(アーサー王を専門とする主人公が)
彼らが歴史から消えた理由には、縄張り競いに負けた、寒冷に耐えられなかった、食料になったなど諸説ある。そして交配によってある種が別の種を取り入れるのは普通にある話らしい。こうした交配によりどちらかの種が消えるのは研究者の間では良く知られた現象のようだ。
(古びた古道具屋から)
滅びたと言われればネガティブな感じがするし、食肉として狩られ尽くしたのであれば敗者という感じがする。彼らは激しい気候変動に耐えられなかったのかも知れない。交雑により我々の遺伝子の 4% がネアンデルタール由来であると言われると不思議な感じがする。チンパンジーとは 98.8% の一致。ネアンデルタールとは 99.7% の一致だと言う。こういう話しは単なる生物の現象に留まらず人の価値観が投影される。
(アトランティスの謎へと)
成人男性の外形では違いも目立つが女性や子供ではホモサピエンスとネアンデルタールは殆ど同じに見える。DNA を調べれば人類は細菌とでさえ遺伝子に共通部分を持ち同じ蛋白質を使って生きている。「遺伝子汚染による種の絶滅」といえば怖く聞こえるが単に雑種になって混血して区別が付かなくなるだけの事だ。ホモサピエンスはネアンデルタールに彼らを統合したと言うだろうしネアンデルタールはホモサピエンスの中で我々は生き残っていると主張するかも知れない。
(シュリーマンの話や)
割と近い時代にホモサピエンスとネアンデルタールは進化の系統樹を別れた。だから彼らは我々の直系の先祖ではない。トバ火山によるヴュルム氷期を生き残ったのはネアンデルタールとホモサピエンスだけらしい。その時は 1 万人にまで人類は減りその集団が今の我々の先祖になったらしい。氷期は 7 万年前に始まり 6 万年間続いた。そこで何があったのか誰も知らない。
(アガメムノーンの話)
しかし二つの異なる猿が混血を生み出す事も可能であった。我々の中に彼らとの混血が混じっていても何ら不思議はない。なにかの危機(細菌、ウィルス、気候変動)に対して彼らとの混血だけが生き延びる道であったかも知れない。人類が白い肌を手に入れたのも彼らとの混血かも知れない。
(マルコポーロまで辿り)
白黒黄もどこかで別れた。今の生活環境なら白黒黄の混血が進み灰色ひとつになるかも知れない。それともこの先の進化により異なる種になるだろうか。今日にも新しい種となる祖がおぎゃーと生まれたかも知れない。種の中から別の種が生まれるとは親子の間で繁殖の断絶が起きる事だ。種が違うのだから交配しても子孫は残らない。もしかしたら現生人類の間でも子供が出来ない関係(種が違う)はあるかも知れない。一匹だけが別の種として生まれてきても交配できない。同時多発的に新しい種が子として生み出されなければその子たちは交配できない。世代間の間で親子の間で種の違いがあったとしても子育てをするだけの肝要さがなければ新しい種は生まれない。それが確認できるのは 100 万年くらい先の話しになるけれど。
(暗殺や危険を乗り越えて)
そういった空想は楽しい。所で我々は雑種化する事を遺伝子汚染と言い換えるだけでネガティブな考えに落ち込みハイブリットと呼べばポジティブな考えになる。この人間の価値観の不思議さ。だが当の動物たちは何も気にしない。放射能汚染で食べるには危険とされる魚達はとても元気に泳ぎ回っているしそれを狙う鳥たちも空を飛び回っている。避難しなければならない地域に雑草が生い茂っているのを見ると不思議な気持ちになる。漁を止めた事で海が魚で溢れ返る。それは良い事だと僕は思う。
(考古学というよりも)
我々には純血種という幻想があり、優性遺伝、劣性遺伝も発現の因子と言うより優劣という価値観で見てしまう。高等、下等、原始的、上位、下位、科学の用語も容易に価値観と結びつく。同じ種の中に人種が作られる。民族の特徴から殺し合いが始まる。黒ぶちの猫と白ぶちの猫の言い争いだ。高い鼻の犬と低い鼻の犬の争いだ。
(インディ・ジョーンズかってくらい)
在日朝鮮人に向かって差別的であるのはいいとしても其れを罵っている人が秀吉の頃に連行された朝鮮人の末裔でないと誰が言い切れるのか。それを罵る人は一万年前に朝鮮半島から渡航した人の子孫でないと何故言えるのか。 100 年前はダメで 400 年前なら良いとは理屈に合わないではないか。だがそうではないのだと言う反論は頑強であり変わらないだろう。
(山の老人の話しが出てきて)
春木屋の言葉にある
『春木屋の味は、いつもかわらない』と言われるが『変わらない』と言われるためには常に味を向上させなければならない
(好みが分かれるかも知れないけれど)
人種であれ文化であれ生物であれ一切の変化を止めたらどうなるのだろう。変わらずに存在するためには変わるしかない。変化を止めたらどこかで消滅するのではないか。生命の多くは変化を受け入れている。遺伝子組み換えだろうが外来種であろうが適用できるならありったけの適用をする。交雑の仕組みは進化のメタファではないのか。DNA は大きな変化を嫌い小さな変化を好むがその小さな変化の積み重ねが全く異なる命を生み出す。
(クロマニョンの話しや)
優生種に根付いた考え方は何時でも何処でも誰の中にでも生じる。優位に立ちたいと言うのは自己防衛本能の中でも強烈なものだ。人が持つ比較する能力が優れている以上あらゆる場所に優劣を付けるのは仕方がない。だからその強い能力は適切に使わなければならない。そうしないと核廃棄物が土壌を汚染するように我々の精神を汚染する。それは遺伝子汚染と同じ様に人の間を伝染する。放射性プルームの様に拡散する。
(ネアンデルタールまで出てくる)
オリジナルに価値がある。これはどういう幻想であろうか。我々はどれもこれもオリジナルに違いない。どの人の遺伝子にも同じ物は幾つもない。その価値観は何の勝ちであろうか、価格の間違いではないか。日本というオリジナルに価値を持ちたいのは何故であろうか。そこに滅亡への予感があるのだろうか。だが滅亡とは何か。生き残るとは何か。いつまで生き延びれば満足できるのか。いつまで同じ姿で居られれば満足であるのか。遺伝子は不死を望まない。だが連綿と続く事を望む。人もまたそれを望む。我々の価値観を支えるものは何であるか。
(この話しの広がりがイリヤッドの魅力)
どこかの人が考えるとは何かに価値観を付ける事だと言っていた。だが本当に考えるとは価値観を剥ぎ取る事じゃないかと僕は思う。
僕はネアンデルタールに魅かれる。彼らはどういう人間であったか、または猿であったか。ほら又だ、何かあると優劣の価値観で書いている。いつまでも彼らは僕の中にある価値観の試金石になる。彼らの姿は僕たちの明日の姿かも知れない。だから彼らに話しかけるのだ。
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