの気まぐれな狂気が、かくも整然と最大の効率をもって、国民を動員し、何ら問題が起きることなく進捗させてゆくのか。我々のこの制度には何か根本的な欠陥があるのではないか。

封印している間にそれを検証する。そして、我々の社会制度ではもう起きぬ。そういう認識に共有されたとき、ナチスは過去へと至るだろう。その時には右卍もひとつのデザインに戻るだろう。まだその夜明けではない。

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