東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 中間報告
http://icanps.go.jp/post-1.html
これは2011年に日本語で書かれた文書のうちでは最も重要な一つだろう。少なくとも作成者たちにはそういうつもりで書いたであろうし、読めばそう感じる。
これはもう一つの文学だ。いっそ小説にしてくれればいいのに。そういう感想が浮かぶ。
3.当委員会の基本方針
基本方針、ポリシーは困った時に必要となる。その存在が自分自身の矛盾と対話し検証する視点となってくれるから。
事故当初に重要な役割を果たした非常用復水器。これを巡っての混乱とお話は報告書としても読み物としても第一級のものだし示唆に富む。
報告の混乱と言えば坂の上の雲での乃木第三軍の報告の挿話を思い出す。
戦争における報告の重要さは、太古から今も変わらない。情報は錯綜、誤報、混乱する。情報は常に等しく不確かである。
それを時間軸で並べ検証を重ね情報の取捨選択を繰り返す。捨てたものを拾い、拾ったものをまた捨て、その繰り返しで組み立ててゆく。
それが言わばストーリーだ。ある時には存在しない情報を仮定のもとで作り上げてみる。時には矛盾する情報を突き合せて合理的な判断はどうであるを探る。
先日、出鱈目なストーリーを作り上げた検察官の裁判が行われた。その被害に合ったのが政治家だったのがまだ救いである。無辜の国民であればその罰は一人の命程度では償えぬ。
それが原子力発電所事故で起きれば被害の程は尋常では済まない。スリーマイル島もチェルノブイリも事故の切っ掛けはストーリーの読み違えだった。
報告は混乱に比例して混乱するものだから軍隊での報告は一つの参考になるだろう。だが僕はそれを知らない。
報告は、する側よりもされる側の方がより多くの難しさを持っている。聞く方が欲するものを普段から発信していなければ書く方だって何を書けばよいか分からない。
事実が分からない中での報告の書き方で誤解を与えにくい、要領を得る、取捨選択が行える、後から思い出せる、そういった書き言葉のあり方については常に考えておいて損はない。報告書とはどうあるべきかをもっと考えておく必要がある。
本当の混乱の渦中では報告は悲鳴で上がってくる。 文章などに残らない、それが更に混乱に拍車をかける。
Ⅳ 東京電力福島第一原子力発電所における事故対処
このレポートには、「合理的」、「推認」、「考え」、「判断」の語句が頻繁に出てくる。 当時の状況で合理的な判断であるなら今から見ればそれが誤りであっても責めることは出来ない。 この一点において彼らは検証を重ねている。それは自分がその立場にあってその責めは妥当かと問う事に等しい。僕はこの立場を完全に支持する。
もう一度同じ事を繰り返した時にそれは回避できたか、それとももう一度同じ事をやってもやはり同じ結果に終わるかは大切な視点であろう。
ヒアリングから時系列に事象を並べながら一つ一つ検証する。その判断はその時の状況から見て合理的であるか、その考え方は後からみても妥当と考えうるか。
結果ではない、その時々の合理性こそが勝負の分かれ目であり、今から問われなければならない。
時系列に並んでいるので、このレポートはそのまま24のドラマになる。しかしこの報告書は紙のレポートの電子化に過ぎない。
そのため建屋がどうなっているのか、それぞれの位置関係はどうなっているのか、もっと理解しやすい電子文書にしつらえる事は可能ではなかったか。読み物とすればそこまでの理解は必要ないが、報告書として見るならば電子媒体としてもっと工夫した資料が用意できると思う。
例えば、建屋を3Dで見せ、時系列的に誰がどこからどこに移動したのか、その時、誰はどこにいたのか、その場の放射線量はどの程度の汚染だったのか。これらをアニメーションにして見せる事は可能である。歩いた経路、位置、時間帯などを時系列順に並べ静止した図面ではなくコンピュータによるシミュレーションにする事は可能であろう。
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