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2012年4月4日水曜日

民間事故調 - 福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 之2

最初に手にとって数行を読んてみた。まるで日本書紀のようではないか、と感じた。

この事故については日本書紀のような記録と古事記のような物語の二つが用意されるべきだと考えている。政府、国会、民間、それに個々の研究者によって日本書紀が揃う事は疑いようがない。だれが古事記の稗田阿礼となるや。

購入して読んでいく内に、これは東京電力を陸軍にするつもりではないか、と感じた。このような感想は文章のちょっとした箇所で垣間見れる表現に対して敏感に湧いてくるものである。

事故は、政府も東京電力も福島第一発電所でさえも誰も正確な情報など持っていなかった。それ所ではない、最前線で作業する人達でさえ何が起きているかを知り得ていない。岡目八目と言うが遠くから見ている者も何が起きているかまるで分かってはいなかった。

この様な状況に生きている間に立ち会えるなどそうそうはない。と思ってみたりもしたがそんな事もないか。生きていればそんな事、大きい小さいの違いはあれども出会ってばかりだ。

本質的に言うなら人は何時でも正確な情報など持ち得ない、それは原理的な迄に。普段の状況ではそれで致命的にならないだけでより過酷な状況ではそれが命取りになる、シビアアクシデントと呼ばれる訳である。

誰もが自分に出来ない事を人に要求してはならない。というのは正しいとは言えないが、出来ぬことを要求するのであれば、見返りが必要だ。自分がその場に居たとして、当事者よりももっと上手くやれたのだろうか、と問うてみる。自分なら出来た、と言える正直ものは幸いだ、馬鹿ではないから。

当事者には振り返って後悔をする権利がある。長い間、思い返しては身震いするような後悔というものを幾つも持っていないようならそれは嘘だろう。正直であれば、誰も自分に責任がない、とは言えない。しかし、責任を負うて生きてゆける程に誰も強くはない。誰もが自然に記憶を作り出してしまう、それを非難出来る者などどこにもいやしない。

その上で、責任も罰も問わない、次に繋げるために語ってくれ、と言ったのが政府事故調である。この報告書の「Ⅰ はじめに」は大変に良く出来た文章であって一つの名文ではないか、とさえ思う。

東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の報告書
http://icanps.go.jp/
http://icanps.go.jp/post-1.html
http://icanps.go.jp/111226Honbun1Shou.pdf

坂之上の雲に次のような台詞がある(巻5、頁126)。

そういう砲牆づくりは、いくさが終わってからやれ。いまはいくさの最中だ。

最終的に報告書というものは常にそういう類いのものだ。考えられる限りを網羅し、それぞれを点検する、提言する。事故対応に問題があるのと同じように、報告書にも問題は残る。過酷事故の対応には問題が見つかったが検証報告は完璧である、は有り得ない。

基本的には、事故を起こした当事者達に批判的であろうとする。この理由は平明で批判的でなければ馴れ合ってしまう恐れがあるからだ。誰かを庇い、同情し、恣意的に見方を変えてしまうことを怖れる。

それを実現するための方法には幾つかある。最も効果的な方法の一つが、敵対する勢力に調査させるものだ。この方法は強力なバイアスと公正さで疑問の残る方法だが一つの指標になる長所がある。敵対する勢力からの批判をも網羅した報告書であれば、視点に欠けた所が少ないと言う事だ。少なくとも今回の事故の報告書では原子力発電所に反対する人達の疑問点や意見を網羅しておく事が肝要であると考える。

政府事故調は、当事者の責任を追及しないと言うスタンスを取った。この事故調査は、独立した第三者、民間という視線で見るという方法を取る。この視線の肝要な点は、政府からも東京電力からもバイアスが掛からない事を立場として宣言している事だ。

であるからこの報告書が正しい、という話しではない。報告書はこうして己れの立場を説明し公正さを説明しようと試みている。これらの報告書は当然、これから稼働しようとする原子力発電所のストレステストにも影響を与えるべきである。

少なくとも、他の原子力発電所では以下の点をクリアする必要がある。

東日本大震災と同程度の地震と津波を受けた場合に発電所の被害はどの程度と予想されるか。その結果、福島第一発電所よりも被害の激しい場所は再開を再考する必要があると考えて良いだろう。

次に外部電源の喪失、ディーゼル発電機の故障、非常用復水器(IC)の停止。この状況から復旧する手段が何通り用意されているか。それぞれはどのような状況まで使用可能であるか。これがなく、またロバストネスが弱い場合は再考が必要であろう。

更に緊急時のベントが必要となった場合、どの程度の放射能汚染が想定されるか。福島第一発電所も放射性物質を取り除いた上でのベントをする機構が備わっていた。しかし今回はそれが使えない状況でのベントを行ったために被害は尋常なく広がった。これと同じ事が起きないためにフィルターなどの設置が必要であろう。

このような疑問に対してコストや現実性に関する議論がいる。勿論、地震や戦争がもたらすもっと破壊力の甚大なケースも想定される。どこまでを考慮しどこからを捨てるのか、どのような破壊の時に更に激しい被害が生じるのか、研究と対処が必要であろう。

しかし、大量のエネルギーを消費する国家において原子力の利用は避けては通れない課題である。また我々は将来、宇宙へと行く。その時に原子力は依然として有望なエネルギー源である。研究を途絶えさせてる事が我々にとって必ずしも良い事とは思えない。

敗戦が戦争を放棄させたように、事故が原子力を放棄させるのか。それが正しい結論であると言い切る自信は僕にはない。逆に歩みを止めるなという思いの方が強い。しかしそれが原子力に取って代わる新しいエネルギー供給の技術開発が停滞してよい理由にはならない。石油が枯渇しないとしても我々は天然の石油への依存からは脱却する方向に進むべきだ。

風力、太陽光、太陽熱、地熱、マントル、海流、波力、潮力、振動、あらゆる運動や熱源が代替として研究されている。炭化水素を生成する藻(石油を作る藻)の発見、実用化、などこの事故は確実に我々の背中を押している。もし後押しされても動き始めないとしたらこの災害で亡くなった方々はどうやって成仏すればよいのか。

新しく踏み始めるその一歩はそのまま念仏でもあるのだ。
大地を踏みしめるその足音はそのまま祈りの言葉でもあるのだ。

所詮は蒸気でタービンを回す機械である。薪であろうが、原子力であろうがやっている事に変わりはない。こういう問題について考える切っ掛けをこの事故は与えてくれたし、これらの事故調査報告書があるから、我々も色々と思いつき考える事が出来る。


勝負は戦う前についている、とは孫子の言葉であったか。同様に、この災害は起きる前に勝負はついていた。あの施設ではどうあっても斯くの如し。

それでも消防車のポンプから給水するラインを設置した後でこの事故が起きたのは幸いであったろう。もしそれが設置される前にこの地震が発生していたらと考えてみるのは無駄ではない。

起きる前の有罪がある、起きてからの有罪がある。
それを十分に検証する態度は全くに正しい。

菅直人の長所は同時に短所でもある、と言うような事は分かりきった事ではないか。ここは長所であった、ここは欠点であるから改めなければならない、とする。こんな平易過ぎる結論があろうか。それは一人の人間を人間であってはならない、と言うのに等しい。

後から見れば、欠点は幾らでもある、それは次に向けて見直すべきだ。そう、それはいくさが終わってからやればいい。

個人の問題をどれだけ追及しようが此れ程の大規模事故ではたかが知れている。一人で何かができるような状況は既に超えている。誰もが濁流に飲み込まれてそこで足掻いていたのだと思う。

我々のシステムは欠点を持つ、それは過酷事故で表出する。個人で背負いきれないから組織がそれに対する。詰まる所、この事故について調べるというのは、我々の組織について考える事と同じだ。我々の組織は、この事故とどう向き合ったか、だけではない。事故の起きる前から組織としてどう向き合っていたか。

では日本の組織とはどのような性質を持つものであろうか。それを検証するには、アメリカやヨーロッパと比較してみるのがいいだろう。

例えば、アメリカやヨーロッパは個人主義であって家族と暮らしたい、看病したい、リタイアする、と言った理由で会社を辞める。日本では考えられない話だ、日本は組織で動くから大きく違うというイメージがある。

しかしこの見方は全く逆であるように思われる。日本は元来が組織的ではなく、多くが個人に依存して出来ている。組織的と言うのは、人を部品のように置き換え可能であるものを言う。そのための仕組みが出来ている体制を組織と言う。ヨーロッパやアメリカでは、これがしっかりと出来ている。マニュアル化、手順書、連絡等のルールを決め、それを徹底して標準化する。

何故、標準化しそれを皆で徹底するのか。個人に依存しないためである、誰かが辞めた瞬間に何も分からなくなる事を怖れるが故である。標準化を徹底すれば、それを知る者であれば、置き換え可能である。有能、無能の差など標準化の前では小さな差に過ぎない。

一方で日本の組織はそうではない。人間は置き換え可能ではない、何も知らない所から育て、経験させ、成長し、一人前になる頃には本人の個性と相まって、もう置き換え可能な人材では無くなっている。日本の会社は共同体であると言うが、逆に言えば、それ故に組織的ではないのである。個人の違いに非常に敏感であり、置き換える気もない。共同体であるが故にそこから抜け出すのも困難であり、それは組織的とは言わぬ。

ヨーロッパが組織的であるなら、個人的な繋がりで組織を作ってきたのが日本である。そのどちらがよいか、ではない、日本は古来から個人を中心に動いてきた、と言う事だ。これらの違いが言語によるものなのか、歴史によるものなのか、宗教によるものなのか。

アメリカの大統領は4年できっぱりと止め残りの人生は自伝を書いたり講演で暮らす。日本では総理大臣を止めた後も政治家であり続ける。これは民族性の違いであろうか、勿論、そこには組織の違いが影響しているのだ。本来、組織に於ける地位や階級は実効力の為にある。ある目的を成すために地位を与える。

そこで力を発揮するために彼の下には階層構造の人間のピラミッドが生成される。彼はどのような人をどこに当て嵌めるかを自分の権限で行う。組織が円滑に動くためにも嫉妬は恐ろしいものだ。無茶は出来ないが自分に与えられたジョブをこなせないと考えるなら大鉈も振るう。そういう事を加味しながら人を配置してゆく。

世界には様々な利点と欠点を持つ組織がある。もし同様の事故がアメリカで起きれば、ヨーロッパで起きれば、中国で起きれば、中東で起きれば。そういう事を考える事も、もう必要な時であろうし、そのためのシナリオが一つ生れたんだ。

爆発したチェルノブイリ原子力発電所と爆発しなかった福島第一原子力発電所で少なくとも二つの異なる発電方式で起きる事故のシナリオを持つに至った。これは世界中でシミュレーションされるべきもので、報告書はそのための重要な資料となる。

組織としてどうであれば、このように酷い事にはならなかった、と議論してみるのも悪くない。だが、それは恐らく次の If には使えないと思う。我々の社会も組織もその If で動きが変わる程には幻想的ではない。どのような動きにも合理性と効率性があり、そこに対して我々は私達の組織として対応してきた。

アメリカでは考えられない、それもそうだ、だがアメリカでも、日本では考えられない様な失敗を幾つもしているのである。お互いに相手の失敗を見て笑うのは良い事だ。だが、相手の失敗を我々は繰り返さない、と言う事は相手が夢想だにもしない失敗を我々はする、という事でもあるのだ。

人をどうやってコントロールしてゆくかは組織としての在り方に影響を与える。我々の社会は、組織は、災害の前で敗北を喫した。勿論、何もしていなかったわけではない。建設から40年も経過した原子炉に対して安全性は建設当時と比べようもなく遥かに高くなっている。たゆまず改修してきた経緯が存在するのだ。

堤防に対する見直しも始まっていた。それについて議論し始めたその矢先に大地震が起きた。自然は我々の歩みを待ってはくれなかったのである。もっと早く動いていたら、という悔いは残る。速く動けなかったのは、我々の組織の在り方の問題であろうか。

そこが上手く分からない、振り返れば転機は幾つもあったはずだろう。そこを素通りしてしまった。それは僕達が愚かだったからか、組織の構造が抱える欠陥であったか、人材が不足していたからか、他の国ならこうはならなかったのか。

過去に学ぶとは案外と難しい。今なら簡単に指摘できるような事が当時は誰の耳にも届かなかった。未来を見せて説明すれば誰もが納得する事に、当時は誰も疑いを持たなかった。

それは、今も変わらず同じだろう、と言う確信だけはある。我々の前にあるものは、目にはっきりと見えているようで、実は暗闇の中らしい。

さて、僕は菅直人が総理で良かったと思っている。と言うか起きた事は一度きりである、取り返しはつかない、と言う事をまざまざと味わっている。

目が覚めたらあの時に戻っていてほしい、今さら、もしあの時に、と言ってどうにかなるようなら、幾らでも反省すればいい。だが、どれだけ見つめようとも時間は巻き戻らない、それが得心できれば反省などに何の意味があるだろう。

ただ落ちた木切れを拾い集め、家を建て直して行くしかないのではないか。想う所もある、悔しい所もある、合点がいかない所もある、どうしても知っておかなければならない事がある。

そのためにこの報告書がある。

それをそれぞれの人が追及するために存在する数多の報告書の一つがこれである。

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