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2015年2月8日日曜日

草木塔 I - 種田山頭火

山頭火の句はふたつに分解できるかと思う。そこには描写とそうではない何かがあり、そこにこの人の俳句の作法があると思うのである。その作法は一体どういう所から生れ出たものであろうか、それを探求してみたい。そう思ったのはこの人の句に触れて暫くしてからであった。

草木塔(青空文庫No.749)


鉢の子

分け入つても分け入つても青い山

分け入るを連続させて時間経過を表現する。分け入る時に連想する山はきっと夏で緑の山であろう。山道は木々に覆われ細い道だろう。そして現れる山と巨大だろう。空間に突如として出現したかのような山の大きさが感動だったろうと思う。

青い山は瞬間である。この瞬間によって分け入っていた所作が過去になる。山を見ている私は立ち止まる。時間の流れの中で今が凝縮し瞬間が切り取られ凝固する。

  • 細い道 - 連続する長い時間
  • 大きな山 - 凝縮された瞬間の時間

海まで来てみれば遠い空

他に、どこまで行っても抜けられぬ不気味さがある。この山を山頭火は抜け出せたのだろうか、それとも抜け出せなかったのだろうか。

まつすぐな道でさみしい

全く異なる関連性のない言葉を結びつける。そこには何かの発見があったに違いない。

まっすぐだから寂しいなどあり得ない。さみしいから、まっすぐな道を寂しく感じたのだろう。何故なら、まっすぐである道は遠くまで見通せる。もしその遠くまで人が居ないことが見えたなら、きっと寂しい感じが強まるだろう。だとすれば曲がり角のある所では、その向こう側には人が居るんじゃないかと思っている自分が居ることになる。

つまり元からそう思っている程には寂しいのである。それに真っ直ぐな道が気付かせた。それに気付いた時に生まれたのだろう。

  • 遠くまで見通せる道 - 寂しい
  • 曲がり角の向こう側 - 誰かが居るかも知れない - 寂しさ

まがり角を曲がればひとり寂しさ

雪がふるふる雪見てをれば

雪の動作の繰り返しの中に、雪の情景とそれを見ている自分の所作を並列化する。

雪の降り続く時間の連続さとそれを見ている自分の時間の連続さの間にある非同期性。両者の時間の流れる速度が同じでない感覚。雪はゆっくりと降る。突然、激しくなる、そしてまたゆっくりと降る。雪を見る前からそこから立ち去った後も雪は降るだろう。永続性のある雪と比べれば自分の時間はずっと短い。

急いでいる時間の中でふと雪を見た。その時に時間が同期した。雪を見続けている。「雪見てをれば雪がふるふる」なら、自分の時間の流れだけが主題となる。自分の見る時間の中に景色が入り込んで来た。順序を倒置する事が、雪がより古く、長く、ゆっくりに感じる。そこに雪を見る自分が加わる。そして雪が降り終わるよりも早く、自分の早く流れる時間へと戻って行く。

  • 降る雪 - 永続的なもの
  • 見る自分 - 刹那的なもの

星がまたたく眺めているわたし

どうしようもないわたしが歩いてゐる

どうしようもない、という社会的評価。歩いているのは私の命。そのふたつの間に関係はない。

社会的にはどうしようもないという評価とは関係もなく、私の足は私を歩かせてくれる事を止めない。足という肉も歩くという行為も、社会的な評価といっさい関係なく私を生かそうとしている。どちらもわたしの話であるのに、とっても遠い所にあるふたつ。その二つの間にはわたしというもの以外、何の接点もない。だからどうしようもない私を歩いている私の足は、そんなの気にするな、なにも生きるのに関係ないだろう、と言っている気がする。

歩け歩けすべてを否定された日も

分け入れば水音

山道をゆく、水音がする。小さな短い時間と、小さな風景。

あせ拭けば秋風

すべつてころんで山がひつそり

動の所作に静を配置する。

すべって転ぶ人間の小ささ。山の大きさとの比較、動と静の対比。すべつてころんで森がひつそり、では生き物と生き物の対比になってしまう。それでは動と動の感じがする。この山には不気味さがある。動がふたつ(すべって、ころんで)なのに、静はひとつ(ひっそり)しかない。それでも人間の動を山の静が圧倒している。

稲を刈り稲架にかけても夕焼け

つかれた脚へとんぼとまつた

静の所作に静を配置。

疲れた脚は止まっていたのだろう。休んで座り込んでいたのかも知れない。そこにトンボがとまった。それまで動いていた脚が止まった時に、飛んでいたとんぼが止まる。動いていた脚が止まり、そこに飛んでいたトンボがとまる。それぞれのリズムで動いていた時間が、同じ場所で停止する。

信号待ちに青くひかる

あの雲がおとした雨にぬれてゐる

あの雲はもう通り過ぎている。濡れているのは今だが、雨が降ったのは過去だ。濡れた過去と濡れている今。

あの雲は、遠くにあり過ぎ去った雲。だから通り過ぎた過去である。濡れている自分は今である。雨に降られて濡れてしまった自分が過去にある。雲は通り過ぎたが濡れた自分はまだここにいる。雲は過去を気にしていないようだ。だが自分は過去を引きずっている。それでもこの歌には何か、仕方ないなぁと笑っているような雰囲気がある。それは雨がいつかは乾くからだろうか。

東北を覆った海がいまは小波

安か安か寒か寒か雪雪

繰り返しながら流れる3つの単語の組み合わせ。

寒いときは言葉が短くなるという。その言葉の羅列が寒さの描写になる。安か安かは物売りの掛け声だそうである。寒か寒かは路地の呟きが聞こえたらしい。音が風景である。最後に雪という言葉でイメージを固定する。この歌のもつ寂しさは、雪雪で表現されている。通りの人の声と自分の接点がどこにもない。「安か安か寒か寒か酒酒」ならば温かみはどうだろうか。

こちかかちかあおいあおい山山

うしろすがたのしぐれてゆくか

しぐれるのは自分の姿、ならば自分の後姿を見るのは誰か。それも自分。

「うしろすがた」が視点を規定する。続いて「しぐれてゆく」のだから、何かうしろすがたが次第に煙れて見えなくなってゆく感じを受ける。それを「か」と問う。これでこの視点が幻想であることが鮮明になる。だからこの後姿は山頭火に違いない。読者はここで山頭火が己れを見ている視点のもうひとつの上の視点に立つ。そこから自嘲し消えそうな山頭火にぐっと近づくのである。

歩くせなかのホームへおりるか

よい湯からよい月へ出た

地上から天空への視線の跳躍。

「よい湯」と「よい月」の連なり。それを「から」「へ出た」に続ける。するとどういう反応が起きるか。湯につかってゆらゆら揺れる湯を見ていた。湯に映った月を見る。それだけならば「よい湯からよい月が出た」となる。よい月へ出るのであるから、月に向かって何かが飛び出たのであろう。

熱い湯から雪の原へ出た

今日の道のたんぽぽ咲いた

たんぽぽが咲いたのは紛れもない事実。

今日の道。今日のたんぽぽ。道を歩く自分は一時の存在。タンポポも消えてゆく存在。そのたんぽぽが咲いた。咲いたという事実だけは疑いようがない。たんぽぽは咲く、しかし自分は咲いていない、その対比に寂しさがある。

今日の道(自分):(何もない) = 今日のたんぽぽ:咲いた

わたしひとりにたんぽぽ咲いた


其中一人

雪へ雪ふるしづけさにをる

雪が降った上へ雪が落ちてくるのを見ている。

雪が降るのを眺めているうちに、雪が落ちてゆく先を目で追いかけ始めたかのような動作を感じる。雪へ雪ふるという表現は山頭火が自分の所作を歌ったように思われる。単に雪が積もっている風景ではない。雪が降るのを見ている自分がいる、そこはしづかなのだ。なぜなら彼はただひとりでそこに居たから。

雪に雪かさなり夜は雪のおと

けふもいちにち誰も来なかつたほうたる

ほうたると声に出したのだろう。なぜほうたると呼びかけたのか。そこに誰も居なかったから。

蛍が飛んでいる。自然と蛍と呼ぶ自分がいた。きっと蛍を追いかけていた賑やかな子供の頃を思い返しただろう。誰も来なかったのは今日だけではない、昨日も居なかった。だけれども遡ってゆけば子供の頃から誰も居なかった訳ではない。誰かと会ったのは何時が最後だっけ。誰も居ないから寂しいのではない。賑やかな日を思い返したから寂しいのだ。

ほうたる追いかけほうたる振り向く

かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た

鳴かぬ虫が音をさせている。山頭火は対比の面白さが歌である。だけれども対比だけではない。対比の中にある主題が宿っているように見える。そのほとんどは孤独だと思われる。この孤独と登場する生き物は何も関係がない。その風景は賑やかなのだ。だから孤独は山頭火だけが孤独なのであって、周りはとても賑やかと思えてくる。

なぜ歌は静かなのか。いやこれはこっそりと呼ぶべきかも知れない。山頭火の歌はこっそりとしているのかも知れない。

ひっそりこっそり虫が見ている


行乞途上

お寺の竹の子竹になつた

竹の子だと思っていたら、竹に変わっている。その変わった瞬間は見ていない、そういう時間の欠落が、静寂にあるお寺で起きた。昔から変わらぬようにあるお寺で竹が変わってゆく。時間が経過してゆく。その時間の流れから置いてけぼりを食ったかのような寂しさ。

みかんむかれてみかんがない

雲がいそいでよい月にする

雲が急いだからと言って月が良くなる訳がない。雲も月もべつべつのものだ。遠く離れているふたつが重なって見えているだけだ。雲が早く空を流れていたのだろう。その動く速さが少しでも早く月を見せようとしていたのか。

雲が消えたから月の光がくっきりしたのか。それとも雲に隠れた月が雲をより照らしているのか。雲と月の間にさえ関係性がある。だのに自分とは何の関係性もない(傍観者のような関係性はあるけれど)、雲は月を良くするが、自分には何もしようとしない、という感じがある。山頭火と対象の関係性は一方通行なのかも知れない。

空が晴れ渡って月ばかりだよ

うごいてみのむしだつたよ

うごくのを見た。なんだろうと見た。みのむしだった。

「だつたよ」というから、誰かに伝えているのだろう。という事は動いたのを見た時はひとりきりだったのだ。その時の孤独が誰かと話すことで癒されている感じがするかも知れない。

波がここから遠くへいったよ

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