ちはやふる4巻に次のセリフがある。
綿谷先生とまた会える。
じいちゃん
おれ
かるたが好きや
これは、長くかるたから遠ざかっていた新がもう一度かるたを始めようとするシーンだ。このシーンを読むと、僕は「ヒカルの碁」でヒカルが佐為と再会する場面を思い出す。
いた・・・
どこをさがしてもいなかった佐為が・・・
こんなところにいた―――
この二つは、どちらも止まっていた時間がもう一度動き出す瞬間を描いていて、いつもと変わらない空や町の風景の中に二人の心だけが涙となる。とても良く似ている。
二人とも大切な人を失い、そこに自分のエゴを見つけ、自己嫌悪の中に閉じこもっている。それを再確認し、許されることで一歩進もうとする。
何が二人を許したか。
もう一度、失った人と会えること?
違う、たぶん、それを知る他の人、第三者が必要だったのだ。そこから自分を引き上げてくれるのは、自分の伸ばす手を掴んでくれる人がいてこそだ。一人で悩むのを止めた時に、許された、それは、物語が少年時代に別れを告げた瞬間でもあった。
きっかけは、ただのおじさんで良かったのだ。そのおじさんは、ただの第三者であったか、ただの脇役であったか。一見そうみえるそのおじさんも彼女が描けば物語がある。そのページを眺めているとおじさんにも物語があるのだろうな、と思えてくる。
この人の描く漫画には、他の漫画とは一風変わった印象を受ける。ちはやふるだけではない。クーベルチュールやハルコイでも同じ印象を受けるのだ。
それは、この物語を何回か読んた後でいいから、是非、背景に描かれたすれ違うだけの人に目を配ってみることだ。その表情やファッションを見ていると、その人の物語もまた描かれている事に気付く。誰一人として脇役などいない、逆に言えば、この漫画に主人公と呼ばれる人はいない。
これがこの作者の描写だ。
何気ないクラスメートたちが、それぞれの人生を歩んでいる様が、何気ない一コマのなかにも描かれている。それぞれのクラスメートが卒業してそれぞれの人生を歩み家庭を持ち、そしていつか再会するんだろう、そんな思いが読む人の心の中に湧きおこる。
全てのキャラクターが全て生きている。主役も脇役もいないこの漫画の、これがこの作者の驚くべき力だ。
それと比べれば、彼女の盗用事件など詰まらない話だ。決して絵が圧倒的に上手いわけではないこの漫画家をそれでも漫画家たらしめているのは、それでも絵でしか表現できないこの漫画自身の描写の魅力なのだ。
トレースしても気付かれなかったと告白している漫画家がいる。その発言に何らメッセージを込めていないとは思えない。
彼女は、少しだけ上手すぎたという所か。もう少し下手であれば、誰にも気付かれなかったかもしれない。
基本を問えば描写とは表現の問題であり、盗用は経済の問題であろう。自分の描写を自然から拝借しようが、人の作品から拝借しようが、基本的に表現とは関係ない。表現とは、一場面をトレースしたからといってどうのこうのなる話ではなかろう。
贋作を贋作たらしめているのは、芸術への評価という経済問題に関するのであって、作品の本質とはなんら係わりがない。贋作のほうが優れて芸術的というのは、ありうるのだ。だからといって、芸術であれば優れているという訳ではないのであるが。
本を売ってお金を得ることと、表現の間に断崖がある。表現したものでお金を得ているが、そこに合理的な正当性はない。少なくとも作品の価格は市場が決めるのであって、作品とは関係ない話だ。
お金を払ったものが盗品では困るというのは社会の要請に過ぎず、表現とは関係ない。自然から掘り出した石に価格を付けることと、手が描いた図形に価格を付けることは同じだ。盗品であろうが殺略の果てだろうがその石になんの違いがあるだろう。
もともと、価格など付けようがないものに価格を与えるのが経済なのだから、人が多かろうが、少なかろうが、本質、価格とは言い値に過ぎない。
作品ではなく、その背景に興味がある人は、ただ、類似点を探し、似ているから盗用だといい、盗用であれば悪と言う。商業においては悪であることと、作品が悪であることの違いなど一生考えてみないのだろうか。今の所、そういう人たちは自分を売り込んでいる人としか呼びようがない。
それでも、この不都合な盗用やトレースという出来事は、我々にとっては幸運であった。
二年間、作品が発表できなくて、過去の作品は絶版となり、作者は苦しんだだろう。その苦しみのおかげでこの漫画と出会えたのだから。読者である僕らが何の苦痛を受けたというだろうか。待っただけの価値は十分にある。
もしかしてこの作品と出合えていなかったかもしれない、と思えば、不幸も事件も僕達にはそれでよかったのだ。
これだけの作家の作品であるならば、これからの漫画の一つ一つが、絶版となったものを再販させてゆくだろう。問題とされるシーンは差し替えられるだろうが、それは出版社と作者の問題だ。古本であれ、再販であれ、それらを読めるならどちらでも差支えない。僕は、手垢で汚れてボロボロになった少年ジャンプを回し読みして育った世代である。
物語がどのように紡がれるかは、製作者の工夫であり、百代あれば幾千の技があるだろう。それを我々が垣間見ることはあっても、工夫も語り尽くすことなどできない。あるいは本人でさえ、それを説明する能力は、範疇を超えているかもしれない。
作者の人生が、人との付き合い、読書から得たもの、自然の中から見たもの、町の風景、作り出した物語、そういったもので紡ぎだされた物語は、まるで一つの人生を再構築したかのように魅力に溢れている。
どのコマにも物語を持つ人がおり、それぞれの人生のなかでちはやふるという物語と係わりを持っている。それがページの一つ一つを埋めていって、日々の生活が出来上がるのと同じように、この漫画は動きだす。
読んでいれば誰かの生活が始まるのと同じように、漫画が始まる、そして漫画が動き始める。漫画が動く、という表現がぴったりくる。
この漫画は動く。
キャラクターが動いていると言うよりも漫画が動いている、という語感が良く似合う。これはアニメーションの話ではない。
ある作家が精力を込めて一コマ一コマを仕上げた、彼女の息吹であり、歩いている道なんだと思う。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
誰をかも しる人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思う
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
すみの江の 岸による波 よるさへや 夢のかよひ路 人めよくらむ
田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
わたの原 こぎいでてみれば 久方の 雲ゐにまがふ 沖つ白波