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2015年1月26日月曜日

ハムレット - シェイクスピア / 松岡和子

To be or not to be, that is the question.

なにも感動するものがない。読み終わった時にそう思った。しかし面白くなかった訳ではない。読む速度は衰えることはなく、舞台は止むことなく颯爽と進行を続けたのである。

ハムレットは会話だけの物語である。自然描写も心理描写もない。会話で演じられ自問で進んでゆく。ゆえに演者の声がとても大切である。声がこの物語を左右する。ゴーストでさえ喋る。それが誰かの心の中の幻想だとしても。

観客は演劇という虚構の中でそれを許す。約束事が成立しなければ成り立たない。そういう観劇というもの要請があって、作家はその上に物語を構築する。だのに、それを読む僕の中ではあらゆるものが現実のシーンになる。シェイクスピアを読むことと観ることは漫画とアニメのようなものか。

ハムレットが亡霊を見なければ物語はどうなっていたか。もしハムレットが亡霊を見ても何ら決意なければ。物語は全くの違う日常を描いたであろう。亡霊を信じた所から物語が始まる。亡霊は実在の王なのか、それともハムレットの疑念か。何れにしろハムレットは亡霊を信じた。

ハムレットはそれから狂人として振る舞う。もちろん観客は誰もハムレットの狂人を信じてはいない。ハムレットは狂人の振りをして行動するが、それも暗殺の疑念を確信に変える為である。それだけがハムレットの行動である。それ以外にハムレットの実行はない。

ハムレットは一座の演劇に脚色を加えクローディアス王の有罪を見極める。クローディアス王はハムレットの狂人が自分に突き刺さる事を確信する。ふたりの行動が物語を先へと進める。それはふたりが物語の中に飲み込まれたという事。

ハムレットの狂人が、恋人の父を殺し、恋人を狂わす。狂人の振りをしているから大胆なのか、狂人だから大胆なのか、ハムレットはずかずかと物語を切り裂く。観客はそこに違和感を感じない。狂人は己を正常と思い込んだ人の事だと聞く。そうかも知れぬ。

ハムレットは復讐を誓うが、彼が狙っていたものが王の死か、本当に復讐なのか、それは疑問だ。ハムレットには復讐する気配がない。彼は復讐を先延ばしにする。物語の最後まで。

ハムレットは恋人の父を殺す、王はハムレットをイギリスへやる。イギリスの地でハムレットを殺すつもりだ。ハムレットは機知を働かせ自分の国へと舞い戻る。それは復讐のため?

墓場のシーンは異常なまでに印象に残る。全てを忘却しても墓場でシャレコウベを手にするハムレットの姿は拭えまい。

まただ。なあ、今度は法律家の頭かもしれない。お
得意の詭弁や屁理屈はどこへ行った?起訴や所有権やあの手こ
の手は?こんなめちゃくちゃな野郎に泥まみれのシャベルでこ
づき回されて、どうして黙っている?

ハムレットは墓場でオフィーリアの死を知るが感じ入ったようには見えない。ハムレットの言う愛の言葉は空疎だ。

俺はオフィーリアを愛していた。
実の兄が四万人束になっても
俺一人の愛には及ばない。貴様、妹のために何をしてやるつも
りだ?

父の亡霊をきっかけとしたハムレットの復讐劇は何も実現していない。真実を暴くがそれは復讐の原動力にさえならなかった。王の有罪を見極めるために演劇に脚色を加えたが、それは最初から確信していたハムレットの何も変えなかった。

王への復讐を押しとどまったその直ぐ後にポローニアスを殺す、自分を死に追いやろうとする王の手紙を読み、機知により手紙を入れ替える。

聡明さと支離滅裂さが同居しているかのようだ。ハムレットはその場その場で闇雲に行動しているだけのように見える。彼は迷ってなどいない。ハムレットの行動は意識的である。しかしそれがどこに辿り着くか。

ハムレットは木の葉が揺れるように生きている。彼はどこへ行こうとするのか。行きたいのか。誰にも見えない。ハムレットは自発的に復讐などしていない。復讐にさえ彼の意思はない。復讐するには狂人の方がいい。これは復讐のための狂人なのか。彼は狂人になるよう知恵を働かせたが、復讐は偶発的に実現した。これは念入りに計画された復讐劇ではない。

ハムレットは苦悩などしていない。彼は自らの運命に抗おうとしたのではないか。復讐は偶発的であり偶然の産物である。彼は何ひとつ自ら行動していない。その直前まで彼には復讐の意志はなかった。そのチャンスを狙っていたとさえ言えるか。

どう許せばいいのかを探していたのだろうか。彼が逃げたかったかのは復讐からだったのではないだろうか。だが成り行きは王を殺すしかなかった。咄嗟に剣を突き刺すしかなかった。それは憤りではあったかも知れぬ、だが復讐であったろうか。ハムレットはただ待っていた。何かの訪れを。

許してくれ、レアティーズ。済まないことをした。
だが、君は紳士だ、許してくれるね。

このセリフを読んだ時、ハムレットが嘘つきである事を確信した。彼は世界中をペテンにかけたのだ。観客も含め。彼の本心は誰にも分からない。亡霊がハムレットに与えたものは、いったい何であったのか。

もしもハムレットが正気を奪われ
己をなくした時にレアティーズに害を加えたとすれば
それはハムレットの仕業ではない。ハムレットがそれれを否定す
る。では誰の仕業か?ハムレットの狂気だ。とすれば
ハムレットも被害者の一人。彼の狂気は哀れなハムレットの敵だ。

ハムレットという作品は解釈だと思う。彼をどう解釈するかでこの物語は様々な顔を見せる。そう書かれていると思う。長く耐えられるものは中身が空っぽではないか。容器は中身よりも長く残る。

陶芸家が作り出した入れ物はそれだけでは存在する意味がない。それを料理人が使う。そこに価値がある。料理は失われるが容器は残る。次にまた別の料理に使われる。容器は中が空っぽでなければならない。だが空疎であってはならない。

中身はなくともフォルムがある。容器という形があるから空も無もこの世界に存在できる。水がコップの形をなぞるように、容器は中に入るものの形を規定する。空であるから中を満たせる。容器は決まった形だ。中に入るものが自由に形を変える。空や無は周りを囲う事で存在する。容器があるから空っぽがある。空はそうやって存在する。

ハムレットを読むとオフィーリアの自殺さえ疑わしい気がしてくる。ハムレットがオフィーリアの自殺も知らずに骸骨と戯れていた時に、この殺人事件を追求している探偵が登場しても驚きはしない。オフィーリアの死には何かある、という解釈ができるようにシェイクスピアが書いているのだから。そうして劇中で語られなかった、しかし存在していたであろうセリフを新しく見い出す楽しみがある。

舞台を完成させるのは観客の観劇する力だ。目の前の舞台を観客が受け入れる事で演劇は完成する。ハムレットが初演されたであろうグローブ座は能の舞台に近いそうだ。映画と比べれば舞台は遥かに素朴だ。CGのリアリティもカメラワークもない。だからクリエーターの想像力を見る機会が少ない変わりに、観客の想像力に大部分を託す。

ハムレットを読めば自然と舞台が目に浮かぶ。幕が変わる度にセットを組み立てる大道具が登場しても不思議はない。ハムレットは読むだけの作品ではないのだろう。ハムレットは観て完成するものか。シェイクスピアは何も答えない。恐らく笑っている。

始まりに狂人と出会い、物語は颯爽と進み、新しい風が吹き、そして幕を閉じる。

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