Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.
ひとつでも 多くの選択肢を探すことを努力と呼び、その中から ひとつを選択する決断を閃きと呼ぶ。天才とはその1%を見つけた人である。99%の人は見つけられなかった。
という事は、探す数の多さと天才との間には関係があるはずだ。3つの中から1つを選ぶだけなら誰れでも天才になれるだろう。100個ならば1%、10000なら0.01%。数が多くなるほど見つけるのは難しくなる。
3つの中に成功が入っているのなら簡単だが、実際はもっともっと多い。残り3つになるまで待てば「残り物には福がある」である。
100よりも1000よりも100億の方が難しい。ここで注意すべきは、数が多いほど見つけるのが難しくなるだけではなく、それだけの数を揃えるのも難しいという事だ。100より1000より100億の方が難しい。
もしそこに「当たり」が含まれていなくても3つならすぐに気付く。100でも分かるだろう。数が増えてゆくにつれ「当たり」が無い事に気付くのも難しくなる。100よりも1000よりも100億の方が難しい。まるで魚のいない海に糸を垂れるようなものだ。決して魚は釣れないのに。
問題はふたつある。
- その中に探しものは存在するのか。
- それを見つけ出すことは可能なのか。
魚がいなければ釣れる可能性は0である。また、決して釣れない魚なら、居たとしても可能性は0である。よって当たりを引くには、次の前提条件が満たされていなければならない。
- そこに存在する事。
- そこで入手できる事。
人間はこの前提条件が満たされているかどうかを知らない。だから魚が釣れるかどうかはやってみなければ分からない。分からないから、いつ諦めるかも人それぞれである。
どのような人もそれぞれの人にとっての合理性と論理的に従って行動する。どのような戦略を立てれば可能性が高まるか。
魚が居ようが居まいが釣れようが釣れまいが、すべての魚を釣れば答えは明らかだ。これが総当たりという方法で、当たりが出るまでくじを引く、くじがなくなるまで引いてみる。そうすれば間違いない。
しかし、海にいる魚をすべて釣るなど実際には不可能だ。だから別の方法を考えることになる。本当に魚はいるのか、と思えば、潜ってみて探してみればいい。どうも居そうにないとなれば場所を変えるもよし、その場所で待つもよし。
成功とは選択肢の中から「外れ」を取り除く事である。失敗しなくなるまで何度も試せば成功するだろう。
だから「運」が良いと言う時、それは時間的に早く訪れたという意味がある。なぜこんなにも早く当たりを引けたのか。それは誰にも分からない。ただ結果としてこれは「運」が良いと呼ぶしかない。そういう感慨がある。
もし全知全能の神がいるならば、神に運はないはずだ。すべて因果律のはずだから。当たりも外れも因果律として理解する神にとって、それが当たりであるのは当然だし、それが外れであるのも当然だ。それを神は運とは呼ばないであろう。当たりを引いた。外れを引いた。神にとってそれはただの現象でしかない。
当たりくじを引いたから運が良いのか。それとも当たりが存在した事が運がよいのか。いずれにしろ人はそれを「知らない」。
運命の人
この世界に運命の人はいるのだろうか。だが実際にそう感じている人はとても多い。
この世界には何十億もの人がいる。その全員と会うなど不可能である。その多くの人の中からひとりの人と出会った。
今の時代に生まれていない人とは決して会うことはない。違う国に住んでいれば出会う可能性はぐっと少なくなる。90歳の人と0歳の人が運命になる可能性も小さいだろう。時間がそれを決める。
地雷原を歩いていて地雷を踏んでも運が良いとは言わないだろう。小さな無人島でふたりが出会っても運命とは呼ばない。統計的考えをしない人に運命は訪れない。確率が小さいから運命になる。それを神の思し召しと言う人もいる。
宇宙にはとても多くの星がある。重力によっても決して出会えない距離がある。宇宙のほとんど多くはこの星の生活とは関係ない。生きているだけで丸儲けとさんまは言う。
ハビタブルゾーンに生まれた事ほどの強運はこの世界にはないはずだ。この宇宙だから人間が生まれたと人間原理は教える。それらを人は運の強さには勘定しない。なぜなら生まれた時に人はそれまでの強運をリセットして0に戻すからだ。生まれた瞬間は、全ての人が運において平等である。
なぜそれを運命と信じたいのか。それが運命であるべきなのは何故か。それが必ず起きる事であったと自覚したいからだろう。その人と会うのは必然であった、では足りない。なぜなら必然は一回しか起きないかも知れない。運命は何回やり直しても必ず起きる事を言う。そう思う事が重要なのだ。その自覚が、行動を決めてくれる。人間は理由を必要としているから。人を殺すのにさえ太陽の眩しさを欲するから。こうしなければ予言さえ成就しない。
運命という理由が行動を促す。運命を欲しない者は、運命という理由を必要としないはずだ。
強運とAI
同じデータを持っていても、推論が異なれば違う結論を得る。この人間の自然な考え方にAIが新しい視点を持ち込む。AIの推論方法は人間とは異なる。AIの強みは数の莫大さにあって、シンギュラリティの頃には人類がこれまでしてきた全ての経験さえも超えるであろう。数量がコンピュータの強みであり、人間は決して対抗できまい。
人間が強運と呼ぶものもAIはただの計算として提示するだろう。AIはそれを人間には圧倒的に計算力が足りないからだと答えるだろう。その足りない部分を人間は運と呼ぶ。その足りない部分を埋められるものを仮定する。それが神であった。
AIにも上限がある以上、彼らも神にはなれない。AIにも運はあるはずだ。ただ人間の運はAIの運とは認めてくれないだろう。ただ計算が足りないと答える。すると運とは、単に先が読めなかったという実感に過ぎない。分からないから適当に決めた。それが上手くいった。なぜ上手くいったのかは説明できない。
一度きりの選択を正しくした。それを運と呼ぶ、何度やってもきっと同じになる、そう信じるなら運命と呼ぶ。勝利にしろ敗北にしろ、運命ならば決して変わらない。そこに根拠など要らない。根拠がなくとも信じたい。
そして、塞翁が馬という。目の前の成功がなぜその先でも良い結果を呼び込むと信じられるのか。
よい運命、わるい運命
運が良いとは「当たり」を引くことだ。だが「当たり」とは何なのか。人生にとっての当たりとはいつ決まるのか。これを簡単に決められる人は運が良い。
もし強運になりたければ「外れ」を一切カウントしなければ良い。それが統計的手法である。ある結果を良いという時、それは過去に対する結果であって、未来を決めるものではない。
その統計データをなぜ恣意的に解釈したいのか。その解釈が決定的、つまり過去を正しく語るとき、なぜそれが将来に渡ってまで変わらないと信じる事ができるのか。なぜ良い行いは、さらによい結果をもたらずと信じるのか。なぜそのような因果を信じられるのか。
そこに因果応報という仏教的思想はないか。
くじ引きで試してみる
サイコロでなんど振っても次に偶数が出る確率は50%である。サイコロは前の結果に影響されないからである。
しかし、連続して1が連続するとき、次に1が出る確率は減ってゆくと感じる。これがどれくらい稀れかと言えば1が10回連続する確率は、1/6の10乗である。もちろん、これはさいころを10回振った時に出る全ての数の組み合わせと同じ確率である。すると連続して1が出る確率とは10回振った時のすべての数の組み合わせの中からひとつだけを選ぶ可能性と同じだ。
自然はサイコロの目を知らない。だから人間が起きにくいと考えること(次も1が出る)と、その時の確率(1/6)は違う。連続して1が出にくいのは1が連続するのが難しいからではない。その他の組み合わせも次第に増加しているからである。サイコロを振るほど、そのただひとつの組み合わせは全体の中に埋もれてゆく。
連続して同じ数が続く回数を数えてみる。
なぜ同じ目が連続する確率だけが低く感じるのか。それは他の数の組み合わせがたくさんあるので思い浮かばないだけの話ではないか。それ以外がどれくらいあるかが想像しにくければ印象しか残らない。この場合、印象とは覚えやすいと同じ意味である。
ゾロ目が覚えやすいのはそれが簡単だからだ。情報量が少ないからだ。なぜ1が連続すればそれを運命と思えるのか。確率は他の数の組み合わせと同じである。なのに何故1が連続した場合だけを運が良いと考えられるのか。それを引きが強いと呼べるのか。
運が悪いとは「はずれ」ばかりを引く事だ、運が良いとは「当たり」ばかりを引く事だ。そう漠然と考えているが、実際は運が良いとは単に覚えやすいだけの話ではないか。
もし運が良いのなら、初めから選択肢が少なかった可能性がある。運が悪いのなら選択肢が多すぎた可能性がある。そして、選択肢が多いほど、それは困難な仕事である。それにはチャレンジする価値があるかも知れない。
だから運命はビジネスになる
偶然が多いほど、それが必然に変わる。
「信じるか信じないかの問題じゃないんです。居たんです、そこに。確かにこの目で見たんだ。信じて下さい。」
起きない事が起きることと、起きにくい事が起きるのは決定的に違う。そして、起きない事が起きたのなら、実は起きていない可能性が高い。そうでなければ奇跡か、物理学の間違いである。
もし、起きにくい事が起きたのなら、それは起きにくい事ではなかった、ある条件ではよく起きる事であったと考える方が妥当である。
おそらく、人は誰もが運命の人と頻繁に出会っているのである。ただすれ違って二度と会わないだけで。その中でもっとも親しくなった人を運命の人と呼んだところで、それは当然と言える。彼/彼女も、運命の人なのだから。
とても多く起きていることでも運命と呼べば、それはたったひとつの事件だと考えるようになる。それがない世界など考えられなくなる。多世界解釈という世界観を聞いてもそう思うことから逃れられない。自分の子供が違う子供に変わっている世界など人は信じられない。
絶望の中に居る人に手を差し伸べるのに、運命という言葉を使うことが適切がどうかは分からない。誰かを救うために運命という言葉を使う人はとても多いだろう。それで行動できるのなら良いのではないか、とも思える。
だから、運命と言う時、だれかの言葉ではなく、自分で決めるべきだ、と言える。誰かに運命と言われたから運命だと思うのではなく、だれにも何も言われなくてもそれを運命だと信じるべきだ。もし、信じたければ。
だが、それならば運命と呼ばなくても十分ではないか。わたしがそう決めた、というだけで十分な気がする。
神の存在はまだ証明されていない。そして存在しないことも証明はされていない。そもそも神とは何かという定義さえ決まっていない。
それでも我々の世界に神はいる。いると呼ばざるを得ない。人は人を殺すのにさえ神という理由を必要とするだの。もし神がいなければ、別の理由を見つけるだろう。それは世界にとって不幸ではないか。
この世界には70憶の人間がいる。だから少なくとも70億分の1よりも大きい確率なら何が起きても不思議はない。誰かが経験する。その程度では奇跡とは呼べないのである。