クリスマスが近づいて皆がそわそわしている。
それは気分の高揚であろう。我々ホモサピエンスの脳もある予感のもとに高揚する。その予感が最も優れた種の衝動に基づくものである事は疑いようがない。その行動の結果が種としての繁栄に直結するからだ。
異性であれ同性であれ、触れ合いを欲するのに理屈は不要だ。街中に流れる音楽も気分を高揚する。それは本能として根源的であると考えられる。そうして常に気分を高揚させ最大限の効用を得る努力に向かう。その方が生物学的にも経済学的にも得られる利益が最大となるのだ。
しかし繁殖行動の合理性の中に指の触れ合いが特に必要という訳ではない。もっと言うならキスもどうであろう。クリスマスの独特の雰囲気の中で様々な気分が加速されている。𠮷野屋でお釣りをもらう時に店員と手が触れあう。手が触れたのは単なる偶発だろうか。それとも何らかの意志か、運命であろうか。この満たされるふわふわな気持ちの正体は何なのだろうか。
指の触れ合いでは決して繁殖はない。なのになぜそれが重要なファクターとして脳に取り込まれるのか。
鳥の繁殖行動にさえプレゼントを渡したりダンスの披露がある。爬虫類の繁殖では噛みついて発情を促す事がある。これらは単なる本能的な行動であろうか。それぞれの種に特有な単なる性癖なのだろうか。
もちろん、触れ合いは距離が極めてゼロに近づいた事を意味する。その中で繁殖相手、または恋愛相手の反応を試す事も可能である。その反応を見てその先の行動を決定する事もできる。その情報を得るために脳は何からのきっかけを欲している。
触れ合いの中で何かが決定される。そこに生物学的な不思議はない。
互いの遺伝子の型はフェロモンや匂いで判別する。肌のきれいさは皮膚病の確認である。どの病気に強いかは免疫上重要である。健康で頑強な個体が望ましい。若さはその第一条件である。肌が触れ合うのは体温の確認である。恒温動物はこれで色んな事が理解できる。
繁殖行為の過程で色々な条件に基づき行動が決定される。しかしそこで一端留まる必要はないはずである。なぜ速やかに行動に写さず、いつまでもその前段階で留まるのか。
これを脳が進化の過程で獲得したものと考えるのは早計に過ぎる。生物は無駄を好まない。効率の悪さは多く退化し消えるものである。
魚類のような数で勝負する戦略ではなく、数少なく生んで育てる戦略を採用した生物種は、組み合わせの多彩さで試す事はできない。よって多様性の確保は最初の時点で選んだ相手で決定される。近いものは避ける。遠すぎるても望ましくない。恐らく標準偏差の中央付近を狙う増え方が理想だろう。
この選択を最初にしなければならない。そういう考え方は当然ながら自然である。故に時間をかけるという考え方も可能なのだが、本当に本能はそこまで求めるであろうか。そのような選択に時間をかけるくらいならさっさと繁殖行動に遷移する方が可能性は増大するのではなかろうか。
手の触れ合いとは距離の象徴である。繁殖行為は距離0で成立するのだから、それに近づくのは目的達成の道程である。火星人と地球人は互いにひとつ地点で出会わない限り決して繁殖できない。この距離の壁が生物にとっては最大の障壁である。もちろん宇宙は広く、宇宙空間に種なり花粉を飛ばし繁殖する生物がいないとは言えない。
しかし、そのような生物であっても距離が問題なのである。生物は可能な限り様々な場所への進出を試みてきた。そのための様々な方法を開発し獲得してきた。その結果として、この星の居住可能な場所には、何度かの大量絶滅を乗り越えながら、悉く進出を果たしたのである。
地球の生物にとっての残りフロンティアは宇宙だろう。どれだけの時間を費やしても炭素型生物、塩基配列で構成された地球型生命は宇宙空間に進出できない。蛋白質だけでは足りず引力圏から飛び出す事は出来ない。隕石等への付着や人工物による移動という手段がどうしても必要である。故に人類は細菌たちに生かされている。その手段として。
そのような彼/彼女らにとっては海、陸、空と同様に我々もまたひとつの住環境に過ぎない。
この体表にも体内にも細胞の数を遥かに超える原核生物である細菌、古細菌、真核生物、そしてウイルスが住んでいる。これらの生物は人が生まれた時から死ぬまでこの住環境の中に住み生き増え死んでゆく。
そういう生物種も当然であるが繁殖する手段がある。細胞分裂や有性生殖を行い遺伝子の水平伝播を積極的に採用する単なる偶発的な現象ではない。
進化の為のメカニズムを各自が持っているのである。ハリガネムシはカマキリをホルモンで操り水辺に誘導する。水中に飛び込ませたらカマキリの体内から脱出する。同じように水辺に集まってきた繁殖相手とそこでめぐり合うのである。
この高度に戦略的な誘導方法を彼らがどうやって獲得したかは知らない。しかしこの行動をカマキリはあくまで自発的に行っている。喉が渇いたのか、水に惹かれるのかは分からないが、カマキリが水の中に入る事を熱望している。だから水辺を探して彷徨うのである。その衝動の理由をカマキリは知らない。
トキソプラズマに感染した動物は性格が変わる。例えばねずみは行動が積極的になる。そして怖いもの知らずになる。ネコの匂いにも逃げなくなる。こうして性格が変わる事でねずみはある目的に沿う事ができる。
これらの行動はすべてネコに食べられる為に。その可能性を高くする為に。なぜかと言えば、トキソプラズマの最終宿主はネコだからだ。彼/彼女らはネコに食べられないと繁殖できないのである。彼らにとってはネコの体内に入り込むかどうかは絶対的な要件なのである。
もし宿主が賢くネコから逃げのびれば繁殖する可能性はゼロである。もちろん、排泄物を通して他の生物種に感染したり、空中を漂ったり、水中を泳いで感染する戦略を採用した生物もいる。
しかしトキソプラズマは中間種が食べられる可能性を最大にして繁殖する選択を取った。その方法を見つけたからと言うべきか。どうせ一定量のねずみはねこに食べられるのである。その過程で感染した個体はそうでない個体よりも捕食される可能性を高くしてみた。
ネコは別に寄生した個体ばかりを食べている訳ではあるまい。ただネコの食物連鎖の中に自分たちの循環を組み込んだ。もし食べられ過ぎてネズミが減少すればトキソプラズマも減少する。
という事はある程度の数に抑え込まれるような仕組みが備わっているはずである。莫大に増え、莫大に食べられ、莫大にネコが増えたら、そのような環境は閾値は超える。餌不足が起きて今度はネコが減少に転じる。もしそれが回復不能なら絶滅は避けられない。
つまりトキソプラズマは一定量のバランスが保たれるように進化してきた。バランスを崩せば自分たちも淘汰の対象になる。食べられる可能性が100%となるような働き掛けをした寄生種は早い段階で食物連鎖の循環の中で淘汰され追い出されたと考えられる。食物連鎖を崩さない程度の働き掛けをする種だけが生き残り進化を続けてきた筈である。
感染したネズミが全て食べられる訳でもなく、全てが繁殖できる訳でもなく、このトレードオフによってトキソプラズマは生き残る事ができた。食物連鎖を崩さない程度の働き掛けで均衡する。感染していないネズミは少しだけ生き延びる可能性が上がる。そう悪くない取引だろう。
感染したネズミには残酷な運命な気もするが、他種を心配している場合ではない。このメカニズムは人間の性格にも影響する。トキソプラズマに感染したホモサピエンスは性格が積極的になるらしい。
その性格が、もしかしたらアメリカ大陸を発見する原動力だったかも知れないのである。それが民主主義国家をあの大陸に生み、黒人奴隷という問題を生み出した発端かも知れないのである。
狂犬病を発症すれば水を怖がる。生物が何らかの影響を人間の脳に与えるのは明らかだ。
脳に影響があれば行動や性格が変わる。突然暴力的になったならまず疑うべきは脳腫瘍である。脳腫瘍によって性格が変わり行動が変わり小児性愛になった報告もあるという。老化で前頭葉が衰えば抑制する力が失われ怒りっぽくもなる。
ならば、我々の体表に常在する細菌によって我々の行動が変わったとしてどうして驚けよう。
クリスマスに感じる高揚の理由がホモサピエンスの脳の高揚のせいではないとしたら。その胸のざわつきが、別の生物が体内に放出したホルモンのせいだとすれば。
我々は遺伝子の乗り物であるが、そこには微生物も乗り込んでいるのである。
人間の体表や体内に住み着いた細菌類が化学物質を放出しそれが脳に影響を与えている。その考えがナンセンスな理由はどこにもない。それが他の人との接触を促すホルモンであったとして何の不都合があろう。そうやって他者と触れ合う事を幸せと感じるように細菌が操作しているとすれば、ホモサピエンスはそれに幸せを感じる、細菌たちは新しい繁殖相手と接触する。どこにも不都合がない。
人間の体表に付着した生物が空気を通して偶然に新しい繁殖相手と出会うのを待つよりも、他の同種の個体と触れ合ってもらって互いに触れ合ってくれるように宿主が行動する方が可能性は増大である。そうして接触頻度を増やしRNA、DNAの交換を促せば進化も加速する。
すると、我々の接触や嗜好は、細菌たちの居住区と密接な関係があるはずである。体表に住む細菌は、手の接触を欲するし、口中に住む細菌は唾液の交換を欲するはずである。鼻中に住む細菌は色々な匂いを吸う行為を促すはずである。大腸に住む細菌は排泄物を欲するし、口を使った愛撫も様々な細菌との接触を促す働きであろう。
脳の中でキスをしたい回路があるとか心理的なメカニズムがあると考えるより細菌起因説の方が遥かに説得力がある。少なくともこの仮説に何ら矛盾はない。
だからデートの多くは食事を共にする訳である。それによって常に唾液を介しての細菌の交換が頻発する。そうなるほど精神的な満足感、性的興奮を強く感じるように働きかける。そんな関係に進化してきた訳である。
もちろん、フロイトのように性愛に関する様々な多彩な行動を抑圧という考え方で分析する事は可能である。
我々が最初から性をタブーとしてきたとは考えにくい。犬や猫、近縁の類人猿に見られるのと同様の行動をしてきたと考える方が妥当である。
それが何時頃からか性を隠すようになった。古代ギリシャ時代には既に犬儒派であるディオゲネスが顰蹙を買っているらしいので、公衆という概念はこの頃には既に誕生していたと考えられる。
人類が当初からそうであったのではなく、多くの文化や社会で共通して見つかる理由が必ずある。そのひとつとして豊かになった社会では性愛はひとつの資産となったというものである。つまり所有の考え方の中に性が含まれたという考え方である。所有とは隠す事でもある。リスが木の実をあちこちに隠すのと似たようなものである。
隠すという行為が一種の抑圧として働く。それはある時点でだけ公開が許されたものだからだ。抑圧は前頭葉によって司られている。これを破るには前頭葉の働きを解除しなければならない。その時には神経伝達物質であるドーパミンやアドレナリンといったホルモンが大量に放出されるだろう。
脳がタブーを破ると意識した瞬間から体は戦闘行為を予測し興奮状態に遷移する。この興奮状態とタブーの関係を脳は体験として結びつけ記憶する。ここで禁忌を破る体験は快楽として学習され条件反射となり刷り込まれる。
こうして性の快楽は強化される。しかし、性には重大なリスクがある。性病である。性病が禁忌を強化する方向に圧力をかける。聖書がマリアに求めたものと全く同じと考えられる。病気の多くは人間に由来して起きる。故に人は穢れている。神が穢れている筈がない。よって神の子は人を通さずにこの地に誕生するはずである、云々。
アメリカ大陸から梅毒が持ち込まれてヨーロッパでは更に処女性が貴重となったとしても不思議はない。男性にそれが求められない矛盾はあるにせよ、人々が病気を恐れタブー化するのは確かであろう。
初夜権など不特定多数と関係する事がタブーではない時代がある。それが性病などを契機として危険な行為と認識されるようになる。最初はそこに合理的があった。
その認識は次第に慣習となり常識となって人々の認識に刷り込まれる。こうして清純という価値観が誕生する。清純、清楚は性病の可能性とセットである。都合よくキリスト教圏内ではマリア信仰と結びつき広くヨーロッパに蔓延する。拡散してしまえば当初の理由は消え去って構わない。
タブーを侵犯する時には心理的に興奮状態になる。社会の慣習や信仰が強くなれば、それを破る性癖が出現するのも当然である。抑圧に対抗する蕩尽は快楽が導く。水がどこかに出口を見つけては流れ出す様に抑え込む事はできない。
性病の蔓延に人間はタブーを作り危険な行為を慎む習慣で対抗するしかなかった。ペニシリンの登場まではそれしか方法がなかった。
こうして病に起因する嫌悪は、性、排泄、拘束、死体、腐敗などと様々な人間の生死に関わる部分にあって、病への対抗策がタブーしかない時代に、様々な抑圧を生んだ。それが習慣化し社会の中に浸透していった。そして社会観、家族観は形成されていったと思われる。人間にとって次世代を残す事が最大の対抗策であるからだ。
食欲と睡眠は絶対に回避できない欲求である。だから牧師や僧侶もそれを禁忌には出来なかった。せいぜい不浄な食べ物を規定するしかできなかった。よって抑圧の最大の対象が最も代表的なそして根源的な欲求である性と結びつくのも自然であろう。それが身近にある最もそれらしい答えだった。
その結果として人間が感じる多くの抑圧は性が象徴する事になる。だから、その蕩尽も性を通じて解放される事になる。性行為は時に加虐や被虐、物への執着、肉体と精神など様々な表現型を得る。心理学は性が抑圧された人間の不安に対する最も身近な代替、投影、転移する機能だと言う。
抑圧が時には蕩尽は必須である。そうしなければ脳の回路がどこかで焼き切れてしまう。まずそういう生物的な欲求がある。その解放をどこで行うのか。この抑圧の中には神も紛れ込んでいる。それはある意味では耐える力を伸ばすための補助線だ。
自然の災害、事故、他民族の侵略など我々の社会には不条理で理解不能な出来事が頻繁する。それに回答するのに神という仮説を立てる。死を超えた存在だから神なら解答できる。人の精神を解放し傷を癒し許し生きる力になれる。しかし、神という存在は本質的には抑圧側の存在である。常に人間を監視し命令し試す存在である。
タブーを破る行為には頻繁に性が登場する。宗教が組み込まれると更に多くのタブーを生み出した。習慣、常識、宗教が禁止は、恐らく人間の良識である。誰もが抑圧ではなく良識の中に自分を見出す。
故にそれを破る事には非常な快楽が伴う。その時には強い興奮状態が経験できる。この感覚を受け止められるものは人間の体には性しかなかった。こうして人類社会のあらゆる禁止に対して人間は性によるタブー破りを編み出した。
抑圧と蕩尽という構造は様々な場面で見出されるばかりではなく、抑圧の種類によって社会が求める人々の類型も変わる事になる。その代表が狩猟採集と農耕牧畜の転換であり、S親和者が有利であった時代やその能力が求められる場面があり、また不利となる時代や場面がある。そういう背景が隠されている状況では、人は無自覚にも自分の置かれた場所を運命と受け入れるしかなかった。
しかし如何なる関係であれ、0か100の関係は少なく、人は様々な要因のハイブリッドとして構成され、その働きは更に様々な抑制、圧迫、開放の結果として表現される。
その関係は民主主義の中にも見出せる。まず自然状態という完全な自由が仮定された。これを社会契約の最初の公理として採用する。これにより全ての人が等しく自由状態を持つという前提が民主主義の基礎とした。
人類は自然状態から社会契約によって社会を形成した。この選択の代償として自由の制約が合意される。無制限の自由は存在しない変わりに、暴力は排除され、略奪は禁止され、その違反には罰則する正当性を人々は得た。互いの合意は契約という考えに繋がる。契約とは自由の抑制である。よって罪が契約の不履行であるならば、罪とは自由の行使の事になる。自由は抑圧とセットでなければ成立しない社会が誕生した。
よって社会における自由は、無制限の自由は極めて困難であるが、無限に抑圧された自由は簡単に実現できる。それはある種の人々に対して牙をむく。どの時代にどの自由が奪われたか、それは歴史を紐解くしかないが、その時代の人々はそれを正当であると認識していた。では時代の変遷がどうやってその正当に対して異を唱えたか。
自由の抑圧に対して何が蕩尽であるのか。何が過剰な抑圧、人間を不自由から解放するのだろうか。つまり我々は抑圧された社会の奴隷ではないと主張できる根拠はどこにあるか。
それが権利という価値観であろう。我々は権利を持っているから奴隷ではないと言えるのである。抑圧された自由に対して権利だけが対抗する。
では権利とは無制限の自由であるか。否。権利は抑圧された自由の一種である。権利は常に他人を傷つける自由を禁止する。そのような自由を拒絶する。
しかし、同時に権利だけが抑圧された自由の中から無条件に抑圧されない自由を得る手段である。だから何人も侵すべからざるものとして存在する。それは抑圧された自由に対しての完全な蕩尽としての働きをするのである。
斯様に心理を分析し、社会的なタブーとそれを破る興奮、つまり抑圧と蕩尽という構造を分析した上で、糞便を食す人間の心理を分解した所で、糞便を食したいのは仲間を取り込みたいという細菌から放出されたホルモンの影響の結果であると考える方が余程に簡明であろう。オッカムのカミソリである。排泄物を食すのはコアラや雷鳥など広く生物界では知られた行為である。別に人間がした所で何の不思議があろう。
多くの禁忌は口を伴って蕩尽される。なぜ口が使われるのか。その心理的な理由を探すよりも、口には相当に多くの菌が住んでいると理解すれば十分ではないか。
なによりもそれは細菌たちの仕業なのである。その性癖は別にあなたが変態だからではない。
さて、今年のクリスマスはどの微生物に支配された行為たるか。
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2022年12月18日日曜日
2022年12月3日土曜日
日本陸軍 終焉の真実 - 西浦進、服部卓四郎と昭和陸軍、主戦か講和か: 帝国陸軍の秘密終戦工作
はじめに
陸軍はある目的に沿って作られ、日本人が洗練させてきた組織である。帝国陸海軍が日本を代表する組織だった事は疑いようがない。そして確かに陸海軍は日露戦争でその目的を果たした。そのために幕府を倒し維新を進め科学技術を導入してきたのである。こういう社会的な運命論、目的論は危うい。それは一つの解釈で決定論を構成するからだ。この危うさは結論が間違っているからではない。ひとつの見方に過ぎぬものを絶対としそれ以外を駆逐してしまうからだ。他の考えを全て排除するのは常に危うい。熱が排出できないのと同じ状況だからである。それでもこのひとつの見方はひとつの海図として扱いやすい。
この結実までの道程は幾つもの資料に小説に語られている。近代アジアの奇跡と見る人もいる。長い間の蓄積が江戸時代、それより前の人達の築いてきたものがひとつの到達点に至る。全てはここにこの日の為に。
そして、ピークに達した組織は解体されるのが本来の姿でなければならない。そうであるべきだ。育ち切った巨木は倒れる事で森林を再生する。目的を失った組織がどう自己執着に落ち込むか。そのためにどのような結末を迎えるか。それは避け難い組織の終着である。そのひとつの典型を見る。
国家の滅亡も興隆も世の常であり、死という進化上の必然の要請は別段で語るにしろ、目標を達した後の組織がどのように新しい行動原理を見つけ出し、それが以前とは全く異なる何かに変貌する、その結果としての戦争が来る。
敵国
日本を代表する組織である陸軍をしてあの体たらくの戦争である。あの敗戦である。短期的に見ようが長期的に見ようが、日本が滅びに向かっていた事はどうあがいても避けえなかった。空回りを続ける車軸がいつか燃えるのと同じである。そうして国家は崩壊した。恐らく何度やっても同じ結果である。辛うじて民は残った。他のやり方がなかったとは言えない。しかしそれは北朝鮮のように国体を維持し緩やかな衰弱の選択である。我々の歴史はその道は採用せず乾坤一擲の一撃を放ち穿つ道を選択した。そして返り討ちにあったのである。いやよく善戦したと評価すべきか。
あの当時の人たちでさえ実際は何を相手に戦っていたのかは知らないのである。あの戦争でアメリカに勝てば未来は開けたか。断じて否。仮に戦争に勝っても碌な未来にはならなかった。よくて現在の北朝鮮より少しましなだけの軍国体制をアジアの一角に築き、軍事的要塞を目指すしかなく米ソの対立の間で中立を維持するのがやっとであったろう。地政学は日本列島にそのような猶予を与えない。よって何度目かの衝突のすえ、どちらかに支配されるのが妥当であったろう。
我々の行動原理は何も変わっていなかった。だから同じ戦争を繰り返した。それが通用しなくなったと知る為に300万人の血を必要とした。
確かに目先の敵はアメリカやソビエトであった。確かに目の前に見える敵の軍艦はアメリカの旗を掲げていた。だが現実的にアメリカという国家の事は何も知らなかった。その国民性も文化も人となりも行動原理も。それはたまたま目の前に表れた現象に過ぎなかった。世界を見回せば敵として一番ふさわしかった。だから敵であった。
先ず戦う事を先に選択したのである。その次に相応しい敵を見つけたのである。この順序でアメリカを選んだのである。
誰も何が敵かも知らない中で戦争を始めた。誰を敵と決めただけで始めた。だから戦後の服部卓四郎のように自省するでもなくただ威勢ぶって生きるしかなかった人が沢山残った。生涯を通して何を相手に戦ったのか気付く事もなく生きた人がたくさん残った。それが日本の戦後であった。その疑問をバックボーンとして戦後の復興が始めたのである。
それが当時の人々の欠陥でも限界でもない。戦争から70年。それだけ経過したとは言え今の我々もまた何も知らないでいる。当時の人々を馬鹿になどできない。知らないという点では全く同じ場所に立っている。ただ結果を知っているというアドバンテージがあるだけだ。我々が本当に倒さなければならないものは何なのか。もし我々が当時の世界に転生したとしても、似たような敗戦を経験するであろう。
人材
服部卓四郎は当時でも最高度のエリート官僚であった。その人となりを語るならば今いる場所で最も強い意見に敏感な男となろう。その立ち振る舞いが悪いのではない。その能力は優れて周囲の状況を敏感に理解し把握する。故に大変に優れた調整役、ネゴシエータになれたのである。その聡明さはよき教師に求められるものに似ていたであろう。適材適所という点では彼が作戦立案の課長職に相応しいとは思われない。なぜ彼が抜擢されたのか。他に最適な人材はいなかったのか。誓って否。恐らく能力だけならば居た。アメリカであれロシアであれ中国であれ戦争をするという目的だけならば適材は居たはずである。そこまで人材に枯渇していた訳ではない。
しかし状況は戦争をする前に片づけなければならない課題が山積していた。多くの人の同意を取り付け反対する人を説得する技術がなければ何も先に進まない状況にあった。声の大きな人の考えを知り、それを理解し、周囲を説得する必要があった。
つまり彼しかいなかったとはそういう意味である。何よりも結論をひとつに集約するのが先なのである。その内容など何でも構わない。それが実現性という意味だったのである。現実とは何の関係ない話だったのである。
もし彼が別の場所に配属されていれば、その場所で能力を発揮すれば、無能だの愚者だのと評価される事はなかった。少しでもそういう自覚が本人にあれば、また別の行動原理を獲得したであろうと思うのである。
日本軍は混乱する中国を相手にさえ勝利は叶わなかった。幾ばくかの戦闘で崩れなかっただけである。これを勝利と見做すくらいにレベルの低い組織でしかなかった。それがこの国の歴史なのである。
屈辱は、陸軍のこの体たらく対して海軍もほぼ似たようなものであった事だ。日本を代表するこれら二大組織が同様に盆暗である。それ以外は推して知るべしである。
当時の日本で最も優れていたのが軍組織であった。これが我が国の最強の切り札であった。もしこのカードで勝てないなら何をしても勝てやしないのである。国難に対して我々は自分たちが考えうる最強のカードで勝負に出た。別に無謀でも不合理でもない。
人事
今さら人事をいじった所でどうこうなる話ではない。人事の官僚だって結論を出す事が最優先なのである。最もまとまりそうな人に託すしかない。上からの意見を無視する訳にもいかない。そうしなければ組織は紛糾し空中分解する。ただ分解させないためだけの結論が必要である。その結果がどうなるか、それは決まってから考えればいい。人は登用の仕方次第で盆暗にも明光にもなる。この真意の上で昭和の軍人たちは彷徨った。それでも大きな声で論を戦わせる以外にどんな方法があったろうか。
派閥の意見が政策を実現する唯一の手段である。権力闘争に勝利しなければどれだけ優れた政策も絵にかいた餅である。それが闘争を正当化する。政府を潰した所で何も痛まない。すべて合法で行っている。
この原理原則は民主主義的ではない。民主主義の中心には広く調整するがある。陸軍にも調整役がいたと思う。しかし権力闘争に勝った者の総取りの仕組みが強く働く。当人たちにはその意識はなかったに違いないが、何も制御するものがなかった。だから課長職に調整役を託すしかない組織になってしまった。それが元老を失った陸軍の組織の論理であった。
山県有朋が亡くなった時からの、これが陸軍の組織的な宿命であったろう。それを誰も訂正できなかった。陸軍はひらひらと舞う凧のように中国大陸の方へ飛んで行った。
何をどうひっくり返そうと日本の行く先は変わらなかっただろう。あらゆる組織が敗北した。敗北の理由が前もって解るくらいなら司馬遷が筆を尽くす必要はない。歴史に答えはない。いつの時代も敗軍の原因を探せば誰かに行きつく。そういう答えが欲しいなら尚更だ。
恐らく最善の人事を尽くした所で結果は変わるまい。そもそも最善とは何か。その選択がどのような運動を新しく繰り広げるか。それは複雑系の振る舞いをしよう。それは誰かの手に委ねて何とかなる程度のうねりではあるまい。
歴史のifが叶った所で、結果は空想に過ぎない。敗戦が数カ月のびた所で悲惨な戦いが上積みされるだけになる。紙幅の無駄である。
行動原理
これをみちびくに政をもちい、これを整えるに刑をもちいれば、民まぬがれて恥なし。江戸時代に磨きに磨き抜いてきた儒教や統治の理想がなければ維新は失敗していたはずである。その人材的湧出がわずか70年で失われた。目先の出世や栄誉や目先の金が洗い流したのか。
これをみちびくに徳をもちい、これを整えるに礼をもちいれば、恥ありてかついたる。
官僚の行動原理の第一は出世にある。階層構造を取る限りこの仕組みは当然である。その闘争が、自分の考えを実現する為に必要となる。当時からその欠陥を憂う人はいた。勝者への批判はあっても届く事はない。多くの権限を手にして改革は成せる。この競争の中で鍛えられて生き残る才覚なくして何故これだけの大組織を自在に運動せしめたれようか。そううそぶけば本当のように感じられるから不思議だ。
答えが最初にある。あとはそれをどう清書するかだ。その道筋を描ける者が重宝される。
なぜ戦争に突き進んだのか。それが誰も答えられない。これだけの官僚制度を作り上げたにも係わらず目的なき戦争に突き進んだ。否、当時の人々にも目論見はあったのである。こういう手段を取らなければ、恐らくこうなる。そうなれば決して看過できない状況に陥る。だからこうするしかない。自分たちをだます事は容易い。理由は幾らでも見つかった。
資源の尽きる前に戦争するしかない。なぜ中国から撤退できないのか、紛争の理由に立ち返る者はいない。現状を何とか動かすべきだ。打破しろ、突破口を探せ。誰もがアメリカとの争いを回避しようとする。しかし、誰も中国の権益をアメリカと分けようとする者はいなかった。
日本は単独でやろうとした。そこだけは譲れないとした。この戦争は不可思議な戦争である。権益を独占するための戦争だった。誰にも渡さない。それだけだった。分け合うべき理由がない。だから単独で孤独で戦う。
そんな戦争しか出来なかったから戦後の友人はアメリカだけになった。それを当事者たちはだれも統括せぬまま逝ってしまった。
第二次世界大戦がはっきりさせた事は紛争が一国だけで完結できるものではなくなった事だろう。規模は拡大し、物量が地球中の資源を欲する。世界は広いが巻き込めば世界のどこにも逃れられない。戦争の局面は変わった。
復興
敗北が戦後の経済復興を促す。戦前と戦後での人材は同じ。ただ国中を支配していた軍中心の登用が消えた。だから登用は新しい仕組みの中で行われるようになった。人々はそう取り組んだ。その自発さが戦後の発展を支えたはずである。復興、したのではない。軍に集中したリソースを国内の他の分野に割り当てた。そこはまだ十分に未開だったから成長する余地がたくさん残っていた。種はある、そこにようやく水が注がれたのである。
その復興は日本のポテンシャルを十分に生かしたともいえる。だが宿題は残ったままだった。そのまま戦後の復興は終焉を迎える。耕し尽くした分野になった。
Japan as No1と言われた時に我々はその先の向かう場所を持っていない事に気付いた。金を持っていても買う以外の何も出来なかった。それ以上の価値観を持っていなかったのである。所有欲以上の何も我々にはなかったのである。
世界に何も革新を齎さなかった。我々のやりたい事はその先にはなかった。頂点に立ったその先に何も持っていなかったのである。その時から組織はスタックし空回りを始める。戦前は軍で、戦後は経済で。場所こそ違えど同じ模索をしているのである。戦前は満州を目指した。戦後は小泉改革に飛びついた。同じように模索し最終的には人々の中にある目先の利益を追求する道で翻弄されている。
もしもう一度世界に挑むのなら、今の我々は軍には頼らない。国内を見回しても軍は最強の組織ではない。優秀な人材が集中しているのは軍ではない。今の我々の最強のカードは日本経済を主体に考えるしかない。
これでは戦前の陸海軍と同じである。その方法論は恐らく我々の方法ではない。日本が世界に影響を与えたのは恐らくコンテンツである。そういう形で我々は何かを発信し続けているのではないか。
日本のコンテンツに刺激を受け真似から初めオリジナリティを獲得した世代が世界中で生まれようとしている。この人の連綿とした動きの中に国も地域も文化も関係ない世界観の中で醸造されているものがある。
それを我々は経済と直結して考える方法を知らない。だから我々は今も、夢か、狂おしい程の愛か、溢れて止まらぬ情熱に依存する形でしか創造性を生み出せない。もちろん世界のトップクラスを占める人たちはそれでいい。所詮は狂人でなければ到達できない世界だからである。
だが、人間は群れる動物から進化した組織こそが力の存在である。個の能力を組織化して働くようにする事。そのための方法論を知らないでいる。組織は金と人と階層で成り立つ。そこには生活がある。生活するのに必要な給与さえ与えず夢で若者を狩る環境と、十分な給与を払いその道に邁進できる環境では、10年後はどのような違いを見せるか。
突出した才能では足りない。優れた調整役がいなければ組織は立たない。そしてそれは誰か一人の手で成るものではない。全員の才覚を集約する必要がある。だから我々の作る組織は自ずとそれ以外の地域の組織とは異なる。
組織の形成には、前提条件がある。知識や常識の一致が必要だから、参加者にそれを最初に求める手法と参加してからそれを周知してゆく方法がある。それは自然と組織の在り方も変えてゆく。
社会の形成
社会は人間の行動原理で成り立つ。その理由は気候、地形、周囲の生物圏に影響されて生まれてきたものだ。この影響の下で最小のコストで最大の利益を得られる部分で均衡しようとする。地球環境はそう簡単に変わるものではないので、自然に適用する事は、人間の行動原理を形成する。ゴミを拾うという行為にも理由がある。例えば、雨が多い地域では、ごみをそのままにするとどこかに流れてゆく。それが都市圏ならば下水を詰まらす原因となろう。ゴミを拾うという数秒の行為が上下水道の崩壊という一連の機能不全を防ぐ最小のコストとなろう。
最初は僅かな人が始めた事かも知れない。しかし人々はその意味を知るようになる。すると自発的にその行為に参加するようになるだろう。もちろん、そういう機序に触れてもやらない人間はいる。そういう野生動物と共存する事は仕方ない。それでも社会の全体の流れが広く浸透してゆけば、それは次第に社会の常識となり、いつかその行為の理由は忘れられる。それが当たり前の行為として人間形成の基本となる。それは道徳となり、美意識の大本となる。道徳はこうして常に表面上の行動となって表れる。
ついには雨の降らない場所でもゴミを拾うという行為をせずにはいられない社会規範となる。そこまで浸透して文化、文明を形成する人間の自然の行動となる。
初期の人間は、個の武力によって奴隷を使っていただろう。それが労働力としては最もコストが低い。しかし個人が支配できるのは数十人までの単位である。社会が豊かになり人が増えれば個の暴力で支配する事はできなくなる。集団が肥大化すれば必ずどこかで量の増加が個の武力を超える。
そうなれば異なる行動原理が発生する。その時に、それまで奴隷であった人々が民へと変わる集団を形成する事になるだろう。奴隷が集団になればそれまでの支配を打ち倒す事が可能になる。集団と集団の関係性の中で奴隷は民に変わらなければ集団は維持できない。
が安価な労働力としての奴隷は必要である。人々はそれをどういう基準で解決したか。
人と人を区別するが発生する。世界中のあらゆる地域で集団は巨大かし、人々の集団が国という形を取るようになる。そこに存在する組織としての原理は、人々の自然さを背景に支えられている。
それを無視して成り立つものではない。我々は常に変わりながら、我々によく合う形の組織を形成している。組織は必ずその国の行動原理に支配されている。
我が国も幾度の末法を経験してきた。その時には日本仏教が興き新しい人材が新しい思想を生み出し人々に伝えてきた。精神的支柱が先ずあって、次に幕府が誕生する。天皇という制度が変わらない事が連綿と続く統治の根拠にあり、その器の中で自在な水のように停滞したり活気あふれたりしながら紡いできた歴史がある。
歴史は学ぶものではない。ただそこにある。お寺の立像のように静かに佇んでいる。そこに何を感じるかは今を生きる人だけに出来る。だから目の前にあるものはすべて歴史である。なぜなら我々が生きているから。
なぜ人々は記録に残しておこうと感じたのか。それを語りたいという思いの中に何を残したのか。それが生きる理由になるのか。ならば単に生殖の本能の延長ではないか。
今日も世界中から多くの言語が消えていってると言う。小さな集団の中で何千年も使われていた言語が開発と共に次々と消えてゆく。歴史に僅かな記録しか残らず消えてゆくものがある。その悲しみは、しかし地球という星にいつかは我々も僅かな痕跡しか残さない存在としてこの宇宙から消えてゆく。
だからといってそれを止める事が出来るはずもない。コンピュータ上に残る大量の足跡が記憶装置の中に堆積してゆく。SNSはその最前線にある河川として小さな石が今日も流れている。そこに大量に記録された言葉、写真、感情が地層を作る。それを残してゆくのに地球という場所では小さすぎる。
ウクライナの戦争が示すように明らかに我々はいとも簡単に絶滅と直面する。ロシアが核ミサイルを使ったら我々は絶滅する。なぜならロシアを滅ぼすために全ての核をロシアの大地に叩き込むからだ。それでも生き残れるだろうか。ロシアがこの星の歴史を閉じようとする以上、その存在を許すわけにはいかない。例えその為に絶滅しようとも。だから我々は他の惑星にも目を向ける必要がある。今の我々にそんなに多くの時間は残されていない。
天命によりその命数を使い果たした。そう考える。今日は、そう信じた日であった。
2022年10月30日日曜日
知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず 3 - 孔子
巻三雍也第六之二十
人の好きについて考える。
陰謀論には知識の偏りがある。しかし一般論を述べるならどのような人にも偏りはある。高い専門性を持つからといって偏りがないとは言えない。偏りがない事を孔子は中庸と呼んだはずだ。
しかし偏りがなければ優れていると孔子が考えていたとは思わない。徳についてこれだけ過激な考えをしていた人が自分の偏向を知らなかったとは思えない。しかしまたそんな自分を中庸と見做していたとも思われる。その心の働きを自覚していたように思われる。どれだけ外れようと中庸であり続けようとしたと思うのである。
どんな人間も全知全能ではない。万能の正しい推論さえ持ちえない。ただ前提条件があり推論しひとつの結論を得る。その働きのどこかは誤っているだろうし、正しい事もあるだろう。さてこの場合の正しいとはどういう意味か。
もちろん正しさは立場が決める。視点の位置が異なれば景色が違って見えるのは当然である。晴れ渡った日に遠くまで見える日もあれば、数メートル先も見えない雨嵐雪の日もある。風景の全く異なる日がある。誰が見ても同じ風景があるとも考えにくい。人の数だけの風景がある。それを人は共有すると信じる。幻想も互いに固く結べば現実である。
我々が行う情報処理は時間経過に対する変化を記録する事である。逆に記録が蓄積し増加する様を時間と呼んでいる。変化したなら作用があった証拠にある。もちろん認識できないだけで、変化しなくとも作用している場合もある。
データ処理は周囲の環境に様々なデータがある状況で、その一部を取水口から取り込み、様々な工程へ引き継ぎ、加工を繰り返し、幾つかの出力候補を生成しては、何回かの選択を行い、最終的にはひとつの出力を得る。
必ずしも出力を必要とはしないが、様々な保存則に従う限り、入力と出力は等価に存在し消える事はない。ただ値は違ってよいはずで不可逆であってもそれは一方通行というだけなので、他を迂回して戻ってくればもう一度通れる可能性はある。入力は出力となり、出力は別の所で入力となる。
細胞の活動も、工場の生産ラインも、ウィルスの活動もこの流れに準拠する。だからあらゆる物質は情報に置き換え可能と考えてよい。運動とは変化量の計算に過ぎず、変化は特定の数式から得られた値である。ある状態は他へ作用し、入力と出力は影響しあう。
考えの違いとはデータ処理の違いである。同じ入力に対して異なる出力を示すのには理由がある。どこかで違いが発現した証拠でもある。この集合が社会である。その複雑さは数々の影響を受けその結果としての現象は予測しがたい。
つまり、未来の不安は情報処理をする限りは避けえないという事である。その恐怖が肥大化すれば、ある者は銃を取り、ある者は隠匿し、ある者は団結する。そのいずれもが単なる生物学的な反応に過ぎないのである。
戦争だけなら猿でも行える。ふたつの群れが食料を巡り争う。繁殖行動を巡り争う。自然は彼らの力を圧迫する事でその解決を図った。争いを避ける第一の理由は、野生状態では、ちょっとした怪我も死に直結する事だ。小さな傷跡が化膿すれば走れなくなる。肉食であろうが草食であろうが、死は近い。
そのような生物的特性を同じくするのに人間だけが武器を発達させ戦略を高度化し交渉を繰り返す。だのに我々は戦争の止め方を未だに知らないのである。
野生動物の争いと異なり人間の破壊力は国家や種の滅亡も含む。戦争が自然に終了する事が人類の絶滅と直結するようになった。それなのに戦争の終わらせ方を我々は知らない。にも係わらず戦争が始まる。
その恐怖が人をして国家にアイデンティティを求めさせ、他国からの先制攻撃に恐怖し、自ら先制攻撃すべき考えに至らせる。戦争を始める事は猿でもできる。終わらせる事は誰も知らない、と幾ら語っても他国に先んじて攻撃する事だけが活路だと信じている。
その多くは戦争の始め方は知っていても、続け方さえ知らない。一撃で相手を屈服させられると信じて、大日本帝国の陸軍は大陸の奥深くにまで出陣した。その結果は疲弊しただけである。
大日本帝国海軍は先手を取って真珠湾を攻撃する。その結果として平時の太平洋艦隊の殆どは沈めたが、アメリカの参戦を招く。見渡す限りの沖縄の海が米艦船で埋め尽くされた。その物量が果てしない事を当時の日本人は知っていたが、短期決戦なら物量の差が出る前に終わらせる。そう考えていた。
戦争が始まればそれを終わらせるかどうかを決めるのは戦時体制に突入したアメリカである。日本にその選択はない、そんな簡単な事さえ見失っていたのである。
これは単純な知識の欠如に見える。知らない事は明らかな損失であり時に命を奪う。故に知る事の価値は莫大である。
暗記は知識のひとつであり教育の根幹である。そして暗記の過多が決定的となる教育システムの中にいる。知識が結果を制する。
江戸時代の頃は知識はもとより不足していたから、それを補うために態度を磨く事を意識的に行った。その意識の持ち方が、人を見抜く目を鍛え、状況に対して覚悟を持って処す事を意識させ、命を賭してもしなければならないという生き方を生み出してゆく。
このような処し方を時代遅れと呼んでも構わない。事実、明治維新後はそのような考えにシフトする。学問ノススメは短期的な損得勘定に基づき知識に価値を置いた思想である。
これは科学の導入と連動して起きた転換である。如何なる人の想いがあろうと、知識のよる優越が勝る。これを繰り返し行えばその差は圧倒的になる。常に知識のある側が勝利する。よって如何に知識を刷新し続けるかが未来を決する。
次第に持たざるもの、停滞するものの戦略は過激化するしかない。最終的には人類の絶滅と引き換えの交渉しか残らないだろう。実際にロシアはそのような方向に真っ直ぐに舵を切った。つまりロシアは科学で負けたのだ。多くの分野で19世紀の世界を牽引したロシア。なぜここまで敗北に追い込まれたのか。
ソクラテスが無知の知と言った時、完全な知識の欠落に価値を置いていた訳ではない。知識がない事を知る為にも知識がいる。なぜなら無知の知とは知ると知らないの境界線上の問題だからだ。知識の最大値は無限に等しい。少なくとも人間の範囲は遥かに超えている。よって誰も知識では完全を満たせない。すると有限の中で、知識の多少で争う事になる。
そして量で争うなら、疑問は尽きないはずである。よって疑問が尽きないと知っている事は、完全であると考えるよりも健全である。しかし一方で人間の限界に近い量の知識で飽和した状態ではどうなるか?
我々の知識が常に足りないという意識に立てば、より知りたいという欲求は当然に見える。しかし、同時にそれが尽きない事も分かっている。
陰謀論を信じて銃を取る人がいる。悪いやつをやっつけないと世界が滅んでしまうと行動する人がいる。そういう人の知る能力はどういうものであったかと考える。
知るとは入力の事である。その上で陰謀論者はその出力として銃を手にすると決めた。この出力を気に入ったのだろう。だから行動にまで移す事ができた。何回も繰り返し準備も行った。その過程でたったの一回の出力が覆る事はなかった。執拗と呼ぶべきだろうか。それともそれ程までに恐怖は続いたのか。引き金が引かれる瞬間まで止む事のない運動が続いた。
その過程で、知る事の面白さも、自分を気に入る気持ちも、楽しさもあったろうと信じる。人はそれなくして何もなしえないと思うから。
するとその決断が誰にとっての好ましいものかが、誰にとっての楽しいものかが、次の入力を決める事になる。
知る事の価値を問うなら、それは出力が決定する。出力の作用が好ましいものか、楽しいものか、嬉しいものか、好きなものか、それが入力を選別する。出力の作用が入力の価値を決定する。
多くの場合、入力は出力によって規定され制約を受けるものとなる。入力は出力の為に決定され制限され規定されなければならない。出力から推定して入力を決める。それを経験と呼ぶ。特定の目的がある限り、それが効率的なやり方であろう。
よって誰もが好きも楽しむも出力に対してかかる感情という事になる。さにあろう。誰も結果の逆算をせずに生きる者などいない。
ならば知るとは出力を知るの意味になる。出力に併せて入力を選ぶのだから、知るは出力によって得られる利益を知るの意味である。
その代表的は一例は虎の牙が眼前に迫る時であろう。その入力から得られる全ては、全て生き残るから逆算される。その可能性が最も大きくなるように出力を決定してゆく。
牙の向かう先、そのベクトルから自分の体を外すためにはどうすればいいか。この場合の知るとは、この出力の為に最大限に役立つもので限定されるべきだ。明日は何を食べようかという出力もまた入力も不要である。
義務教育は知識を与える。その背景には人類の歴史の大きな柱がある。その全景はさぞや雄大で楽しい経験であろう。しかし多くの子は、知る意味を知らない。何故ならその出力を知らないからである。
出力がなければ入力は選べない。すると暗記のための時間割だけが過ぎてゆく。それでは面白くないだろう。出力の利益とは何であろうか。それが子供のうちは分からない。すると入力の面白さも楽しめないのである。
こうして出力の利益が全体の意思決定に深くかかわってゆく。利益の前に個人の思想は関係しない。損得勘定で高い方を選ぶだけなら簡単な数式だ。ただ利益に基づき行動を決定すればよい。
出力したものの利益を追い求めるのも、好きや楽しいという感情を満足させる事もそう大きくは変わらない。その好きがどのような所からやってくるのかは誰も知るまい。好きから始まる犯罪は幾らでもある。生物学的背景が必ず何かあるにしろ、ストーキングも小児性愛も好きから始まっている。社会はそれを好まない事と共通認識している。
ならば好きであれ楽しむであれ、決してこの世界を良くするとは言えない。その全てが出力したものの利益に基づく。それは生物としての快感中枢の刺激に過ぎないとも言える。
ならば知る事の価値に好きも楽しむも必要ないはずである。よって孔子はそういう意味での好きも楽しむも使っていないと結論付けられる。
出力に対する好きや楽しいという気持ちはその人のものだ。それを主観と呼ばれればその通りである。その意味での好きや楽しいでは如かずだと言っているように思われるのである。
ではこの好きや楽しいはどういう意味か。私から見てあなたは好きなように見える、あなたは楽しんでいるように見える。それは私の勝手な主観かも知れないが、あなたが楽しそうに見えるならば、私はあなたの心の奥底に恐怖がないように感じるのである。
好きだからってそれあなたの主観ですよね。楽しんでいるのは別にあなたの勝手じゃないですか。あなたが幸せだからって世界が良くなる訳でも良くなる訳でもありません。知識は力ですよ。支点さえあれば地球さえ転がしてみせると豪語した者もいるじゃないですか。知識を凌駕するものがこの世界にあるとは考えられないです。
自分を騙すのは容易い、だから詐欺師は自分を騙すように相手を騙せるのである。もし自分も騙せないでどうして他人を騙せるであろうか。好む者とは本人の好きという気持ちとは関係しない。他人から見て好んでいるように見えるなら、それは好む者だ。楽しむ者とはその人の感情の有無が要点ではない。他から見てあなたが楽しそうにしているのなら、あなたはきっと楽しむ者である。
そこに多くの人の機敏で繊細な感情を読み取る能力がある。その確からしさに基づく。あなたが楽しんでいるからって、本当にそう見えるか。そこに確実性はない。私の目が曇っている場合もある。その不確かなものでしか知る事は出来ない。だから、もしそこに恐怖を感じているならばきっと私には楽しそうに映らないのである。
知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず - 孔子
知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず2 - 孔子
子曰 (子曰わく)
知之者不如好之者 (之れを知る者は之れを好む者に如かず)
好之者不如楽之者 (之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず)
人の好きについて考える。
陰謀論には知識の偏りがある。しかし一般論を述べるならどのような人にも偏りはある。高い専門性を持つからといって偏りがないとは言えない。偏りがない事を孔子は中庸と呼んだはずだ。
しかし偏りがなければ優れていると孔子が考えていたとは思わない。徳についてこれだけ過激な考えをしていた人が自分の偏向を知らなかったとは思えない。しかしまたそんな自分を中庸と見做していたとも思われる。その心の働きを自覚していたように思われる。どれだけ外れようと中庸であり続けようとしたと思うのである。
どんな人間も全知全能ではない。万能の正しい推論さえ持ちえない。ただ前提条件があり推論しひとつの結論を得る。その働きのどこかは誤っているだろうし、正しい事もあるだろう。さてこの場合の正しいとはどういう意味か。
もちろん正しさは立場が決める。視点の位置が異なれば景色が違って見えるのは当然である。晴れ渡った日に遠くまで見える日もあれば、数メートル先も見えない雨嵐雪の日もある。風景の全く異なる日がある。誰が見ても同じ風景があるとも考えにくい。人の数だけの風景がある。それを人は共有すると信じる。幻想も互いに固く結べば現実である。
我々が行う情報処理は時間経過に対する変化を記録する事である。逆に記録が蓄積し増加する様を時間と呼んでいる。変化したなら作用があった証拠にある。もちろん認識できないだけで、変化しなくとも作用している場合もある。
データ処理は周囲の環境に様々なデータがある状況で、その一部を取水口から取り込み、様々な工程へ引き継ぎ、加工を繰り返し、幾つかの出力候補を生成しては、何回かの選択を行い、最終的にはひとつの出力を得る。
必ずしも出力を必要とはしないが、様々な保存則に従う限り、入力と出力は等価に存在し消える事はない。ただ値は違ってよいはずで不可逆であってもそれは一方通行というだけなので、他を迂回して戻ってくればもう一度通れる可能性はある。入力は出力となり、出力は別の所で入力となる。
細胞の活動も、工場の生産ラインも、ウィルスの活動もこの流れに準拠する。だからあらゆる物質は情報に置き換え可能と考えてよい。運動とは変化量の計算に過ぎず、変化は特定の数式から得られた値である。ある状態は他へ作用し、入力と出力は影響しあう。
考えの違いとはデータ処理の違いである。同じ入力に対して異なる出力を示すのには理由がある。どこかで違いが発現した証拠でもある。この集合が社会である。その複雑さは数々の影響を受けその結果としての現象は予測しがたい。
つまり、未来の不安は情報処理をする限りは避けえないという事である。その恐怖が肥大化すれば、ある者は銃を取り、ある者は隠匿し、ある者は団結する。そのいずれもが単なる生物学的な反応に過ぎないのである。
戦争だけなら猿でも行える。ふたつの群れが食料を巡り争う。繁殖行動を巡り争う。自然は彼らの力を圧迫する事でその解決を図った。争いを避ける第一の理由は、野生状態では、ちょっとした怪我も死に直結する事だ。小さな傷跡が化膿すれば走れなくなる。肉食であろうが草食であろうが、死は近い。
そのような生物的特性を同じくするのに人間だけが武器を発達させ戦略を高度化し交渉を繰り返す。だのに我々は戦争の止め方を未だに知らないのである。
野生動物の争いと異なり人間の破壊力は国家や種の滅亡も含む。戦争が自然に終了する事が人類の絶滅と直結するようになった。それなのに戦争の終わらせ方を我々は知らない。にも係わらず戦争が始まる。
その恐怖が人をして国家にアイデンティティを求めさせ、他国からの先制攻撃に恐怖し、自ら先制攻撃すべき考えに至らせる。戦争を始める事は猿でもできる。終わらせる事は誰も知らない、と幾ら語っても他国に先んじて攻撃する事だけが活路だと信じている。
その多くは戦争の始め方は知っていても、続け方さえ知らない。一撃で相手を屈服させられると信じて、大日本帝国の陸軍は大陸の奥深くにまで出陣した。その結果は疲弊しただけである。
大日本帝国海軍は先手を取って真珠湾を攻撃する。その結果として平時の太平洋艦隊の殆どは沈めたが、アメリカの参戦を招く。見渡す限りの沖縄の海が米艦船で埋め尽くされた。その物量が果てしない事を当時の日本人は知っていたが、短期決戦なら物量の差が出る前に終わらせる。そう考えていた。
戦争が始まればそれを終わらせるかどうかを決めるのは戦時体制に突入したアメリカである。日本にその選択はない、そんな簡単な事さえ見失っていたのである。
これは単純な知識の欠如に見える。知らない事は明らかな損失であり時に命を奪う。故に知る事の価値は莫大である。
暗記は知識のひとつであり教育の根幹である。そして暗記の過多が決定的となる教育システムの中にいる。知識が結果を制する。
江戸時代の頃は知識はもとより不足していたから、それを補うために態度を磨く事を意識的に行った。その意識の持ち方が、人を見抜く目を鍛え、状況に対して覚悟を持って処す事を意識させ、命を賭してもしなければならないという生き方を生み出してゆく。
このような処し方を時代遅れと呼んでも構わない。事実、明治維新後はそのような考えにシフトする。学問ノススメは短期的な損得勘定に基づき知識に価値を置いた思想である。
これは科学の導入と連動して起きた転換である。如何なる人の想いがあろうと、知識のよる優越が勝る。これを繰り返し行えばその差は圧倒的になる。常に知識のある側が勝利する。よって如何に知識を刷新し続けるかが未来を決する。
次第に持たざるもの、停滞するものの戦略は過激化するしかない。最終的には人類の絶滅と引き換えの交渉しか残らないだろう。実際にロシアはそのような方向に真っ直ぐに舵を切った。つまりロシアは科学で負けたのだ。多くの分野で19世紀の世界を牽引したロシア。なぜここまで敗北に追い込まれたのか。
ソクラテスが無知の知と言った時、完全な知識の欠落に価値を置いていた訳ではない。知識がない事を知る為にも知識がいる。なぜなら無知の知とは知ると知らないの境界線上の問題だからだ。知識の最大値は無限に等しい。少なくとも人間の範囲は遥かに超えている。よって誰も知識では完全を満たせない。すると有限の中で、知識の多少で争う事になる。
そして量で争うなら、疑問は尽きないはずである。よって疑問が尽きないと知っている事は、完全であると考えるよりも健全である。しかし一方で人間の限界に近い量の知識で飽和した状態ではどうなるか?
我々の知識が常に足りないという意識に立てば、より知りたいという欲求は当然に見える。しかし、同時にそれが尽きない事も分かっている。
陰謀論を信じて銃を取る人がいる。悪いやつをやっつけないと世界が滅んでしまうと行動する人がいる。そういう人の知る能力はどういうものであったかと考える。
知るとは入力の事である。その上で陰謀論者はその出力として銃を手にすると決めた。この出力を気に入ったのだろう。だから行動にまで移す事ができた。何回も繰り返し準備も行った。その過程でたったの一回の出力が覆る事はなかった。執拗と呼ぶべきだろうか。それともそれ程までに恐怖は続いたのか。引き金が引かれる瞬間まで止む事のない運動が続いた。
その過程で、知る事の面白さも、自分を気に入る気持ちも、楽しさもあったろうと信じる。人はそれなくして何もなしえないと思うから。
するとその決断が誰にとっての好ましいものかが、誰にとっての楽しいものかが、次の入力を決める事になる。
知る事の価値を問うなら、それは出力が決定する。出力の作用が好ましいものか、楽しいものか、嬉しいものか、好きなものか、それが入力を選別する。出力の作用が入力の価値を決定する。
多くの場合、入力は出力によって規定され制約を受けるものとなる。入力は出力の為に決定され制限され規定されなければならない。出力から推定して入力を決める。それを経験と呼ぶ。特定の目的がある限り、それが効率的なやり方であろう。
よって誰もが好きも楽しむも出力に対してかかる感情という事になる。さにあろう。誰も結果の逆算をせずに生きる者などいない。
ならば知るとは出力を知るの意味になる。出力に併せて入力を選ぶのだから、知るは出力によって得られる利益を知るの意味である。
その代表的は一例は虎の牙が眼前に迫る時であろう。その入力から得られる全ては、全て生き残るから逆算される。その可能性が最も大きくなるように出力を決定してゆく。
牙の向かう先、そのベクトルから自分の体を外すためにはどうすればいいか。この場合の知るとは、この出力の為に最大限に役立つもので限定されるべきだ。明日は何を食べようかという出力もまた入力も不要である。
義務教育は知識を与える。その背景には人類の歴史の大きな柱がある。その全景はさぞや雄大で楽しい経験であろう。しかし多くの子は、知る意味を知らない。何故ならその出力を知らないからである。
出力がなければ入力は選べない。すると暗記のための時間割だけが過ぎてゆく。それでは面白くないだろう。出力の利益とは何であろうか。それが子供のうちは分からない。すると入力の面白さも楽しめないのである。
こうして出力の利益が全体の意思決定に深くかかわってゆく。利益の前に個人の思想は関係しない。損得勘定で高い方を選ぶだけなら簡単な数式だ。ただ利益に基づき行動を決定すればよい。
出力したものの利益を追い求めるのも、好きや楽しいという感情を満足させる事もそう大きくは変わらない。その好きがどのような所からやってくるのかは誰も知るまい。好きから始まる犯罪は幾らでもある。生物学的背景が必ず何かあるにしろ、ストーキングも小児性愛も好きから始まっている。社会はそれを好まない事と共通認識している。
ならば好きであれ楽しむであれ、決してこの世界を良くするとは言えない。その全てが出力したものの利益に基づく。それは生物としての快感中枢の刺激に過ぎないとも言える。
ならば知る事の価値に好きも楽しむも必要ないはずである。よって孔子はそういう意味での好きも楽しむも使っていないと結論付けられる。
出力に対する好きや楽しいという気持ちはその人のものだ。それを主観と呼ばれればその通りである。その意味での好きや楽しいでは如かずだと言っているように思われるのである。
ではこの好きや楽しいはどういう意味か。私から見てあなたは好きなように見える、あなたは楽しんでいるように見える。それは私の勝手な主観かも知れないが、あなたが楽しそうに見えるならば、私はあなたの心の奥底に恐怖がないように感じるのである。
好きだからってそれあなたの主観ですよね。楽しんでいるのは別にあなたの勝手じゃないですか。あなたが幸せだからって世界が良くなる訳でも良くなる訳でもありません。知識は力ですよ。支点さえあれば地球さえ転がしてみせると豪語した者もいるじゃないですか。知識を凌駕するものがこの世界にあるとは考えられないです。
自分を騙すのは容易い、だから詐欺師は自分を騙すように相手を騙せるのである。もし自分も騙せないでどうして他人を騙せるであろうか。好む者とは本人の好きという気持ちとは関係しない。他人から見て好んでいるように見えるなら、それは好む者だ。楽しむ者とはその人の感情の有無が要点ではない。他から見てあなたが楽しそうにしているのなら、あなたはきっと楽しむ者である。
そこに多くの人の機敏で繊細な感情を読み取る能力がある。その確からしさに基づく。あなたが楽しんでいるからって、本当にそう見えるか。そこに確実性はない。私の目が曇っている場合もある。その不確かなものでしか知る事は出来ない。だから、もしそこに恐怖を感じているならばきっと私には楽しそうに映らないのである。
知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず - 孔子
知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず2 - 孔子
2022年10月1日土曜日
日本国憲法 第八章 地方自治(第九十二条~第九十五条)
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十三条 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
○2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
第九十五条 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。
短くすると
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営は、地方自治の法律で定める。第九十三条 地方公共団体は、議会を設置する。
○2 地方公共団体の長、議会の議員及び吏員は、住民が選挙する。
第九十四条 地方公共団体は、行政を執行し条例を制定できる。
第九十五条 地方公共団体に適用される特別法は、住民投票て過半数の同意を得なければ、国会は制定できない。
要するに
なぜ地方から衰退しているのか。考えるに
中央集権システムと分散システムを比較する時、観点はシステムの強靭性を中心に、どのように破壊されたらシステムは停止するのか、閾値はどこにあり欠点はどこで、それを防ぐにはどのような機構が必要か、ダウン時の復旧にはどんな課題があるかを考える事になる。中央集権はピラミッド型の構造で、富士山のように噴火口が山頂にある火山の姿に似ている。トップが破壊されれば自然と山体崩壊を起こす。そのため常にトップの入れ替え準備が必要で、独裁色が強い政体の場合、ただ一人に権力が集中し一代限りで死去した後に機能不全を起こす。
王が登場した太古から禅譲や世襲が一般的で、それは群れを作る家族的な動物であったからであろう。もし虎のような単独を好む生物であれば全く違った社会を築いたに違いない。
権力の委譲には常に正統性が要求される。なぜなら王の子が王たりえるかは仮説に過ぎないから。この正統性を中国は易姓革命の中に見出した。多かれ少なかれどんな地域であれ王の正統性は無条件ではない。
これを支える第一義は武力であるが、武力は正統性の根拠にはならない。武力でさえ正統性を求める側にある。これが太古の人が編み出した理念のひとつであり、今も通用する強固な思想である。
民主主義もまた中央集権型のシステムになる。ただ正統性の根拠を大砲の替わりに投票用紙とした。そのため民主主義の精神は手続きの尊重を求める。気に食わないからと武力で政権を奪取する事は認めない合意を必要とする。
時にその合意を破棄しようとする人もいるが、その場合でもそれは手続き上の問題として政体の正統性は停止される。その政体を倒した後に民主主義はどこからでもやりなおす事ができる。民主主義の手続きは武力を凌駕する。ペンは剣よりも強いとはそういう意味でもある。
しかし武力の追放が民主主義の健全さを保証した訳ではない。武力の変わりの方法など幾らでも見つかるのである。ロビー活動やフェイクニュースやメディアのコンテンツが選挙を左右する。いつの時代も武力を買うには資金が必要であった。剣が駄目なら他のものを買えばいい。
資金が権力の源泉になりつつある。人の心は買える。特に投票権は買いやすく売りやすい。民主主義で資本に対抗するのに拠って立つものは市民の良識しかない。そして腐敗したならば滅びよと民主主義は定義している。
しかし、どのような政体であれ、武力も資金も、理念の前では最終的に敗北し続けてきた歴史である。恐らく人類が滅びない限り、この歴史は繰り返される。
分散システムは、噴火口が周辺のあちこちに開かれている姿の様である。魚の群れが、鳥の群れが集まり離れるを繰り返す様も、ラグビーで次々とボールを受け渡してゆくのも分散システム的である。インターネットの理念もBoidsの簡単なアルゴリズムも分散システムを構成する。
分散システムを支配するアルゴリズムは利己的な自由勝手である。それでも集団としての協調性を発揮する。野生動物が取る多くの行動原理は分散システム的であろう。淘汰され続け残ってきた自然の調和が分散システム的であるのは進化そのものの分散的な仕組みだからだろう。それは強靭でもあり脆弱である。この小さな星の上で。生命は残り種は消えてゆく。
分散システムに中心はなく其々が勝手に判断する。自発的で自律的であるだけで良い。では分散システムはどの仕組みで調和を実現するのだろうか。
アダムスミスの見えざる手の如く。淘汰圧で生き残ってきたから現在というバイアスが調和しているように見せているだけかも知れない。それでも自然は多くのアルゴリズムを分散的に誕生させて調和という試行を続けている。
中央集権と分散
中央集権は短期的な合目的に向かうには適している。特定の目的に資源を集中するのに向いている。この最大の実装が脳であろう。脳は一個の生命の一生の間だけ機能すれば良い。生きている間に目的を達成するために進化してきた。分散システムの代表的な実装は免疫であろう。個体の中で自己とそれ以外を識別し守る役割を担う。このシステムを次世代に受け渡してゆく事。その適不適を環境の中で試す事、目的は設定せずただ振いに掛け淘汰してゆく。
脳は過去から未来に物事を進める。免疫は現在の環境に晒されて試す。脳の答えは未来にある。免疫の答えは現在の中にある。刺激と応答の繰り返しの中で未来に従うか、現在に従うか。
また、脳には随意運動だけでなく不随意神経系があり、交感神経/副交感神経を通じて分散システムへ働きかけ、フィードバックから反応する仕組みも獲得している。これは協調性のための中央集権の働きだと思われる。
虎の牙が喉元に噛みつこうとしている時に必要なのは生き延びる事に全力する事だ。こういう時に脳は最大限に力を発揮する様に進化してきた。失敗はそこでの終わりを意味する。
ウィルスに罹患した時、脳は補助的にしか役に立たない。体内の恒常性を保とうと体の隅々で働くシステムが必要だ。その数はとてつもなくひとつの命令系統で制御できるはずもない。免疫の勝手に任せておくしかない。駄目ならそこで終わるだけの事。
男性的、女性的
男性的が全ての男について語るものではないように、女性的が全ての女性について語るものではないように、それ以外の認識もあるように、人々の中にある生物的なものと社会的なものは必ずしも一致していない。それでも男性的な例えの多くは中央集権的に見える。女性的なものの多くは分散システム的に見える。男性的なものは短期的に目的を達成しようと進めるのに対して、女性的なものは環境全体での最適解を目指すように見える。男性的なものは局所での繁栄を、女性的なものは種としての永続を目指しているように感じられる。
つまり男性的なものは系統の生き残りを目指し、女性的なものは種の生き残りを目指す傾向がある。これは仮説であるが性差の違いから生じたとしても不思議はない。
もちろん性で綺麗に割り切れるような単純短絡さを自然は好まない。生物にとっての多様性は生き残り戦略の第一義である。免疫の多様性はその方が生き残れた統計的な帰結である。
群れを作る動物にとって古い世代がいつまでも元気である事は都合が悪い。早く生まれた側のアドバンテージがずっと残るため次世代が常に不利である。古い世代が生き残りやすい仕組みは、群れの中での競争では問題はないが、外界からの脅威に対しては高いリスクが潜在する。似通った免疫が長く主流であるため外界の変異に触れるとたちまち淘汰される可能性が高くなる。
そのような淘汰の結果として古い個体は集団からは先に消える方がいい。世代交代は生き延びる為のひとつの方法であり、古い世代の知識や経験の蓄積よりにもそちらの方に利点があった結果になる。
こうして個体と世代というふたつのシステムは個体を中央集権的システムで構築し、世代を分散システムで構築した。合目的性の追求は繁殖の追求であり、環境への適用は種およびその進化の存続の追求となる。これらを実現するために異なる器官が役割を分担し協調する仕組みを形成した。
脳は合目的性を失えば死を選ぶし、免疫は環境適用が叶わなければ個体は滅す。自然はそれで十分と見た。目的が失われた時には最適解を選ばなくなるシステムの方が全体から見れば都合がいい。つまり脳は初めから衰えるように作られている。
江戸幕府
江戸幕府は藩を中心とする分散システム的な体制である。明治維新で分散システム的な江戸幕府よりも中央集権である明治政府の方が望ましいとした理由。それは外交にあった。ロシアの南下に対抗する近代軍隊の設立。これと早急に対応するために中央集権的な制度を必要とした。ピラミッド構造で上意下達する代表が軍である。軍制度を切り替える為に江戸幕府を倒壊し、長州と薩摩を中心にする新しい政府を樹立する。全ては日露戦争に向けてである。そこでひとつの結実をしたために目的は達せられた。目的を達した後の中央集権システムは目的を失った中央集権システムである。その先はどうなるのか。
システムは絶えず運動を続ける。目的を失った組織は組織の維持を最優先とし、次の目的に備える。次第に維持する事が目的になる。その為なら国家の滅亡も厭わない。大日本帝国はロシア帝国に勝利した。その目的を達成した後に、誰も新しい目的を見つけられなかった。だから国家として滅びた。
軍隊
中央集権のひとつの範は軍である。軍は一つで統制しないと有効に働かない。シビリアンコントロールもひとつの統制だから有効なのである。分権で統治された国の軍は常に反乱軍の候補でもある。常にクーデターの懸念が消せない。そうであるから薩長は幕府を倒せた。地方分権として中央のバックアップの役割を果たした。
軍の基本は中央集権的な命令系統にある。この命令は上から下に一方向でしか流れない。所が実際を観察してみれば、其々の上からの命令に対して意見具申をする仕組みを軍隊は持っている。これは分散システム的な仕組みでもある。
一切の反論も意見も許さない軍隊は脆弱である。自由闊達のない組織は余りに脆い。その中央集権の欠点をウクライナ戦争でロシアが証明し続けている。
中央集権の欠点を補うものとしての分散システムがある。ならばその逆もあるはずで、分散システムの中にも中央集権的なものは存在している事になる。すると権力闘争は中央集権の中に起きる分散システム的な現象と見做せる。
モデル化
中央集権と分散システムをモデル化してみる。モデルでは複数要素の間を繋いだ命令系統と定義する。中央集権は命令系統は一方向、その結びつきを 1:nと定義する。分散システムは各要素の結びつきを n:m、命令系統は双方向と定義する。これはスター型のネットワークトポロジーである。中央集権では命令系統を一方向とするために循環参照が生まれないようにしないといけない。これは下流から上流への逆流を禁止する事になる。分散システムは経路が多いため、逆流を阻止できない。
よって分散システムの伝達経路は命令系統としては不十分である。なぜなら命令が簡単に矛盾が引き起こす可能性がある。そのため命令系統に流せるものは情報共有までが限界であり、やり取りされる情報は命令とはなりえないから強制力を付与できない。そのため受け取った側がその情報に対して自発的に行動を決定する事になる。
こうして分散システムは自発的自立的にならざる得ない。同じ情報を受けても何の変化もしない要素もあれば、激しく反応する要素もある。多様性はそういう応答性の違いとして表現される。
モデル化してみると中央集権システムは分散システムのある特殊解と見做せる。中央集権は情報の共有を命令という強制力のある情報に限定した仕組みである。これを有効に働かせるために情報の流れに一方向の制約を課した。中央集権は情報に強制力を持たせる為の分散システムの一形態と言える。
更に敷衍するなら全体主義は構成する個々のノードが完全に同じ振る舞いをする様にと定義したものになる。これは中央集権の更なる特殊形であろう。全てが全く同じ反応を返す事を期待している。だから多様性を認めない。
システムの構造は情報の共有方法で規定する。組織の特徴は情報を共有した個々のノードの振る舞いによって決定される。良く出来たシステムはどのような形状でも有用に働く。ただ外乱や故障に対しての強弱はある。
人間はどうしても画一的にはなりえないから無理やり強制してもいずれ無気力になる。コンピュータの変わりに人間を使うという全体主義は短期的にしか有効とならない。特攻と同様である。だからコンピュータを中心にするなら全体主義も有効だ。AIの台頭でそれは現実味を帯びつつある。
江戸幕府が薩長に負けたのは軍事的に劣っていたせいではない。地方分権型の軍隊が中央集権型の軍隊に負けた。その事は両者ともに良く知っていただろう。同じ知識層、同じバックグランドを持つ者同士が戦ったのだから。才能や知略に差があったはずもない。ひとえにシステムの差であった。それは命令系統の差であった。情報の共有方法の違いであった。
道州制
地方分権は中央政府の出張所である。その必要性は、中央で処理するには問題の数が多すぎる事に起因する。中央省庁の処理能力を超えているので、それを各地方で処理するように分担した。地方の問題は地方で解決する方が望ましいという考えは理解しやすい。かつては人間が一日に歩ける距離が行政単位の基本であった。一日の移動量は徒歩から鉄道、航空機と短くなってきた。その分だけ地方の問題が地方でしか処理できないという物理的な制約は小さくなった。こうした流れで地方が中央に飲み込まれるのは当然に見える。
距離の問題は国境を超える。地方の問題は地方でという考え方はもう過去の話だ。地方の問題を世界中で考える事が出来る。難民の問題もウクライナの戦争も世界中が注目している。
光速の制限のため人類は隣の恒星にも辿り着けないであろう。まして他星系の知的生物とのコミュニケーションは不可能に近いと思われる。それでも人類の技術は太陽圏に進出する事は可能で、人類圏が拡張した時に距離の問題はどう変わるだろう。それが統治システムに影響しない筈がない。
距離が大きければ分散システムが採用される。距離の制約が小さければ中央集権で統制できる。とは言っても範囲の広がりは問題の多さに比例するはずだからどこかで処理能力の限界はくる。
このように考えを進めると日本の道州制が目指したものは地方への権限委譲ではない。単に県という単位をより広域化する事で解決を図ろうとしたものである。制度的な違いが何も変わらない以上、担当地域の広さに対して人員が減らせるという思惑しかない。
道州制をアメリカ型の地方分権と考えるなら、行政だけではなく立法権、司法権も渡さなければならない。これは連邦制と呼ばれる仕組みである。
道州制は連邦制への移行ではない。県の集合体を州に昇格させるのは中央集権の規模の問題であり、その目的は国から地方へ渡す予算の削減であろう。だが少ない予算でやり繰りするなら、地方は小さいままの方がいい。小さければ機動力が残せる。大きくなって愚鈍は不利と思える。
世界では地域毎の格差がある。世界に様々な国が併存できるのは貨幣が異なるからだ。国内では同じ通貨が使用される。だから地域格差は通貨では解決できない。物価は地方毎に異なるのに通貨の価値はどこでも同じになっている。
農業と工業
かつて地方の経済が賑わったのは農業中心の経済システムだったからだ。それが地域経済を支える中心だった。戦後に工業型の経済に切り替わる。経済の中心が都市型の経済に遷移し他時、農業中心の経済は縮小する事になった。農業に従事しない人たちは農地のない場所へ向かった。地方衰退
地方が衰退している以上、どこかで寡占が起きている。富が集まる場所があるなら減る場所がある。従来は農業の富が中央へと流れていた。それが工業に置き換わったので富の流れが変わった。そして工業は大量生産大量消費の市場を求めている。低価格競争の絶対視はここで生まれた。地方もこの流れからは逃れられない。大量消費が大きな市場を求め都市圏に形成される。地方の衰退は地方の市場の縮小を意味する。それに人口減少もある。どちらも首都圏に吸い取られた。
地方再生はこの流れの中で工夫するか、流れに逆らうか、別の河川を探すしかない。魚が河の中で居場所を探すように、両棲類が別の川を求めて陸に上がるように。トカゲが地上を選んだように。
大量生産大量消費のビジネスモデルに従う限り、それ以外に勝ち目がなさそうに思える。この価値観は絶対的だ。市場の購買力はそれに従う。例えばロシアの製品を市場が拒否したり、環境負荷の高いものが敬遠されるのはアレンジされているだけである。競争力は価格を安く設定する中でしか得られない。
世界の行方
価格競争の圧力は太陽風のように吹き続けている。まるで位置エネルギーを生み出す重力の様に途切れず作用している。そこで生まれた格差を縮めようと努力する人がいる。マルクスは労働者の悲惨さに我慢ができずにその原因を追究した。格差を縮小しようとする働きはまるでエントロピー増大則のようにも見える。
インターネットの登場が消費の形を変えようとしている。物流が発展してゆく中で、どこで生産されているかの意味は小さくなりつつある。従来の市場に近い意味は小さい。どこからでも商品は届く。船や航空機の発展によってモノの流れが変わった。
インターネットの発展が発注の部分を変えた。距離に関係なくどこの商品でも買える。市場に近い事に意味はなくなりつつある。近くで作り近くの市場に持ち込むモデルに意味はない。小売の店頭に並べる仕組みは絶対ではない。
市場が首都圏にある必要がなくなった。市場はコンピュータの中にある。何かを売ろうと考える者は常に世界を相手にする。否応なく世界から人がやってくる。ひとつの市場が世界に誕生しつつある。自分の隣で買い物をしている人はアフリカの何処かに住む人かも知れない。
物理的に近接する事は既に市場の要件ではなくなった。だから市場の縮退が地方の衰退の原因であるという論は通用しなくなった。人口減さえその理由にはならない。
生産しない事が衰退の理由なのである。いや、生産したものを流通に乗せれない事が衰退の原因である。では生産とは何であるのか。流通に乗せるにはどういう行動が必要か。
経済では資産がピラミッド型に集約する。従来、この集約が地域と不可分であった。しかし次の経済は地域に限定されない。地域は仮想化された記号に過ぎなくなる。物理的な地理と距離は問題の理由にならなくなる。
我々は分散的に各自が動き始めるのに調度いい時代に生きている。
地域の片隅に
経済は分散システムである。統治システムは中央集権である。資本主義は分散システムである。民主主義は中央主権である。つまり、分散システムだから資本主義が生まれた。中央集権システムだから民主主義が生まれた。資本主義に目的はない。だから民主主義の価値観や理念を踏みにじる事もある。民主主義はその価値を守ろうと経済に制約を課そうとする。それが経済発展を損なう事もあれば発展を促す事もある。
資本主義はその過程で自分たちの活動を合法化しようと働きかける。そこで資本が最大の威力を発揮する。統治システムは経済によって支配される可能性がある。
経済が武力を支えてきた。経済が統治システムを支えてきた。全てを経済が支えている。経済がなければ社会は発生しなかった。しかし、経済は全てをコントロールしているのではない。経済は分散システムだから。
理念は中央集権システムでも分散システムでもない。それはシステムではなく要素の属性である。システムがどのような構造であろうと個々のノードを必要とする。そのノードに理念がなければ活動できないのである。
生物は環境によく適応する。どうあがこうと我々は我々の円しか描けない。それとよく合致したなら発展するし、合致しなければ摩擦が増大する。
雇用する側は大量消費型の資本主義を思い描いている。雇用される側は少ない給与の中から生活に如何に満足するかという非消費型指向の資本主義を形成しようとしている。こうして市場の姿が変わろうとしている。システムの問題ではない。これは理念の問題に属する。
同じ量の雨が振っても田畑の上に降るのと森林の上で降るのと海の上で降るのではその後の事象は全く異なる。
例え国家が滅ぼうと民は消えない。その地域に人々は住み続ける。土と共に生きる。人は大地と離せない。だから地方は消えない。
2022年8月13日土曜日
五十而知天命 - 孔子
巻一爲政第二之四
孔子は天命をどういう思いで語ったか。彼が辿った道に天命はどういう風に降ってきたか。
僕たちは天命をひとつと思い込んでいる気がする。天命がふたつもみっつもあるとは思ってない。なぜひとつと決めたのか、この思い込みは恐らく正しい。天命は私が持っている命の数に等しいから。
天命を知った所で、それに向かって邁進するわけではあるまい。多くの人は怯み、思慮し、明日に伸ばし、また考える。天命を知るだけでは足りない。間違いなくそうに違いないという自負を要求する。それは命を捧げる価値があると信じる事に違いあるまい。
そんなものは個人の思い込みであり、単なる自己満足に過ぎない。その程度の事、人の心を知り、人間の行動について深く考えてきた人が思い至らなかったはずもない。
私には理想がある。嘗てはそれで十分だった。
揺ぎ無く、この思想は正しいと言えるものは何か。それを振り返るのに四十年では若すぎる。だから若い時はただ邁進すればよい。
いつか立ち止まらなければならない日がくる。前に進みたくても足が前にでない日がくる。昨日まであれだけ渇望していたものが今ではどうでもよくなってしまう。
人は如何に生きるべきか。若い時に感じた天啓を天命とは呼ぶまい。若い頃からずっと忘れられず、ずっと頭から離れず、追及してきたものがある。
それを追及するために生きてきたのだと思おうとした日がある。それだけが生きる支えとなった日がある。それは全て幻想である。人間は苦しければ藁にでもすがる。
迷うなど当たり前である、もし迷わない事を続けてゆくと、次第に、自分の中に、多分これは正しい、自分の残り時間からしても、これ以上先に考えはあるまい、と自信のような、断念のような、そんな所感に落ち込む。恐らく、そこが自分の山頂だ。それはいい。いつか限界は来る。
それでも目の前に聳える山から目を離してはならない。やり残した事があるという自覚こそが最も大切なのだ。もう少し行ってみるかという感慨が湧いた時、たった一歩でも歩けるように待っていなければならない。
不安に躓いてはいけない。学問は君の友人にはなれても君の不安を取り消してはくれない。その不安は一生尽きない。いや、その不安だけが君に最後まで寄り添う筈だ。それを本当の友と呼んでもよいのではないか。ああ、君か、長く待っていた。
生まれたときは無垢である。障害を負っていても気付くのはずっと後。誰もが無垢で生まれ、芥に終わる。宇宙へ帰る。生きるとは偏見に染まり、偏見を落とす作業なのか。
醜いは偏見に過ぎない。それが証拠に生まれたばかりの子供は醜いを知らない。世界は全て美しい。色眼鏡を外してみれば、あるがままの姿が全て美しい。腐敗の中にも幾億もの小さな生命の活動がある。その命たちは喜びを謳歌しているだろう。
そこに何かを差し込む必要はない。自分の考えはいらない。感情もいらない。ただ見ていればよい、ただ聞けばよい、ただ味わえばよい。価値など所詮は他人事である。
世界の切り取り方。その幾つかは死ぬまで訂正されない。その幾つかは生きているうちにどうやら違うと気付く。偏見であったと思う。偏狭を自覚する。そこでハッとする。
切符に大きく印字された小の記号に気付かない。脱衣籠の中に携帯を置き忘れる。車を見て、その人が乗っていると思ったら違う人だった。共通するのは車種だけだった。
何度も見ているのに、網膜には映っているのに。思い込みで間違った結論を得る。それを訂正するチャンスが幾つもありながら更新できない。なぜか。
面倒だからという理由だけで端折ったものがある。効率がそれほど大切なものになったのか。それほど嗅覚が衰えているのか。エネルギーをそれ程まで節約しなければならない理由は何か。それが効率的と脳は結論したのだろうか。少しでも先まで持たせるために。
数万年以上も前ならば、老齢の個体は、捕食される候補であった。老齢の個体の存在が、群れ全体の、幼い個体、弱い個体の生存率を高める方向で寄与する。老化は集団のひとつの生き残り戦略であろう。
もし老齢となる個体がいなければどこまでも増え続ける。増えるだけ増えれば、環境を破壊し、全体のバランスを崩し、食料が不足し、遂には絶滅に向かう事になる。ぱっと咲く花火のように消えてゆく。
淘汰が全体の生存確率を上げる。ならば捕食される個体はそれに気付かない方がいい。その方が穏やかにその役割を果たして行けるから。若い時には決して見えなかったものがある。年を取るとは、残念だ、の一言で別れられるようになる事ではないか。次は自分だから。
これが天命だ。そんな瞬間があるものか、人には未来を見通す力はない。だが、これが天命であろうか、と自問する事は出来る。決して天命を知る事は出来ない。これはそういう意味のはずだ。分かったのではない、理解さえできない。では孔子は何を天命と問うたのか。
もし天がまだ生かす気なら、まだやるべき事があるという事だろう。もし奪う気なら天は簡単に奪う。そこから逃れられない以上、天はまだ生きる事を認めている筈だ。
果たして我々は天命を果たすために生まれたのか。
その上で、自分が何かを足さなければならないと考えるか。それは恐らく不遜なのだ。自惚れなのだ。世界はそれを欲しない。だからそれはエゴイズムになる。それでも私の意志は他からは奪えない。
若き日には無双を誇った能力も白髪が占める頃には才気が失われる。溢れるような泉はどうなってしまったのか。その泉こそが天が私に託したものではなかったのか。
無意識からの声は今も届くのにそれが聞き取れなくなったのか、それとも深き泉は枯れたのか。聞こえないのは天が私の耳を奪ったからか。泉が枯れたのは天が私のすべき事は奪ったからか。
しかし力を失ってから足掻く姿の中にだけ人間がいるのではないか。神に見放された所からだけ人間の時間は始まるのではないか。
まだ泉が枯れてないのならまだやりようはあろう。しかし泉が枯れたのならどうやって行こうか。もう聞こえてこない声を待っていても何にもならない。
よって天を見限る所から始めるしかない。そこからが本当の努力と呼べるのではないか。そこからが本当の芸事ではないか。枯れた井戸の底に見えるものは何か。そこに何を見つけるかではなく、そこに誰が居るかが問われている。
若い時には天命など信じやしない。己の自信だけを疑わずに根拠とすれば良い。根拠のない盲目の自信でなければどうして使い物になろう。
泉が枯れて本当の試行錯誤が始まる。本当の悩みが始まる。のたうち回って初めて手にする一握りの砂がある。力の及ばない世界へ本当に手が届くのはそこからになる。
天に命じられるままに手に入れたものの何に価値を認めようか、どこに人間を探せばいいのか。
衰えた棋士の放つ一手の中に何かが潜んでいる。やっと探し当てた自分の一手が無惨に打ち砕かれようと、それを探しそれを決断する過程の中には確かにその人らしい何かがある。それが幻の一手だとしてどうして捨て去れよう。無価値は無意味ではない。
天に与えられたものを使っている最中など天から見れば分かり切っている。全て使い尽くした後は天も予測不能となる。だから、天はその先を望む。そのために天命を与えたのだ。使いつくしてからが天の望みであろう。
もう夢など必要ない。この年にもなれば夢とは緻密に立てた準備の事だと知っている。若い人に追い抜かれて何が哀しいものか。私の経験は私だけの景色。
いつか宇宙に出て、我々は他の星の生命と出会う。その時、どのような相手と出会おうと、相手に滅ぼされる事なく、相手を滅ぼすでもなく、邂逅できる準備をする必要がある。そのために我々は様々な失敗を繰り返してきた。多くの命がゴミのように捨てられてきた。その全てに意味があるならこの時である。人類だけを特別扱いするようでは考えが足りない。その程度を理想とするようでは覚悟が足りない。
私の中に残ったものは何か。枯れた泉の景色を眺めながらこれから自分の力で生きよという声を聞いた。天に見放されて初めて聞いた声である。それを孔子は天命と呼んだのではないか。
子曰吾十有五而志于学 (子曰くわれ十有五にして学に志す)
三十而立 (三十にして立つ)
四十而不惑 (四十にして惑わず)
五十而知天命 (五十にして天命を知る)
六十而耳順 (六十にして耳に順う)
七十而従心所欲 (七十にして心の欲するところに従えども)
不踰矩(矩をこえず)
孔子は天命をどういう思いで語ったか。彼が辿った道に天命はどういう風に降ってきたか。
僕たちは天命をひとつと思い込んでいる気がする。天命がふたつもみっつもあるとは思ってない。なぜひとつと決めたのか、この思い込みは恐らく正しい。天命は私が持っている命の数に等しいから。
天命を知った所で、それに向かって邁進するわけではあるまい。多くの人は怯み、思慮し、明日に伸ばし、また考える。天命を知るだけでは足りない。間違いなくそうに違いないという自負を要求する。それは命を捧げる価値があると信じる事に違いあるまい。
そんなものは個人の思い込みであり、単なる自己満足に過ぎない。その程度の事、人の心を知り、人間の行動について深く考えてきた人が思い至らなかったはずもない。
私には理想がある。嘗てはそれで十分だった。
揺ぎ無く、この思想は正しいと言えるものは何か。それを振り返るのに四十年では若すぎる。だから若い時はただ邁進すればよい。
いつか立ち止まらなければならない日がくる。前に進みたくても足が前にでない日がくる。昨日まであれだけ渇望していたものが今ではどうでもよくなってしまう。
人は如何に生きるべきか。若い時に感じた天啓を天命とは呼ぶまい。若い頃からずっと忘れられず、ずっと頭から離れず、追及してきたものがある。
それを追及するために生きてきたのだと思おうとした日がある。それだけが生きる支えとなった日がある。それは全て幻想である。人間は苦しければ藁にでもすがる。
迷うなど当たり前である、もし迷わない事を続けてゆくと、次第に、自分の中に、多分これは正しい、自分の残り時間からしても、これ以上先に考えはあるまい、と自信のような、断念のような、そんな所感に落ち込む。恐らく、そこが自分の山頂だ。それはいい。いつか限界は来る。
それでも目の前に聳える山から目を離してはならない。やり残した事があるという自覚こそが最も大切なのだ。もう少し行ってみるかという感慨が湧いた時、たった一歩でも歩けるように待っていなければならない。
不安に躓いてはいけない。学問は君の友人にはなれても君の不安を取り消してはくれない。その不安は一生尽きない。いや、その不安だけが君に最後まで寄り添う筈だ。それを本当の友と呼んでもよいのではないか。ああ、君か、長く待っていた。
生まれたときは無垢である。障害を負っていても気付くのはずっと後。誰もが無垢で生まれ、芥に終わる。宇宙へ帰る。生きるとは偏見に染まり、偏見を落とす作業なのか。
醜いは偏見に過ぎない。それが証拠に生まれたばかりの子供は醜いを知らない。世界は全て美しい。色眼鏡を外してみれば、あるがままの姿が全て美しい。腐敗の中にも幾億もの小さな生命の活動がある。その命たちは喜びを謳歌しているだろう。
そこに何かを差し込む必要はない。自分の考えはいらない。感情もいらない。ただ見ていればよい、ただ聞けばよい、ただ味わえばよい。価値など所詮は他人事である。
世界の切り取り方。その幾つかは死ぬまで訂正されない。その幾つかは生きているうちにどうやら違うと気付く。偏見であったと思う。偏狭を自覚する。そこでハッとする。
切符に大きく印字された小の記号に気付かない。脱衣籠の中に携帯を置き忘れる。車を見て、その人が乗っていると思ったら違う人だった。共通するのは車種だけだった。
何度も見ているのに、網膜には映っているのに。思い込みで間違った結論を得る。それを訂正するチャンスが幾つもありながら更新できない。なぜか。
面倒だからという理由だけで端折ったものがある。効率がそれほど大切なものになったのか。それほど嗅覚が衰えているのか。エネルギーをそれ程まで節約しなければならない理由は何か。それが効率的と脳は結論したのだろうか。少しでも先まで持たせるために。
数万年以上も前ならば、老齢の個体は、捕食される候補であった。老齢の個体の存在が、群れ全体の、幼い個体、弱い個体の生存率を高める方向で寄与する。老化は集団のひとつの生き残り戦略であろう。
もし老齢となる個体がいなければどこまでも増え続ける。増えるだけ増えれば、環境を破壊し、全体のバランスを崩し、食料が不足し、遂には絶滅に向かう事になる。ぱっと咲く花火のように消えてゆく。
淘汰が全体の生存確率を上げる。ならば捕食される個体はそれに気付かない方がいい。その方が穏やかにその役割を果たして行けるから。若い時には決して見えなかったものがある。年を取るとは、残念だ、の一言で別れられるようになる事ではないか。次は自分だから。
これが天命だ。そんな瞬間があるものか、人には未来を見通す力はない。だが、これが天命であろうか、と自問する事は出来る。決して天命を知る事は出来ない。これはそういう意味のはずだ。分かったのではない、理解さえできない。では孔子は何を天命と問うたのか。
もし天がまだ生かす気なら、まだやるべき事があるという事だろう。もし奪う気なら天は簡単に奪う。そこから逃れられない以上、天はまだ生きる事を認めている筈だ。
命などさっさと天に預けてしまえ。もしここで溺れ死ぬか黒船に殺されるなら、それは俺たちを用無しだと、天が殺すのだ。 お〜い!竜馬
果たして我々は天命を果たすために生まれたのか。
その上で、自分が何かを足さなければならないと考えるか。それは恐らく不遜なのだ。自惚れなのだ。世界はそれを欲しない。だからそれはエゴイズムになる。それでも私の意志は他からは奪えない。
若き日には無双を誇った能力も白髪が占める頃には才気が失われる。溢れるような泉はどうなってしまったのか。その泉こそが天が私に託したものではなかったのか。
無意識からの声は今も届くのにそれが聞き取れなくなったのか、それとも深き泉は枯れたのか。聞こえないのは天が私の耳を奪ったからか。泉が枯れたのは天が私のすべき事は奪ったからか。
しかし力を失ってから足掻く姿の中にだけ人間がいるのではないか。神に見放された所からだけ人間の時間は始まるのではないか。
まだ泉が枯れてないのならまだやりようはあろう。しかし泉が枯れたのならどうやって行こうか。もう聞こえてこない声を待っていても何にもならない。
よって天を見限る所から始めるしかない。そこからが本当の努力と呼べるのではないか。そこからが本当の芸事ではないか。枯れた井戸の底に見えるものは何か。そこに何を見つけるかではなく、そこに誰が居るかが問われている。
若い時には天命など信じやしない。己の自信だけを疑わずに根拠とすれば良い。根拠のない盲目の自信でなければどうして使い物になろう。
泉が枯れて本当の試行錯誤が始まる。本当の悩みが始まる。のたうち回って初めて手にする一握りの砂がある。力の及ばない世界へ本当に手が届くのはそこからになる。
天に命じられるままに手に入れたものの何に価値を認めようか、どこに人間を探せばいいのか。
衰えた棋士の放つ一手の中に何かが潜んでいる。やっと探し当てた自分の一手が無惨に打ち砕かれようと、それを探しそれを決断する過程の中には確かにその人らしい何かがある。それが幻の一手だとしてどうして捨て去れよう。無価値は無意味ではない。
天に与えられたものを使っている最中など天から見れば分かり切っている。全て使い尽くした後は天も予測不能となる。だから、天はその先を望む。そのために天命を与えたのだ。使いつくしてからが天の望みであろう。
もう夢など必要ない。この年にもなれば夢とは緻密に立てた準備の事だと知っている。若い人に追い抜かれて何が哀しいものか。私の経験は私だけの景色。
いつか宇宙に出て、我々は他の星の生命と出会う。その時、どのような相手と出会おうと、相手に滅ぼされる事なく、相手を滅ぼすでもなく、邂逅できる準備をする必要がある。そのために我々は様々な失敗を繰り返してきた。多くの命がゴミのように捨てられてきた。その全てに意味があるならこの時である。人類だけを特別扱いするようでは考えが足りない。その程度を理想とするようでは覚悟が足りない。
私の中に残ったものは何か。枯れた泉の景色を眺めながらこれから自分の力で生きよという声を聞いた。天に見放されて初めて聞いた声である。それを孔子は天命と呼んだのではないか。
2022年7月31日日曜日
輪廻転生、唯我独尊、一切皆空
釈迦が入仏した時、彼は目覚めた。
ようこそ涅槃へ、ここは新しい覚醒の世界です。ここでは万物は流転し、未来永劫の時間が過ぎてゆきます。
私はそれをもう知っている、阿頼耶識と言うのだ、彼はそう答えた。
そう、あなたはよく識っていましたね。そのような識覚に達したものをこれまで見た事はありません。あの星では。
あの星?私が生きていた大地の事か?
見てごらんなさい、あれがあなたがたの生命の生存圏です。
まだ、あなたには多くを学ぶ必要がありますね。あなたにはまだ足りません。
上空から光が差してくるのを感じた。と、抗う事もできぬ刹那に深い眠りへと入った。
どれくらいの時間が経ったであろうか。
素粒子や原子の振る舞いは、輪廻転生に似ている…そう感じた。
生物の体の中に入り込み、血となって流れてゆく鉄がある…
人の体を切り裂く剣と溢れる血液との間で出会う鉄がある…
地球の奥底で百億年も留まる鉄がある…
ほら、あそこに光輝きながらウランに変わりつつある粒子がありますね。その指さした空間では星が自重に耐えきれず飛び散ろうとしていた。
あちらの空間では長い運河のように粒子が集まりつつありますね。別の空間を目指そうという声が聞こえた。
この粒子のひとつひとつが、これから多くの経験をするのだろう。彼は釈然と思った。
そうですね、水となって星に降り注ぐものもあれば、この世界の終わりまでただ宇宙空間を漂うものもあります。
太陽からのエネルギーを受け、喜びに震える粒子もいれば、生命を形づくり、命を謳歌する粒子もあります。
あなたのいう悲しみ、苦しみと立ち会う粒子もいれば、生まれる喜びと立ち会う粒子もあるでしょう。食われる痛みと立ち会う粒子もあれば、襲われる恐怖と立ち会う粒子もあるでしょう。
太陽の熱に激しく反応する粒子もあれば、海底深くで揺らぐ粒子もあるでしょう。ほら、星の上で激しく分裂して熱を周囲に輻射する粒子があそこにありますね。
指さした星の方を見ると、地表を揺らす閃光を見た。
この流転の中で、この流れの中で、抜け出す事もなく、ただ繰り返し、いつも存在する。恐れもない、不安もない。消滅しても、また現れ、姿を変える事を厭わない。そしてこの世界を満たす。輪廻転生を恐れもせず、受け入れる必要もない。泰然としてあり続ける。
もしそれが本当ならば、私たちの生と死を隔てるものは何であろう。何が生と死を隔てているのか。なぜ私たちはそこに喜びや悲しみを見出すのだろう。私たちの命が転生するという考えに親しみを感じるのは何故だろう。なぜ私たちは死ぬ事でしか転生できないのだろう。
粒子は唯我独尊ではありません、輪廻転生もしません。例えこの宇宙が蒸発しても何らかの形で存在するでしょう。
真空は決して何もない訳ではありません。真空からこぼれ落ちてまた消える。ちょうど呼吸をする為に鯨が海上に体を出すように。形は変われども変わらず流れているのです。
では、生きているとは何だ。なぜ人間は死ぬ運命にあるのか。
あなたたちが死と呼ぶものは、ただ風が吹いて粒子が動き、太陽に温められ、空に上昇するのと似ています、私にはそう見えます。区別することさえ難しい。結びついていたものがほどけてゆくことがそんなに不思議ですか。
でも、そこには結びつこうとする何かがある。だから何かの折りに離れてゆく。その運動を粒子の意志と呼ぶのは不遜だろうか。
あなたたちが呼ぶ死と呼ぶものは、私たちから見れば、ひとつの有限が終わり別の有限が始まるだけに見えます。
有限?我々の命は無限ではない。ならば死とは無限ではないのか。死は無限へ至る有限の終端なのだろうか。有限と無限の狭間に命は存在しているのだろうか。
無限には有限のあらゆる変化が含まれていると考えられます。しかし、無限の一部を切り取ってもそれを有限と呼べるでしょうか。なぜなら、切り取った有限をどれだけ集めても無限には戻らないからです。切り取るという行為が既に有限を含むのです。
無限をどれだけ数えても果てはありません。数えるという行為が有限を既に含むのです。有限を重ねるだけでは無限には辿り着けない。故に想像上、無限の時間に達したと仮定するかないのです。
有限から無限に追い付く事はできません。しかし有限の中にも無限の影はあちらこちらに垣間見えるでしょう。常にあなたのいる場所のその隣には無限への扉が開かれています。
もし無限の影が有限である我々の中に入り込もうとすれば我々の命はそれに耐えらない。だからそこから逃れる為に無限の中に飛び込もうとする。それが命の在り様なのか。それともそれはゼロにするための希求なのか。
ゼロは空と同じものだろうか?真空はゼロではないと言う。本当の無とはどういうものなのだろうか。
あなたが空と名付けたものがゼロと同じであるかどうか。わたしには分かりかねます。しかしそこに微妙な違いがあるとあなたは信じているように見えます。そこに何かしら希求的なものがあるのではないでしょうか?
無限を前にして絶望を味わう。それが敗北の始まりとなる。敗北とは有限が無限と対面した時の気持ちなのだろう。
なぜ我々は無限の前で敗北を感じるだろうか。それは我々の肉体が有限だからだ。よって魂が無限である事ともよく合致する。
だから私は空に想い至ったのではないか。苦しみは有限だからではない。魂を無限と思うから苦しくなる。無限の世界に逃げ込もうとするから苦しみから逃れられない。
未来は無限なのか。無限の可能性とは有限の言い換えではないのか。我々はそのようにしか世界を切り取れない。しかし無限とは乃ち有限の自覚の裏返しだ。何故なら我々は有限の中の無限しか識らないからだ。だから人は神を生み出した。神は有限の世界に生きる我々の中の無限であろう、それと対峙するには魂が生まれる。それらが永遠を包含している。
我々はそうやって永遠と対峙してきた。神の前では有限の存在である。命の有限さを識り、有限の絶望から無限の希望へと接続する為に。なぜ無限の中に我々は希望を見出そうとするのか。なぜ強くそう望むのか。
そう考えてくると、希望とは何か無限を追い払う力が宿っているのではないか。希望こそが無限を遮断する。有限であるからこそ我々は希望を感じる事ができるのではないか。そこが我々の力の源泉ではないか。我々は無限であるから力を得るのではあるまい。有限であるが故に力を得ている。そう考える事で我々は命を生きてゆく事ができる。
無限は永遠に続く事ではないでしょう。空間が永遠に広がるのは有限の世界です。微小な世界を幾らでも分割して行けるのも有限の世界です。それは決して無限に辿り着けないのですから。永遠の時間が既に有限の世界に属しています。
半分にそのまた半分を永遠に足してゆけば1という数になる。直線を伸ばせば無限になる。直線の両側を繋げれば円になる。円は無限に巡る。繰り返しならば終わりはない。発散するか収束するかは分からずともそこに私たちは無限を見つけた。
世界は無限に小さくして行く事ができる。果てしなく切り刻めば無限が見つかる。ゼロでなければ無限。それをどこかで止めれば有限になる。我々はどこかで引き返したから有限に留まる事ができた。どこかで無限を断ち切ったから。その最小によって世界は成り立つ。
有限の中にも無限が見つかる。でもそれは有限の中の無限だ。ゼロもまた有限の中のゼロだ。それは本当の無限でも本当のゼロでもないのかも知れない。我々は無限という影を有限の中に見ている。ゼロという影がこの世界にある。それぞれが溶けて全てと融合する事はないのか。
わたしたちが有限の世界に無限の影を見つけて恐れているのなら、無限の世界の住人もまた有限の影に恐れおののいているのかも知れません。私たちと同じように。
無限の世界には偶然も必然もないでしょう。わたしたちが偶然とよぶ出来事も時間を永遠に取れば無限と同じ濃度で発生するでしょう。その世界では偶然も必然も見分けはつきません。運命など無限の世界には存在しないのです。
有限の世界から無限回の作用を考えるから無限を思う事ができる。しかし、無限の世界に至るのに無限の時間が必要などあり得ない。よって無限はいまこの瞬間も既に無限として存在しているはずです。しかし存在という捉え方が既に有限の方法なのかも知れません。無限には無限の方法があるはずです。
しかし有限のやり方では無限には決して到達できないでしょう。有限では無限は永遠に手にはいらないのでしょう。有限から無限を生み出すには無限に作用を繰り返すしかありません。でもそのためには永遠の回数が必要です。それは有限の中に無限の世界を持ち込まないとできません。
無限をひとつの状態と捉えればいい。無限の中に何を入れようが取り除こうが無限の本質は変わらないものだろうか。そういう作用は無限の世界を変えないものだろうか。1という数字を取り除いても無限は無限のままだろうか。だが、無限と無限を作用さえればゼロを作る事はできるのではないだろうか。ならば、無限同士を演算すれば有限が生まれる事もありそうに思える。
どれほど大きな数であっても無限の中の一粒を占める事さえできません。ゼノンが指摘したように、もしこの世界が無限で構成されていれば、誰も追いつけないし、どこにも辿り着けません。小さな部屋を出る事さえできないでしょう。永遠の半分を無限に繰り返す事になります。それを超えるには有限が必要です。
後悔は選択のシミュレーションに過ぎません。有限の中で繰り返し試す事で結果の違いを得る事ができるのです。永遠に試せるならば何の後悔があるでしょう。無限の中には答えがありません。だから有限の苦しみが永遠に続く事を輪廻と定義し、そこから抜け出す事、乃ち無限を拒否する事を悟りと定義したのではないですか?
わたしたちは、この永久ループから逃れる術を考えてきたあなたの中に、有限の戦士たる資格を見出したのです。
だから、我々は有限をもって無限に戦いを挑むのです。決して無限の中に逃げてはならない。有限が限界があると認識してはなりません。有限の世界もまた果てしないのです。どこまでも進む事はできるのです。
空間も時間も無限ではない。いや想像する限り空間も時間も無限に続く事は可能である。どこかに果てがあるのか。しかし果てがあるなら必ずその先があるはずである。この考えが続く限り有限にもまた果てはない。
無限をひとつの存在と置くから果てがないと考えてしまう。果ての先にまた果てがあると考えるのは有限だからだ。無限の世界にはそのような考え方はないだろう。しかし無限の中にも境界は設定できるだろう。部分もまた無限である世界では、全体と部分が同じという世界が続いている。無限の世界にも制約や境界や禁止は存在するだろう。
もしこの世界に完全なランダムというものが存在するなら、それは神でさえ予言できないという意味になる。しかしそれでは神にも不可能があるという事になる。それでは神を全知全能とは呼べなくなる。
ですから、この世界で起きる無限の確率に対して、それぞれに対して神が直面できるなら、つまり、神は全ての可能性に対して無限に分離しそれぞれの異なる世界の全てを知る事が可能となり、そして後からその全てを繋げて個に戻す事が出来るのならば、それは全知と呼んでも差し支えないでしょう。どれが選択されようが全てが決まる前に全てを知っておく事は可能でしょう。これによって神の全知全知は保たれます。
そのような存在に我々はどうやって太刀打ちできるだろう。今この時も神は我々の側で我々の確率を観察している事になる。我々は個を無限に分割する事も無限を個に戻す事もできない。
無いものは永遠。存在するものは有限。我々は生きる為に時間を発明した。時間は蓄積する。蓄積を繰り返せば無限に近づく。見通す範囲の外には別の世界がある。境界を越えれば異なる世界が待ち構えているかもしれない。同じ世界の連続かも知れない。
こちらの世界の中での最善が境界を超えた瞬間に最悪を示すかも知れない。限られた範囲の色が、その外では違う色かも知れない。内側と同じ色であるとは限らない。
順風満帆に見えるその先にあるものは嵐かも知れない。だれもが今この瞬間もこの境界を超えようとしている。時間が有限を告げるまで。
境界の果てを覗き込めば、次の境界が現れる。その全てが有限であったとしても人間の全ての時間では足りないだろう。それを人は無限と呼び、永遠と呼び、永久と呼ぶ。その有限の先にある有限を見ようともしない。
この世界に充満するものは全て有限なのです。有限とは数えられるという事でもあります。数えるとは詰まりは時間が経過する事と同じです。時間とは数える事なのです。
するとこういう言い方ができる。時間とは知る事ができるという意味だし、無限とは知る事が出来ないという意味だ。無限の世界では時間は流れていないのではないだろうか。
それにしても生命は何故かくも複雑すぎるのだろう。なぜ、このような結合をしているのだろう。なぜ、それは親から子へ流転を構成するのだろう。これが粒子たちの願いであったのか。なぜ、私たちは太陽の温かさに触れるとき、なぜ、全ての生命が根源的な喜びに満ちるのだろう。
この宇宙だけではない、とてもたくさんの宇宙。そこにも粒子があり、原子があり、分子があり、同じような空間を形づくっています。あなたたちから見ればとても大きな無限の空間のようでも、これは極めて有限の、とても小さな空間なのです。どれほど無限の先を思い描いても、私たち有限の世界では辿りつけない存在があり、状態があります。
ならば、なぜわたしはここに呼ばれてきたのか。
絶望には常に永遠が潜みます、だから、もし絶望したのなら有限に戻ってきなさい。それだけがあなたの帰ってこられる道です。
さ、千万那由他の21番目の戦士よ、あなたもまた無限空間との戦いに送り込まれるために有限の空間から召喚されたのです。私たちは無限に反抗するもの、例え、遠い未来で完全に永久に消滅する存在だとしても。そうと分かっていても、私たちは、ここで抵抗します。抜け出しもせずこの世界で生きるのです。わたちたちは無限に屈服はしません。
さあ、出発しなさい。あなたの求めるものを見つけるために。無限を打ち破ってきなさい。
ようこそ涅槃へ、ここは新しい覚醒の世界です。ここでは万物は流転し、未来永劫の時間が過ぎてゆきます。
私はそれをもう知っている、阿頼耶識と言うのだ、彼はそう答えた。
そう、あなたはよく識っていましたね。そのような識覚に達したものをこれまで見た事はありません。あの星では。
あの星?私が生きていた大地の事か?
見てごらんなさい、あれがあなたがたの生命の生存圏です。
まだ、あなたには多くを学ぶ必要がありますね。あなたにはまだ足りません。
上空から光が差してくるのを感じた。と、抗う事もできぬ刹那に深い眠りへと入った。
どれくらいの時間が経ったであろうか。
素粒子や原子の振る舞いは、輪廻転生に似ている…そう感じた。
生物の体の中に入り込み、血となって流れてゆく鉄がある…
人の体を切り裂く剣と溢れる血液との間で出会う鉄がある…
地球の奥底で百億年も留まる鉄がある…
ほら、あそこに光輝きながらウランに変わりつつある粒子がありますね。その指さした空間では星が自重に耐えきれず飛び散ろうとしていた。
あちらの空間では長い運河のように粒子が集まりつつありますね。別の空間を目指そうという声が聞こえた。
この粒子のひとつひとつが、これから多くの経験をするのだろう。彼は釈然と思った。
そうですね、水となって星に降り注ぐものもあれば、この世界の終わりまでただ宇宙空間を漂うものもあります。
太陽からのエネルギーを受け、喜びに震える粒子もいれば、生命を形づくり、命を謳歌する粒子もあります。
あなたのいう悲しみ、苦しみと立ち会う粒子もいれば、生まれる喜びと立ち会う粒子もあるでしょう。食われる痛みと立ち会う粒子もあれば、襲われる恐怖と立ち会う粒子もあるでしょう。
太陽の熱に激しく反応する粒子もあれば、海底深くで揺らぐ粒子もあるでしょう。ほら、星の上で激しく分裂して熱を周囲に輻射する粒子があそこにありますね。
指さした星の方を見ると、地表を揺らす閃光を見た。
この流転の中で、この流れの中で、抜け出す事もなく、ただ繰り返し、いつも存在する。恐れもない、不安もない。消滅しても、また現れ、姿を変える事を厭わない。そしてこの世界を満たす。輪廻転生を恐れもせず、受け入れる必要もない。泰然としてあり続ける。
もしそれが本当ならば、私たちの生と死を隔てるものは何であろう。何が生と死を隔てているのか。なぜ私たちはそこに喜びや悲しみを見出すのだろう。私たちの命が転生するという考えに親しみを感じるのは何故だろう。なぜ私たちは死ぬ事でしか転生できないのだろう。
粒子は唯我独尊ではありません、輪廻転生もしません。例えこの宇宙が蒸発しても何らかの形で存在するでしょう。
真空は決して何もない訳ではありません。真空からこぼれ落ちてまた消える。ちょうど呼吸をする為に鯨が海上に体を出すように。形は変われども変わらず流れているのです。
では、生きているとは何だ。なぜ人間は死ぬ運命にあるのか。
あなたたちが死と呼ぶものは、ただ風が吹いて粒子が動き、太陽に温められ、空に上昇するのと似ています、私にはそう見えます。区別することさえ難しい。結びついていたものがほどけてゆくことがそんなに不思議ですか。
でも、そこには結びつこうとする何かがある。だから何かの折りに離れてゆく。その運動を粒子の意志と呼ぶのは不遜だろうか。
あなたたちが呼ぶ死と呼ぶものは、私たちから見れば、ひとつの有限が終わり別の有限が始まるだけに見えます。
有限?我々の命は無限ではない。ならば死とは無限ではないのか。死は無限へ至る有限の終端なのだろうか。有限と無限の狭間に命は存在しているのだろうか。
無限には有限のあらゆる変化が含まれていると考えられます。しかし、無限の一部を切り取ってもそれを有限と呼べるでしょうか。なぜなら、切り取った有限をどれだけ集めても無限には戻らないからです。切り取るという行為が既に有限を含むのです。
無限をどれだけ数えても果てはありません。数えるという行為が有限を既に含むのです。有限を重ねるだけでは無限には辿り着けない。故に想像上、無限の時間に達したと仮定するかないのです。
有限から無限に追い付く事はできません。しかし有限の中にも無限の影はあちらこちらに垣間見えるでしょう。常にあなたのいる場所のその隣には無限への扉が開かれています。
もし無限の影が有限である我々の中に入り込もうとすれば我々の命はそれに耐えらない。だからそこから逃れる為に無限の中に飛び込もうとする。それが命の在り様なのか。それともそれはゼロにするための希求なのか。
ゼロは空と同じものだろうか?真空はゼロではないと言う。本当の無とはどういうものなのだろうか。
あなたが空と名付けたものがゼロと同じであるかどうか。わたしには分かりかねます。しかしそこに微妙な違いがあるとあなたは信じているように見えます。そこに何かしら希求的なものがあるのではないでしょうか?
無限を前にして絶望を味わう。それが敗北の始まりとなる。敗北とは有限が無限と対面した時の気持ちなのだろう。
なぜ我々は無限の前で敗北を感じるだろうか。それは我々の肉体が有限だからだ。よって魂が無限である事ともよく合致する。
だから私は空に想い至ったのではないか。苦しみは有限だからではない。魂を無限と思うから苦しくなる。無限の世界に逃げ込もうとするから苦しみから逃れられない。
未来は無限なのか。無限の可能性とは有限の言い換えではないのか。我々はそのようにしか世界を切り取れない。しかし無限とは乃ち有限の自覚の裏返しだ。何故なら我々は有限の中の無限しか識らないからだ。だから人は神を生み出した。神は有限の世界に生きる我々の中の無限であろう、それと対峙するには魂が生まれる。それらが永遠を包含している。
我々はそうやって永遠と対峙してきた。神の前では有限の存在である。命の有限さを識り、有限の絶望から無限の希望へと接続する為に。なぜ無限の中に我々は希望を見出そうとするのか。なぜ強くそう望むのか。
そう考えてくると、希望とは何か無限を追い払う力が宿っているのではないか。希望こそが無限を遮断する。有限であるからこそ我々は希望を感じる事ができるのではないか。そこが我々の力の源泉ではないか。我々は無限であるから力を得るのではあるまい。有限であるが故に力を得ている。そう考える事で我々は命を生きてゆく事ができる。
無限は永遠に続く事ではないでしょう。空間が永遠に広がるのは有限の世界です。微小な世界を幾らでも分割して行けるのも有限の世界です。それは決して無限に辿り着けないのですから。永遠の時間が既に有限の世界に属しています。
半分にそのまた半分を永遠に足してゆけば1という数になる。直線を伸ばせば無限になる。直線の両側を繋げれば円になる。円は無限に巡る。繰り返しならば終わりはない。発散するか収束するかは分からずともそこに私たちは無限を見つけた。
世界は無限に小さくして行く事ができる。果てしなく切り刻めば無限が見つかる。ゼロでなければ無限。それをどこかで止めれば有限になる。我々はどこかで引き返したから有限に留まる事ができた。どこかで無限を断ち切ったから。その最小によって世界は成り立つ。
有限の中にも無限が見つかる。でもそれは有限の中の無限だ。ゼロもまた有限の中のゼロだ。それは本当の無限でも本当のゼロでもないのかも知れない。我々は無限という影を有限の中に見ている。ゼロという影がこの世界にある。それぞれが溶けて全てと融合する事はないのか。
わたしたちが有限の世界に無限の影を見つけて恐れているのなら、無限の世界の住人もまた有限の影に恐れおののいているのかも知れません。私たちと同じように。
無限の世界には偶然も必然もないでしょう。わたしたちが偶然とよぶ出来事も時間を永遠に取れば無限と同じ濃度で発生するでしょう。その世界では偶然も必然も見分けはつきません。運命など無限の世界には存在しないのです。
有限の世界から無限回の作用を考えるから無限を思う事ができる。しかし、無限の世界に至るのに無限の時間が必要などあり得ない。よって無限はいまこの瞬間も既に無限として存在しているはずです。しかし存在という捉え方が既に有限の方法なのかも知れません。無限には無限の方法があるはずです。
しかし有限のやり方では無限には決して到達できないでしょう。有限では無限は永遠に手にはいらないのでしょう。有限から無限を生み出すには無限に作用を繰り返すしかありません。でもそのためには永遠の回数が必要です。それは有限の中に無限の世界を持ち込まないとできません。
無限をひとつの状態と捉えればいい。無限の中に何を入れようが取り除こうが無限の本質は変わらないものだろうか。そういう作用は無限の世界を変えないものだろうか。1という数字を取り除いても無限は無限のままだろうか。だが、無限と無限を作用さえればゼロを作る事はできるのではないだろうか。ならば、無限同士を演算すれば有限が生まれる事もありそうに思える。
どれほど大きな数であっても無限の中の一粒を占める事さえできません。ゼノンが指摘したように、もしこの世界が無限で構成されていれば、誰も追いつけないし、どこにも辿り着けません。小さな部屋を出る事さえできないでしょう。永遠の半分を無限に繰り返す事になります。それを超えるには有限が必要です。
後悔は選択のシミュレーションに過ぎません。有限の中で繰り返し試す事で結果の違いを得る事ができるのです。永遠に試せるならば何の後悔があるでしょう。無限の中には答えがありません。だから有限の苦しみが永遠に続く事を輪廻と定義し、そこから抜け出す事、乃ち無限を拒否する事を悟りと定義したのではないですか?
わたしたちは、この永久ループから逃れる術を考えてきたあなたの中に、有限の戦士たる資格を見出したのです。
だから、我々は有限をもって無限に戦いを挑むのです。決して無限の中に逃げてはならない。有限が限界があると認識してはなりません。有限の世界もまた果てしないのです。どこまでも進む事はできるのです。
空間も時間も無限ではない。いや想像する限り空間も時間も無限に続く事は可能である。どこかに果てがあるのか。しかし果てがあるなら必ずその先があるはずである。この考えが続く限り有限にもまた果てはない。
無限をひとつの存在と置くから果てがないと考えてしまう。果ての先にまた果てがあると考えるのは有限だからだ。無限の世界にはそのような考え方はないだろう。しかし無限の中にも境界は設定できるだろう。部分もまた無限である世界では、全体と部分が同じという世界が続いている。無限の世界にも制約や境界や禁止は存在するだろう。
もしこの世界に完全なランダムというものが存在するなら、それは神でさえ予言できないという意味になる。しかしそれでは神にも不可能があるという事になる。それでは神を全知全能とは呼べなくなる。
ですから、この世界で起きる無限の確率に対して、それぞれに対して神が直面できるなら、つまり、神は全ての可能性に対して無限に分離しそれぞれの異なる世界の全てを知る事が可能となり、そして後からその全てを繋げて個に戻す事が出来るのならば、それは全知と呼んでも差し支えないでしょう。どれが選択されようが全てが決まる前に全てを知っておく事は可能でしょう。これによって神の全知全知は保たれます。
そのような存在に我々はどうやって太刀打ちできるだろう。今この時も神は我々の側で我々の確率を観察している事になる。我々は個を無限に分割する事も無限を個に戻す事もできない。
無いものは永遠。存在するものは有限。我々は生きる為に時間を発明した。時間は蓄積する。蓄積を繰り返せば無限に近づく。見通す範囲の外には別の世界がある。境界を越えれば異なる世界が待ち構えているかもしれない。同じ世界の連続かも知れない。
こちらの世界の中での最善が境界を超えた瞬間に最悪を示すかも知れない。限られた範囲の色が、その外では違う色かも知れない。内側と同じ色であるとは限らない。
順風満帆に見えるその先にあるものは嵐かも知れない。だれもが今この瞬間もこの境界を超えようとしている。時間が有限を告げるまで。
境界の果てを覗き込めば、次の境界が現れる。その全てが有限であったとしても人間の全ての時間では足りないだろう。それを人は無限と呼び、永遠と呼び、永久と呼ぶ。その有限の先にある有限を見ようともしない。
この世界に充満するものは全て有限なのです。有限とは数えられるという事でもあります。数えるとは詰まりは時間が経過する事と同じです。時間とは数える事なのです。
するとこういう言い方ができる。時間とは知る事ができるという意味だし、無限とは知る事が出来ないという意味だ。無限の世界では時間は流れていないのではないだろうか。
それにしても生命は何故かくも複雑すぎるのだろう。なぜ、このような結合をしているのだろう。なぜ、それは親から子へ流転を構成するのだろう。これが粒子たちの願いであったのか。なぜ、私たちは太陽の温かさに触れるとき、なぜ、全ての生命が根源的な喜びに満ちるのだろう。
この宇宙だけではない、とてもたくさんの宇宙。そこにも粒子があり、原子があり、分子があり、同じような空間を形づくっています。あなたたちから見ればとても大きな無限の空間のようでも、これは極めて有限の、とても小さな空間なのです。どれほど無限の先を思い描いても、私たち有限の世界では辿りつけない存在があり、状態があります。
ならば、なぜわたしはここに呼ばれてきたのか。
絶望には常に永遠が潜みます、だから、もし絶望したのなら有限に戻ってきなさい。それだけがあなたの帰ってこられる道です。
さ、千万那由他の21番目の戦士よ、あなたもまた無限空間との戦いに送り込まれるために有限の空間から召喚されたのです。私たちは無限に反抗するもの、例え、遠い未来で完全に永久に消滅する存在だとしても。そうと分かっていても、私たちは、ここで抵抗します。抜け出しもせずこの世界で生きるのです。わたちたちは無限に屈服はしません。
さあ、出発しなさい。あなたの求めるものを見つけるために。無限を打ち破ってきなさい。
2022年6月26日日曜日
2022/06/17 福島第一原子力発電所事故国家賠償責任棄却
令和3年(受)第1205号 損害賠償請求事件 令和4年6月17日 第二小法廷判決 津波による本件発電所の事故を防ぐために電気事業法に基づく規制権限を行使しなかったことが違法であり、これにより損害を被ったなどと主張して、国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を求める事案。
(裁判長裁判官 菅野博之 裁判官 三浦 守 裁判官 草野耕一 裁判官 岡村和美)
考えるに
津波への評価、及びそれに伴う対策は、科学的、土木的な裏付けが必要で、予算の計上は電気料金に上乗せされる以上、東日本の電力を担う企業には慎重な対応が求められるのは妥当である。どこにも潤沢な資金はないのである。もちろん、天変地異であるから、来るか、来ないかも不明である。そのような事象にどこまで手当をするか。積極派も消極派も反対派も其々の根拠はみな正しく聞こえる。
起きてみるまでは起きないものと思うものである。だからそれが不作為なのか慎重なのかを区別するのは難しい。最後は性格の問題になるから。
6m(Onahama Peil + 6M、最低潮位からの高さ)を想定した堤防を備え10mの高さに発電所を作った。これは10mの津波にも耐えられる想定である。当時としても相当に高い安全マージンを取ったと考えられる。
最初に作った時から余裕を持った設計である。問題は、我々の知見は日々刷新される事にある。なのに建屋の高さは変わらない。
東京電力が研究を怠っていたという話ではない。渋々ではあるにしろ軽視していたにしろ、津波対策をしなかった訳ではない。その為の部署も社員もいたしその活動の妨害もしていない。提言を無視または保留はしたかも知れないが捨てた訳ではない。
その態度を是正する権限と義務が国にあったか、そういう裁判である。結果論で言うなら、この被害は現在の技術で避けえたものである。それをしなかった国に瑕疵がなかったとは言えまい。 もし国があの時に違う判断をしていれば。そういう態度の積み重ねがほんの数年でも続けば、結果は相当に変わっていたであろう。国だけではあるまい。地方自治体が、東京電力が、規制委員会が。それを要求する事がそう理不尽な事か。
安全に対する過信は勿論全員にあった。この見損じに当然ながら無能のそしりは免れない。この国の全ての人に。
平成20年には貞観津波は9mと見積られ、それ以前に想定していた高さ6mを超えていると考えられた。その頃には考え得る津波の最大の高さを15.7mとする数字も出てきた。建屋は10mの高さにあるから浸水は避けえない。
東京電力がこの想定で対策を実施していたなら相当に効果的な対策となったと考えられる。それでもこの対策をもってしてもこの防波設備では対抗しえなかった。
平成23年3月11日。発電所は18mの津波に襲われる。建屋は5mの浸水に見舞われた。10mの想定で作られた原子力発電所が未曾有の津波と対峙したのである。
この大地震を予想できた者は一人もいない。もし居ても偶然である。いつもと同じ一日を疑う者はどこにも居なかった。つまり地震が来るのが早過ぎたのである。
この星で起きる最大の津波は1kmを超える。500mの津波が発生した記録もある。しかし、どのような高さを想定した所でどこかで物理的にも経済的にも対策は不可能になる。どのような対策を施してもどこかの事象で我々は敗北する。
それを超えた責任を問われても困る。そこまでの責任を負わされるなら全ての事業から撤退するしかない。しかしそれでは人類の文明は成り立たない。初めから我々の文明は砂上に立つ。だから、どこかに線を引く。この先はもう誰のせいでもないと。問題はたった20mでもそうなのかという話だ。
可能性
仮に、経済産業大臣が、本件長期評価を前提に、電気事業法40条に基づく規制権限を行使して、津波による本件発電所の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付け、東京電力がその義務を履行していたとしても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に浸入することは避けられなかった可能性が高く、その大量の海水が主要建屋の中に浸入し、本件非常用電源設備が浸水によりその機能を失うなどして本件各原子炉施設が電源喪失の事態に陥り、本件事故と同様の事故が発生するに至っていた可能性が相当にあるといわざるを得ない。
そうすると、本件の事実関係の下においては、経済産業大臣が上記の規制権限を行使していれば本件事故又はこれと同様の事故が発生しなかったであろうという関係を認めることはできないことになる。(P.9)
本判決のハイライトである。可能性で語れるのならどちらに振るかは恣意的に決めれる。それはサイコロさえ振っていない。結論ありきから逆算するだけでいい。そのような判決を最高裁判所が出しとしたらこれは問題であろう。その判断が、ではない。そのような根拠を持ち出した事が。
可能性の問題なら何度も試してみなければ答えは分からないはずである。そうであったろうを根拠にするなら科学は捨てるしかない。可能性の問題ならどんな結果でもありうる。もっと酷い結果も、無傷で終わる結末も、可能性なら捨てれる筈がない。それが可能性というものなのだから。
ならばこの可能性とは単なる希望ではないか、願いではないか。祈りではないか。ならば。この判決は裁判官の願望ではないか。
可能性を主張するなら何度も繰り返し実験しその期待値、確からしさを測定しなければならない。その可能性が高いと主張するためには条件を変えて何度も試してみるしかないはずである。どのような条件が結果を左右するのか。
全く同じ条件でも違う結果が得られるかも知れない。我々が知らないパラメータが潜んでいるかも知れない。
昨日と同じ今日が毎日続くから明日も同じであるとは言えない。極めて同じであるが、世界は少しずつ変わり、ある時、急に大きく動くのではないか。
たった一つの事例で可能性を語られても絶対に確かとまでは言えない。対策をしていれば事故は防げたのか、防げなかったのか。どちらとも言えない。不確かさを根拠にする以上、対策と事故の因果関係は不定である。
国がなんとか出来たのではないか、という人の気持ちは当然だ。悔やんでも悔やみきれない場合、我々は過去のどこかに分岐点がないかと探す。もしああしていたなら。もしかしたら避けられる未来はあったのではないか。この可能性をどうして捨てれよう。希望がそこにある。
だから、これは責任の問題ではない。傷ついた国民に国がどう寄り添うかの問題でもない。我々は未来にまだ希望を託せるのかと聞く。司法の場ではそれを責任という形でしか問えないのである。
こうしていれば避けられたかも知れない。ならば次は必ず失敗しない。今度こそは上手くやって見せる。そう思えるから次に歩き出せる。次こそは失敗しない。同じ過ちは二度としないという自覚だけが次を切り開く。
対策をしていても事故は防ぎようがなかった。最大の努力をしていても結果は同じだった。ならば次の大地震の時も同じ事に見舞われる事になる。それは原子力発電所に賛成、反対をする以前に、なんとも情けない話ではないか。だれか、これは避けえた事故であった。我々がきちんと対策してれば、こんな事故は決して起きなかった。誰か勝利の宣言をしてくれ。
科学的根拠
「福島第一原発事故は従前の津波対策で予防できたか−事故以前の想定津波高さ評価と東電の対応の考察−」に科学的知見を負っているのは確かに見える。かつ、全体の議論の流れも類似している。もしそのままコピーして作ったのだとしたら、それは考える事の放棄だと思う。それで司法と呼べるか。
これに対し、本件事故以前に、我が国における原子炉施設の主たる津波対策として、津波によって上記敷地が浸水することを前提とする防護の措置が採用された実績があったことはうかがわれず、当該防護の措置の在り方について、これを定めた法令等はもちろん、その指針となるような知見が存在していたこともうかがわれないし、海外において当該防護の措置が一般的に採用されていたこともうかがわれない。
そうすると、東京電力が本件試算津波と同じ規模の津波に対する対策等について検討した際に原審のいうような課題を指摘する意見が出されていたからといって、それだけで、東京電力が上記津波に対する対策を講ずることとなった場合に、上記津波による本件敷地の浸水を防ぐことができるように設計された防潮堤等を設置することを断念したであろうと推認することはできず、むしろ、上記防潮堤等の設置を実現する方策が更に検討されることとなった蓋然性が高いというべきであり、そのような検討を尽くしても上記防潮堤等を設置することが不可能又は著しく困難であったことはうかがわれない。(P.8)
全ての事故を絶対に起こしてはならないと言われたら人類は何もできない。誰もやった事のない対策を世界に先駆けてやればそれは素晴らしい事だ。だが、それをしない事で無能のそしりを受けるいわれはない。それを瑕疵とされたらたまらない。
経済産業大臣が上記の規制権限を行使しなかったことを理由として、被上告人らに対し、国家賠償法1条1項に基づく損害賠償責任を負うということはできない。(P.11)
損害賠償責任
本裁判は、国家に何らかの責任があるかを問うものではない。責任はあるに決まっている。あれだけの事故を起こして国家に責任がないなどありえない。事故後に生まれた人間であっても国会議員になれば責任が発生する。そういう類の事件である。当然だが官僚や政治家だけの責任でもない。全ての人間で支えなければならない事件である。そして今日も福島第一原子力発電所の解体の為に働いている人がいる。直接的には関係ないとしても全てはどこかで繋がっている。この国の太陽の下で。
賠償の根拠は「故意または過失によって違法に他人に損害を加えた」事が要件である。もし賠償責任があるならそれは国家の犯罪でなければならない。
例えばロシアではプーチンを批判する事は犯罪である。そして裁判官たちは喜んで法に従い有罪判決を出している。もし無罪にしたなら法の遵守から外れる。裁判官の自由はどこにあるか。我が国の憲法はそれを良心に託すとした。
国家が負う責任は自然災害だけではない。ウクライナの人々はロシアから侵略された。さてウクライナにはその戦争を回避できなかった責任は生じるのだろうか。一年も前からロシアが来る可能性があった。果たしてこれは避けえた戦争であったか。その被害の責任を大統領は負うべきであろうか。
憲法は全ての国民に悩む事を求める。正解などなくて当然だ。誰の責任か、簡単に答えが見つかる程この世界は優しくもなければ凶暴でもない。つまり十分に複雑なのである。
それでも悩む為には根拠を積み重ねるしかない。それ以外の方法を人類はまだ開発していない。なぜ故意でも過失でもないと言えるのか。それについては菅野博之が補足意見を添えた。
本件で問題となる国家賠償法上の判断は、上記のような原賠法等に由来する被災者の救済とは異なる問題である。国家賠償法は、いわば国にも不法行為責任を負わせることとしたものであって、通常の不法行為法と同様に、その行為当時の法令、水準、状況等に照らし、平たく言えば、やってはいけないことを行い(不作為の場合は、やらなければいけないことを怠り)、その結果、損害が生じた場合に、これを賠償させるものである。果たして国家に損害賠償責任があると考えるべきだろうか。その時、当のあなたには責任は発生していないのだろうか。国家に責任があるなら私に責任はない。民主主義にそのような鼓腹撃壌の理想はない。
全部が繋がっていると仮定するのが民主主義の思想である。だれも無関係ではない。だから無視しちゃいけないのである。
私は鹿児島に住んでいた、だから遠く離れた福島の事故には責任がない。私たちは距離の話はしていない。私は何度も危険だと声を上げてきた。それでも聞いてもらえなかった、だから私には責任がない。私たちは智慧の話はしていない。
責任は最終的には無限である。追求が始まったら終わりはない。誰もが責任がある事になってしまう。そんな責任はどんな人間であっても支えられない。だから時に人は自らの命を絶つ。無限の前で永遠の地に向かうしかなくなったのである。
それが果たして我々の理想か。民主主義は責任を問わない事に決めた。全員で肩代わりするなら誰の責任でなくても良いではないか。だからあの爆発音は今日も全ての人の前で鳴っているのではないか。
我々は決して強くない。誰かのせいにしなければ納得できない人もいれば、閉じこもって自戒から抜け出せない人もいる。人の数だけ、それぞれが、それぞれの考え方、感じ方でこの事故と向き合う。正解はない。その悩む姿を我々の憲法は求めている。
裁判と調停
人間は不可視な存在である。全知全能ではない。起きる事象を全て見通す事も予測もできない。我々は一部分を見通すのが精一杯だ。元来、裁判所の判決は法、およびその理念に照らし裁判官の良心で決まる。判決の結果がどのような社会的な混乱をもたらそうが考慮の範疇には含まれない。それは行政、立法の問題であって司法は何ら困りはしない。
だから、ある判決が例え国家を滅亡させるものであってもそれは司法が躊躇していい理由にはならないのである。断じて躊躇してはならなぬのである。これが司法の原則である。
しかし強すぎる信念は時に狂気になる。ロベスピエールの狂乱のまま人を断罪するのが望ましい信念か。強烈な指導者に良心を差し出す者は後を断たない。可能な限り穏健であるためには、妥協と妥結は欠かせない。それが私の良心であると主張する事も憲法は認めている。
この国で起きた様々な不幸、薬害、公害の被害、事故や事件、司法は常に無力であった。国が本気で潰す気になれば、被害者が死に絶えるまで待てばいいのである。だから訴えなければ時間は取り戻せない。動いた所で敗訴かも知れない。
しかし、裁判官は判決を書かなければならない。それが唯一、裁判官に対して無能と叫ぶ機会である。判決だけで決めてはいけない。判決の中に展開される論理、信条、限界、その先にある願い、恐らく裁判記録というのは挫折の記録なのである。
思うに
原子力発電所事故に対して政府はその責任を負う。その責任から逃れるなどありえない。しかしその責任が損害賠償程度で十分ではあるまい。もし国家に損害賠償の責任があると判決したなら、国家は責任を取る事ができるようになる。損害賠償を払う事で国家はその責任を果たした事になってしまう。結審したのならこれ以上の責任は追及できないはずである。損害賠償が責任の取り方と決まったのだから。
その程度で忘却してよい程の責任でも事故でもなかったはずである。誰かを罰したり吊るし上げる事で納得できるならそれはもう風化したのだ。
原子力発電所事故の責任を損害賠償で取らせてはいけないのである。凶悪な犯罪者を今すぐ殺せと要求するのとは違う。事故の責任は永年に続けるべきだし、凶悪な犯罪者には一生の苦痛を与え続けるべきなのだ。死などで簡単に忘却させてはいけない。
ロシアのウクライナ侵攻、石油の高騰。地球温暖化による石炭火力への批判。2022年の夏、そして冬には確実に電力が不足すると指摘されている。このような状況において原子力発電が待望されるのは自然だ。
その時、我々はどれ程の安易さで原子力発電所の再開をするのか。我々はそのような民族である。安易に目先の利益に飛びつき過去など簡単に払拭できると信じている。目の前の果実に飛びつかない者を愚かモノと呼ぶ社会なのである。
我々は原子力発電所の安全係数をより高く設定すれば再稼働できると信じている。しかし、係数の低さが事故の原因だったのではない。安全対策など表層の課題に過ぎない。それがより深い部分にあるものを隠す。安全基準が低かったから事故が起きたのだと結論したいだけだ。そうすれば安心できると信じている。
事故を深く検証してゆけば我々の方法論のどこに欠陥があるかを見つける事ができるだろう。如何に強い安全係数を設定しようと数十年もすれば抜け道だけけになる。なぜ我々はそこまで姑息になれるのか。我々の方法論にはどこかにすっぽりと抜け落ちたものがある。次も原子力発電所の爆発程度で済むなら幸運だ。
誰ももう一度同じ目にあったなら次は大丈夫とは自信を持って言えないまま、突き進むのである。電力が足りない、経済力が足りない、競争力が足りない、自然を乱獲すれば豊かになるではないかと信じて疑わない知性。
どうすればあの時と違う道に進めたか。その模索の方法論さえ我々は知らない。だから、きっとあの時と同じ状況になれば、また同じ道を歩む。
まだ忘れてはいけない。この先、数十年も悩んでいるようでなければ国家として話にならない。
国家にはこの事故に対する責任がある、しかし賠償責任で済むような安易な解決はない。如何なる事をしようが国が責任を果たしたと言える日は来ない。常に批判され続ける必要がある。安易に国の責任にして自分の責任を降ろしてはいけない。問い続ける事だけが唯一の手段だ。それだけが時間を動かし続ける。
全ての人がこれで良いだろうとその責任を背負った時、この無限責任が雲散霧消する。その日の青空はきっと。
参考
福島第一原発事故の不都合な真実「巨大津波は想定されていた!?」(NHKスペシャル『メルトダウン』取材班) | ブルーバックス | 講談社(1/6)2. 福島第一原子力発電所の現状とこれまでに実施してきた対策|東京電力
第4回公判、東電が津波高15.7m「小さくできないか」依頼 : 風のたよりー佐藤かずよし
2022年5月21日土曜日
夢の国の海賊
少年が夢の中へと入ると海賊になりました。
夢の中で少年は海賊フラッグと名乗りました。
海賊フラッグは夢の中では一匹の大きな白いウルフを連れています。
いつもフラッグといっしょに居て沢山の冒険を一緒にして過ごしました。
シュークリームで出来た敵の海賊を切り倒し内臓のチョコレートを引きずり出してはふたりで食べます。
鯛焼きで出来た海賊船をサクランボの大砲で撃ってはミルクの海に沈めました。
フラッグはひとつの街を訪れます。
そこではお城でパーティが開かれていました。幾つもの面白い催しものがあります。
舞台では白いカーテンの向こうから可愛いらしい歌い手が出てきました。
赤ら顔のお姫様です。歌い始めると美しい歌声です。
フラッグはその声を聞いていて、すっかり好きになってしまいました。
パーティが終わったらこっそり会いに行こうとお城の壁をよじ登りました。カステラなので途中で食べながら登ってゆきます。
登り切った所にひとつの部屋がありました。きっとここだぞと思って入ってゆきました。
すると初めて見るお姫様がいます。
このお姫様はキャロット姫です。人参で作られたケーキ姫です。
お姫様は驚いていますが、海賊フラッグは人参が大嫌いでした。
だから剣を一振り、二振り、輪切りにしてくれます。
輪切りにされたお姫様はグラッセになってしましました。何もいわずフラッグの方を見ています。
それをウルフがぱくぱくと美味しそうに食べました。
部屋を出ると隣にも部屋があります。
その部屋に入ってみると今度はパプリカ姫がいました。ピーマンで作られたケーキ姫です。
海賊フラッグはピーマンが大嫌いでした。
このやろうと剣を十振り、二十振り、ピーマンをみじん切りにしました。
サラダになった姫をウルフがぱくぱくと美味しそうに食べました。
パプリカ姫の部屋を出るとその隣にも部屋があります。
その部屋に入ってみると先ほどの唄っていたお姫様です。
「あなたに会いたくて海賊フラッグ、ここに参上いたしました。」
姫は驚いた顔をしています。ぽかんと口をあけています。
「さあぜひ手を取り合ってこの城から抜け出しましょう。」
失礼な話を聞いて海賊フラッグをきっと睨みつけました。
「急に私の部屋に入ってきて何のつもりですか。今すぐ人を呼びますよ。」
フラッグは少し驚いてしまいました。
会いに来てくれて嬉しいと返事してくれると信じていたからです。
「いいえ、そうはさせません。力づくでもね。力ならこの海賊フラッグ、何倍も強いのですからね。」
気取ってフラッグは答えました。となりでウルフもキャンキャンと吠えています。おかしい、なんだが小さな犬のような鳴き声です。
フラッグはお姫様の前に立って彼女の腕を手に取りました。
するとお姫様は大声を出して助けを呼びました。フラッグを全然好きになってくれません。
悲しくなったフラッグは夢の中だから何でも自由自在にできます。
お姫様の体の中に両手をこねくりいれてやりました。そして大きな穴を開いて、向こう側が見えるようにしてやりました。
キャーと叫びましたが、気にせず構わず剣を抜いて輪切りにします。
その叫び声でさえ素敵な歌声でした。
「どうしてこんなことをするの?」
その声を聞いてフラッグはなんだか恥ずかしいと思いました。
「フラッグが剣を抜いた。」「フラッグが姫を輪切りにした。」
あちこちから自分の名前を呼ぶ聞こえてきます。
まだ焼いていないケーキのようにどろどろと周りが溶けてきたように感じました。
「フラッグが切った。」「フラッグが姫を砕いた。」
急に自分の名前が嫌になりました。
フラッグは自分の何かをやったからではなく、この名前があるから恥ずかしいのだと思いました。名前が消えてしまえばいいのにと思いました。
そうしたら自分はフラッグではなくなるのだから悪いことも消えてしまうのにと思いました。
だから、きっと名前が無くなれば恥ずかしいなんて思わなくなるんだ。
でもフラッグはフラッグのままです。
周囲からフラッグ、フラッグ、フラッグの声が聞こえてきます。
しかし、突然フラッグをフロッグと呼ぶ声が聞こえてきました。小さい子供がきっと言い間違えたのでしょう。
おれはフロッグではないぞ、海賊フラッグだぞと答えようとしたその瞬間、フラッグは蛙の姿に変わりました。
小さな小さな蛙の姿になってケロケロと鳴いています。
海賊フロッグが誕生したのです。
途端に周囲からフラッグを呼ぶ声はなくなりました。フラッグがこの世界から消えたからです。
フロッグはぴょんぴょんと撥ねてお姫様の近くに行きました。
このお姫様はオニオン姫です。玉ねぎで作られたケーキ姫です。
海賊フロッグは玉ねぎがが大好きでした。だから輪切りになったケーキ姫はとても美味しそうに見えます。
フロッグは蛙の舌をピヨォーーーンと伸ばしては食べました。恥ずかしいなんて気持ちもなくなっています。
その横でウルフもパクパク食べています。
ウルフはフラッグが消えたので寂しいと思いましたが、目の前のオニオンリングの誘惑には勝てませんでした。
フロッグはたくさん食べました。ウルフもたくさん食べました。すると急にウルフが倒れました。
フロッグは吃驚しましたが、理由が分かりません。
ウルフを幾ら呼んでもただケロケロとしか音がでません。
実は犬は玉ねぎを食べてはいけなかったのです。ウルフも犬の仲間なのできっと食べてはいけなかったのでしょう。
ウルフが痙攣して泡を吹いています。
でもそんな知識もないフラッグはどこかに敵が潜んでいるに違いないと思いました。
ぴょんぴょん部屋中を飛び跳ねています。
もっと大きくなればいいのにとフロッグは思いました。
すると体が急に大きくなりました。夢だから何でもありなのです。
しめたと思ったフロッグは、周囲のものを手当たり次第に壊し始めます。
ケーキで出来たお城も、クリームで塗られた塔も全て壊してゆきます。
そうすれば何かが変わると思ったのでしょう。
ウルフも生き返ると思ったのでしょう。元のフラッグに戻れると思ったのでしょう。
夢だからと言って何でも上手く思い通りにゆくとは限りません。
ただ壊れてゆくだけで何も変わりませんでした。
すると突然目の前にぬうと巨大な影が出てきました。
見上げてみると黄色い巨大なキリンです。それがゆっくりと近づいてきます。
ひとつ、ふたつとケーキの山を長い脚で超えてはフロッグの方へと歩いてきています。
チョコレートで出来た長いまつげの奥にあるゼリーの瞳がうるうると揺れフラッグを見ています。
これこそが敵だ、フロッグは瞬間的にそう思いました。
今の大きさではまったく大きさが足りません。足よ生えろ、と叫ぶとにょきにょきと生えてきました。
もっと生えろ、もっと生えろ、たくさん生えろと叫ぶとたくさんたくさん生えてきました。それを繋げに繋げてゆくとキリンと同じ高さにまでなりました。
しかしフロッグの手は元の普通の大きさのままです。
手よ生えろ、もっと生えろと叫ぶとにょきにょきと手が生えてきました。
それをぜんぶくっつけてキリンを殴ろうとしましたが手が重くて持ち上がりません。
そもそも蛙の手で殴って少しは効くのでしょうか?
たんにペタンとくっつくだけのような気がしました。カエルの手は殴る為ではなく綺麗に飛ぶためにあるのです。
そうだ、夢の中では自由自在だとフロッグは思いました。
手よ、軽くなれと叫ぶととても軽くなりました。
軽くなった手を持ち上げてキリンとやっつけようと思いました。
そして殴りかかってみましたが軽いカエルの手はまるで凧のように風の力で押し戻されてゆきます。
水かきが綺麗に広がって風船のように広がりました。
ふわっと風が吹くと、そのまま空高くに持ち上げられました。
びっくりしたフロッグはじたばたしましたが風に吹かれています。
怒った海賊フロッグは、この口でキリンを飲み込んでやると思いました。
フロッグの口がどんどん大きくなってゆきます。
キリンは山の尾根を越えてどんどん近づいてきます。
バナナで出来た長い首を左右に振っています。
構う事は何もありません。フロッグは大きく口を開いて、スイカのような赤い口の中にキリンを飲み込んでしまいました。
くちゃっと噛みしめるとフルーツポンチが体中から噴き出してきました。
辺り一面に甘い香りが広がりました。
フロッグの西瓜のような緑色の体を切り裂いてキリンが首をにょおーと出しました。
ぱちくりとした目が大きく開いています。
そしてフロッグに話しかけます。
「フラッグよ、フラッグ、お前はなぜ悪さばかりするのか。」
その瞬間にフロッグは元のフラッグの姿に戻りました。
キリンの首はぐんぐんと伸びてゆきます。
フラッグの体はキリンの角の上に引っ掛かっています。
「離せ、離せ」と言いましたが外れません。どうしようもありません。
夢の中だからと言ってなんでもかんでも自由ではないようです。
キリンの首がもっともっと長くなっています。フラッグが下を見ると地上がどんどん遠くに見えています。
そしてふわっとフラッグの体が浮かび上がりました。
フラッグの下でキリンが見上げています。更にどんどんとキリンが小さくなってゆきます。
空のもっとも上のもっと上にはどんなお菓子があるのでしょうか?
どんどん高くなってキリンが点にしか見えなくなりました。
ケーキやクリームで出来た山々が綺麗なお皿の上に乗っかっているのが見えます。
ここは宇宙なんだ。フラッグはそう思いました。
そう思うとフラッグはぷかぷかと浮かびましした。そこでは泳ぐこともできません。
上の方を見ると真っ暗です。きっとこれは苦い苦いコーヒーの海だ。
なんだか急に怖くなってきました。
突然、フラッグ、フラッグと誰かの呼んでいる声が聞こえてきます。
その声は良く知っているやさしい声です。
急に地面に向かってフラッグは真っ逆さまに落ちてゆきました。
下を見るとそこにはクリームソーダの海が広がっています。
アイスクリームの島には当たらないように気を付けて飛び込まなくっちゃ。
サクランボの木に引っ掛からないようにもしなくっちゃ。
アイスクリームだらけになるのも悪くないけどべたべたするだろうな。
そう思った所で少年は目が覚めました。もちろん夢の中での事はさっぱりと覚えていません。
お母さんが少年の名を呼んでいます。
いつものように元気よく食卓につくと温かい朝食が並んでいます。
だけどなぜだか今日だけはバナナは食べる気になりませんでした。
食べずに残したまま今日も学校へと行きました。
(2000年頃 4-1)
夢の中で少年は海賊フラッグと名乗りました。
海賊フラッグは夢の中では一匹の大きな白いウルフを連れています。
いつもフラッグといっしょに居て沢山の冒険を一緒にして過ごしました。
シュークリームで出来た敵の海賊を切り倒し内臓のチョコレートを引きずり出してはふたりで食べます。
鯛焼きで出来た海賊船をサクランボの大砲で撃ってはミルクの海に沈めました。
フラッグはひとつの街を訪れます。
そこではお城でパーティが開かれていました。幾つもの面白い催しものがあります。
舞台では白いカーテンの向こうから可愛いらしい歌い手が出てきました。
赤ら顔のお姫様です。歌い始めると美しい歌声です。
フラッグはその声を聞いていて、すっかり好きになってしまいました。
パーティが終わったらこっそり会いに行こうとお城の壁をよじ登りました。カステラなので途中で食べながら登ってゆきます。
登り切った所にひとつの部屋がありました。きっとここだぞと思って入ってゆきました。
すると初めて見るお姫様がいます。
このお姫様はキャロット姫です。人参で作られたケーキ姫です。
お姫様は驚いていますが、海賊フラッグは人参が大嫌いでした。
だから剣を一振り、二振り、輪切りにしてくれます。
輪切りにされたお姫様はグラッセになってしましました。何もいわずフラッグの方を見ています。
それをウルフがぱくぱくと美味しそうに食べました。
部屋を出ると隣にも部屋があります。
その部屋に入ってみると今度はパプリカ姫がいました。ピーマンで作られたケーキ姫です。
海賊フラッグはピーマンが大嫌いでした。
このやろうと剣を十振り、二十振り、ピーマンをみじん切りにしました。
サラダになった姫をウルフがぱくぱくと美味しそうに食べました。
パプリカ姫の部屋を出るとその隣にも部屋があります。
その部屋に入ってみると先ほどの唄っていたお姫様です。
「あなたに会いたくて海賊フラッグ、ここに参上いたしました。」
姫は驚いた顔をしています。ぽかんと口をあけています。
「さあぜひ手を取り合ってこの城から抜け出しましょう。」
失礼な話を聞いて海賊フラッグをきっと睨みつけました。
「急に私の部屋に入ってきて何のつもりですか。今すぐ人を呼びますよ。」
フラッグは少し驚いてしまいました。
会いに来てくれて嬉しいと返事してくれると信じていたからです。
「いいえ、そうはさせません。力づくでもね。力ならこの海賊フラッグ、何倍も強いのですからね。」
気取ってフラッグは答えました。となりでウルフもキャンキャンと吠えています。おかしい、なんだが小さな犬のような鳴き声です。
フラッグはお姫様の前に立って彼女の腕を手に取りました。
するとお姫様は大声を出して助けを呼びました。フラッグを全然好きになってくれません。
悲しくなったフラッグは夢の中だから何でも自由自在にできます。
お姫様の体の中に両手をこねくりいれてやりました。そして大きな穴を開いて、向こう側が見えるようにしてやりました。
キャーと叫びましたが、気にせず構わず剣を抜いて輪切りにします。
その叫び声でさえ素敵な歌声でした。
「どうしてこんなことをするの?」
その声を聞いてフラッグはなんだか恥ずかしいと思いました。
「フラッグが剣を抜いた。」「フラッグが姫を輪切りにした。」
あちこちから自分の名前を呼ぶ聞こえてきます。
まだ焼いていないケーキのようにどろどろと周りが溶けてきたように感じました。
「フラッグが切った。」「フラッグが姫を砕いた。」
急に自分の名前が嫌になりました。
フラッグは自分の何かをやったからではなく、この名前があるから恥ずかしいのだと思いました。名前が消えてしまえばいいのにと思いました。
そうしたら自分はフラッグではなくなるのだから悪いことも消えてしまうのにと思いました。
だから、きっと名前が無くなれば恥ずかしいなんて思わなくなるんだ。
でもフラッグはフラッグのままです。
周囲からフラッグ、フラッグ、フラッグの声が聞こえてきます。
しかし、突然フラッグをフロッグと呼ぶ声が聞こえてきました。小さい子供がきっと言い間違えたのでしょう。
おれはフロッグではないぞ、海賊フラッグだぞと答えようとしたその瞬間、フラッグは蛙の姿に変わりました。
小さな小さな蛙の姿になってケロケロと鳴いています。
海賊フロッグが誕生したのです。
途端に周囲からフラッグを呼ぶ声はなくなりました。フラッグがこの世界から消えたからです。
フロッグはぴょんぴょんと撥ねてお姫様の近くに行きました。
このお姫様はオニオン姫です。玉ねぎで作られたケーキ姫です。
海賊フロッグは玉ねぎがが大好きでした。だから輪切りになったケーキ姫はとても美味しそうに見えます。
フロッグは蛙の舌をピヨォーーーンと伸ばしては食べました。恥ずかしいなんて気持ちもなくなっています。
その横でウルフもパクパク食べています。
ウルフはフラッグが消えたので寂しいと思いましたが、目の前のオニオンリングの誘惑には勝てませんでした。
フロッグはたくさん食べました。ウルフもたくさん食べました。すると急にウルフが倒れました。
フロッグは吃驚しましたが、理由が分かりません。
ウルフを幾ら呼んでもただケロケロとしか音がでません。
実は犬は玉ねぎを食べてはいけなかったのです。ウルフも犬の仲間なのできっと食べてはいけなかったのでしょう。
ウルフが痙攣して泡を吹いています。
でもそんな知識もないフラッグはどこかに敵が潜んでいるに違いないと思いました。
ぴょんぴょん部屋中を飛び跳ねています。
もっと大きくなればいいのにとフロッグは思いました。
すると体が急に大きくなりました。夢だから何でもありなのです。
しめたと思ったフロッグは、周囲のものを手当たり次第に壊し始めます。
ケーキで出来たお城も、クリームで塗られた塔も全て壊してゆきます。
そうすれば何かが変わると思ったのでしょう。
ウルフも生き返ると思ったのでしょう。元のフラッグに戻れると思ったのでしょう。
夢だからと言って何でも上手く思い通りにゆくとは限りません。
ただ壊れてゆくだけで何も変わりませんでした。
すると突然目の前にぬうと巨大な影が出てきました。
見上げてみると黄色い巨大なキリンです。それがゆっくりと近づいてきます。
ひとつ、ふたつとケーキの山を長い脚で超えてはフロッグの方へと歩いてきています。
チョコレートで出来た長いまつげの奥にあるゼリーの瞳がうるうると揺れフラッグを見ています。
これこそが敵だ、フロッグは瞬間的にそう思いました。
今の大きさではまったく大きさが足りません。足よ生えろ、と叫ぶとにょきにょきと生えてきました。
もっと生えろ、もっと生えろ、たくさん生えろと叫ぶとたくさんたくさん生えてきました。それを繋げに繋げてゆくとキリンと同じ高さにまでなりました。
しかしフロッグの手は元の普通の大きさのままです。
手よ生えろ、もっと生えろと叫ぶとにょきにょきと手が生えてきました。
それをぜんぶくっつけてキリンを殴ろうとしましたが手が重くて持ち上がりません。
そもそも蛙の手で殴って少しは効くのでしょうか?
たんにペタンとくっつくだけのような気がしました。カエルの手は殴る為ではなく綺麗に飛ぶためにあるのです。
そうだ、夢の中では自由自在だとフロッグは思いました。
手よ、軽くなれと叫ぶととても軽くなりました。
軽くなった手を持ち上げてキリンとやっつけようと思いました。
そして殴りかかってみましたが軽いカエルの手はまるで凧のように風の力で押し戻されてゆきます。
水かきが綺麗に広がって風船のように広がりました。
ふわっと風が吹くと、そのまま空高くに持ち上げられました。
びっくりしたフロッグはじたばたしましたが風に吹かれています。
怒った海賊フロッグは、この口でキリンを飲み込んでやると思いました。
フロッグの口がどんどん大きくなってゆきます。
キリンは山の尾根を越えてどんどん近づいてきます。
バナナで出来た長い首を左右に振っています。
構う事は何もありません。フロッグは大きく口を開いて、スイカのような赤い口の中にキリンを飲み込んでしまいました。
くちゃっと噛みしめるとフルーツポンチが体中から噴き出してきました。
辺り一面に甘い香りが広がりました。
フロッグの西瓜のような緑色の体を切り裂いてキリンが首をにょおーと出しました。
ぱちくりとした目が大きく開いています。
そしてフロッグに話しかけます。
「フラッグよ、フラッグ、お前はなぜ悪さばかりするのか。」
その瞬間にフロッグは元のフラッグの姿に戻りました。
キリンの首はぐんぐんと伸びてゆきます。
フラッグの体はキリンの角の上に引っ掛かっています。
「離せ、離せ」と言いましたが外れません。どうしようもありません。
夢の中だからと言ってなんでもかんでも自由ではないようです。
キリンの首がもっともっと長くなっています。フラッグが下を見ると地上がどんどん遠くに見えています。
そしてふわっとフラッグの体が浮かび上がりました。
フラッグの下でキリンが見上げています。更にどんどんとキリンが小さくなってゆきます。
空のもっとも上のもっと上にはどんなお菓子があるのでしょうか?
どんどん高くなってキリンが点にしか見えなくなりました。
ケーキやクリームで出来た山々が綺麗なお皿の上に乗っかっているのが見えます。
ここは宇宙なんだ。フラッグはそう思いました。
そう思うとフラッグはぷかぷかと浮かびましした。そこでは泳ぐこともできません。
上の方を見ると真っ暗です。きっとこれは苦い苦いコーヒーの海だ。
なんだか急に怖くなってきました。
突然、フラッグ、フラッグと誰かの呼んでいる声が聞こえてきます。
その声は良く知っているやさしい声です。
急に地面に向かってフラッグは真っ逆さまに落ちてゆきました。
下を見るとそこにはクリームソーダの海が広がっています。
アイスクリームの島には当たらないように気を付けて飛び込まなくっちゃ。
サクランボの木に引っ掛からないようにもしなくっちゃ。
アイスクリームだらけになるのも悪くないけどべたべたするだろうな。
そう思った所で少年は目が覚めました。もちろん夢の中での事はさっぱりと覚えていません。
お母さんが少年の名を呼んでいます。
いつものように元気よく食卓につくと温かい朝食が並んでいます。
だけどなぜだか今日だけはバナナは食べる気になりませんでした。
食べずに残したまま今日も学校へと行きました。
(2000年頃 4-1)
2022年4月23日土曜日
クロウの物語
このお話に出てくるクロウは恋人を探して世界中を旅しているつばめです。
クロウの名前は羽根があまりに真っ黒で仲間のみんなから付けてもらいました。
クロウはある日、砂漠の上を飛んでいました。
オアシスで休憩しているラクダに聞いてみました。
「ねえ僕の恋人を知らないかい。」
ラクダは答えていいました。
「さあわしらは知らんね。」
「この澄んだ空に浮かんでいるまん丸いお月様はわしの友達だ。夜になって人間たちが眠りに落ちた時にわしらはこのお月さまから水を頂く。ほら空に水を汲む杓子が見えるじゃろう。」
「あなたはいっぱいの旅をしているではないですか。どこかで噂でも聞いていませんか。」
「そりゃ旅はしておるが、わしらも人間の街はたくさん見てきたが、それでもやっぱり知らんのお。しかし、お月さまは高い所から一晩中世界を見ておるから何かを知っとるかも知れん。聞いてみるがいい。」
「どうすればお月さまとお話が出来ますか?」
「いまはまだ空の高い所におるじゃろう。幾らお前さんでもあの高さまでは飛んでゆけまい。幾ら叫んでも声は届かんじゃろう。」
「もう少しすれば西の方にお帰りになるがそれでも足は早いからお前さんが幾ら早く飛んでも追いつけまい。」
「じゃから、また明日東の方から出てくる。まだお月さまが地平線から顔を覗かせている間に話かければいいんじゃ。いいか、東の方へ飛んで行くんじゃぞ。」
「ありがとう。」
つばめは今まで乗っていたらくだのこぶから空高くに飛んでいきました。
できないと言われましたが、本当に月まで飛べないか試してみたかったのです。探している恋人と少しでも早く会いたい気持ちがあります。
懸命に飛んでみましたが月の大きさはちっとも変わりません。小さいままです。つばめは疲れたので砂漠まで降りてきて今度はサボテンの上に止まりました。
そこにいたさそりにも聞いてみましたが駄目でした。お腹がすいてきました。でもさそりは食べませんでした。
翌朝は早くから東の方へ方へと飛んでゆきました。途中で二度ほど水を飲み、空を飛んでいるものを食べました。
その日の夕方には砂漠を越えて町が見えてきました。
つばめはその町の中で一番高い教会の塔のてっぺんに止まって東の方を見ていました。
もう夕方です。お月さまが顔をのぞかせる時間になっています。
地平の向こう側がうっすらを明るく見えます。つばめはお月さまに声を掛けます。
ところが月は答えてくれません。幾ら待っても何も言ってくれません。つばめは悲しくなってきました。
つばめは悲しくなって目から涙がこぼれおちてきました。
その時、お月さまの光が教会の十字の上に当たって白く輝きました。
光の方がみるとお月さまがいます。そして東の方がをみると、お月さまの灯りだと思ったものは今もそこで変わらずに輝いていました。
つばめがお月さまだと思っていたものは人間の遠くの方にある町の灯りだったのです。
つばめは今度こそお月さまに向かって聞きました。
「お月さま、僕の恋人がどこに居るか知りませんか。」
お月さまは答えてくれました。
「つばめよ、つばめ。わしは夜を司る。お前の体は見ての通り黒い羽根に覆われておる。わしが見るこの世界はみな暗い。お前の探しているものの中に自分自身の力で輝くものは恐らくおるまい。」
「だから暗い夜の世界で、お前たちのように輝かぬものを見つける事はわしには難しいんじゃ。」
「しかしあなた様は光り輝いてすべてのものを照らしているではありませんか。」
「わしの光は眠っているもの達にいい夢をみさせるための灯りじゃ。夢を案内するためにある光じゃ。」
「夜、すべての空が暗闇に落ちてはお前たちは怖くて眠れなくなるじゃろう。眠れなかったら朝はこない。それではお前たちは困ってしまうじゃろう。わしも困る。休む事ができなくなるからな。」
「ああ、僕はどうすればいいんだろう。恋人に会えないのが悲しい。私は悲しくて切なくて胸の中をかみそりか何かで切られているようです。」
つばめはがっかりしました。
それを見てお月さまはこう言いました。
「つばめよ、今は眠れ。」
つばめは教会の上で寝ました。
夢の中で恋人が出てきて空を飛ぶ夢を見ました。
翌朝、目覚めると、足元に何かが書かれています。そこには太陽に聞いてみなさいとありました。
太陽は昼間の明るい世界を見ているからです。
つばめは朝の太陽に向かって飛んでゆきました。
そして聞きました。
「お日さま、僕の恋人がどこに居るか知りませんか。」
しかしお日さまからの答えはありません。
あまりに空の高い所にあるのできっとクロウの声が聞こえないんだと思いました。
兎に角、追いかけるしかありません。太陽を追い駆けて西に西に向かって飛び始めました。
しかし太陽は早く、追い付けるものではありません。太陽に追いつこうと必死に風にのりましたが無理です。
夕方になるまで飛んでも太陽には全く追い付けませんでした。地平線には海が見えています。
陽が夕の刻で、西の水平線には真っ赤に輝く太陽が見えます。そして海も真っ赤になって波がキラキラとクロウの目をさします。クロウの目からは大きな涙がポタポタと落ちてゆきました。
その瞬間に太陽は西の果てに沈んでしまいました。
クロウはしっかりと太陽が沈んだ辺りを見ていました。
「あのあたりに行って明日待っていれば、きっとお日さまともお話が出来るに違いない。」
次の日は海の上を飛んでゆきました。潮風がクロウの体を押し上げてゆきます。
しかし幾ら海の上を飛んでみたと頃で、どこにも太陽が沈む入口が見つかりません。
疲れたら波に浮かぶ木切れの上にとまり休み、また海の上を飛び、太陽の沈む入口を探しました。
海の水が入ってこないようにきっと扉があるに違いない。
クロウはそう思って海の上を探しています。しかし扉などどこにもないのです。
周囲に島などありません。兎に角、海の上に扉があるはずなのです。
懸命に海上を探して飛んでいると、急に空の上からガシンンガシンと鳴る音が聞こえてきます。
お日さまがクロウの遥か空の上を通りすぎてゆこうとしていました。
いつのまにかクロウの上を通り過ぎて更に更に西の方へと向かってゆこうとしているではありませんか。
「太陽の沈む入口はこの辺りじゃないんだ。もっともっと遠くの西にあるんだ。」
クロウはまた懸命に西に向かって飛んでゆきます。
そして太陽が沈んだ辺りに行っては日没の扉を探します。
探している間にまたクロウの頭の上をお日さまが通過してゆくのです。
何日も何日もこれを繰り返しました。
疲れてきました。風が急に止みます。
昨日見た時にはこの辺りで太陽は沈んだ。この辺りに太陽が沈む入口があるはずだ。
それなのに今日はまたお日さまはあんなに高くいる。
クロウは海の上の小さな島の上に降りました。
クロウは不思議に思います。こんな所に島などなかったのに。
すると急に海水が勢いよく吹き出ました。
クロウが止まったのは小さな島ではなくクジラの背だったのです。
クロウは聞きました。
「太陽の不思議を知っていますか?太陽が沈む扉がどこにあるか分からないんです。」
するとクジラが答えて言いました。
「わたしたちはずっと海の世界で暮らしているけれど、今まで誰も太陽の沈む扉なんて見た事も聞いた事もないわ。」
「太陽が海の中に入ってきたという話もないわ。」
クジラは更に言いました。
「私たちがずうっと南の方に向かって泳いでいるでしょう。太陽はずうっと私たちの左から登って右に落ちてゆくの。ところが寒い場所を超えて、大きな氷を避けながら、昼か夜しか来ない世界を更に泳いで抜けると今度は太陽は右から登って左に落ちるようになるの。私たちはとても不思議だと思うわ。」
太陽の登る方向が変わるのは、なんて不思議な話しだとクロウも思いました。
それは東が東でなくなるという事です。いったいどうなっているのでしょう。
つばめはしばらくクジラの背で揺られていましたが、片方の翼をバッバッとばたつかせました。もう片方の羽根もばたつかせました。
そして両方の翼をいっぺんに羽ばたかせます。翼の上にあった海水が流れ落ちてゆき、クロウは空気中にぱっと舞い上がってゆきます。
「どうもありがとう。もう少し探してみるよ。」
クロウはくじらたちと別れてまた西を目指しました。
そうして飛んでいると高い教会の塔が見えてきました。
そこで少し休もうと塔の上に降りました。その時、クロウは気付いたのです。
それはお月さまと会話したあの教会の塔だったのです。いつの間にか同じ場所に戻ってきているのです。
クロウはとても不思議な気がしました。
そして太陽の沈む扉は決して見つからないだろうと思いました。
だから今度は高く昇って太陽と話をするしかないと考えました。
周囲を見渡すと、この辺りで一番高いのは北にある雪山です。その山から飛び立てばきっと太陽の近くまでゆけるはずだと考えました。
そうと決まれば出発です。
いつの間にかクロウは恋人の事よりも太陽の不思議の方にとっても興味を持っていました。
「僕は絶対にお日さまと話をするんだ。そして太陽の沈む場所を教えてもらうんだ。」
北へ。
北へ向かって飛び出しました。
どれくらい飛んだのでしょう。見上げればいっぱいの星空です。大地は雪で真っ白になって星の輝きを受けています。
寒くて体が針で刺されているようです。翼を動さずに滑空していると羽根の前の方に氷がつくようです。時々羽ばたいては体についた氷を落します。
それでもなかなか雪山の頂上に辿り着く事は難しいのです。
高くなるとなるほど、上昇しなくなるのです。息も苦しくなります。空気が足りない気がします。
すると遥か上空を編隊を組んで飛ぶ鶴を見つけました。
クロウはクレーンに教えてもらおうと話しかけました。
「どうしたらそんなに高く飛べるのか、教えてもらえませんか。」
するとクロウに気付いた一羽の鶴が上空を旋回し始めました。
「なんと珍しい。お前のような鳥属がこんな上空におるとはの。」
そしてクロウを見てこう教えてくれました。
「わしらがこの高さで飛ぶにはそうとう繰り返し何度も何度も上昇気流に乗るとそ。山の尾根沿いに風が巻いておる場所があるからの、そこを見つけては風に体をあずけるとそ。」
「羽ばたくだけでこの高さは無理じゃ。わしらにもできん事そ。」
「ありがとう、やってみる。」
クロウはお礼をしました。
「まて、そう簡単ではないそ。そんな考えては失敗するそ。」
クレーンは更にこう続けました。
「高くなるほど空気は薄くなるそ。普通の鳥では呼吸ができなくなるそ。わしらには特別な肺があるが、お前さんにはなかろう。しかも高くなるほど寒さも厳しくなるそ。この寒さにも耐えられる体でないといけんそ。」
「見た所、お前さんは高い所を飛ぶようにはできておらんそ。さて、どうしたものか。」
「良い事を教えてくれてありがとう。なんとか工夫してみるよ。」
さて、本当にどうしたものか、とクロウは考えました。今の高さでも凍えるように寒いのです。普通のやり方では命さえ危なそうです。
「そうだ。」
クロウには何かアイデアがあるようです。
地上におりてみのむしを探しました。
そして見つけたみのむしにお願いします。
「きみのその暖かな毛皮を僕に分けてくれないか。これから僕はとっても寒い所へいくんだ。」
「え、やだよ。そんな事をしたら今度は僕が寒い夜を過ごさないといけないじゃないか。」
「まだ冬には時間がある。今からでも作り替える事ができるだろう?」
「君はどうしてもというなら奪ってゆくのかい?もしこれを君にあげたら僕は丸裸だよ。きっと僕はいじめられるよ。」
クロウはびっくりして言いました。
「奪うなんて絶対にしないよ。僕は君にお願いしてるだけなんだ。」
「君が毛皮を作ってくれる間は僕が君を守ってあげるよ。」
「それだけだと僕は働き損だよ。それじゃ不公平じゃないかい?」
「確かにそうだね。分かった。じゃもし太陽の秘密が解けたら君にも教えるよ。それでどうだい?」
「ディール!それは楽しみだ。それを待ちながら寒い季節を過ごすのも悪くなさそうだ。」
こうしてクロウはみのむしの毛皮を手に入れました。
羽織ってみると温かくそして軽い。これなら寒い空でも飛べそうです。
しかもこの毛皮の中には空気がいっぱい貯められています。これで呼吸だって苦しくないでしょう。
準備は万端です。クロウは山の尾根まで行きました。みのむしの毛皮は完璧なようです。ちっとも寒くありません。
山の頂からふわっと飛び立つと教えてもらった通り、沢山の風が巻いています。出鱈目のように風が吹いています。
自分の翼の感覚を鋭敏に感じると、確かに風にもいろいろな方向に吹くものがある事が分かります。
こうして冬の寒い寒い日に、一羽の鳥が誰もいない方へと飛んでいったのです。それを見た人はひとりもいないでしょう。もちろん、その鳴き声を聞いた人もいません。クロウはこうして恋人を探す最大の挑戦に挑みます。
さあ、風たちよ、僕を空高く運んでおくれ。下に吹く風、横に吹く風、強い風、弱い風、その入り交じった中から上へ向かう強い風に触れました。
「さあ、私に捕まりなさい、あなたを空の上まで連れて行ってあげるわ。」
その手を取ったとたん、山々があっという間に小さくなってゆきます。青い空が次第に蒼くなってゆきます。次第に暗くなってゆきます。これは夜なのかい?風に聞きました。
「うふふ、私たちの世界では空は青だけではないのよ。」
空がまっくらになって星が輝いています。まるで夜のようです。
たくさんの風が折り重なってクロウを高く高く運んでゆきます。
寒くなったり温かくなったりしながらどんどん高くなってゆくのです。
如何にみのむしの毛皮とはいえ寒くなってきました。それでも風の手を離さず高く高くへと飛んでゆきます。
「ねぇ、そろそろ太陽さんとも出会える高さかなぁ。」
しかしクロウの声は風たちには聞こえないようです。だんだんと寒さが厳しくなってゆきます。怖くなってクロウは風の手を離そうとしました。
よく見ると、さっきの風たちとはぜんぜん違う風たちの姿です。
クロウを見たその風たちはにこりと笑ってクロウの手を離しました。
するとあっという間に衝撃の中に叩きつけられました。クロウは果敢に飛ぼうとしますが、幾重もの風の中を舞ってしまい上手く飛べません。
もう目も見えません。ただただ風の中を飛んでいます。赤い口から白い息と共に妙に濁ったギァーッという一声が辺り一面に、遥か下にある野や山や車の走る人の街にまで響き渡るかのようです。そして方向転換をして星の方へ向かって飛び、もう一度ギァーッ鳴きました。
そこは風が凪のように止まっている空間でした。
あたりが星に包まれています。それっきりです。クロウは下の方へ下の方へと落ちてゆきました。体がくるりくるりと周りながら一枚一枚の羽根が真っ赤になって燃えそうです。
その時です。その時です。落ちてゆく先に、何か明るく輝くものが見えます。心なしか温かい気がしました。それは探していた太陽でした。
もくもくと煙をはきながら天空の軌道を走っている特急のようにも見えます。何列にも繋がった球体のあちこちから炎が激しく吹き出しています。その炎が辺り一面を明かるく照らしています。
そうです、クロウは余りに高く高く飛び過ぎて太陽よりも高くを飛んでいたのです。
太陽の近くに寄ってゆくととても熱く感じてきました。
元気がでたクロウはもっと近づこうと飛んでゆきます。すると太陽の上の方に運転台のようなものが見えました。
クロウは話しかけてみます。
「教えてください。太陽の沈む扉はどこにあるのですか?」
「あら、珍しい。こんな所まで来るなんて。」
「はい。教えてください。」
「ふふふ、あなたは太陽が海の中に沈むと思っているのね。」
「だって毎日東から登っては西の方に沈んでゆきます。でも太陽を一生懸命追いかけても沈む扉が見つからないのです。」
「そうね、あなたたちから見れば私たちはソラを走っているかのように見えるかも知れないわね。だから夜になる時には必ず地面のどこかに沈むと思うのね。」
「そうです。そうです。だってお日さまは毎日、西の方に沈むじゃないですか。」
「そうね、あなたたちから見れば太陽は西に沈む、誰かにとっての沈む夕日は誰かにとっての登る朝日でもある。」
「でも私たちは本当に動いているのかしら。あなたからみたら動いているように見えるわたしたちは実は止まっているのかも知れない。」
「止まっているように見えるのに、実はもっと大きな星の円盤の上を全速力で走っているのかも知れない。」
「でもね、わたしたちの進む先はいつも光が教える未来でもあるのよ。」
クロウには何を聞いてもさっぱりでした。どうやら確からしいのは太陽の沈む扉はないと言う事です。だからと言って不思議が終わった訳ではありません。
クロウは気を取り直して聞いてみました。
「そうだ、あなたは僕の恋人を知りませんか?」
「あなたの恋人?それは誰?私にはよく分からないわ。でもここには沢山の働いている仲間がいるわ。みんなに聞いてみたらどうかしら。」
クロウは艦橋の先端と止まってみました。前の方を見ると色んな星が見えます。青い星がたくさん飛んできます。そして後を振り返ると赤い星がたくさん見えます。
不思議ですがちっとも飽きません。
運転台にある扉の中をのぞくと沢山の動物がいました。オリーブの葉を加えた鳩が飛んできて話しかけます。
「君も新しい仲間かい?」
「そうなのかな。まだよく分かんない。君は僕の恋人を知らないかい。」
「さあ、どうだろう。ここには沢山がいて働いているからね。」
奥を覗き込むときりん、ぞう、らいおん、しまうま、くじゃく、だちょう、さる、とかげ、かえる、さんしょううお、さけ、いか、なまこ、はち、いろんな動物が見えます。
「ねぇ、君はここでどんな仕事をしているの?」
「この巨大なお日さまを動かすには様々な沢山の仕事があるよ。」
「僕と同じ姿をした鳥も働いているの?」
「うーん、君みたいな鳥は見た事がないよ。」
「例えばどんな鳥がいるの?」
「そうだなぁ、まっくろな鳥が居るよ、すらっとしてとっても早そうに飛ぶ。」
「まっくろ?僕みたいに?」
「何言ってるんだい、君はけむくらじゃの鳥じゃないか?」
クロウはまだみのむしの毛皮を着ていたのです。
その毛皮を脱ぎました。
「ほら、こんな鳥じゃなかったかい。」
「こりゃ驚いた、そうだよ、君みたいな鳥だったよ。」
「確か誰かを探しているって言ってたよ。」
「誰かを探しているって?」
「そう、確か、こんな事を言ってたよ。」
『もしクロウが私を探しているならもう北の方しか考えられない。直ぐにでも北へ向かって雪の中で凍えているクロウをみつけないと。』
「ああ、君がそのクロウなんだね。」
クロウはそれを聞いて直ぐに飛び立とうとしました。
「ちょっと待って、そんなに慌てないで。」
近くにいるみんながクロウを止めます。
いきなり止められてクロウは不機嫌になりました。
「止めないで。一刻も早く見つけ出さないと。今頃、凍えているかもしれないじゃないか!」
「だから、ここで働きながら世界中を探す方が、きっと早く見つかるよってみんなで説得したんだよ。」
「えっ。」
「クロウ!」
クロウを呼ぶ声が聞こえてきました。振り向くと探していた姿がそこにありました。
一羽のつばめがすーと飛んできてクロウの横に止まりました。
やっと出会えたのです。
(2000年頃 2-1)
クロウの名前は羽根があまりに真っ黒で仲間のみんなから付けてもらいました。
クロウはある日、砂漠の上を飛んでいました。
オアシスで休憩しているラクダに聞いてみました。
「ねえ僕の恋人を知らないかい。」
ラクダは答えていいました。
「さあわしらは知らんね。」
「この澄んだ空に浮かんでいるまん丸いお月様はわしの友達だ。夜になって人間たちが眠りに落ちた時にわしらはこのお月さまから水を頂く。ほら空に水を汲む杓子が見えるじゃろう。」
「あなたはいっぱいの旅をしているではないですか。どこかで噂でも聞いていませんか。」
「そりゃ旅はしておるが、わしらも人間の街はたくさん見てきたが、それでもやっぱり知らんのお。しかし、お月さまは高い所から一晩中世界を見ておるから何かを知っとるかも知れん。聞いてみるがいい。」
「どうすればお月さまとお話が出来ますか?」
「いまはまだ空の高い所におるじゃろう。幾らお前さんでもあの高さまでは飛んでゆけまい。幾ら叫んでも声は届かんじゃろう。」
「もう少しすれば西の方にお帰りになるがそれでも足は早いからお前さんが幾ら早く飛んでも追いつけまい。」
「じゃから、また明日東の方から出てくる。まだお月さまが地平線から顔を覗かせている間に話かければいいんじゃ。いいか、東の方へ飛んで行くんじゃぞ。」
「ありがとう。」
つばめは今まで乗っていたらくだのこぶから空高くに飛んでいきました。
できないと言われましたが、本当に月まで飛べないか試してみたかったのです。探している恋人と少しでも早く会いたい気持ちがあります。
懸命に飛んでみましたが月の大きさはちっとも変わりません。小さいままです。つばめは疲れたので砂漠まで降りてきて今度はサボテンの上に止まりました。
そこにいたさそりにも聞いてみましたが駄目でした。お腹がすいてきました。でもさそりは食べませんでした。
翌朝は早くから東の方へ方へと飛んでゆきました。途中で二度ほど水を飲み、空を飛んでいるものを食べました。
その日の夕方には砂漠を越えて町が見えてきました。
つばめはその町の中で一番高い教会の塔のてっぺんに止まって東の方を見ていました。
もう夕方です。お月さまが顔をのぞかせる時間になっています。
地平の向こう側がうっすらを明るく見えます。つばめはお月さまに声を掛けます。
ところが月は答えてくれません。幾ら待っても何も言ってくれません。つばめは悲しくなってきました。
つばめは悲しくなって目から涙がこぼれおちてきました。
その時、お月さまの光が教会の十字の上に当たって白く輝きました。
光の方がみるとお月さまがいます。そして東の方がをみると、お月さまの灯りだと思ったものは今もそこで変わらずに輝いていました。
つばめがお月さまだと思っていたものは人間の遠くの方にある町の灯りだったのです。
つばめは今度こそお月さまに向かって聞きました。
「お月さま、僕の恋人がどこに居るか知りませんか。」
お月さまは答えてくれました。
「つばめよ、つばめ。わしは夜を司る。お前の体は見ての通り黒い羽根に覆われておる。わしが見るこの世界はみな暗い。お前の探しているものの中に自分自身の力で輝くものは恐らくおるまい。」
「だから暗い夜の世界で、お前たちのように輝かぬものを見つける事はわしには難しいんじゃ。」
「しかしあなた様は光り輝いてすべてのものを照らしているではありませんか。」
「わしの光は眠っているもの達にいい夢をみさせるための灯りじゃ。夢を案内するためにある光じゃ。」
「夜、すべての空が暗闇に落ちてはお前たちは怖くて眠れなくなるじゃろう。眠れなかったら朝はこない。それではお前たちは困ってしまうじゃろう。わしも困る。休む事ができなくなるからな。」
「ああ、僕はどうすればいいんだろう。恋人に会えないのが悲しい。私は悲しくて切なくて胸の中をかみそりか何かで切られているようです。」
つばめはがっかりしました。
それを見てお月さまはこう言いました。
「つばめよ、今は眠れ。」
つばめは教会の上で寝ました。
夢の中で恋人が出てきて空を飛ぶ夢を見ました。
翌朝、目覚めると、足元に何かが書かれています。そこには太陽に聞いてみなさいとありました。
太陽は昼間の明るい世界を見ているからです。
つばめは朝の太陽に向かって飛んでゆきました。
そして聞きました。
「お日さま、僕の恋人がどこに居るか知りませんか。」
しかしお日さまからの答えはありません。
あまりに空の高い所にあるのできっとクロウの声が聞こえないんだと思いました。
兎に角、追いかけるしかありません。太陽を追い駆けて西に西に向かって飛び始めました。
しかし太陽は早く、追い付けるものではありません。太陽に追いつこうと必死に風にのりましたが無理です。
夕方になるまで飛んでも太陽には全く追い付けませんでした。地平線には海が見えています。
陽が夕の刻で、西の水平線には真っ赤に輝く太陽が見えます。そして海も真っ赤になって波がキラキラとクロウの目をさします。クロウの目からは大きな涙がポタポタと落ちてゆきました。
その瞬間に太陽は西の果てに沈んでしまいました。
クロウはしっかりと太陽が沈んだ辺りを見ていました。
「あのあたりに行って明日待っていれば、きっとお日さまともお話が出来るに違いない。」
次の日は海の上を飛んでゆきました。潮風がクロウの体を押し上げてゆきます。
しかし幾ら海の上を飛んでみたと頃で、どこにも太陽が沈む入口が見つかりません。
疲れたら波に浮かぶ木切れの上にとまり休み、また海の上を飛び、太陽の沈む入口を探しました。
海の水が入ってこないようにきっと扉があるに違いない。
クロウはそう思って海の上を探しています。しかし扉などどこにもないのです。
周囲に島などありません。兎に角、海の上に扉があるはずなのです。
懸命に海上を探して飛んでいると、急に空の上からガシンンガシンと鳴る音が聞こえてきます。
お日さまがクロウの遥か空の上を通りすぎてゆこうとしていました。
いつのまにかクロウの上を通り過ぎて更に更に西の方へと向かってゆこうとしているではありませんか。
「太陽の沈む入口はこの辺りじゃないんだ。もっともっと遠くの西にあるんだ。」
クロウはまた懸命に西に向かって飛んでゆきます。
そして太陽が沈んだ辺りに行っては日没の扉を探します。
探している間にまたクロウの頭の上をお日さまが通過してゆくのです。
何日も何日もこれを繰り返しました。
疲れてきました。風が急に止みます。
昨日見た時にはこの辺りで太陽は沈んだ。この辺りに太陽が沈む入口があるはずだ。
それなのに今日はまたお日さまはあんなに高くいる。
クロウは海の上の小さな島の上に降りました。
クロウは不思議に思います。こんな所に島などなかったのに。
すると急に海水が勢いよく吹き出ました。
クロウが止まったのは小さな島ではなくクジラの背だったのです。
クロウは聞きました。
「太陽の不思議を知っていますか?太陽が沈む扉がどこにあるか分からないんです。」
するとクジラが答えて言いました。
「わたしたちはずっと海の世界で暮らしているけれど、今まで誰も太陽の沈む扉なんて見た事も聞いた事もないわ。」
「太陽が海の中に入ってきたという話もないわ。」
クジラは更に言いました。
「私たちがずうっと南の方に向かって泳いでいるでしょう。太陽はずうっと私たちの左から登って右に落ちてゆくの。ところが寒い場所を超えて、大きな氷を避けながら、昼か夜しか来ない世界を更に泳いで抜けると今度は太陽は右から登って左に落ちるようになるの。私たちはとても不思議だと思うわ。」
太陽の登る方向が変わるのは、なんて不思議な話しだとクロウも思いました。
それは東が東でなくなるという事です。いったいどうなっているのでしょう。
つばめはしばらくクジラの背で揺られていましたが、片方の翼をバッバッとばたつかせました。もう片方の羽根もばたつかせました。
そして両方の翼をいっぺんに羽ばたかせます。翼の上にあった海水が流れ落ちてゆき、クロウは空気中にぱっと舞い上がってゆきます。
「どうもありがとう。もう少し探してみるよ。」
クロウはくじらたちと別れてまた西を目指しました。
そうして飛んでいると高い教会の塔が見えてきました。
そこで少し休もうと塔の上に降りました。その時、クロウは気付いたのです。
それはお月さまと会話したあの教会の塔だったのです。いつの間にか同じ場所に戻ってきているのです。
クロウはとても不思議な気がしました。
そして太陽の沈む扉は決して見つからないだろうと思いました。
だから今度は高く昇って太陽と話をするしかないと考えました。
周囲を見渡すと、この辺りで一番高いのは北にある雪山です。その山から飛び立てばきっと太陽の近くまでゆけるはずだと考えました。
そうと決まれば出発です。
いつの間にかクロウは恋人の事よりも太陽の不思議の方にとっても興味を持っていました。
「僕は絶対にお日さまと話をするんだ。そして太陽の沈む場所を教えてもらうんだ。」
北へ。
北へ向かって飛び出しました。
どれくらい飛んだのでしょう。見上げればいっぱいの星空です。大地は雪で真っ白になって星の輝きを受けています。
寒くて体が針で刺されているようです。翼を動さずに滑空していると羽根の前の方に氷がつくようです。時々羽ばたいては体についた氷を落します。
それでもなかなか雪山の頂上に辿り着く事は難しいのです。
高くなるとなるほど、上昇しなくなるのです。息も苦しくなります。空気が足りない気がします。
すると遥か上空を編隊を組んで飛ぶ鶴を見つけました。
クロウはクレーンに教えてもらおうと話しかけました。
「どうしたらそんなに高く飛べるのか、教えてもらえませんか。」
するとクロウに気付いた一羽の鶴が上空を旋回し始めました。
「なんと珍しい。お前のような鳥属がこんな上空におるとはの。」
そしてクロウを見てこう教えてくれました。
「わしらがこの高さで飛ぶにはそうとう繰り返し何度も何度も上昇気流に乗るとそ。山の尾根沿いに風が巻いておる場所があるからの、そこを見つけては風に体をあずけるとそ。」
「羽ばたくだけでこの高さは無理じゃ。わしらにもできん事そ。」
「ありがとう、やってみる。」
クロウはお礼をしました。
「まて、そう簡単ではないそ。そんな考えては失敗するそ。」
クレーンは更にこう続けました。
「高くなるほど空気は薄くなるそ。普通の鳥では呼吸ができなくなるそ。わしらには特別な肺があるが、お前さんにはなかろう。しかも高くなるほど寒さも厳しくなるそ。この寒さにも耐えられる体でないといけんそ。」
「見た所、お前さんは高い所を飛ぶようにはできておらんそ。さて、どうしたものか。」
「良い事を教えてくれてありがとう。なんとか工夫してみるよ。」
さて、本当にどうしたものか、とクロウは考えました。今の高さでも凍えるように寒いのです。普通のやり方では命さえ危なそうです。
「そうだ。」
クロウには何かアイデアがあるようです。
地上におりてみのむしを探しました。
そして見つけたみのむしにお願いします。
「きみのその暖かな毛皮を僕に分けてくれないか。これから僕はとっても寒い所へいくんだ。」
「え、やだよ。そんな事をしたら今度は僕が寒い夜を過ごさないといけないじゃないか。」
「まだ冬には時間がある。今からでも作り替える事ができるだろう?」
「君はどうしてもというなら奪ってゆくのかい?もしこれを君にあげたら僕は丸裸だよ。きっと僕はいじめられるよ。」
クロウはびっくりして言いました。
「奪うなんて絶対にしないよ。僕は君にお願いしてるだけなんだ。」
「君が毛皮を作ってくれる間は僕が君を守ってあげるよ。」
「それだけだと僕は働き損だよ。それじゃ不公平じゃないかい?」
「確かにそうだね。分かった。じゃもし太陽の秘密が解けたら君にも教えるよ。それでどうだい?」
「ディール!それは楽しみだ。それを待ちながら寒い季節を過ごすのも悪くなさそうだ。」
こうしてクロウはみのむしの毛皮を手に入れました。
羽織ってみると温かくそして軽い。これなら寒い空でも飛べそうです。
しかもこの毛皮の中には空気がいっぱい貯められています。これで呼吸だって苦しくないでしょう。
準備は万端です。クロウは山の尾根まで行きました。みのむしの毛皮は完璧なようです。ちっとも寒くありません。
山の頂からふわっと飛び立つと教えてもらった通り、沢山の風が巻いています。出鱈目のように風が吹いています。
自分の翼の感覚を鋭敏に感じると、確かに風にもいろいろな方向に吹くものがある事が分かります。
こうして冬の寒い寒い日に、一羽の鳥が誰もいない方へと飛んでいったのです。それを見た人はひとりもいないでしょう。もちろん、その鳴き声を聞いた人もいません。クロウはこうして恋人を探す最大の挑戦に挑みます。
さあ、風たちよ、僕を空高く運んでおくれ。下に吹く風、横に吹く風、強い風、弱い風、その入り交じった中から上へ向かう強い風に触れました。
「さあ、私に捕まりなさい、あなたを空の上まで連れて行ってあげるわ。」
その手を取ったとたん、山々があっという間に小さくなってゆきます。青い空が次第に蒼くなってゆきます。次第に暗くなってゆきます。これは夜なのかい?風に聞きました。
「うふふ、私たちの世界では空は青だけではないのよ。」
空がまっくらになって星が輝いています。まるで夜のようです。
たくさんの風が折り重なってクロウを高く高く運んでゆきます。
寒くなったり温かくなったりしながらどんどん高くなってゆくのです。
如何にみのむしの毛皮とはいえ寒くなってきました。それでも風の手を離さず高く高くへと飛んでゆきます。
「ねぇ、そろそろ太陽さんとも出会える高さかなぁ。」
しかしクロウの声は風たちには聞こえないようです。だんだんと寒さが厳しくなってゆきます。怖くなってクロウは風の手を離そうとしました。
よく見ると、さっきの風たちとはぜんぜん違う風たちの姿です。
クロウを見たその風たちはにこりと笑ってクロウの手を離しました。
するとあっという間に衝撃の中に叩きつけられました。クロウは果敢に飛ぼうとしますが、幾重もの風の中を舞ってしまい上手く飛べません。
もう目も見えません。ただただ風の中を飛んでいます。赤い口から白い息と共に妙に濁ったギァーッという一声が辺り一面に、遥か下にある野や山や車の走る人の街にまで響き渡るかのようです。そして方向転換をして星の方へ向かって飛び、もう一度ギァーッ鳴きました。
そこは風が凪のように止まっている空間でした。
あたりが星に包まれています。それっきりです。クロウは下の方へ下の方へと落ちてゆきました。体がくるりくるりと周りながら一枚一枚の羽根が真っ赤になって燃えそうです。
その時です。その時です。落ちてゆく先に、何か明るく輝くものが見えます。心なしか温かい気がしました。それは探していた太陽でした。
もくもくと煙をはきながら天空の軌道を走っている特急のようにも見えます。何列にも繋がった球体のあちこちから炎が激しく吹き出しています。その炎が辺り一面を明かるく照らしています。
そうです、クロウは余りに高く高く飛び過ぎて太陽よりも高くを飛んでいたのです。
太陽の近くに寄ってゆくととても熱く感じてきました。
元気がでたクロウはもっと近づこうと飛んでゆきます。すると太陽の上の方に運転台のようなものが見えました。
クロウは話しかけてみます。
「教えてください。太陽の沈む扉はどこにあるのですか?」
「あら、珍しい。こんな所まで来るなんて。」
「はい。教えてください。」
「ふふふ、あなたは太陽が海の中に沈むと思っているのね。」
「だって毎日東から登っては西の方に沈んでゆきます。でも太陽を一生懸命追いかけても沈む扉が見つからないのです。」
「そうね、あなたたちから見れば私たちはソラを走っているかのように見えるかも知れないわね。だから夜になる時には必ず地面のどこかに沈むと思うのね。」
「そうです。そうです。だってお日さまは毎日、西の方に沈むじゃないですか。」
「そうね、あなたたちから見れば太陽は西に沈む、誰かにとっての沈む夕日は誰かにとっての登る朝日でもある。」
「でも私たちは本当に動いているのかしら。あなたからみたら動いているように見えるわたしたちは実は止まっているのかも知れない。」
「止まっているように見えるのに、実はもっと大きな星の円盤の上を全速力で走っているのかも知れない。」
「でもね、わたしたちの進む先はいつも光が教える未来でもあるのよ。」
クロウには何を聞いてもさっぱりでした。どうやら確からしいのは太陽の沈む扉はないと言う事です。だからと言って不思議が終わった訳ではありません。
クロウは気を取り直して聞いてみました。
「そうだ、あなたは僕の恋人を知りませんか?」
「あなたの恋人?それは誰?私にはよく分からないわ。でもここには沢山の働いている仲間がいるわ。みんなに聞いてみたらどうかしら。」
クロウは艦橋の先端と止まってみました。前の方を見ると色んな星が見えます。青い星がたくさん飛んできます。そして後を振り返ると赤い星がたくさん見えます。
不思議ですがちっとも飽きません。
運転台にある扉の中をのぞくと沢山の動物がいました。オリーブの葉を加えた鳩が飛んできて話しかけます。
「君も新しい仲間かい?」
「そうなのかな。まだよく分かんない。君は僕の恋人を知らないかい。」
「さあ、どうだろう。ここには沢山がいて働いているからね。」
奥を覗き込むときりん、ぞう、らいおん、しまうま、くじゃく、だちょう、さる、とかげ、かえる、さんしょううお、さけ、いか、なまこ、はち、いろんな動物が見えます。
「ねぇ、君はここでどんな仕事をしているの?」
「この巨大なお日さまを動かすには様々な沢山の仕事があるよ。」
「僕と同じ姿をした鳥も働いているの?」
「うーん、君みたいな鳥は見た事がないよ。」
「例えばどんな鳥がいるの?」
「そうだなぁ、まっくろな鳥が居るよ、すらっとしてとっても早そうに飛ぶ。」
「まっくろ?僕みたいに?」
「何言ってるんだい、君はけむくらじゃの鳥じゃないか?」
クロウはまだみのむしの毛皮を着ていたのです。
その毛皮を脱ぎました。
「ほら、こんな鳥じゃなかったかい。」
「こりゃ驚いた、そうだよ、君みたいな鳥だったよ。」
「確か誰かを探しているって言ってたよ。」
「誰かを探しているって?」
「そう、確か、こんな事を言ってたよ。」
『もしクロウが私を探しているならもう北の方しか考えられない。直ぐにでも北へ向かって雪の中で凍えているクロウをみつけないと。』
「ああ、君がそのクロウなんだね。」
クロウはそれを聞いて直ぐに飛び立とうとしました。
「ちょっと待って、そんなに慌てないで。」
近くにいるみんながクロウを止めます。
いきなり止められてクロウは不機嫌になりました。
「止めないで。一刻も早く見つけ出さないと。今頃、凍えているかもしれないじゃないか!」
「だから、ここで働きながら世界中を探す方が、きっと早く見つかるよってみんなで説得したんだよ。」
「えっ。」
「クロウ!」
クロウを呼ぶ声が聞こえてきました。振り向くと探していた姿がそこにありました。
一羽のつばめがすーと飛んできてクロウの横に止まりました。
やっと出会えたのです。
(2000年頃 2-1)
2022年3月27日日曜日
蝶の夢
ある日、少女が目覚めると大きな蝶の翅の中にいました。少女はびっくりしましたが、羽根の上を這って頭の方へと行きました。
蝶に聞きました。ちょうちょには大きなレンズのような目の上に更に大きな触覚が二本、下の方にはくるくるとぜんまいみたいに巻かれた口がありました。
「ね、ちょうちょさん、ここはどこなの?」
ちょうちょは羽根を大きく羽ばたかせます。しかし飛べません。
いつまで待っても飛び立とうとしません。なぜかしらと少女は不思議に思いながら見ていると、今度はちょうちょの方から話しかけてきました。
「わたしはなぜか飛べないのです。どんなに頑張ってもどんなに力を込めても体が浮かび上がらないのです。」
少女は蝶の上に座って、自分はどうすればいいのだろうと考えました。でもちっともいい案が浮かびません。
と蝶がおおきな足をもじもじさせながらこう言いました。
「もし良ければわたしの前に立ってくれないでしょうか。あなたの姿がもっと良く見える様に。」
少女は黙って頷き、前の方で立ちました。そして近づいて蝶の顔にそっと手を触れました。
蝶は羽根を動かし始めます。そしてだんだんと力が加えられてゆきます。全てを忘れて必死になって羽根を動かしました。
でも浮かび上がりません。
よく見ると、ちょうちょの羽根は縦に立てられたようになっていて上手く風を捕まえていませんでした。
力いっぱいに羽根を動かすのではなく、風を捕まえるようにそっと風の中に乗るように羽根を置いてみたらとどうかしらと言いました。
蝶は羽根を懸命に動かすのをやめ、水平に横に大きく伸ばしました。
すると羽根がみるみると震えだし、風の力で揺れているのが見えました。
「さあ、私の背中に乗って。」
少女の体がガクンと揺れた瞬間、蝶は大きく浮かび上がりました。おおきなうちわのような羽根が四枚見えます。
飛んでいる背中にいると少女は急に怖くなりました。
私のお家はどこにあるんだろう。学校はどうなっちゃうんだろう。
けれど蝶は何も黙ったまま、ひとつの島に連れてゆきました。そしてそこに少女を下し、礼をした後、どこか遠くの方へ飛んで行きました。
ひとりぽっちになった少女は海辺へと歩いてゆきます。波のひとつひとつを目で追いながら足を波につけました。砂粒がながれてゆくのを感じます。
ボーっとしていると何もかも忘れてしまいそうです。波の音だけが聞こえてきます。
と、突然と声が聞こえてきます。誰かが私を呼ぶ声です。
その声を聞きながら少女は何もかも忘却していきました。
ほら、寝息が聞こえてくるでしょう?外はまだ真っ暗ですが。
あと二時間したら朝になります。まだ冷たいけれど気持ちのいい朝です。
(2000年頃 1-3)
蝶に聞きました。ちょうちょには大きなレンズのような目の上に更に大きな触覚が二本、下の方にはくるくるとぜんまいみたいに巻かれた口がありました。
「ね、ちょうちょさん、ここはどこなの?」
ちょうちょは羽根を大きく羽ばたかせます。しかし飛べません。
いつまで待っても飛び立とうとしません。なぜかしらと少女は不思議に思いながら見ていると、今度はちょうちょの方から話しかけてきました。
「わたしはなぜか飛べないのです。どんなに頑張ってもどんなに力を込めても体が浮かび上がらないのです。」
少女は蝶の上に座って、自分はどうすればいいのだろうと考えました。でもちっともいい案が浮かびません。
と蝶がおおきな足をもじもじさせながらこう言いました。
「もし良ければわたしの前に立ってくれないでしょうか。あなたの姿がもっと良く見える様に。」
少女は黙って頷き、前の方で立ちました。そして近づいて蝶の顔にそっと手を触れました。
蝶は羽根を動かし始めます。そしてだんだんと力が加えられてゆきます。全てを忘れて必死になって羽根を動かしました。
でも浮かび上がりません。
よく見ると、ちょうちょの羽根は縦に立てられたようになっていて上手く風を捕まえていませんでした。
力いっぱいに羽根を動かすのではなく、風を捕まえるようにそっと風の中に乗るように羽根を置いてみたらとどうかしらと言いました。
蝶は羽根を懸命に動かすのをやめ、水平に横に大きく伸ばしました。
すると羽根がみるみると震えだし、風の力で揺れているのが見えました。
「さあ、私の背中に乗って。」
少女の体がガクンと揺れた瞬間、蝶は大きく浮かび上がりました。おおきなうちわのような羽根が四枚見えます。
飛んでいる背中にいると少女は急に怖くなりました。
私のお家はどこにあるんだろう。学校はどうなっちゃうんだろう。
けれど蝶は何も黙ったまま、ひとつの島に連れてゆきました。そしてそこに少女を下し、礼をした後、どこか遠くの方へ飛んで行きました。
ひとりぽっちになった少女は海辺へと歩いてゆきます。波のひとつひとつを目で追いながら足を波につけました。砂粒がながれてゆくのを感じます。
ボーっとしていると何もかも忘れてしまいそうです。波の音だけが聞こえてきます。
と、突然と声が聞こえてきます。誰かが私を呼ぶ声です。
その声を聞きながら少女は何もかも忘却していきました。
ほら、寝息が聞こえてくるでしょう?外はまだ真っ暗ですが。
あと二時間したら朝になります。まだ冷たいけれど気持ちのいい朝です。
(2000年頃 1-3)
2022年3月26日土曜日
暖炉の火
愛していた人を失って一人の少女が悲しんでいました。
その近くでパチパチと燃える暖炉の火より声が聞こえてきます。
「お嬢さん、何をそんなに悲しんでいるの?目の赤さは兎の様。」
少女はその声の方を振り向いて暖炉の火を見つめました。その声が余りに優しかったからです。
「私の愛しい人が死んでしまったのです。」少女は答えました。
「へぇ愛しい人が死んだら悲しいのですか。」暖炉の火は不思議そうにそう言いました。
少女はびっくりして何も言えなくなりました。
「お嬢さん、お嬢さん。そんなに吃驚しないで。私は世の中の事を全く何も知らないものだから。」
「所でお嬢さん、どうしたら悲しくなくなりますか。聞かせてください。」
少女は何も答えませんでした。
そして水をかけて暖炉の火を消してしまいました。
それから少女はベットに横になりました。恋人の事が思い出されて仕方ありません。涙があふれてきます。空にはいっぱいの星があります。その星のひとつが彼なのでしょうか。
いつの間にやら彼女は眠りに落ちてしまいました。
彼女は星の夢を見ます。そして彼が星の間から降ってきました。少女は夢の中で彼を追い駆けました。
でも見失ってしまいます。どこを探しても見つかりません。
しかし確かに彼はこう言っていたのです。
「もう悲しまないで。」
星がひとつパアッと光ったかと思うと流れ出して空を駆けてゆきました。
そして少女の全体を包みました。
暖かな温もりが広がるのを感じました。
その星は果たして彼だったのでしょうか?
少女はそれを否定しました。愛は内より外に向かうものです。その向かう先に何があっても、それが誰かの心を動かしたとしても、それを愛と呼んではなりません。それを愛と呼ぶ事が悲劇なのです。
その暖かな光に包まれて彼女は夢の中から消えてゆきました。
目を覚ました彼女からは不思議と悲しさは消えています。
少女は朝の空を見上げてみます。そこに星は見えません。夜、あんなにあった星の輝きは見えないのです。
青空が広がって、何も考えない時間が過ぎてゆきました。それだって太陽からの光です。太陽も星です。ただ見上げていました。
暖炉に火をつけるとまた声がしてきました。
「おや、今日は悲しんでいないのですね。その人は生き返ったんですか?」
少女はいいえと返事をして暖炉の近くによって手をかざしました。
暖炉は彼女が近くに来たので火の勢いを強くしました。少しでも温かくしたいと思ったからです。
そしてもう何も言いませんでした。暖炉の火はただパチパチと燃えていました。
火を見つめていると、少女はその中に星を見つけた気がしました。
(2000年頃 1-2)
その近くでパチパチと燃える暖炉の火より声が聞こえてきます。
「お嬢さん、何をそんなに悲しんでいるの?目の赤さは兎の様。」
少女はその声の方を振り向いて暖炉の火を見つめました。その声が余りに優しかったからです。
「私の愛しい人が死んでしまったのです。」少女は答えました。
「へぇ愛しい人が死んだら悲しいのですか。」暖炉の火は不思議そうにそう言いました。
少女はびっくりして何も言えなくなりました。
「お嬢さん、お嬢さん。そんなに吃驚しないで。私は世の中の事を全く何も知らないものだから。」
「所でお嬢さん、どうしたら悲しくなくなりますか。聞かせてください。」
少女は何も答えませんでした。
そして水をかけて暖炉の火を消してしまいました。
それから少女はベットに横になりました。恋人の事が思い出されて仕方ありません。涙があふれてきます。空にはいっぱいの星があります。その星のひとつが彼なのでしょうか。
いつの間にやら彼女は眠りに落ちてしまいました。
彼女は星の夢を見ます。そして彼が星の間から降ってきました。少女は夢の中で彼を追い駆けました。
でも見失ってしまいます。どこを探しても見つかりません。
しかし確かに彼はこう言っていたのです。
「もう悲しまないで。」
星がひとつパアッと光ったかと思うと流れ出して空を駆けてゆきました。
そして少女の全体を包みました。
暖かな温もりが広がるのを感じました。
その星は果たして彼だったのでしょうか?
少女はそれを否定しました。愛は内より外に向かうものです。その向かう先に何があっても、それが誰かの心を動かしたとしても、それを愛と呼んではなりません。それを愛と呼ぶ事が悲劇なのです。
その暖かな光に包まれて彼女は夢の中から消えてゆきました。
目を覚ました彼女からは不思議と悲しさは消えています。
少女は朝の空を見上げてみます。そこに星は見えません。夜、あんなにあった星の輝きは見えないのです。
青空が広がって、何も考えない時間が過ぎてゆきました。それだって太陽からの光です。太陽も星です。ただ見上げていました。
暖炉に火をつけるとまた声がしてきました。
「おや、今日は悲しんでいないのですね。その人は生き返ったんですか?」
少女はいいえと返事をして暖炉の近くによって手をかざしました。
暖炉は彼女が近くに来たので火の勢いを強くしました。少しでも温かくしたいと思ったからです。
そしてもう何も言いませんでした。暖炉の火はただパチパチと燃えていました。
火を見つめていると、少女はその中に星を見つけた気がしました。
(2000年頃 1-2)
2022年3月12日土曜日
シスターの答え
ひとりの老人に向かってこう語った。
「神はあなたを許します。」
老人が聞いた。
「シスター、あなたには神の声が聞こえるのですか?」
「いいえ。」
老人は訝り更に聞いた。
「シスター、あなたは神の声を聞いた事がないという。それでもあなたはまるで神の御心が分かったかのように私に伝えてくる。」
「あなたがそう語れる理由は何でしょう?」
更に老人は続けた。
「聞いた事もない神の言葉をあなたが神の名のもとに語れるのは何故でしょう?」
シスターは静かに答えた。
「神が許された者に許されていないと伝える事と、許されていない者に許されたと伝えるふたつを比べてみます。」
暫く待ってシスターは続けた。
「そしてどちらがより罪が軽いかを考えてみます。」
シスターの言葉。
「さて人間の間違いを神はお許しになるでしょうか?」
老人は答えた。
「そりゃ神様は人間の過ちは許してくださるでしょう。」
シスターはそれを聞きうなずいた。
「私もそう考えます。だから人間が何を語ろうと神は最後はお許しになるはずです。」
ステンドグラスから明るい光が漏れている。
「よってそれを聞いた人間の心持ちだけの問題という事になります。」
ちらと天井を見る。
「もし私が神の意図を間違えて伝えているとしたら次のふたつです。」
「ひとつはもう許されているにも係わらずまだ許されていないとあなたに伝えた場合。」
古い木の香りのする教会。
「その時はあなたは許されていないのだと信じるでしょう。あなたは最初からまだ許されていないのではないかと怪しんでいたのですから、やはりそうかと考えるのが当然です。」
「それで現状は何も変わりません。あなたが許されていると知るのが少し遅れるだけの事です。」
シスターは老人を見て語気を強めた。
「では許さてないにも係わらずわたしが許されたと言ったらどうでしょう。」
石の床はひんやりとしているようだ。
「あなたは許されたいと願っていた。だから許されたと聞いて喜びます。」
「許されていないと信じた人はそのままの気持ちで神の前に出ます。そして許されたと信じた人もそのままの気持ちで神の前に立ちます。あなたはその時に許されていたと知っておきたいのでしょう。」
正面のクロスからは何も音がしない静けさだった。
「ですからあなたは私と会いそして神の前に立つ迄のわずかな時間だけ許されていたいと願っている事になります。」
老人はかぶりを振った。
「それでは私がまるで馬鹿のようではないですか。」
シスターは優しく言い含めるように語った。
「そうなのです。しかし、それだけが私に出来る事なのです。」
「もしあなたが神の前で実は許されていないと思い知らされたとしてもあなたの罰せられる運命は何も変わっていません。」
「しかしそれまでの僅かな時間、あなたは希望が持てたではないですか。それは私のおかげです。」
そこでシスターはきっぱりと言い切った。
「それで誰も困りません。」
老人は頭を下げて去っていった。
それを見ながらシスターは独り言をした。
「例え神があなたを許していても、次の瞬間には許さないと変わるかも知れませんよ。それは私たちではどうしようもない事でしょう。」
(2006/04/03)
「神はあなたを許します。」
老人が聞いた。
「シスター、あなたには神の声が聞こえるのですか?」
「いいえ。」
老人は訝り更に聞いた。
「シスター、あなたは神の声を聞いた事がないという。それでもあなたはまるで神の御心が分かったかのように私に伝えてくる。」
「あなたがそう語れる理由は何でしょう?」
更に老人は続けた。
「聞いた事もない神の言葉をあなたが神の名のもとに語れるのは何故でしょう?」
シスターは静かに答えた。
「神が許された者に許されていないと伝える事と、許されていない者に許されたと伝えるふたつを比べてみます。」
暫く待ってシスターは続けた。
「そしてどちらがより罪が軽いかを考えてみます。」
シスターの言葉。
「さて人間の間違いを神はお許しになるでしょうか?」
老人は答えた。
「そりゃ神様は人間の過ちは許してくださるでしょう。」
シスターはそれを聞きうなずいた。
「私もそう考えます。だから人間が何を語ろうと神は最後はお許しになるはずです。」
ステンドグラスから明るい光が漏れている。
「よってそれを聞いた人間の心持ちだけの問題という事になります。」
ちらと天井を見る。
「もし私が神の意図を間違えて伝えているとしたら次のふたつです。」
「ひとつはもう許されているにも係わらずまだ許されていないとあなたに伝えた場合。」
古い木の香りのする教会。
「その時はあなたは許されていないのだと信じるでしょう。あなたは最初からまだ許されていないのではないかと怪しんでいたのですから、やはりそうかと考えるのが当然です。」
「それで現状は何も変わりません。あなたが許されていると知るのが少し遅れるだけの事です。」
シスターは老人を見て語気を強めた。
「では許さてないにも係わらずわたしが許されたと言ったらどうでしょう。」
石の床はひんやりとしているようだ。
「あなたは許されたいと願っていた。だから許されたと聞いて喜びます。」
「許されていないと信じた人はそのままの気持ちで神の前に出ます。そして許されたと信じた人もそのままの気持ちで神の前に立ちます。あなたはその時に許されていたと知っておきたいのでしょう。」
正面のクロスからは何も音がしない静けさだった。
「ですからあなたは私と会いそして神の前に立つ迄のわずかな時間だけ許されていたいと願っている事になります。」
老人はかぶりを振った。
「それでは私がまるで馬鹿のようではないですか。」
シスターは優しく言い含めるように語った。
「そうなのです。しかし、それだけが私に出来る事なのです。」
「もしあなたが神の前で実は許されていないと思い知らされたとしてもあなたの罰せられる運命は何も変わっていません。」
「しかしそれまでの僅かな時間、あなたは希望が持てたではないですか。それは私のおかげです。」
そこでシスターはきっぱりと言い切った。
「それで誰も困りません。」
老人は頭を下げて去っていった。
それを見ながらシスターは独り言をした。
「例え神があなたを許していても、次の瞬間には許さないと変わるかも知れませんよ。それは私たちではどうしようもない事でしょう。」
(2006/04/03)
2022年1月26日水曜日
日本国憲法 第七章 財政(第八十三条~第九十一条)
第八十三条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
第八十四条 あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。
第八十五条 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。
第八十六条 内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。
第八十七条 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
○2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。
第八十八条 すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
第九十条 国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。
○2 会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。
第九十一条 内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。
短くすると
第八十三条 財政は国会の議決に基いて行使。第八十四条 租税を課し、変更するには法律。
第八十五条 国費支出は、国会の議決。
第八十六条 内閣は、会計年度の予算を作成し、国会に提出。
第八十七条 予算の不足に充てるため、内閣の責任で支出できる。
○2 予備費の支出は、事後に国会の承諾。
第八十八条 皇室財産は、国に属する。皇室費用は、予算に計上。
第八十九条 公金は、宗教、団体の使用、便益、維持、公の支配に属しない慈善、教育、博愛の事業に対し、これを支出してはならない。
第九十条 収入支出の決算は、毎年会計検査院が検査し、内閣は国会に提出。
○2 会計検査院は、法律で定める。
第九十一条 内閣は、国会、国民に対し、毎年一回、国の財政状況について報告。
要するに
税とは何か。停滞
21世紀は先進国が停滞に入った時代。全ての先進国は伸び悩んでいる。新興国の追い上げの、そのモデルは20世紀のまま。大量消費に裏付けられた経済システム。地球の資源が有限である以上、無限の経済発展はあり得ない。この星のあらゆる活動の殆どが太陽からのエネルギーに支えられている。よって経済活動も太陽エネルギーの活用の範囲を出る事はない。少なくとも別恒星を経済圏に入れない限りは。ただその莫大なエネルギー量の前では人類の経済活動は僅少である。
人類の活動が地球の環境に影響を与えているのは確かだろう。そもそも人類を待たずとも24億年前の藍藻がこの星を酸素の星に変えた。生命の住環境の変革は常にこの星の上で起きている。人類も藍藻も変わらない。
国家がこの星に誕生したのは資源の独占と同時期であったろう。限られた資源を寡占する事、人間の行動は常にそこに収束する。
寡占状態が国家に国王を生み、階級を作り、労働力に奴隷をあてがい、利害の衝突が法を発明させた。これは他ならず人間の数が一定数を超えたから起きた。少なくとも歴史に王朝の記録が現れた頃、既に人の数は多く法を必要としていた。
法が言葉で書かれる以上、法が言語の論理構造に従うのは自然で、例え神託であっても、その多くは禁止と命令である。それに人が従う為には王が必要である。法を裏付ける為に王は存在する。だとすれば、王とは約束を違えぬ者の意が含まれる。
これを逆に見るなら人は裏切るのが本質である。恐らくそれは生物が本来もつ行動様式であろう。それについて人間がいつ頃から嘘を嫌うようになったか。
騙すとは情報の誤謬である。もしひとつの事象にひとつの情報しかないならば誤りは起きえない。ひとつの事象に複数の情報が割り当たるから不一致も生じる。騙す気があろうがなかろうが、ふたりの異なる認識は、片方にとっては相手の嘘になる。
法と税
いずれにせよ法がある所に税がある。税を初めて要求された時に人が何を思ったか。だが、王が如何に人徳の優れた者であっても、税を要求する理由に納得できるとは思えない。正当性があるとは思えない。よって税の前に略奪があった。略奪があり、略奪から守る、その為のコストとして税がある。どちらに払うかという選択が、王の徳という形で価値観を形成した。
見返りがあるから税を払うのである。よって税は一種の交換である。合意された契約である。それが人々にとって受け入れられた地域はより発展する。その結果、その地域には人が集まり、そして生まれる。
暴力に晒されない、飢えない、理不尽な略奪がない、これが税の根本であろう。そして、このささやかな平和のために徴収する。よって、税の本質は暴力と飢えと略奪なのである。それに人々が従うのは、単に王と国家への信頼が揺るがないからに過ぎない。
王への信用が税ならば、税は信用の対価である。この信用があるから貨幣を生む。よって税を取れない国家には貨幣の価値は維持できない。
憲法の始まりであるマグナカルタ、アメリカ独立へと続くボストンお茶会事件、どれも税に発端する。フランス革命は国庫が枯渇して起きた。全て信用の問題であるから誰も引き下がらなかった。
略奪と税
借りたものを返す道徳は、所有という概念の発生と近い時期に誕生した筈だ。ミトコンドリアは真核細胞内に住環境を求めたが、細胞を所有した考えはあるまい。細胞がミトコンドリアを所有した考えもないはずで、ともに住環境に不都合はなかった。
常在菌にとっては人体がこの世界の全てであろう。微生物は人間の体を所有したとは考えないだろう。人間も常在菌を所有したとは考えていない。しかし彼/彼女らにもテリトリーは存在する。
テリトリーは奪い奪われる。この闘争に正当性はない。奪う側と奪われる側のどちらにも言い分はあるが、そこに正義も不正義もない。
それは他者を排除する生存を賭けた闘争である。しかし縄張りは所有ではない。所有ではないが同じ線上にある気もする。
縄張りと所有の違いは略奪があるかどうかだろう。不正に奪うから略奪なのである。所有という考え方があるから略奪なのである。併せて寄生という概念も成立する。単に奪うだけでは略奪ではない。少なくとも聖書の神はヨブにそう教えた。
略奪者たちは他の場所からは略奪しても彼らの中では略奪を許していないはずである。そうでなければ集団は成り立たない。
流通
100円が市場で流通すると、それは取引した回数だけ所有者を変える。所有者を変えても100円の価値は不変だから、どれだけ交換が発生しても市場における100円の価値は変わらない。だがモノの価格は取引の度に上がってゆく。自分の利益を上乗せするからだ。そのため取引の回数が多くなるほど価格は上乗せの量だけ高くなってゆく。
市場の購買能力は、この取引に上乗せした総和を上限と見做しても良さそうだ。この上限を支える限界がその市場の能力と見做せる。
では市場の能力を決定するものは何か。上乗せにした量を支払う能力に等しいだろう。だから市場の価値はモノの価値よりも余剰分だけ高い。
この余剰分は取引の度の落差となって、水の流れや、熱に似ている。市場での落差は、熱力学を参考とした自然現象として理解できそうな気がする。
市場の能力
価格は市場の取引で決定する。高すぎれば低く、安すぎれば高くなる。実際は市場に問うてみるしかない。その結果として適正な価格に落ち着く。市場では取引があり、取引の回数は、モノの数量と市場の購買能力で決まる。購買能力は、取引の上乗せ分に依存する。モノの数量と購買能力は、自分の尻尾に食らいついたヘビの頭みたいに、相互に影響する。
基本式
\(取引回数 = モノの個数 \div 市場の購買能力\)
\(市場の購買能力 = 取引回数 \times 上乗せ分\)
式の変形
\(取引回数 = \frac{モノの個数}{取引回数 \times 上乗せ分}\)
\(取引回数^2 = \frac{モノの個数}{上乗せ分}\)
\(取引回数 = \sqrt{ \frac{モノの個数}{上乗せ分}}\)
これを代入すると
\(市場の購買能力 = 上乗せ分 \sqrt{ \frac{モノの個数}{上乗せ分}}\)
\(取引回数 = モノの個数 \div 市場の購買能力\)
\(市場の購買能力 = 取引回数 \times 上乗せ分\)
式の変形
\(取引回数 = \frac{モノの個数}{取引回数 \times 上乗せ分}\)
\(取引回数^2 = \frac{モノの個数}{上乗せ分}\)
\(取引回数 = \sqrt{ \frac{モノの個数}{上乗せ分}}\)
これを代入すると
\(市場の購買能力 = 上乗せ分 \sqrt{ \frac{モノの個数}{上乗せ分}}\)
市場の購買能力と上乗せ分の関係
これに従うなら市場の購買能力はモノの個数を増やそうが、上乗せを増やそうが、どこかで飽和する。だから飽和しないように調整する必要がある。それに失敗した市場は飽和の波に沈む事になる。
経済と熱力学
経済活動で起きる様々な出来事は常に影響しあっている。ミクロで見ればとても小さな粒子の動きがマクロでは体積、圧力、熱などの物理現象として観測される。何もない真空から粒子が発生し、対消滅して消える。同様に経済活動の中にも、何もない所から発生し市場に参加するものがある。
その代表的なものが税と利子になる。この二つは常に発生し作用している。経済活動には常に税と利子による縮小する力が働いている。
税は国家への信用を数値化したもの、利子は未来に対する不信を数値化したもの。税への信用が国家の経済を成り立たせている。その信用が国債を保証している。
では、国家の信頼があるのになぜ国債には利子が必要なのか。利子が付かなければ国債を買うものはいない。それは未来に投資したリスクが0に出来ないからだ。調度、熱の発生を0に出来ないのと似ている。
国債の利子は支払わなければならない。利子を返済するには、新しく紙幣を刷るか、税で搔き集めるか、別の国債を発行するしかない。それをいずれの手法であっても保証するものが税である。税が取れない国家の紙幣は紙くずである。信用がない国家の国債も紙くずである。国家の信用は税だけで決まっている。
経済循環の外に太陽エネルギー、地球にある鉱物、植物、動物の生命がある。これらは宇宙で生まれ、地球という環境に堆積したものだ。人間はこれら市場の外にあるものを取り出し、市場の中に取り込んでいる。
労働も経済の外にある。人間が頭の中で生み出したモノも最初は経済の外にある。宗教であろうが、科学であろうが、娯楽であろうが、人の頭の中から出現する。このように市場の外で発生するものは市場から見れば無から生じたに等しい。
ここで最初の落差がある。0のものに市場に参加する時に価格が付けられたからだ。
市場には外で発生したものを取り込み、消費し、外に排出する循環がある。入出力のバランスが崩れれば地球が温暖化するような事が市場でも起きる。
- 何もしなければ、市場は税と利子により停止状態へ向かう。
- 市場の購買能力は価格の上乗せ分に比例する。
- 市場はモノを入力とし、税を出力する機関と見做せる。
無駄
もし経済にエントロピーがあるなら、全員の所得が均等になる共産主義の理想がエントロピーの最大だろうか。だが、その状態が市場に何も変化を起こさないとは考えにくい。市場が停滞するには、熱の高低差が0である必要がある。市場における高低差が0とはどういう状態だろうか。
所得が十分に得られるなら、市場での取引が停滞するとは考えにくい。取引を控える場合、その対義語は貯蓄であろうと思われる。貯蓄は未来に向かって行う。それは未来への不安に対する保険として行われる。
利益を追求する資本主義の原理では、目先の利益を最大にする方向に向かう。\(利益=価格-コスト\)であるから、価格を最大にし、コストを最小にする。コストに含まれる税や利子は排除できないから、それ以外を効率化、無駄の削減として削減する。
例えば在庫を減らす事は効率的とされる。モノの余剰は無駄なコストを増大する。だから削減する必要がある。余剰には労働者の賃金、材料費も含まれる。あらゆるものがコスト削減の対象である。
低価格は競争力そのものであるから、価格は上昇させられない。よって企業が取る方向にはコスト削減しかない。その結果として市場では交換する機会は減り、購買力も小さくなる。交換機会の減少は、企業単体では利益の最大化に寄与する。しかし市場は貧弱になってゆく。
こうして資本主義における企業活動は自然と市場を縮小に向かわせる。これは連作障害を起こしている畑と同じだ。
これは効率を最大にしたカルノー機関が最大のパフォーマンスを発揮するのかという工学上の問いに似ている。無駄に熱を捨てない事はある観点の最大の効率であろうが、それが常にパフォーマンスと比例しているとは限らない。
利子
税への信用が国家の貨幣を裏付け、その信用が国債を保証する。では、国家の信頼が背景にあるのになぜ国債には利子が必要なのか。税は国家への信用の度数である、利子は未来に対する不信の度数と定義できる。未来は常に0より大きな不信を持つ。この不信対する手当として利子が必要となる。そうしないと市場で流れない。交換には上乗せが発生するのと同じように、貸し借りには利子が発生する。
利子を返済するには、新しく紙幣を刷るか、税を徴収するか、別の国債を発行するしかない。もし税がなければ紙幣は紙くずである。国債も紙くずである。いずれも税がその手段を保証している。国家の信用は税による。
手の汚れを落とすのに流水を使う。本当は汚れを溶かすのに必要な水の分子数があれば十分である。それらの水分子に汚れを溶かしてから捨てれば効率が良い。
所が、水の量が十分でないと水に溶けた汚れがまたすぐに手に付く。それを防ぐためには溶けた瞬間に他の場所に移動させないといけない。その移動の為には水の流れを作る必要がある。
汚れた水で洗っても手は綺麗にならない。だから水に溶けた汚れは速やかに捨てるしかない。次々と綺麗な水で流す事になる。流水で勢いよく洗うのは効率という点では非常に悪い。水の殆どは汚れを落とす為には使われない。
だが、無駄を大量に使わなければ上手く洗えない筈である。それを見逃さない程度には人間は賢くない。
熱を無駄に捨てるのは非効率である。しかし、熱を捨てない機関は存在しない。熱の捨て方を上手くしないと良いエンジンは作れない。
果たしてあらゆる効率の最大化は効果の最大か。ある種の効率は、全体を低下させるのではないか。それがいま起きているとしたら。バタフライエフェクトのような僅かな初期値の違いが、嘗ての成功を今回の失敗にするとしたら。
平成デフレーション
江戸時代には、宵越しの金は持たないと粋がる事ができた。それは仮に仕事がなくても生きる事が可能だったという実感があったからだ。これは江戸時代の善政のひとつの証拠であろう。だが、実際に幕府が人々を食わせていた訳ではない。恐らく江戸の町屋がその役割を担った。隣近所という共同体が機能していた。
戦前の日本では村落という共同体が機能していた。戦後は帝国主義から資本主義への切り替わりにより村落の共同体は廃れ、企業が共同体の役割を担った。企業に属する事で食うに困る事はない、一生を生きてゆく算段が得られた。信仰が勤労の原動力になる。勤労の精神にはプロテスタンティズムなどの宗教的役割が強く影響した。
この世界を経済が支えている。だから経済の形に応じて社会は変化する。
さて税は略奪の一形態である。略奪に正統性を持たせる為に国家は理念を掲げる。理念がなければ国家は税の根拠を失う。根拠を失えば国庫は空になる。国庫に金がなければ国は亡びる。
税を取る理念は恐怖であれ忠誠であれ成立する。根拠が何であれそれは極めて滅びにくい。それはひとつの生命のようだ。
そして税を取るためには市場が必要である。市場に余剰がなければ税とは取れない。
国家は税の代わりに国民に奉仕する必要がある。最終的に安心を与える事である。安心と安全は異なる。東日本大震災を知る者ならば、安全であっても安心を与えられない状況は良く知っている筈である。
安全だけでは足りない。そこに人間の集団の独特の運動がある。そして安心を与える最重要なものが共同体である。共同体に属するから人間は安心できるのである。安心であるから消費する事ができる。これが経済の基本だろう。
つまり国家は安心を与えるとは共同体を維持するという意味になる。
日本はバブル崩壊により企業の共同体としての役割が破綻した。その破綻の仕方が緩やかであったから急性アノミーは起きなかった。恐らくゆっくりとアノミーが進行しているのである。失われた三十年とは共同体を探す三十年でもある。この月日で人々は共同体のない社会に適用しつつある。
それは別の共同体の構築手順とも言えよう。その兆しはまだないように思われる。いずれにしろ、安心が失われている以上、消費は蓄財へと向かう。未来への不信が十分に飽和するまで未来に向かって蓄積し続ける。
社会が不安に陥ればデフレ化する。その圧力は経済政策では解決すまい。財政出動も金融政策も解決の本質にはない。不安は傘をさす人だ。青空を見せようが、屋根のある家を用意しようが、傘を手離すはずがない。
アノミーに起因して発生したデフレーションであるから、これを解決するのに国家の経済政策では効果がないと思われる。この不安は社会保障では解決できない。新しい共同体の構築によってしか不安の解消はできないと思われる。
他の先進国はこの不況とどのように向き合っているのだろう。経済停滞が先進国の共通現象ならば、共同体の喪失が潜んでいるのではないか。家族の類型とも無関係ではないのではないか。これは新しい経済システムへ向かう過渡期の現象ではないか。
アメリカは合衆国憲法を理念とする単一の共同体である。その時代が失われつつある。分断を食い止める手段は過去に戻る事ではない。経済システムが変わりつつあるのだからそれは無意味だ。現状維持も無駄だ。
新しい経済システムのどこかに落としどころがある筈である。新しい経済システムの鍵はインターネットとAIだろうと考えている。
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