229段
よき細工は少し鈍き刀を使ふといふ。妙観が刀はいたく立たず。
使い古したサンダルを洗い、日に干す。そして履いた感触は、インソールがほどよく毛羽だって感触も心地よい硬さとなって、これは妙観が刀はいたく立たずだと思った。その次の日、サンダルは踵の所の穴が開いた。灯滅せんとして光を増す。
刀というものは玉鋼を繰り返し折っては叩くの繰り返しで作るが、備前長船刀剣博物館で学んだ限りでは、これが層を作る。これを砥ぐ事で波状の文様が生まれる。地表に出現してきた地層を洗う波が如し、砥ぐ事で鉄の面白みが模様となって現れる。
軟らかい芯となる心鉄(しんがね)と硬い皮鉄(かわがね)で刀は構成されるが、彫刻刀なども同様らしい。と言っても妙観の刀を知る由もなし、まして刃物を知る訳もない、詳細は知らない。
使えば使うほど研げば砥ぐほど次第に刀は小さくなってゆくものだし、鋼の部分の比率も変わってゆく。刀鍛冶の作業を考えるなら、最初期であろうが、ちびて小さくなった時であろうが、そう大きく鉄の組成が変わるとは思えない。
とは言え、最後の方にはこれ以上は用をなさない程度しか残っていない訳である。その時の手になじんだ切れ味が良いと主張する。何度も何度も使う内に鉄が鍛えられてたのか。木を彫る度に刀鍛冶が鍛えるのと同じように鉄が締まっていったのか。
使うほどに刀の切れ味が悪くなると自然と考える。しかし刃先の事をどれほど知る訳でもない。刃先がちびてゆく過程のどこかに丁度良い使い慣れて使い勝手が良くなった切れ味というものも存在するだろう。
とは言え、刀鍛冶の力加減も鉄の組成も全て同じだった訳ではあるまい。作った全てが業良き物という訳にもいくまい。工業品よりは高い精度だとしても出来不出来は生じる。一振りの中でも原子の配列が均一という訳でもなかろう。それぞれの個性というものが砥ぐ度に段階としてあり、その変化に即した使い方に上手になってゆくというものもあるだろう。
最上の切れ味もあるだろうし、心地よい切れ味もあるだろう。独特の味わいが語ってくるものがあるにしろ、削る音の快適さは使う者にしか聞こえてこない。
鉄の硬さは炭素との化学変化だから焼き入れ、焼き戻しで硬さと脆さが調節されている。表面と内側でも反応は違うだろうし、研いで行けば埋もれていた地層が出現し、そこには鍛えられた時の儘の状態が残っている。空気に触れた瞬間に何らかの反応が起きるとしても不思議はない。それが使い終わりの丁度よさに結びついたとしても不思議はない。
使うほどに何とも言えない味わいが出て来る、最後まで使う事で、その刃物はひとつの寿命を終える。鉄の原子は環境の中へ戻り時の円環の中を漂う。刀鍛冶は切れ味など求めない。仏師も切れ味など求めない。目の前に刀がある、それが良い出来かどうかを問う。それは自分の技に叶うものか。
兼好は1350年の人で妙観は780年の人だと言う。同名の仏師は死ぬ程いたであろうから、どの妙観について語ったかは知らない。使い古しの刀が残っていたかもかも知らない。
兼好も刀の上手であったという話も聞く。ここに立ち上るのは細工する姿ではなく、ぽんと置かれた静かな刀の姿だろう。
色々と思う事はあったが書くのは止める。その思った中にはあなたが思った事もあるだろうし、あなたが思わなかった事もある。しかし全て無駄だと悟った。この無駄と結論した理由をどうぞ推し量って下さい。
それを書かない理由さえ書きません。彼はそれが自明だと思ったのか。それともその方が刀の美しさに似ると思ったのか。
少なくとも書かない、または書いてはならないと信じた訳である。書きたい誘惑はあっただろう。だがその形骸だけをここに残しておく。その空洞に、書いてない全てがある。そしてその全てを無駄と信じた。聞こえてくる刀鍛冶の打ち出す音が、火の中へ消えてゆく。
幾ら削いでも、辿ったであろう経路を追いかけて、解釈し、検証し、補足を加え、義解を書き、全景を見渡す事は可能である。解説し、省略し、置換し、類推し、形は水のように変わってゆく。
必要ない、その全てを解き明かそうと、間違っていようと、この経路を辿る限りは、凡そどこかには辿り着く。その道案内を見る様では間違える。消えた音を掴む事は出来ないのだ。
ここに刀を置いておくから、これで君の細工を彫りなさい。それ以外に方法はない。私の作品は彫り過ぎてしまった為に木の欠片さえ消えていったよ。
だからここに刀だけを置いておく。
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