「機動警察パトレイバー the Movie」や「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」など劇場公開された作品もあるし、「恋におちたら〜僕の成功の秘密〜」も天才プログラマが主役となったドラマだと思うが、プログラマが主役であってもコンピュータサイエンスやエンジニアリングが分かりやすく、しかし重要なファクターとなるシーンはあまりお目にかかれない。
ましてや、具体的なコードが登場することなど、あまり期待できない。プログラマなら爆笑もののバグの一つや二つは知っているものだが、同業者以外に説明して理解してもらえるかは疑わしい。「踊る人形」の暗号のように面白さの核心となってもいいんじゃないかと思う事もある。
もし、あなたがゲームのクリエータやプログラマなら、この漫画に魅かれるかもしれない。
主人公の一人は、あなた自身でもあるから。
もし、あなたがそうじゃないなら、この漫画に魅かれるかもしれない。
主人公の一人は、あなたと同じ立場だから。
もし、あなたがゲーム好きなら、この漫画に魅かれるかもしれない。
この物語そのものがゲームだから。
大東京トイボックスは、主人公、天川太陽と月山星乃の恋愛を織り交ぜながら、彼を中心としたスタジオG3が業界最大手ソリダスワークスと仙水伊鶴の嫌がらせにも負けずヒットゲームを作るガッツと根性の物語。本当の主役が、ゼビウス(XEVIOUS)ってのは内緒。
さて、大東京トイボックス(1~6)は、東京トイボックス(1~2)の続編として出版社を変えて発表された物語である。東京はモーニングでの連載を2巻で終え、大の字を付して再開した。
東京トイボックスと大東京トイボックスのこの二つの物語は、同じ世界に存在する。登場人物、会社、世界観は変わっていないので、連続した物語として読むべきである。実際、東京トイボックスを読まなければ月山星乃が社長をしている理由は分からない。
だが、大東京トイボックスの Volume 2 と東京トイボックス Volume 2 の最後に出現するデジャヴのようなシーンに気付くと、作家の悔しさや意地や自信が感じられ、どうして同じ場所に戻って来たかったのか分かるような気がする。
別々のルートを辿りながら、同じ場所に立ったのは、弔い合戦のようであり、リベンジのようでもあり、再チャレンジの成功の証のようでもある。まるでゲームオーバが悔しくて、もう一度同じダンジョンに挑んだゲーマーのようだ。
前編とは異なり百田モモというキャラクターを新しく登場させ、攻略ルートは変えながらも同じダンジョンの前に戻ってくる。ここは絶対に通らなければならない先に行けないルートだったというわけだ。つまり、大東京トイボックスは、ゲーム開発の話だが、この物語自体がRPGになっている。
イベントが発生し、会話でフラグが立ち、次のキャラクターと出会う。ラスボスはどこか、どういうマップがあるか、もちろん、過去への転送なんてマップも準備されている。気付かないだけで幾つものフラグがマップ上に隠されているんだろう。
この物語自身が、作中で中心となっている「ソードクロニクル」というゲームなのかもしれない。
クリエータが存在しゲームを作っている世界が、実は作者によってプレイされているRPGであるという二面性は面白い構造だし、読者はただ作者のプレイを覗き込んでいる、という構図もよい。
しかしながら、RPGだから本書が面白い、というわけではない。
彼らが共産主義者を攻撃したとき
私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき
私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
彼らがユダヤ人たちを連れていったとき
私は声をあげなかった
私はユダヤ人ではなかったから
彼らはついに教会を攻撃した
私は牧師だったから行動した
しかしそれは遅すぎた
ニーメラー「First they came for the communists」より
Volume 5 の最初の扉絵はこんな印象的な詩から始まる。
これは作者の「表現規制」に対する強い想いなのだろう。
時を同じくして東京都は、東京都青少年保護条例改正案(通称、非実在青少年条例)を提出した。
この問題で反対を表明する作家や出版社は多かった。これは条例なので東京以外の地域では、何ら影響を与えるものではない。しかし、誰も東京都から出ていこうとはしなかった。
住み慣れた街を離れたくない、生活が不便になる、売上が落ちる、確かにそれには理由があるのだろう。売上が落ちるより大切でない表現の自由だった、という事だろう。
反対の表明は、声をあげたことになるのだろうか?
児童ポルノの背景には、人身売買がある。これを取り締まる有効策がない場合、需要側をターゲットにした規制は自然の流れと思われる。
ここで、実在するだけではなく、架空世界への規制まで広げることは、その土壌を断つ、という理念の延長だ。これは、雑草を駆除したければ、畑をコンクリートで埋めてしまえ、というのと同じ論拠だろう。
児童ポルノがヒトの潜在的な衝動であるならば、全てのコンテンツを隠したところで問題が解決するはずもない。科学的根拠が発見され、児童ポルノを嗜好する遺伝子を操作して解決を図ろうとするかもしれない。精神医学は、嗜好を抑える有効な治療を見つけるかもしれない。
人に手を加える方向は増えるが、児童ポルノを規制する根拠は一度も揺るいでいない。誰もその根拠を確かめることもなく、絶対悪とする。これでは停止した正義ではないか?
それでも世界で起きている事を看過する事はできない。なんらかの規制が必要であることは明白である、と。例えば、写真はダメだが、絵や漫画なら許可をする、とか。
いずれにしろ、規制をする者の判断が不透明であることが恐怖なのだ。権力が判断するものは、それが公平であることを担保しなければならない。
個人の恣意や好みだけで判断されたら適わない。その判断が公正であること、妥当であること、公平性を保証する手続きは何であるか、それが公開されなければ、この取り締まりも認められない。
問題は裁判で争え、ではなく、誰もが認める運用設計を要求する。
そうでなければ、出版社は、自分たち自身で規制することにより法案化に対抗する。
これは自主規制になるのだが、さて自分たちでやるにしても誰かが判断下している。その公平性は?自主規制ならば、公平性を公開する必要がない、というのなら問題の本質は何も変わってはいない。
誰もが口をつぐんだだけだろう。
そうやって問題は解決したか、Noだ。問題とは関係ない場所に移動しただけだろう。誰もが人身売買の片棒を担いだとは思っていないし、そんな気で仕事をしてもいない。だが、もうそうなら?そうなっていたとしたら、どうする?
日本でも人身売買は行われているだろう。だが、それがニュースとして報じられる日は来ないし、問題意識にもない。今は、忘却していてもいいかもしれない。
しかし、この漫画の中では、既にこのフラグは立てられている。既に、作中では誰の責任でもない不幸が起き、その当事者達が一堂に会しているのだ。その中心は、「ソードクロニクル」である。
Volume 6 までは町の中でのイベントに過ぎなかった。やっと町の外に出て、本当のゲームが始まる、と僕には思われる。面白いのはここからだ。
追伸
本書には随所にいろんなオマージュが散りばめられている。それらを見つけるのも楽しいかもしれない。
本書には随所にいろんなオマージュが散りばめられている。それらを見つけるのも楽しいかもしれない。
追伸2
仙水伊鶴というキャラクター、どこかで見たような気がした。パトレイバーの内海課長だった。典型的パターンとして確立されたのかな。
仙水伊鶴というキャラクター、どこかで見たような気がした。パトレイバーの内海課長だった。典型的パターンとして確立されたのかな。