子曰 (子曰く)
由、誨女知之乎 (由よ、汝に知ることを教えんか)
知之爲知之 (知るは知ると為し)
不知爲不知 (知らざるは知らざると為す)
是知也 (これ知るなり)
もちろん、ソクラテスの「無知の知」と同じ意味だろう。その言葉が示すはひとつであり、知っていると言おうとも、知らないと言おうとも、誰だって知らないのである、知っているとは即ち知らないという事なのだ。では何についてなら知っていると言ってもよいのかと問う。知っていると言う時、その対象を主題としても意味はない。之を知っているかどうかは主体である私がどういう立場にあるかだからだ。
知るという行為は主体側においてのみ自由である。対象について私はそれを知っていると思うなら知っていると言うし、知っていないと思うなら知らないと言う、知っていても知らないと言うかも知れないし、知らなくとも知っていると言うかも知れない。それは人其々である。知っているという者もおり、知らないと言う者もいる。孰れにしろ、彼らがどう知っているかを私は知らない。
だから私に教えてくれ、と問いかけたのがソクラテスであった。孔子はそれと異なる。
知るという問いかけは私が私にしか出来ないものである、私自身に対してしか問いかけないものを、人に対して問うても意味がない、これが知るの意味ではないか。
この私しか知らぬものに、心とか気持ちがある。
心を込めて、気持ちを込めて。
最近では魂を込めるとも言う。オリンピックの季節なら気合いも入る。
これらの言葉は似ているが違う。
綺麗な心、澄んだ心、汚れた心、いい気持ち、嫌な気持ち。
心の問題、気持ちの問題、魂の問題、気合の問題。
繋がる心、伝わる気持ち、想いが通じる。
心は込めれないけれど気持ちは込めれる、と思った事がある。
気持ちってのは、心よりも具体的だ。だから漠然と心は込めれないけれど、具体的に気持ちを込める事は出来る。気持ちを込めるには、相手を思いそこに浮かんだ感情や考えに熟慮し、それに則った行いをすればいいと思う。何かをする時に最初の足場としてまず気持ちを大切に拾い上げる。そこから始めるのがいいと思う。
心を込めています、ではなんとも、何か、気持ちだけで終わってしまう感じがする。心を込めたから失礼にはならない、と自分で思う事は出来る。自分の真っ白な気持ちをそのまま知ってもらいたいという気持ちになる事もある。しかし、そのままでは心は通じない。ただ私が通じたいと願っているに過ぎない。
気持ちが通じるには、あなたの心に届かなくてはいけない。それにはただ念じていても届きはしない。物や歌や姿や行いなどを通して届けなくてはいけない。対象を使わなければ通じない。心は空疎だ。心を器とすれば、そこをどんな気持ちで満たすかが大切なのだ。
あなたが人に贈りたいのは綺麗なガラスのコップか、それとも、そのコップに入った美味しい水であるか。
心は今の刻々を絶えず揺れて動いている。心は時間そのものであると言ってもいい。その揺れ動く中である瞬間に固定化したものが気持ちである。気持ちも長い時間の中で変わってゆく事は間違いない、だがある瞬間で切り取られた気持ちは写真のようにその時の記憶となって固定化しもう変わらない。
その結晶になった気持ちをずっと持ち続ける必要はない。そんな事はしちゃいけない。気持ちという心の結晶を今の自分の心からすくってあげるのがいい。それを誰かに届けるのがいい。
魂とはコピーの意味に違いない。魂を込めるとは、それを私と思っても構いません、これは私の分身です、と誰かに言う言葉なのである。魂は必ず他の誰かと結びつく。もし結び付かなかったら必ずそれを求めて彷徨う。
一方の心や気持ちというものは、他の誰かを必要とはしない。誰かに通じたり届いたりしなくてもいい。必ず繋がるべきとは限らない。寂しいという気持ちは確かに誰かに届きたがるが、人には決して見せたくない気持ちも同じ場所で同居する。心の器にたまったのが美しい水とは限らない。濁っていたり汚れた水もある。不満や好き嫌いの心があるのだから、これはどうしようもない。
その気持ちに嘘を込めたくない。私は知らないと言いたくない。その汚れた心を伝えたくない気持ちっていうのもある。だけど、汚れていると知っているけれど、それを伝えなければならない事だってある。嫌な事を伝えなければならない、もしかしたら嫌われるかも知れないと不安に思いながら伝える事もある。
もし我慢できるなら伝えなくてもいいだろう。だから、この世には礼がある。礼という儀礼を尽くし自分の心を隠し通す事が出来る。相手はこの心を知るはずがない。同じ様に我慢しなくていい、その気持ちを伝えるためにも礼がある。礼とは形式や式典の事ではない。相手から嫌われるかも知れないという不安と向き合いながら、相手と通じようとするのが礼だ。
嫌な相手の前で頭を下げる事も、自分の気持ちを伝える事も、どちらも礼である。それが己の気持ちを伝えている事になる。礼を尽くすとは、そういう自分の中の気持ちを伝えるための有り様なのだ。己の気持ちを汲んでみたら我慢するという気持ちになった。その気持ちを伝えるために礼を尽くす。心だけなら礼などいらない、気持ちを伝えるために礼があるのだ。礼を尽くすとは、自分の逃げたい気持ち、恐れ、汚さ、悔いを認め、その気持ちと向き合い、相手の前に立つためにある。私はあなたの前で礼を尽くしているのです、それでもあなたに私の言葉は届かないのですか。
相手がどういう応対になるかは分からぬが、自分の気持ちを伝える。礼を尽くたとしても相手に伝わらぬ事はある、しかし、最後まで礼を尽くしたのであれば、少なくとも自分は逃げ出さなかったのだ。己の心の内は己しか知らないのでから、礼を尽くしたかどうかは己れで決めればよい。己では礼を尽くしたとは言えない、と思っていても、周りの人からはよくやったよと言われるかも知れない。それは少なくともその人たちにあなたの気持ちが通じたからだ。
あなたがどういう思いでいたか、どういう気持ちで頑張ったか、私は知っているよ。
これが心の繋がりであり、気持ちが伝わったのであり、礼を尽くしたと言う事だ。
★★ 情緒を絡めて
★★ 心を込めてコードを書く 心を込めてと言うが、どうすれば込められるのだろうか。とても抽象的である。 ここで肝心な事は、抽象的では人は動けない。抽象から具象を導くのは、壁がある。 ★★★ 心と気持ちの関係。 心を込めて手紙を書く、気持ちを込めて手紙を書く。心を込めて食事を作った、気持ちを込めて食事を作った。心を込めて庭掃除しています、気持ちを込めて庭掃除しています。 さて、どっちが自然なのだろう。この二つはどう違うのか。 ふたつを比較してみる。 心は込めれないけど、気持は込めれる、と思った事がある。 気持ちは、心よりも具体的な事象である。感情の揺れ動きも気持ちだし、大切にしたい、嫌い、悩みなども気持ちとして湧き上がってくる。 漠然としたものは込めれないけど、具体的なら何かなら込める事ができるだろう。少なくともその為の足がかりと出来るだろう。 例えば人へ指示する場合も漠然とした抽象論よりも、具体的な手順論の方がいい。士気を高めるよりも必要なのは作戦案である。 ここから、この手続きを生み出すのは何か、という話にある。士気が高くても、作戦がへぼなら無駄に戦死するだけである。とはいえ、作戦に目的がなければただの浪費である。例え時間稼ぎであっても。 何かを始めるには稟議書から始める。それを書かせるものは何か。心であるか気持ちであるか。次に計画案を建てる必要がある。目的を叶うためには何を達成しなければならないか。その為の道筋、必要な手順を決定する。 ある目的に向かい、現状があって、何等かの操作の連続によって、別の状態に変換する。この変換する事が具体性で変換したいものが抽象論になる どう変換するかは手続き論になる。なぜ変換したいかは目標になる。パワーを与えるのはエンジンであり、方向を決めるのがハンドルとブレーキになる。 レシピが手続きであるが、料理は目的ではない。誰が食べるかが目標である。料理が作るからレシピが必要になる。料理が作りたくないならレシピはいらない。 心も動く、気持ちも動く、この二つを比べてみる。 気持ちを込めてコードを書く 例えば、あなたの事を思ってますなら、これは気持ちを込めている。心を込めるとはちょっと難しい。私の命を3日間分を上げます、なら命を込めているになる。さて心を込めるとは。 心を込めるのは士気の問題である。 気持ちを込めるのは、相手を思いそこに浮かんだ感情や考えを通して、 それに則った行いをしましょう、という意味にとれる。 何よりも何かをするときの最初の足場として気持ちってのは使えると思う。 なぜ心では駄目なのか 心では、なんとも、心を込めています、という自己満足で終わってしまいそうで そこに相手に対する何かを形にするなら、相手に対する気持ちで事に当たりたい。 ま、気持を込めて、何かをすることは少ないし、 機械的でいいから、ちゃんとやるならそれで十分と思うんですけどね。