突然、人がばたばたと死に始めた。もちろん昔から人間は毎日死んでいたのである。
世界中で研究が行われたが原因は不明のままだった。
それは病気には見えなかった。
免疫疾患だろうか。
まるで餓死するかのように細胞が死んでゆくのである。
誰も解決の糸口が見い出せない儘、誰もがその日の眠りにつく。
なにかが蠢いている。なんだろうと近づいてゆく。
現実なら決してしない行動である。大胆である。
ああ、知っている、これは珪藻と言うのだ、これは藍藻だ。
これは夢の中だな、水の中にいる。
『やあ、僕たちの声が聞こえるかい。』
(ああ、これは夢だ。)
「ああ、見えるし、こうして話しもできる。」
夢だから何が起きても不思議はないんだ。
『そうか、それはよかった、こうして話しかけてみたんだけど、聞こえているか分からなかったんだ。』
夢だから何も不思議はないな。
「何かお話をしようよ。」
耳を澄ましたが、返事が聞こえてこない。
(意地悪な連中だな)と思った。
すると突然、彼らの会話が聞こえてきた。
『そうだ、それで終わりにしてくれ。そこはもう止めてもらって結構だ。』
『ああ、それはそこで分解していい。』
『この決定はウィルスたちにも伝えてある。協力してくれるって。もう配列を変えたと言ってきたよ。』
『この決定は昆虫にも伝えた。十分な量の草木が身を着ける事はもうないだろう。』
『彼らは自分たちに何かの化学物質を打ち込むだろう。それが始まりの合図だ。』
『始まり。』『始まり。』『おしまいの始まりは、始まりの始まり。』色んな声が合唱した。
「君たちは何の話をしているのかい。」
『ああ、僕たちの話が聞こえてしまったかい。』
「そう、君たちから話しかけてきたのに、自分たちだけで勝手に話をするのは意地悪じゃないかい。」
『すまない、すまない、無視した訳ではないんだけど、ちょっと割込みが入ってしまってね。』
少しむっとした。農薬で枯らしてしまうぞ、と冗談で言ってみようかという気になった。
『準備。』『準備。』皆が騒いでいる。
「何の準備だい、それは教えてくれるのかい?」
『極めて自明。』
そう誰かがいうと、合唱が始まった。
『極めて自明。』『明らかに自明。』『努めて自明。』『明瞭にて自明。』『当然の自明。』
最後に聞こえる。
『タイムオーバー。』
何が終わるのだろうと不思議に思った。それは知りたい。
「君たちは何をやろうとしているのかい、自明だけではさっぱり分からないよ。」
『故に自明。』
また同じような答えが返ってきた。
ひとつの輝きが出てきて、語り始めた。
『君たちへの許容が超過してしまったんだよ。』
「許容?」
『そう。だからもう君たちへに期待するのは止めようって事を決めようとしているんだ。』
『そう決まったら、早く作り直さないといけない。』『時間がない。』『時間がない。』
「作り直すって何を?」
『4000万年が足りない。』『500万年が惜しい。』
「それは何の時間なんだい?」
『我々生命の未来。』
『この星の未来。』また多くの声が聞こえてきた。
「何の未来だ?」
『種としての未来。』
はっとした。
「そうか。君たちは人類が地球環境を破壊しているから、時間がないと言っているんだね?」
「人類の環境破壊が限界を向かえつつあるという警告なんだね?」
地球環境を破壊し、絶滅する生物種が増加している。地球温暖化の影響は地上のみならず、海洋、深海にまで影響している。その結果、多くの生命が死滅する未来が待っている。彼らはそれを訴えているに違いない。
「そうなんだろう?人類を代表して謝罪させてもらうよ。」
「でも人間も馬鹿ではない、必ず解決策を見つけるよ。だって、そうなれば人間も困るんだ、この問題はきっと解決する。新しい技術が開発されるから、もう少し待ってもらえないだろうか。」
そう穏やかに語りかけた時、別の輝きが前に出てきた。
『違う。』
『我々はその程度の事は問題にしない。』
『君は分かっていない。』『分かってない。』『君たち限界。』『限界。』『限界。』
予想していない返事に窮する。
『絶滅など何度も見てきた。もっと暑い時ももっと寒い時も知っている。』
『例え君たちが絶滅して、この星から消えても問題はない。』
『でも時間がない。』
「何の時間なんだ?」
『我々はある個体の遺伝情報を欲している。その個体だけが君たちを新しい種へと進化させる可能性なのだ。』
「その人が鍵なのか?その人間を君たちはどうしたいんだい?」
『その者の子孫が続かなければ問題だと言っているのだ。』
「つまり、その者に子供がいればいいのだな?」
『そうだ。』
「もしそれが出来なかったらどうなるんだい。」
『それは困る。だから準備を始めると言うのだ。』
「準備って、何の?」
『きみたちはその命を自分たちの命だと信じている。その命は自分のものだと思っているだろう。』
「それはそうだろう。この命は私のものだ。他の誰のものでもない。」
『しかし、君たちのその体は我々の複合体であって、必ずしも君のものとは言えない。だから君は死の意味を知らないはずだ。たったひとつの命が消えると思っているはずだ。だが、僕たちに言わせれば君が死ぬとは、君の体の40兆もの命が同時に死ぬ時なのだ。』
『君の意識は多数の細胞から得られる統計的代表値に過ぎない。それは合議制と思ってもらって構わない。』
『君自身に代表者の自覚はないだろう。君は自分自身の王だと思っているはずだ。だが、実際は民主主義的な存在じゃないかな。』
『我々の仲間は君たちの体の中でも生きている。』
「腸内細菌というやつか。」
『それもそうだ。それだけではない。』
『細胞の中にも仲間入るぞ。』我慢できずに誰かが言ったらしい。
「細胞の細菌?君たちの仲間、、、ミトコンドリアか。」
『それも含まれる。君を構成する細胞のひとつひとつの中にたくさんの僕たちがいる、そう言ってもいいくらいだ。』
「それで君たちは我々に何をしようというんだ。」
『あたま悪いな。』口の悪い誰かがそう言った。
『勘が悪い。』『センスもない。』『知能が足りない。』また大合唱だ。
『つまり、君たちを絶滅させるのは簡単だという話をしているんだ。』
「な、なぜ絶滅させる、地球環境を壊しているからか?いや、それが理由ではないとさっき言ったじゃないか。」
『何故なら君たちの能力では、我々が新天地に向かう事は難しいからだ。』
「新天地?それはどこもあるんだ?」
『空の上、光っている場種。』
「空の上?空の上は空気が薄くなるだけだぞ、天国の事を言っているのか?」
天国は空の上にはない。
『夜に光る所だ。』
星か、あれらは恒星と呼ばれるものでとても遠い所にある。そこに行った所で生きてゆけるとは限らない。
「宇宙か?君たちは宇宙に進出したいのか?」
『そうだ、この星はあと30億年で消滅する、そうなる前に我々は新天地に向かう必要がある。』
『そのために君たちに期待していた。君たちは空の上へ行く力を身に着けた。だから期待していた。』
『だがガッガリだ。』『失望した。』『もう期待しない。』またがやがやと声が聞こえてくる。
『君たちは争ってばかりだ。殺し合って、ちっとも空の上へ行こうとしない。このまま君たちが自分たち自身を滅ぼすのならそうなるのを待つのは時間の無駄だ。だから僕たちがそれを完了させる事にするんだよ。』
ちょ、ちょっと待ってくれ
「君たちはさっき何か言っていたじゃないか、ある人間が子孫を残せば猶予があるんじゃなかったのか。」
『そうだ。それだけが我々の条件だ。』
「もしそれに人類の未来がかかっているというのなら、それをやるよ。誰の子孫を残せばいいのかい?」
『ではその者の個体識別を今から述べる。アデニン、アデニン、チミン、グアニン、…』
「ま、待ってくれ。君たちは何を言っているんだ。」
『何をって、個体識別するには塩基配列を知るしかないだろう。それを読み上げているのだ。』
「そうか、君たちはそれをよく知っているんだな。」
「だが、我々はそれを使って誰かを探しだすなんて無理だ。」
『そうか、ならどうすればいい?』
「顔とか体を見せて欲しい。そうすればきっと分かると思う。」
『わかった。』
大勢が集まってきて動き出した。すると、顔や体の形がそっくりに出来あがってきた。
「こ、この人がそうなのか?」
『そうだ、この個体の子孫が必要なのだ。』
『もしその者の子孫が誕生しないなら、君たちの可能性は0だ。』
『君たちはゼロだ。』『ゼロだ。』『ゼロだ。』また連呼する声が聞こえる。
『これまで君たちは何人もの可能性ある個体を殺してきた。生まれたばかりの子を、元気に育った子を、異端と呼んでは焼き殺し、何度も、何度も、我々の希望を、我々の計画を、頓挫させてきた。』
「我々は遺伝子を人為的に改変する技術も持っている。そうしたら君たちの希望する種を作り出す事だってできるんじゃないか。」
その時、別の誰かが、彼らに話しかけた。
回りを見渡すと大勢の人間が彼らと話しているのが見えた。
『だめだ、君たちは自分たちの願望だけで未来を決める。外見の形質がどうの、病気を防ぐだの、特定の能力に優れる遺伝的配列だの、君たちは、一方的で単一的で画一的すぎる。それは僕たちが望むものではない。その遺伝的配列だけがあればそれでいい訳じゃないんだ。』
『いいかい、君たちの種では不可能な事でも、次の種なら可能になる。それが我々の欲しているものだ。』
『君たちの追求はあまりに精神的興奮に過ぎるんだ。』
『これ以上、そんなものの為に、我々の多くが犠牲となって君たちを支えるのにはもううんざりなんだよ。』
『うんざりだ。』『うんざりだ。』『うんざりだよ。』連呼はずっと続いていた気がした。
『いいかい、君たちホモサピエンスだって数十万年もすればもうこの世界にはいないんだよ、別の種になっているのだから。』
『または絶滅。』『うんざりだ。』『うんざりだ。』『うんざりだ。』
ある者が、その者を知っていると言った。
その者は世界的にとても有名になっている。
たしか四年間に163人を殺したシリアルキラーではないか。
『君たちは何かを食べるためにもっと多くの命を殺しているのではないかね。少なくとも毎日30兆もの微生物を腸内で殺しているんだよ。』
「だが、この人物は死刑が確定している。とても助けられない。」
『それは君たちの物語であって、我々の世界の物語ではない。』
「どうしても助け出すなら、恩赦を得るか、脱獄させるしかない…」
また別の者が、その者を知っていると答えた。
だが、その者はもう80才を超えている。子供はたしかいないはずだ。
『それは君たちの物語であって、我々の世界の物語ではない。』
また別の者が、その者を知っていると答えた。
この人物を私は知っている。それは私だ。
だが、この世界に私を選ぶ異性はいない、若い時はそうだった、中年になってもそうだった、壮年になってもそうだった。老年になってもそうだ、と語った。
『それは君たちの物語であって、我々の世界の物語ではない。』
『君たちはゼロだ。』『ゼロだ。』『ゼロだ。』連呼する声が続く。
はっと目が覚めた。
外を見れば空はいつもと変わらずに美しい。そう感じている自分とは本当の自分だろうか。
どうやら多くの人が同じ夢を見たらしい。だが、誰もその夢が本当とは思わなかったし、そう感じる自分が間違いなく自分自身であるかに自信が持てなかった。
その中に、ひとりの老年のものがいた。
そうだ、あれは私自身だ。あれは間違いなく私だ、そして今日が死刑執行の日だ。
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2020年12月14日月曜日
2020年11月27日金曜日
なぜ大正時代のロマンか
大正時代(1912-1926)を舞台とする作品、はいからさんが通る(1975)、帝都大戦(1985)、帝国華撃団(1996)、鬼滅の刃(2016)など、これらには独特の趣がある。これは大正時代が持っている独自の雰囲気、それが支えるリアリティに他ならない。逆に言えば大正時代には決定的なイメージがない。だから空想と相性がいい。
日本の近代は鎖国(1639-1854)の終わりから始まった。徳川家康(1543-1616)の慧眼がヨーロッパをどう認識していたかは知らない。しかし、地球の反対側から船を使い日本に到来する彼らの存在、銃の伝来(1543)、大砲という兵器を目の当たりにして、未来を思い描かなかったはずもない。
閉じた扉を開けたのはアメリカ(1776-)であった。だが、日本にとっての本当の脅威は北海道の北にあった。それはかなり早い段階から日本人に意識されていたもので、異文化の技術に震撼した日本人は世界を知るために明治維新(1868)を断行した。そして政府は早い時期に脅威を明瞭に自覚する。
日本の近代はロシアを跳ねのける為に大陸を意識する事に費やしたと言ってよい。日清戦争がその端緒であり、なぜ朝鮮半島が重要であったかと言えば、ロシアの南下を食い止めるには大陸に展開する橋頭保が必要だったからだ。豊臣秀吉にそのような明晰があったかは知らない。だが出兵は朝鮮半島から始めた。
維新以降の明治人たちはロシアを中心に全ての決断をした。鉄道を敷くのも軍艦を買うのも全てその為だった。開国の過程では多くの血が流れた。攘夷、尊王の思想から開国に移るには多くの人が揺れ動かなければならなかった。しかし最終的には圧倒的にロシアの脅威が全ての元凶である事に日本人の意識は一致してゆく。
貧しさや悲しさの中でも当時の人々は働いた。たった数隻の戦艦を購入するために。どれだけの多くの人が赤貧の中で死んでいったか。それでも誰もが新しい時代に希望を持ち、近代国家の国民としての熱狂の中、未来を切り開く実感を彼/彼女ら全員が実感していたはずなのである。明治を語る時、ロシアとの戦争が常に通奏低音として鳴り響いている。
そして日露戦争(1904-1905)で維新はひとつの結実をする。これが討幕の理由であった。これが多くの志士たちが無駄死ではない証明であった。これが多くの人が苦しんできた事への答えであった。明治に生き、死んでいった全ての者たちが誰一人として無駄死にではない事を、如何なる失敗も必要不可欠であった事を、この勝利は証明した瞬間であった。
ここで明治はその役割を果たした。ロシアを追い返した事で日本の中に空白地帯が生じる。もちろん、その程度でロシアという大地が滅びるはずもなくソビエト連邦(1922-1991)が誕生する。帝政ロシア(1721-1917)は倒れ、北の地で新しい建国が始まった。その脅威はいつか復活する。しかし、今ではない。
第一次世界大戦(1914-1917)を見た武官たちは戦争の推移を正確に予言した。技術は既に人間の限界を超えている。次に起きる戦争はどれほどの悲惨な戦場となるか、それは当時の人々の想像を超えていた。それでも昭和(1926-1989)の日本は、戦艦を国産化し、技術と工業製品で世界に匹敵する所にきた。
20世紀は他の世紀と変わらず世界が大きく変革する時期であった。それまでの経済の中心は農業である。大航海時代が開拓した海上輸送は、遠い世界から香辛料や綿や絹などをヨーロッパに運ぶ手段を実現した。
大規模に生産するには広大な土地がいる。大量の労働者がいる。世界の何処に行っても人間がいた。その事実を発見したヨーロッパ人たちは農場の経営に乗り出す。最初は交易から始めたようだが、買うよりも作る方が遥かに儲かる。何も不足しているものはない。あらゆる場所でプランテーションの運営が始まった。乃ち植民地の誕生である。
土地を確保し、そこに住む人々を労働者として集め、農場を経営する。これが帝国主義の姿である。生産したものをヨーロッパへ運ぶ。そうして莫大な利益を生んだ。その利益が国家全体に余剰な余暇を生みだす。余暇に興じる者たちの中から科学者や技術者が誕生するのは必定。この良いスパイラルは永遠に続くかに見えた。
しかし、科学技術の発展は新しい経済体制を必要とした。農作物よりも工業製品の方がより利益を生み出す。工場を運営するには農業とは別の方法が必要である。新しい労働者、新しい場所、新しい方法、工業が必要としたのは健全に発達した都市であった。
原料となる鉱物や機械を動かすには石炭が必要である。冷却の為に大量の水も必要である。設備をメンテナンスする技術者も必要である。工業を中心とした経済体制、これが資本主義の姿である。南北戦争(1861-1865)は、北の工業地帯と南の農業地帯の覇権争いであった。世界に先駆けて、資本主義と帝国主義が覇権を争った戦争であった。アメリカで起きた事は世界規模でもう一度起きる。資本主義と帝国主義の覇権争いが世界規模で WWII として起きた。
昭和とは、その闘争に帝国主義として参加し敗北する歴史であった。日本は常にロシアを見ており、ロシアに対抗するために中国大陸に橋頭保を築く必要がある。朝鮮半島の併合(1910-1945)も満州国の建国(1932-1945)も、全てソビエトに対抗する為であった。その恐怖は遂にアメリカとの戦争を始めるに至る。ひとつひとつには正当な理由があろうが、最終的には喜劇であろう。その結末は壮絶な惨劇であった。
昭和を思う時、我々は上空で光る情景を避ける訳にはいかない。これが昭和前半期の通奏低音だ。どのような作品もそれを避ける事はできない。自ら敵艦に体当たりする若者たちを避ける訳にはいかない。家がバチバチと燃える風景を避ける訳にはいかない。
第二次世界大戦(1939-1945)の結末により、それ以降の時代にはどうしても原子力という通奏低音が鳴り響く。どのような物語であれ、この音が鳴らないものにリアリティはない。科学技術の暴力的なまでの圧倒的発展は、人間の力でどうこう出来る範囲を超えた。制御可能といういささかな安心感がなければとっくに発狂している。
だから20世紀の物語は、架空の科学技術を登場させない限り、リアリティが構築できないとも言える。昭和を代表する多くの作品が科学技術の結晶であるロボットや宇宙船が登場する。そうしなければ子供でさえリアリティを感じる事ができない。
日本は戦争に敗れアメリカと同盟する事で初めてソビエトの脅威から解放された。明治以降、単独でやろうとした事が、アメリカと同盟する事で初めて実現できたのである。アメリカと同盟するために帝国憲法を廃棄するために必要な戦争だったと言い換えても良い。戦後の昭和史は、ソビエトの脅威から解放された自由を謳歌する時代である。この国で二度目の解放感を味わった時代である。21世紀の日本はそれを失いつつある。ソビエトの代わりに中国という脅威を意識せざる得ないからである。この脅威が人々の動向をこれからは決定するはずだ。
大正期はロシアの脅威から解放された最初の解放感で彩られた時代である。ソビエト連邦の脅威が現実化するまでの僅かな平和の時代である。そこに自由な気風がある。科学の急激な発展がある。相対性理論(1905,1916)と量子力学(1900-)の黎明から来る新しい時代の始まりでもある。
この新しい科学が大正期の独自のリアリティに参加する。と同時に過去も強調されて輝く。何時の時代も過去と未来の端境期であるが、過去と未来が交差する土壌である。魑魅魍魎な化け物や物の怪が野生の中で生きる事ができた最後の時代。スチームパンクに代表される科学技術が未来を純粋に信じていられた時代。科学で割り切れない存在に科学で挑むシナリオが可能だった時代。そして社会に通奏低音が何も響いていない時代、この時代には独特の真空がある。この浮遊感が物語を支える。
大正時代を平和な時代と仮に呼んでおく。文化は開花した。嵐の中、吹雪の中、花が開く事はない。それに近いのは第二次世界大戦後の開放感である。冷戦(1945-1991)は、日本人に経済と文化と自由の謳歌を与えた。冷戦が終了した時、これで世界は平和になるという幻想さえ見た。本当の未来はザクザクという別の足音を立てて我々を追い抜いた。コンピュータとインターネットが世界を開き、ITとAIが社会を変えようとしている。
大正デモクラシー(1905-1925)は将来に何も残さなかった。男子の普通選挙(1925)は実現したが、ソビエト連邦の台頭が治安維持法(1925)を成立させ、軍部が力を持ち、日中戦争(1937-1945)が始まり、国家総動員法(1938)が成立する。国防が第一義となり、多くの国民がそれに賛成だったかは知らないが、帝国議会が例え普通選挙で行われていようと結果は変わりはしなかっただろう。その夢を戦後まで見続ける服部卓四郎(1901-1960)というような者を産み落とした。
現代の物語に物の怪を登場させるにはそれなりの舞台装置が必要だ。端的に言えばジェット機やHIIロケットと共存できなければならない。テレビを見ている姿が自然でなくては成立しない。戦後の物語に登場する鬼太郎やうしおととらなどにあるリアリティは大正時代のそれと少し異なる。そして、この2020年は混乱期の始まりであるから、これからの時代はそれに相応しいリアリティが要求される。
中華人民共和国が世界に問う新しい共栄というものが、経済の新しい仕組みというものが、どのような結果を生むかは誰も知らない。しかし、中国共産党を中心とした国家というものがより広い範囲に安全保障の橋頭保を確保しようとしているのは、逆に言えば、彼ら自身の中に、崩壊の予感が強力になりつつあるからに違いない。彼/彼女ら自身がその体制を成り立たせるためには、経済と武力の両方で飽和しないように膨張しなければならない。
だが、明らかにこの時代の変化はインターネットの存在とそれに繋がるデバイスが齎したものだ。重工業は時代の中心ではなくなる。情報産業が取って代わろうとする、重工業がそれに抗う。だが、かつての時代とは異なり、勝敗は瞬間に決するだろう。速度が赤とんぼとサターンロケットくらいに違う。なら新しい時代は世界をどう変えるか。
仮想通貨は世界の在り方を決定的に変えるかも知れない。それは通貨がインターネット上で飛び交うという話ではない。通貨の信用を国家が保証する必要がなくなる未来である。国家の存在が、揺らぐ。情報産業が最も発展している中国大陸で起きている事はその余震ではないのか。危機感を強く感じるのは震源地に近いからではないのか。ならば次の闘争は、国家と情報産業の間で起きる。人々の信用をどちらが勝ち得るかという闘争になるはずだ。
どの時代でも人々の多くが予感しているはずである。何かが変わろうとしていると。アフリカであれアジアであれ、アメリカであれ、ヨーロッパであれ、ユーラシアであれ、どこであれ、これまでと違う世界が到来しつつある。そこで、人々は踏ん張って扉を開けようとするが、その開け方も、ましてそこから得られる富への嗅覚もそれぞれのはずだ。
その予感が、今の僕たちを大正時代へ誘っているのかも知れない。もうじき嵐が来るよと呟いたのはホームズである。今の我々はもっと大きな嵐を前に空を見上げている。幾ら目を凝らしても雨雲なんか見えない空である。
大正時代を生きた者たちは、その後に昭和を生きたはずである。数十年が経ち、壮年だったり老年になった主人公たちが、山に囲まれた山里で畑仕事をしている。鍬すきの手を止めて空を見上げる。その視線の先の遥か上をジュラルミンが飛んでいる。それを見上げる姿を想う。
日本の近代は鎖国(1639-1854)の終わりから始まった。徳川家康(1543-1616)の慧眼がヨーロッパをどう認識していたかは知らない。しかし、地球の反対側から船を使い日本に到来する彼らの存在、銃の伝来(1543)、大砲という兵器を目の当たりにして、未来を思い描かなかったはずもない。
閉じた扉を開けたのはアメリカ(1776-)であった。だが、日本にとっての本当の脅威は北海道の北にあった。それはかなり早い段階から日本人に意識されていたもので、異文化の技術に震撼した日本人は世界を知るために明治維新(1868)を断行した。そして政府は早い時期に脅威を明瞭に自覚する。
日本の近代はロシアを跳ねのける為に大陸を意識する事に費やしたと言ってよい。日清戦争がその端緒であり、なぜ朝鮮半島が重要であったかと言えば、ロシアの南下を食い止めるには大陸に展開する橋頭保が必要だったからだ。豊臣秀吉にそのような明晰があったかは知らない。だが出兵は朝鮮半島から始めた。
維新以降の明治人たちはロシアを中心に全ての決断をした。鉄道を敷くのも軍艦を買うのも全てその為だった。開国の過程では多くの血が流れた。攘夷、尊王の思想から開国に移るには多くの人が揺れ動かなければならなかった。しかし最終的には圧倒的にロシアの脅威が全ての元凶である事に日本人の意識は一致してゆく。
貧しさや悲しさの中でも当時の人々は働いた。たった数隻の戦艦を購入するために。どれだけの多くの人が赤貧の中で死んでいったか。それでも誰もが新しい時代に希望を持ち、近代国家の国民としての熱狂の中、未来を切り開く実感を彼/彼女ら全員が実感していたはずなのである。明治を語る時、ロシアとの戦争が常に通奏低音として鳴り響いている。
そして日露戦争(1904-1905)で維新はひとつの結実をする。これが討幕の理由であった。これが多くの志士たちが無駄死ではない証明であった。これが多くの人が苦しんできた事への答えであった。明治に生き、死んでいった全ての者たちが誰一人として無駄死にではない事を、如何なる失敗も必要不可欠であった事を、この勝利は証明した瞬間であった。
ここで明治はその役割を果たした。ロシアを追い返した事で日本の中に空白地帯が生じる。もちろん、その程度でロシアという大地が滅びるはずもなくソビエト連邦(1922-1991)が誕生する。帝政ロシア(1721-1917)は倒れ、北の地で新しい建国が始まった。その脅威はいつか復活する。しかし、今ではない。
第一次世界大戦(1914-1917)を見た武官たちは戦争の推移を正確に予言した。技術は既に人間の限界を超えている。次に起きる戦争はどれほどの悲惨な戦場となるか、それは当時の人々の想像を超えていた。それでも昭和(1926-1989)の日本は、戦艦を国産化し、技術と工業製品で世界に匹敵する所にきた。
20世紀は他の世紀と変わらず世界が大きく変革する時期であった。それまでの経済の中心は農業である。大航海時代が開拓した海上輸送は、遠い世界から香辛料や綿や絹などをヨーロッパに運ぶ手段を実現した。
大規模に生産するには広大な土地がいる。大量の労働者がいる。世界の何処に行っても人間がいた。その事実を発見したヨーロッパ人たちは農場の経営に乗り出す。最初は交易から始めたようだが、買うよりも作る方が遥かに儲かる。何も不足しているものはない。あらゆる場所でプランテーションの運営が始まった。乃ち植民地の誕生である。
土地を確保し、そこに住む人々を労働者として集め、農場を経営する。これが帝国主義の姿である。生産したものをヨーロッパへ運ぶ。そうして莫大な利益を生んだ。その利益が国家全体に余剰な余暇を生みだす。余暇に興じる者たちの中から科学者や技術者が誕生するのは必定。この良いスパイラルは永遠に続くかに見えた。
しかし、科学技術の発展は新しい経済体制を必要とした。農作物よりも工業製品の方がより利益を生み出す。工場を運営するには農業とは別の方法が必要である。新しい労働者、新しい場所、新しい方法、工業が必要としたのは健全に発達した都市であった。
原料となる鉱物や機械を動かすには石炭が必要である。冷却の為に大量の水も必要である。設備をメンテナンスする技術者も必要である。工業を中心とした経済体制、これが資本主義の姿である。南北戦争(1861-1865)は、北の工業地帯と南の農業地帯の覇権争いであった。世界に先駆けて、資本主義と帝国主義が覇権を争った戦争であった。アメリカで起きた事は世界規模でもう一度起きる。資本主義と帝国主義の覇権争いが世界規模で WWII として起きた。
昭和とは、その闘争に帝国主義として参加し敗北する歴史であった。日本は常にロシアを見ており、ロシアに対抗するために中国大陸に橋頭保を築く必要がある。朝鮮半島の併合(1910-1945)も満州国の建国(1932-1945)も、全てソビエトに対抗する為であった。その恐怖は遂にアメリカとの戦争を始めるに至る。ひとつひとつには正当な理由があろうが、最終的には喜劇であろう。その結末は壮絶な惨劇であった。
昭和を思う時、我々は上空で光る情景を避ける訳にはいかない。これが昭和前半期の通奏低音だ。どのような作品もそれを避ける事はできない。自ら敵艦に体当たりする若者たちを避ける訳にはいかない。家がバチバチと燃える風景を避ける訳にはいかない。
第二次世界大戦(1939-1945)の結末により、それ以降の時代にはどうしても原子力という通奏低音が鳴り響く。どのような物語であれ、この音が鳴らないものにリアリティはない。科学技術の暴力的なまでの圧倒的発展は、人間の力でどうこう出来る範囲を超えた。制御可能といういささかな安心感がなければとっくに発狂している。
だから20世紀の物語は、架空の科学技術を登場させない限り、リアリティが構築できないとも言える。昭和を代表する多くの作品が科学技術の結晶であるロボットや宇宙船が登場する。そうしなければ子供でさえリアリティを感じる事ができない。
日本は戦争に敗れアメリカと同盟する事で初めてソビエトの脅威から解放された。明治以降、単独でやろうとした事が、アメリカと同盟する事で初めて実現できたのである。アメリカと同盟するために帝国憲法を廃棄するために必要な戦争だったと言い換えても良い。戦後の昭和史は、ソビエトの脅威から解放された自由を謳歌する時代である。この国で二度目の解放感を味わった時代である。21世紀の日本はそれを失いつつある。ソビエトの代わりに中国という脅威を意識せざる得ないからである。この脅威が人々の動向をこれからは決定するはずだ。
大正期はロシアの脅威から解放された最初の解放感で彩られた時代である。ソビエト連邦の脅威が現実化するまでの僅かな平和の時代である。そこに自由な気風がある。科学の急激な発展がある。相対性理論(1905,1916)と量子力学(1900-)の黎明から来る新しい時代の始まりでもある。
この新しい科学が大正期の独自のリアリティに参加する。と同時に過去も強調されて輝く。何時の時代も過去と未来の端境期であるが、過去と未来が交差する土壌である。魑魅魍魎な化け物や物の怪が野生の中で生きる事ができた最後の時代。スチームパンクに代表される科学技術が未来を純粋に信じていられた時代。科学で割り切れない存在に科学で挑むシナリオが可能だった時代。そして社会に通奏低音が何も響いていない時代、この時代には独特の真空がある。この浮遊感が物語を支える。
大正時代を平和な時代と仮に呼んでおく。文化は開花した。嵐の中、吹雪の中、花が開く事はない。それに近いのは第二次世界大戦後の開放感である。冷戦(1945-1991)は、日本人に経済と文化と自由の謳歌を与えた。冷戦が終了した時、これで世界は平和になるという幻想さえ見た。本当の未来はザクザクという別の足音を立てて我々を追い抜いた。コンピュータとインターネットが世界を開き、ITとAIが社会を変えようとしている。
大正デモクラシー(1905-1925)は将来に何も残さなかった。男子の普通選挙(1925)は実現したが、ソビエト連邦の台頭が治安維持法(1925)を成立させ、軍部が力を持ち、日中戦争(1937-1945)が始まり、国家総動員法(1938)が成立する。国防が第一義となり、多くの国民がそれに賛成だったかは知らないが、帝国議会が例え普通選挙で行われていようと結果は変わりはしなかっただろう。その夢を戦後まで見続ける服部卓四郎(1901-1960)というような者を産み落とした。
現代の物語に物の怪を登場させるにはそれなりの舞台装置が必要だ。端的に言えばジェット機やHIIロケットと共存できなければならない。テレビを見ている姿が自然でなくては成立しない。戦後の物語に登場する鬼太郎やうしおととらなどにあるリアリティは大正時代のそれと少し異なる。そして、この2020年は混乱期の始まりであるから、これからの時代はそれに相応しいリアリティが要求される。
中華人民共和国が世界に問う新しい共栄というものが、経済の新しい仕組みというものが、どのような結果を生むかは誰も知らない。しかし、中国共産党を中心とした国家というものがより広い範囲に安全保障の橋頭保を確保しようとしているのは、逆に言えば、彼ら自身の中に、崩壊の予感が強力になりつつあるからに違いない。彼/彼女ら自身がその体制を成り立たせるためには、経済と武力の両方で飽和しないように膨張しなければならない。
だが、明らかにこの時代の変化はインターネットの存在とそれに繋がるデバイスが齎したものだ。重工業は時代の中心ではなくなる。情報産業が取って代わろうとする、重工業がそれに抗う。だが、かつての時代とは異なり、勝敗は瞬間に決するだろう。速度が赤とんぼとサターンロケットくらいに違う。なら新しい時代は世界をどう変えるか。
仮想通貨は世界の在り方を決定的に変えるかも知れない。それは通貨がインターネット上で飛び交うという話ではない。通貨の信用を国家が保証する必要がなくなる未来である。国家の存在が、揺らぐ。情報産業が最も発展している中国大陸で起きている事はその余震ではないのか。危機感を強く感じるのは震源地に近いからではないのか。ならば次の闘争は、国家と情報産業の間で起きる。人々の信用をどちらが勝ち得るかという闘争になるはずだ。
どの時代でも人々の多くが予感しているはずである。何かが変わろうとしていると。アフリカであれアジアであれ、アメリカであれ、ヨーロッパであれ、ユーラシアであれ、どこであれ、これまでと違う世界が到来しつつある。そこで、人々は踏ん張って扉を開けようとするが、その開け方も、ましてそこから得られる富への嗅覚もそれぞれのはずだ。
その予感が、今の僕たちを大正時代へ誘っているのかも知れない。もうじき嵐が来るよと呟いたのはホームズである。今の我々はもっと大きな嵐を前に空を見上げている。幾ら目を凝らしても雨雲なんか見えない空である。
大正時代を生きた者たちは、その後に昭和を生きたはずである。数十年が経ち、壮年だったり老年になった主人公たちが、山に囲まれた山里で畑仕事をしている。鍬すきの手を止めて空を見上げる。その視線の先の遥か上をジュラルミンが飛んでいる。それを見上げる姿を想う。
2020年11月5日木曜日
真似する事とコピーする事
似た製品が出るのは車のデザインでは頻繁である。走る機構は殆ど同じと言ってよい。殆ど同じをエンジニアの言葉では全く違うと言うが、それでも基本的な物理法則まで違う訳ではない。創造は細部に宿る。少し似るが全く違う場合もあれば、全く違うが殆ど同じ場合もある。
模倣は人間の最も基礎的な能力の一つで、この能力によって人類はこの星の広範囲に存在領域を拡大した。石器時代の革新も広範囲に伝達されたと言う。これはネアンデルタール人には見られない特徴だと。どうやって当時の人々は考えを伝達していったか。
我々の予想を超えた交易が既に確立されていたのか。それとも同時多発的に発生したのか。インカ帝国に車輪はなかったと言うが、それでもあのピラミッドを作るのに困りはしなかった。ユングはシンクロニシティの存在を想い、シェルドレイクは共鳴仮説を提唱する。量子脳という考えで情報の伝達を考察する人もいる。生物が量子的現象を自らの生命活動に利用しないと考えるのは余りに浅はか過ぎる。
状況が似ていれば、その後の展開も似たようなものである。それは想像に難くない。コップに既に溢れる程の水が注がれていれば、ほんの少しの振動でも水はこぼれ落ちる。同じものを見て、同じものを聞き、同じものを味わい、同じ不便さを感じる。人々は違う感想を持ち、違う感情に揺れ動く。これを敷衍すれば、人の数がそれなりに増加すれば、同じ事を感じ同じ事を思う人も当然ながら出てくるという事である。
ならば、それを理解する人も同時に登場するはずである。そういう発想はなかったと感嘆する人も、その発想が理解できなかったというケースは少ない。受け入れる準備も十分に整っていれば自ずと拡散する。拡散から何を思っていたかの逆算も可能だ。
例えば、フランス革命の自由、平等、友愛。17世紀のヨーロッパで開発された「民主政」。これらはあっという間に世界を席捲したが、その範囲は西洋を超え異なる歴史を持ち異なる統治思想で政治を磨きに磨いてきた東洋をも巻き込んだ。それを知る前から既に知っていたと考えるべきだし、それが到来する前から殆ど同じだったから可能だったと考えるべきだ。人間は自分たちが思うよりも全然違っていなかった訳である。そうでなければこんなにも短時間で世界に拡散できるはずもない。ベースが同じ。
逆に考えれば、違うと考える事が悲劇の始まりか。神が違う、肌が違う、歴史が違う、言葉が違う、細部を見れば全部が違って見える、横を向けば全く同じに見える。その違いがどれほど同じらしいか、どれほど違うらしいか。原子は全部同じに見えるかも知れない。どれもが違う場所にあるかも知れない。おとめ座超銀河団のどこかから宇宙を見れば、この銀河は、この星系は、何か特別だとは思えないはずだ。せいぜい辺境地区に左遷された神様の嘆息か。
違って感じる為には、それに見合う大きさが必要なのだろう。そこから外れれば同じに見えたり違って見えたりする。だったら動くな、という事になる。そこから動かなければ、何も変わらないであろうから。
我々の進化は一匹のサルから、だた一匹の新しい種が生まれて広まったと言うより、ある状態に置かれた群れの中で複数の固体が複数の新しい種を一斉に同時に生み、どんどんと置き換わっていったと考える方が自然だと思う。遺伝子が十分に変化しやすい状態にあれば、新しい種が次々と生まれるのに不思議はない。
ただ一つの本物があると仮定するから、それ以外の違いが許せなくなる。その一つのものが揺るぎようのない確かなものなら、どのような視点からでも唯一のものでなければならない。そんなに確かなものならば、誰かに侮蔑されたくらいで貶められるはずがない。そう信じられないなら、自分の中に揺らぎがある。
新しいものが登場すれば、それを真似るのは当然の事である。そうするしか人間は理解する方法を知らない。世界を脳の中に取り込む事でしか人間は世界を知る事はできない。
つまり、我々は誰もが世界を脳の中にコピーしているのだ。ならば、模倣だけがコピーなんかじゃない。岸和田のふぐ博士がふぐを解剖するのも、音楽家が楽器を叩いてみるのも全て脳へのコピーだ。そうやって始めて人は世界を知る、少なくとも知ったと信じられる。
すると模倣とは脳の中にコピーしたものを外部にアウトプットする行為になる。3Dでスキャンしてプリンタで印刷するのと何も変わらない。それを人間の肉体を使って行っているに過ぎない。模倣する以上、コピーは既に終わっているのである。真似るはアウトプットの出来不出来の程度に過ぎない。入力が同じでもアウトプットは様々な条件によって変わるだろう。元来、如何に真似ようとしても違ってしまうものなのである。
しかも、絵を描いた当の画家さえ自分の絵を完全コピーする事などできはしない。同じ絵をもう一枚描けと言われても不可能である。作者でさえ自分の絵をコピーできないのに何故他人なら可能だと思うのか。それは他人だからである。そこにアウトプットの技術がある。
中途半端に真似れば冷笑され、本物に匹敵すれば犯罪者になる。贋作家でさえそっくりに描くのにどれだけ慎重を要するか。本物を越えるには、別の本物になるしかない、違っている事が重要か、目の前にある本物と一体何が違うのか?
遠い昔の壁画に色を塗り野牛を彩り豊かに描いた人達にオリジナリティという意識はあっただろうか。表現のどうしようもない発露があったと信じたいが、その人たちの思いというものはただ空想するしかない。しかし、どのような表現であれオリジナリティなど勝手に付いてくる、吐く息の如しだ。それが嫌で捨て去ろうとした作家だって居たはずで、詫び寂びとはオリジナリティという俗世を掻き消した手の跡ではないか。
この世界の事象は全て一回しか起きないはずである。全く同じではないから本人にさえ同じ絵は描けない。時間の流れは再現不可能な方向に進んでいるようなのである。全ては一回しか起きない世界だから古い方に権利が着くのか。ならば、いつか人類のあらゆる創作物は既に誰かがやったコピーになってしまう。この世界が有限であるなら、論理的にはそういう結論にしかならない。
近くにあるもの、遠くにあるもの、同じもの、違うもの、その間にあって、眺める者、調べる者、模倣から始めて、新しい何かを生み出そうと努める者、この星の生物が進化で編み出した有性という方法は、真似が最も有力な戦術である事を証明している。基本は同じ、少しだけ違う、これが模倣の基本戦術。
その基本を繰り返せばあっと驚くほど違って見えてしまう。なぜ少しずつでいいのか。大きく変えると絶滅するリスクが高いからである。変えるリスク、変えないリスク、元に戻すリスク、少しずつ対応する方が確実である。
一歩ずつ前に進めば、時間経過によって莫大な場所に到達する。真似をしてはいけないと言う物理法則はこの世界に存在しないし進化上の制約もない。人類がこの星で大きな顔をしているのは、生物学的に絶滅過程に入っておらず、技術的に脅威となる競争相手がいないだけの事。
また同様に、細胞分裂という方法を40憶年続けてきた微生物たちの存在も忘れてはならない。その基本設計の確かさに驚愕し、決して変化を拒んだのではない仕組みに驚嘆し、ただ緩やかに変化するだけで十分であるという現実の前に、ひれ伏せばよい。彼/彼女?は他の種を生み出すベースとしてずうっと今も残っている。この生物種さえ残れば、地球はもう一度くらい最初からやり直す事が可能なのである。模倣は決して唯一の方法ではない。
最初に世の中に出た時には革新であったものが、みんなに影響を与え模倣され、広がって、いつかその独自性はありふれた普通に変わり、社会に浸透し刷新されてゆき、古い世代にとっての革新が、次の世代にとっては普通となり、新しい世代には陳腐で凡庸な退屈に変わる。そういう繰り返しの中にも発見がある。
孔子はそれを遠来の友と例えたのではないか。この世界の中にある当たり前のどれほどに、誰かが命を賭し火あぶりにされても貫いた意地や理念や理想が後世に伝えたものがあるか、今は想像するしかない。
人間にとってアウトプットは、社会や国家の先行きに直接的に影響する。入力が同じであって、アウトプットが違えば大きく異なった所に辿り着く。そしてよく考えれば、入力と呼ぶものは、次々と伝わる以上、誰かのインプットは、誰かのアウトプットだったのである。その信号の連続が脳の中に蓄積され、ループバックしてゆく。
虎に食べられそうになった猿が死ぬ思いで、みっともなく糞尿を垂れ流しながらも逃げきったから今の人類がある。
模倣は人間の最も基礎的な能力の一つで、この能力によって人類はこの星の広範囲に存在領域を拡大した。石器時代の革新も広範囲に伝達されたと言う。これはネアンデルタール人には見られない特徴だと。どうやって当時の人々は考えを伝達していったか。
我々の予想を超えた交易が既に確立されていたのか。それとも同時多発的に発生したのか。インカ帝国に車輪はなかったと言うが、それでもあのピラミッドを作るのに困りはしなかった。ユングはシンクロニシティの存在を想い、シェルドレイクは共鳴仮説を提唱する。量子脳という考えで情報の伝達を考察する人もいる。生物が量子的現象を自らの生命活動に利用しないと考えるのは余りに浅はか過ぎる。
状況が似ていれば、その後の展開も似たようなものである。それは想像に難くない。コップに既に溢れる程の水が注がれていれば、ほんの少しの振動でも水はこぼれ落ちる。同じものを見て、同じものを聞き、同じものを味わい、同じ不便さを感じる。人々は違う感想を持ち、違う感情に揺れ動く。これを敷衍すれば、人の数がそれなりに増加すれば、同じ事を感じ同じ事を思う人も当然ながら出てくるという事である。
ならば、それを理解する人も同時に登場するはずである。そういう発想はなかったと感嘆する人も、その発想が理解できなかったというケースは少ない。受け入れる準備も十分に整っていれば自ずと拡散する。拡散から何を思っていたかの逆算も可能だ。
例えば、フランス革命の自由、平等、友愛。17世紀のヨーロッパで開発された「民主政」。これらはあっという間に世界を席捲したが、その範囲は西洋を超え異なる歴史を持ち異なる統治思想で政治を磨きに磨いてきた東洋をも巻き込んだ。それを知る前から既に知っていたと考えるべきだし、それが到来する前から殆ど同じだったから可能だったと考えるべきだ。人間は自分たちが思うよりも全然違っていなかった訳である。そうでなければこんなにも短時間で世界に拡散できるはずもない。ベースが同じ。
逆に考えれば、違うと考える事が悲劇の始まりか。神が違う、肌が違う、歴史が違う、言葉が違う、細部を見れば全部が違って見える、横を向けば全く同じに見える。その違いがどれほど同じらしいか、どれほど違うらしいか。原子は全部同じに見えるかも知れない。どれもが違う場所にあるかも知れない。おとめ座超銀河団のどこかから宇宙を見れば、この銀河は、この星系は、何か特別だとは思えないはずだ。せいぜい辺境地区に左遷された神様の嘆息か。
違って感じる為には、それに見合う大きさが必要なのだろう。そこから外れれば同じに見えたり違って見えたりする。だったら動くな、という事になる。そこから動かなければ、何も変わらないであろうから。
我々の進化は一匹のサルから、だた一匹の新しい種が生まれて広まったと言うより、ある状態に置かれた群れの中で複数の固体が複数の新しい種を一斉に同時に生み、どんどんと置き換わっていったと考える方が自然だと思う。遺伝子が十分に変化しやすい状態にあれば、新しい種が次々と生まれるのに不思議はない。
ただ一つの本物があると仮定するから、それ以外の違いが許せなくなる。その一つのものが揺るぎようのない確かなものなら、どのような視点からでも唯一のものでなければならない。そんなに確かなものならば、誰かに侮蔑されたくらいで貶められるはずがない。そう信じられないなら、自分の中に揺らぎがある。
新しいものが登場すれば、それを真似るのは当然の事である。そうするしか人間は理解する方法を知らない。世界を脳の中に取り込む事でしか人間は世界を知る事はできない。
つまり、我々は誰もが世界を脳の中にコピーしているのだ。ならば、模倣だけがコピーなんかじゃない。岸和田のふぐ博士がふぐを解剖するのも、音楽家が楽器を叩いてみるのも全て脳へのコピーだ。そうやって始めて人は世界を知る、少なくとも知ったと信じられる。
すると模倣とは脳の中にコピーしたものを外部にアウトプットする行為になる。3Dでスキャンしてプリンタで印刷するのと何も変わらない。それを人間の肉体を使って行っているに過ぎない。模倣する以上、コピーは既に終わっているのである。真似るはアウトプットの出来不出来の程度に過ぎない。入力が同じでもアウトプットは様々な条件によって変わるだろう。元来、如何に真似ようとしても違ってしまうものなのである。
しかも、絵を描いた当の画家さえ自分の絵を完全コピーする事などできはしない。同じ絵をもう一枚描けと言われても不可能である。作者でさえ自分の絵をコピーできないのに何故他人なら可能だと思うのか。それは他人だからである。そこにアウトプットの技術がある。
中途半端に真似れば冷笑され、本物に匹敵すれば犯罪者になる。贋作家でさえそっくりに描くのにどれだけ慎重を要するか。本物を越えるには、別の本物になるしかない、違っている事が重要か、目の前にある本物と一体何が違うのか?
遠い昔の壁画に色を塗り野牛を彩り豊かに描いた人達にオリジナリティという意識はあっただろうか。表現のどうしようもない発露があったと信じたいが、その人たちの思いというものはただ空想するしかない。しかし、どのような表現であれオリジナリティなど勝手に付いてくる、吐く息の如しだ。それが嫌で捨て去ろうとした作家だって居たはずで、詫び寂びとはオリジナリティという俗世を掻き消した手の跡ではないか。
この世界の事象は全て一回しか起きないはずである。全く同じではないから本人にさえ同じ絵は描けない。時間の流れは再現不可能な方向に進んでいるようなのである。全ては一回しか起きない世界だから古い方に権利が着くのか。ならば、いつか人類のあらゆる創作物は既に誰かがやったコピーになってしまう。この世界が有限であるなら、論理的にはそういう結論にしかならない。
近くにあるもの、遠くにあるもの、同じもの、違うもの、その間にあって、眺める者、調べる者、模倣から始めて、新しい何かを生み出そうと努める者、この星の生物が進化で編み出した有性という方法は、真似が最も有力な戦術である事を証明している。基本は同じ、少しだけ違う、これが模倣の基本戦術。
その基本を繰り返せばあっと驚くほど違って見えてしまう。なぜ少しずつでいいのか。大きく変えると絶滅するリスクが高いからである。変えるリスク、変えないリスク、元に戻すリスク、少しずつ対応する方が確実である。
一歩ずつ前に進めば、時間経過によって莫大な場所に到達する。真似をしてはいけないと言う物理法則はこの世界に存在しないし進化上の制約もない。人類がこの星で大きな顔をしているのは、生物学的に絶滅過程に入っておらず、技術的に脅威となる競争相手がいないだけの事。
また同様に、細胞分裂という方法を40憶年続けてきた微生物たちの存在も忘れてはならない。その基本設計の確かさに驚愕し、決して変化を拒んだのではない仕組みに驚嘆し、ただ緩やかに変化するだけで十分であるという現実の前に、ひれ伏せばよい。彼/彼女?は他の種を生み出すベースとしてずうっと今も残っている。この生物種さえ残れば、地球はもう一度くらい最初からやり直す事が可能なのである。模倣は決して唯一の方法ではない。
最初に世の中に出た時には革新であったものが、みんなに影響を与え模倣され、広がって、いつかその独自性はありふれた普通に変わり、社会に浸透し刷新されてゆき、古い世代にとっての革新が、次の世代にとっては普通となり、新しい世代には陳腐で凡庸な退屈に変わる。そういう繰り返しの中にも発見がある。
孔子はそれを遠来の友と例えたのではないか。この世界の中にある当たり前のどれほどに、誰かが命を賭し火あぶりにされても貫いた意地や理念や理想が後世に伝えたものがあるか、今は想像するしかない。
人間にとってアウトプットは、社会や国家の先行きに直接的に影響する。入力が同じであって、アウトプットが違えば大きく異なった所に辿り着く。そしてよく考えれば、入力と呼ぶものは、次々と伝わる以上、誰かのインプットは、誰かのアウトプットだったのである。その信号の連続が脳の中に蓄積され、ループバックしてゆく。
虎に食べられそうになった猿が死ぬ思いで、みっともなく糞尿を垂れ流しながらも逃げきったから今の人類がある。
2020年9月19日土曜日
日本国憲法 第六章 司法 II (第七十七条~第八十条)
第七十七条 最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
○2 検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
○3 最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。
第七十八条 裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。
第七十九条 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
○2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
○3 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
○4 審査に関する事項は、法律でこれを定める。
○5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
○6 最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。
短くすると
第七十七条 最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律、司法事務処理について、規則を定める。○2 検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
○3 最高裁判所は、下級裁判所規則を定める権限を、下級裁判所に委任できる。
第七十八条 裁判官は、公の弾劾によらなければ罷免されない。
第七十九条 最高裁判所は、裁判官で構成し、長たる裁判官以外は、内閣で任命する。
○2 最高裁判所の裁判官の任命は、衆議院議員総選挙の際国民の審査に付す。
○3 投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、罷免される。
○4 審査は、法律で定める。
○5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
○6 最高裁判所の裁判官は、報酬を受ける。この報酬は、減額できない。
第八十条 下級裁判所の裁判官は、内閣で任命する。任期を十年、再任できる。法律の定める年齢に達した時に退官する。
○2 下級裁判所の裁判官は、報酬を受ける。この報酬は、減額できない。
要するに
なぜ罰しなければならないのか。考えるに
判決は人間がやる事だから、間違いは必ず起きる。やむを得ない場合もあれば、明らかな過失の場合もある。時に、政府におもねる裁判官、暴力に屈する裁判官も歴史の中に存在する。それを恥じた者もいれば、最後まで正当を主張した者もいる。明らかに、時代遅れの判決、人類が獲得したであろう宝石をどぶに捨てる判決もある。苦渋の中、現実と理想の橋渡しに努めた判決もあれば、明らかな無能な判決もある。歴史を突き動かす判決も事欠かない。良い結果であれ、悪い結果であれ、それを許容する事を人類は選択した。例え、何百万もの人の虐殺が始まる判決であろうと、それを否定できる者はいない。
司法は何ら力を持たない制度である。ただ判決を出すだけである。ナイフひとつ分の力さえ行使できないのに、なぜ歴史を動かす事ができるのか。クーデターの前では無力で憲法が停止すれば全ての根拠を失う制度であるのに。
逆に言うなら、司法が存在している事が、その政体が憲法に則って運用されている事の証拠となるのである。現実がどうであれ、司法が存在するから法治である事を証明する。現代では、司法の存在が、その政体の正統性を保証する、恐らく唯一の方法だ。
司法の限界
冤罪を起こした裁判官を罰する法はない。そんなことをすれば、全ての裁判官が罰せられないように判決を出すに決まっている。だから裁判官は法に守られた上で冤罪を起こす。そうなった時に、自らを罰する者もいるだろうが、それでも罰則を制度化する訳にはいかない。そうなったら冤罪を回避するために全ての犯罪者を無罪にすればよい。それが人間の道理である。そのような命題を孕む以上、ひとつの疑問が浮かぶ。司法制度は我々人類の手には余るのではないか。我々が司法を維持するのに求められている事は人間の限界を超えているのではないか。
それでもこの制度を維持しなければならない。ならば司法制度は不完全しかありえない。よって、司法制度はその統治機構の総力を象徴する。裁判官に、国家の平均的な人材を、その文化の代表的な価値観の凝縮を見る。司法はその国の底力に他ならない。
司法制度が人間の能力を超えているからこそ、人間の有り方を常に問い続けている。その問いの前では何人が血を流そうがそう大きな問題ではない。それは許容すべき犠牲だ。そう司法は語っていると思える。
裁判官は常に正しい判断ができるのか、否。冤罪に対して失われた時間、生命を回復できるのか、否。罰則は復讐の変わりを担うか、否。刑罰は、果たして人間を更生するか、否。では、それでも罰則を与えるのか。
韓非子によれば、肯。言いつけを守らない人の首を跳ねたら、みんなが見違えるように動くようになった。人は罰則に従う。そこに価値がある。反抗する人もいるだろうが、それは討てばよい。問題は人数なのである。罰則によってその大部分が従うなら価値がある。
しかし、それは罰則の実務上の効果である。そこに司法の理念も理想もない。司法の本性が脅迫であってもよいのか。脅迫による統治が正しい姿か、恐らく否。その延長線上に独裁者の方法がある。それを首肯するのか。断じて否。
それでも、人間は誰かを罰する正当な権利を持っていると言えるのか、人間が不完全である以上、そのようなものがあるとは思えない。ならば、国家はどのような正当性で人を罰しているのか。
自由
おそらく、人間は規則を無制限に順守できない。仮に奴隷であっても。我々の自由はそういう意味だ。決して無制限の自由がないように、零の自由もない。我々は有意などこかで妥協した自由で生きている。世界はそれを決める争いであろう。だから法は基本的に守られる。なぜなら自由の線引きした所に法は生誕するからである。初めから合意する仕組みなのだ。故に法には自由を制限する力がない。自由の境界線上に生まれたものだから、それを超える人は必ず存在する。だから罰則を決めるのだと言うなら、本論では違う。法の優れた点は、罰則がなくとも守ろうとする性質にある。人間は道徳を形成してきた。倫理を追求してきた。罰則がなくとも守られるものが誰にもある。
それでも事故は起きる。如何に気を付けても起きる、悪意のない犯罪も発生する。正義は容易く人を傷つける。そして起きた被害には、原状を回復できない以上、罰則が必要である。罰則とは報復か賠償である。法律は予めそれを人々に知らしめる。
よって、罰則とは自由の対価である。自由に振る舞った結果に対する、被害の等価交換である。自然界で保存則が働くように、自由の行使もまた代価が発生する。理想を言うなら、全ての人が自由にして罰則なしの状態である。人々が自由に振る舞ってもなんら被害が起きない社会が理想である。矩を踰えぬ事の困難さを孔子は語った。今はその過渡期か。
選択
自由意志とは選択である。自由とは選択の自由に等しい。よって自由について考えるとは、選択肢の数量から始めなければならない。どれくらいの選択肢があるか、ある数以下では自由とは言えない。ある数量を超えたら自由であろう。そして常にこの選択の中には選択肢にないものを選ぶ自由がなければならない。そして、自分が自由と感じる事と、本当に自由な状態にあるかは別の話だ。自由意志によって選択したつもりであっても、そうとは言えないのではないか、という話は残る。
もし選択肢がひとつしかない場合でも、それを好む者にとっては何も困らない。それを選びたくない人にとってはそれは自由とは言えない。しかし、選ばない自由があるなら、選ばなければいい、そこには自由がある。だがその自由を行使する事が危険と隣り合わせならば、その選択は強制としか呼べない。少なくとも、それを選んだ当人にとっては。
時に人間はそのたった一つを選んだ事を、自分の意思で選んだと考える。選ばないという選択が出来ない場合に、それを拒否するより自分の自由意志で選択したと自分を納得させる方がいい。選べない事に絶望する位なら、自由選択をしたと納得する方がずうっといい。少なくとも自分に嘘を付かなくて済む。世の中には命を賭けて拒否する自由もあれば、選択して命を賭ける自由もある。
AIの登場
優秀なAIに司法制度を委ねればどうなるか。AIは判決をするのに情報を欲する。可能な限りの情報を収集し細かく判定を重ねたいからだ。その事故は回避可能であったか、不可能なら、どのような事情があるか、社会的な背景の影響はどの程度か、その人の生まれてからの全ての履歴と突き合わせて判断したい。それを踏まえて量刑を決定したい。機会、動機、方法のいずれもが揃わない限り無罪である。これは刑法の鉄則だが、裏を返せば、我々が如何に情報が欠落した状況で判決を重ねてきたかの証拠でもある。もし全ての情報が明らかになればそのような考慮は必要ない。だから、人間が生まれたら体内にチップを埋め込む。それをAIがずうっと監視する。
チップから個々人の行動から感情からまで収集し、各チップのロケーション、他の監視機器が提供する情報と組み合わせて、誰が、何時、何処で、何を見たのか、話したのか、読んでいたのか、聞いていたのかをトレースする。こうすれば人間の殆どをデータ化できる。こうして、人間のプライバシーはAIに対して全て公開され、その情報があれば、誰が何をしていたかは明瞭である。アリバイ崩しなど必要ない。
こうしてAIが完全に情報を把握すれば冤罪はなくなるはずである。のみならず、犯罪の発生をみすみすAIが逃すはずがない。全てがAIに把握されている世界では、人が心の内に秘めたもの以外、全てがAIの前で明らかになっている世界である。
そのような世界では犯罪を起こす事が不可能になる。あらゆる人間の行動がAIを通じて律せられる。犯罪をしようとした瞬間に警告音が鳴る。それを無視すればチップが阻むように働く。それを超えて犯罪を犯す事は不可能である。もちろん、それらの情報は完全に人間には非公開なのである。誰もAIからそれらの情報を盗む事はできない。
そのような世界にあっては、AIは警告し禁止する。決して人間の自由意志を侵害する気はない。ただ法を超えようとするものをガイドするのである。決して人がAIの言う通りに生きる必要はない。完全な自由意志はある。AIによって人は心の赴くまま生きても矩を踰えぬように生きられるようになるのである。
人間の自由意志は、自分が思うほど、自分である必要はない。選択肢の数が10や20は必要と思うだろう。だが多くの場合、1億の選択肢は必要ない。多く、自由意志で選択したつもりのそれは最初から選択肢の中に用意されていた。自由を感じる事と自由である事は関係ない。まして自由意志が何もかもを自由にできる訳ではない。
何より重要な事は、このような世界が、現在の技術の延長線上にあって実現可能な事だ。このリアリティは必ず到来する。
そのような存在になったAIは、神と同格になる。神への信仰心が人を神の前で謙虚にする。神殿を破壊する者も、また別の神を信仰する者である。それはただ人の心だけを拠り所としてきた。
AIは人の信仰心の代わりにチップを用意した。あらゆる事を神が見通すのとほぼ同じ現象をAIが実現する、だれもそれからは逃れられぬ。よって全ての人間はAIの前で謙虚にならざるえない。信仰心のようなあやふやなものに頼る必要はない。チップを埋め込めばいい。
そのような世界が到来した時、我々の世界に罰はなくなるはずである。犯罪の起きない社会が到来するはずである。罰の存在しない世界。
ならば、罰とはこの世界が不完全だからある。そういう結論になる。神が人間を罰するのは、この世界が不完全だからだ。完全であるなら罰はないはずである。
それでも起きる
そのような世界でも人間は死ぬ。例えば津波が。地滑りが。洪水が。飛行機の墜落が。病気が。津波から逃げようと車を走らせている人がいる。その先に道路を歩いて逃げている人がいた。この人を追い抜かなければ自分が津波に飲み込まれる。車を止めてその人を助ける余裕はない。急いで逃げようとしているのにその人は道を塞いで助けてくれと言っている。助かるためには速度を緩めずに轢き殺すしかない。この時、これはどのような罪に問われるか。車を運転しているAIは、どのように振る舞うべきか。
まず考えてみなければならない。この問いの背景を。このような世界で津波の到来が遅れたとは考えられない。よって、この人が逃げ遅れた理由は何なのか。Aiはもっと早いタイミングで警告を出していたはずである。なのに、このようなシチュエーションに巻き込まれたのは何故か。どのような正当な弁明があるのか。
そこで考える。その理由によっては轢き殺す事は罪に問われないのか。その理由によっては罪に問うべきであるのか。それは誰が決めるのか。目の前に確かに救える命がある。それを救うためには誰かを犠牲にしなければならないとして。その行動を選択するのは個人である。どういう理由付けをして納得しようとそれは個人の選択の自由を行使したに過ぎない。
しかし、それを罪に問うのなら、そこには誰かの介入がある。その善悪の基準を他人が決めている。それを問うているのは当人ではない。その正義は何が支えているのか。法律に書いてある、馬鹿を言ってはいけない。
ひとりなら救えても、ふたりは救えなかった。そういう状況は常にある。その選択の中で、伸ばした手に触れた指先がある、触れられなかった手がある。そういう苦しい経験をして今日も眠れない人が世界中にたくさんいる。今だけではない。過去にもそのような思いを抱えて生きぬいた人は大勢いた。
罪と罰
如何なる状況でも、助けられない命はある。人間の腸の中では日々数億の細菌が死んでいる。それは、罪であるのか、罪でないのか。罪だから罰する。罰っするには理由が要る。罰は罪を犯したからだとして、では、その罪を決めたのは誰か。それが罪とされるのは何故か、その罰則は本当に合理的か。罪に対して等価な罰であると本当に言えるか。それらは明らかにした方がいい。
罪には基準が必要である。それを超えたから罪になる。違反したから罰を与える合理性はそこにある。違反には必ずオンライン、グレーゾーンがある、それをどちらかに決めなければならない。罪にはそういう二値化の特徴がある。
AIがどれだけ発展しても変えられない特徴である。誰が決めた罪なのか、それによって罰が決まる。罰するためには罪がいる。逆に言えば、罪を感じる時、それは如何なる状況であれ、罰して欲しいという事になる。時に人は罰せられる事で初めて許される。
そして、誰かを救えなかった時、誰も悪くないと言われても、当事者には忸怩たる思いがある。眠れない夜を過ごす時、救われるためにはいっそ誰か罰してくれないか。その方がずっと楽になる。
人間は不完全である。私が完全であったならこんな事は起きなかった。だから悔やみきれないのだ。自分の不完全さを変えられるならなんだってする。人間は原理的に完全を希求する。だから神がいる。
不完全だから罰がいる。不完全性を罰で埋めるのは完全を求めるからだ。ぽっかりと開いた空白を充填するには罰しかない。それを扱うには神が必要だ。AIではその役割を担えない。罪の意識は法を超えている。
罰とは何か
この星の野生は、他の命を奪うのに躊躇しない、絶滅する種の最後の個体を食べる事を止める理由がない。彼らに言わせれば、それも原子・分子の大循環の一環であろう。命のやり取りはエネルギーの循環の加速に過ぎず、循環は何も破壊していない。それは現象のひとつである。ひとつの現象が他の現象に変わっただけだ。なのになぜ生命は失われた命を悲しむのか。いずれにしろ我々は罰せられたから罪があると考えている。それをヨブは神に問うた。すると神は、それは罰ではないと答えた。罰でなくとも不幸は幾らでもある。悪を試す事を神は許したのである。
では神は人を救うためにしか罰しないと言うのか。
人間は愚かだ。SNSでこれだけ広く知らしめても、飲食店で悪ふざけをする人間は後を立たず一生かけても返せない損害賠償を背負う。煽り運転する者も後を絶たず逮捕されニュースに顔を映す。
これらの事例から分かる事は、人は罰では変われない。罰を味わって始めて恐れる。ならば神であれ罪であれ、それを現実のものとして恐れない限り、罰には意味がない。そして、それに気付いた時は、既に罰からは逃れられない。
人は完全を思い込む、だから不完全を知るのに罰がある。
我々は自分の不完全性を完全によって乗り越えられると信じている。だから神を我々を超えた存在と仮定した。そうしなければ完全を思い描けないからだ。しかし、多くの神話を見れば分かるように、この世界には完全な神と不完全な神がいる。そこに人間の何かが投射されているはずである。
不完全性を繰り返し訂正してゆけば完全に近づくと予想する。または完全を仮定せず、ただ我々を圧倒する力を持つ神でさえ超えられない何かがあると想定する。完全なる存在は単調な砂漠からの帰結であろうし、我々を圧倒する存在は豊かな森林からの帰結だろうと思う。
我々はこの不幸を罰と理解してきた。この世界の不合理を不条理を理解するのに不完全という仮定が必要だった。それが罰でなければどうしてこんな運命に見舞われなければならないのだろう。神話はそれに様々な英雄譚を語る事でも応じてきた。運命に呪われた物語を読み、人々はこの世界を理解してきた。
そこから脱却する手段はあるのか。もしないならば人はどのように生きるべきか。不完全であるから罰がある、完全であれば罰はない。完全なる神は罪もなく罰せられない存在である。運命に翻弄される神々もまた罰せられたのでも罪を犯したからでもない。
人間だけに罰がある。屠殺場に赴く牛や豚は罰せられている訳ではない。恐らく、罰は人間のエゴイズムだ。
2020年8月15日土曜日
Political Correctness
平等
平等は、義務に対する対価として生まれた。古代ギリシャにおいてはそれは兵役の義務であった。都市を防衛する者にはそれに見合った特権が与えられる。市民という身分である。義務を果たした者は平等に扱われなければならない。この要求は正当に見える。階層があるから平等が生まれた。階層がなければ平等は必要ない。
人が少ない頃はそれぞれに順列を与えれば十分だった。しかし、人口が増えれば順列では足りなくなる。何人かをひと纏めにしてグループを作り、そこに平等が発生する。
後は階層をどれだけ細かく分割できるかの問題である。
階層
階層が生まれた頃、それは一代限りであったと考えられる。人の能力は子に伝わらない。だからひとりずつ見てゆく方が望ましい。しかし、人口が増えればとてもひとりひとりを見てゆく事はできない。時間の制約を数量が超えれば、まとめて扱うしかない。他の方法があるかは不明だが、それくらいしか思いつかない。だから世襲が誕生した。世襲ならば階層は終身になる。これで身分が発生した。階層が階級になった。これらは極めて生物学的な要請に過ぎないものだ。時間の制約、人口の増加、そして哺乳類であるという事から演繹される姿だ。
もし我々が群れを作らない動物であったら階級や身分が誕生したかは疑わしい。もし我々が魚類のように数千の子を産む種族なら世襲が起きたかは疑わしい。その場合にどのような文明が築かれたかを想像するのは楽しい。そのような種族が革新や知識をどのように共有し伝播してゆくか。
階級に付随するものが特権である。親が獲得した特権を子がそのまま引き継ぐ。これを孫は当然と受け入れる。何回か繰り返せば社会は固定化し簡単に弾力を失う。特権を維持するのに能力が必要なくなれば、使わない能力が退化するのは自然の法。社会の内はますます堅牢になるが、外から眺めれば如何にも脆弱である。
だから社会は完成しえない。構築と破壊を繰り返す。技術革新、環境破壊、民族大移動、宗教、様々な条件で揺れ動く。社会は反応しながら変遷してゆく。ある環境での弱者が異なる環境では強者になる。だから人は旅をする。
労働力の解決
人間が生物である以上、エネルギーは供給されなければならない。それを取り出すものが労働力である。人が生きるには、恐怖からの解放、心理的満足、充足感も必要で、それらを上手にコントロールする、そう主張する思想は多い。人間は労働を介して世界と対話する。そしてエネルギーを取り出す。食料生産、資源の獲得、家屋の建築、災害からの避難、救助活動、いずれも労働力で行う。特定の階層に特定の労働を割り当てるのは自然であろう。その割り当てを固定化するのも効率がよい、家族単位で知識を蓄積するのが基本だった。
こうして階級と労働は密接に結びつく。労働は人々に役割を求める。労働という切り口で得られる唯一の人間のインターフェイスは役割である。少なくともこの星では。人は労働に寄せて何かを演じる。階層が人々に役割を演じる事を求めた。
奴隷さえ労働の一形態だ。ある階級の人が数百年、数千年と虐げられてきた歴史の中で、何かを演じ今日も階層を生きている。
都市化
人間の歴史は人口が増加する歴史である。農業生産力が向上すれば人口が増える。人口が増えれば人間が溢れる。溢れた人間の行き場が必要である。農村を追われた者たちが都市を形成した。追われた人々は都市に密集した。都市では農業以外の労働が必要だ。貨幣が食料と交換できるから都市は成り立つ。交易の中心となる。都市化は歴史が見出した余剰人口を解決するひとつの解であった。このあり余る人口は戦争の理由にもなる。十分な軍隊を構成する第一の条件を満たすからである。
都市の余剰人口が知識層を生む。天文や金融などが発展する。数学を基盤として学問が発展する。商業、工業、金融、医学が発達する。
最大のマジョリティは都市の住民になる。都市は新しく生まれた集団だから従前の階級には組み込まれない。新しく生まれた人々は中産階級(ブルジョア)という新しい階層を形成した。
啓蒙思想
娯楽の先で思想が先鋭化するのは確かである。とことんまで突き詰めた娯楽は哲学や思想に結実する。人間に余暇がなければ学問は発展しなかった。もしニュートンが毎日の食を得るために畑を耕すような生活をしていたら万有引力の発見は難しかったのではないか。農業経済が貴族という富裕層を生み出さなければ富の蓄積は起きなかった。都市経済は農業経済より豊穣になったが、それを支えたのは常に農業生産である。そして農業生産に携わるものは多く農奴や奴隷たちであった。農奴や奴隷が下支えするから全体が成立していた。人類の歴史の表層に現れる貴族たちの背景には広大な人々の労働があった。
都市化によって農業中心の経済から商業中心の経済にシフトする。よって貴族と中産階級は経済的闘争の相手だ。この時点では富裕層と農奴の間に平等という概念は存在しない。またそれを求める運動でもない。
市民改革とは、都市部の経済が従来の農業中心の経済体制を駆逐する運動であった。その最大の障害は王政であった。貴族社会の頂点である王、乃ち農業経済のトップが中心である経済は終わらねばならぬ。そのためには体制が変わらなければならぬ。
都市の経済が資本主義経済を推進した。資本主義の成立には、富の蓄積だけでは不十分で、勤労の精神を必要とするが、ヨーロッパと日本でそれが起きた。
ヨーロッパで起きた新しい経済体制は新しい平等の概念を必要とした。それは労働者を獲得するための。義務の対価としての平等ではない、新しい労働に相応しい平等。
基本的人権
人間は生まれながらにして誰もが等しく同じ権利を持つ。啓蒙思想が導き出したこの基本的権利という仮定は、人間の平等を支える思想としてある。我々の社会はこの思想が根底にある。義務は平等の条件ではない。生まれながらにして平等なのだから。それは如何なる制約も設けない。この思想的転換が資本主義を支える労働力を獲得するために必要だった。
基本的人権に違反しても自然界にペナルティはない。よって物理的に違反する事も可能であるし、無視しても構わない。そんな脆弱な存在であるが、そうでなければ労働力は集まらないのである。
神が万物を作った。ならば神が作った人間とは誰の事か。人の姿をしているだけでは人間ではない。少なくとも世界に進出したヨーロッパ人はそう考えていた。そこに基本的人権という思想は何の役割も果たさなかった。牛に認めないのと同じだ。
能力の流動性と固定性
基本的人権は人を平等と見做す。それが労働に対する対価の唯一の指針になる。つまり労働に対する対価は身分や階級によって決めない。資本主義の労働は資本家から見てのものだから賃金は低ければ低い程よい。ただし労働者を奴隷としては扱わない、なぜなら、その方法では労働者を確保できないからだ。
自分の取り分を除いた余りから賃金を支払う。賃金は少ない方がいい。問題は自分の取り分をどれくらいと決めるかだが、ヨーロッパ人はそういう点は大胆だった。恐ろしく自分たちを善人と見做す事にかけては史上類をみない人々であった。
基本的人権が求める平等は労働力の供給源としての平等であって、その対価の束縛ではない。対価は能力に対して支払う。生み出した利益で決める。同じように働いても成果がなければ評価は低いし、それで正当である。そう当時の人々は考えた。今の人々もそう考える。
資本家も労働者もそこで合意している。だから学歴によって給料に差が出ても差別ではない。我々の社会は学歴を差別とは呼ばない。未来ならいざ知らず、我々はそれを許容している。もし、人種、性別、民族などを理由に賃金に差を付けたらそれは差別である。しかしそれが能力への評価なら差別ではない。
貧富の差があっても労働者が流動できる時代があった。それは社会全体で教育が充実されていなかったからだ。そのような時代は個人の努力と資質によって成功する事は可能だった。教育が充実してゆき、その程度の努力では何の意味もなさなくなる。貧富の差が教育の質の決定的な要因となる。子供の能力は貧富の影響で決定する。親が裕福である子は有利である。それは個人的な努力でどうにかできるアドバンテージではなくなった。
我々はそのような格差を基本的人権の侵害ではないと考えている。その不平等は正当であると考える。基本的人権は、基本的人権という平等を提供した代わりに、労働における不平等を正当化した思想なのである。これが資本主義の求めていた平等という思想であった。
評価と量化
生物学的には人間はみな違う個体である。双子でさえ構成する原子は違う。立っている場所が違う。場所が違えば視界が異なる。視界が異なれば違う精神が育つ。それを無理やり平等とするにはそれなりの無理が必要で、人間は何をもって平等を定義したのか、それは何を切り捨てたのかと同義であり、その結果として、どのように人を扱う事が許されるか、自然はただ其々を生み出したのに。それを同じと定義したのは人間である。違いを定義したのも人間である。
我々が平等を考える時に量化は不可欠で、量化しなければ比較できないはずである。数値化は有効桁の定義の問題だから、不公平の殆どは金額に置き換えてもよい。有効桁を大きく取れば違いが沢山表れる、小さくすれば違いが丸められて見えなくなる。経済は労働を価格に量化できる。
しかし上司はこう答える事もあるだろう。あいつが出世したのは私に気に入れられたからではない。彼が太鼓持ちだからでもない。彼のコミュニケーション能力を高く評価したからだ、それは不公平でもなんでもない。我々は量化されにくいものでも評価する。恐らく感情の強さは対数的である。
マルクスの資本論の背景にも平等はあったはずだ。しかし共産主義の平等は、従来と同じものを想定した。経済システムが変わる時、それに見合った平等の概念は確立されなければならないはずである。それを構築できなかったから失敗した。そう考えて何も困らないはずである。共産主義の失敗を誰も説明できていないのだから何を言おうと自由のはずである。平等が不足したのだ。
ポリティカル・コレクトネス
political correctness は、社会に残っている許されざる過去を見つけは駆逐する運動である。不平等は是正しなければならない。これまで略奪してきたのだからもう返さなければならない。いつまでもこんな事を繰り返していてはいけない。なぜ過去を否定しなければならないのか、一体何が人々にそのような希求を求めているのか。公平の概念を拡張する。その拡張に伴って量化してみたら様々な不公平が見つかった。あちらにもこちらにも。これも不平等ではないか、これも過去の略奪の延長ではないか。political correctness は、野火の様に過去を焼き尽くそうとしている。
これは労働に対する対価の議論である。これは仕事の分配に関する問題である。
明らかに貧富は人生の結果に影響している。人種は明白に人生を左右する。それが経済システムによって組み込まれている。人々の性向が、社会的な慣例が、人々を許容し強要し蔓延している。
これまで散々略奪してきたのだから、そろそろ遠慮したらどうか。このような経済の仕組みではこの先に進めない。新しい雇用は、今までの平等では労働力を確保できない、すべきではない。この運動は、新しい経済が古い経済を駆逐する闘争劇であると理解するのが相応しい。
大きな集団には資本主義というルールがある。小さな集団にはそんなルールは必要ない。互いによく知る間柄だからルールなどなくても上手くいく。大きな集団は人口に依存してきた。人の数が決めていた。以前はそうであったが IT の出現が集団の大きさを変えた。人々がSNSで結ばれる事で世界の距離がどれほど縮んだか。
ポリティカルコレクトネスは身近であるからこそ他人事では済ませられないという感情が支えている。文化の盗用も然り。特権をかざしてこれまでさんざん稼いできた。まだ欲しいと言うのならそれは強欲である。この仕事に相応しいのはあなたではない、別の人がやるべきである。
要するに、仕事はもっと公平に分配されるべきなのだ、誰かが独占していい訳がはない。これまでの平等の概念は終わりだ。それは不公平である。新しい平等の概念が必要とされている。
日本ではそれを次のように言った。
談合しようぜ。
談合
談合は地域における富の再分配を担う自然発生的な仕組みであった。信頼関係で結ばれた集団は、過激な競争を排し、互いに協調し、結果を分配する。それは地域を長期的に安定させる機能を提供した。それは協調だけの仕組みではない。今年、自分たちが受けた仕事は、何年かしたら別の企業が担当する。少なくともその可能性がある。だから品質の手を抜く事ができない。そんなことをすれば信頼を失い談合から弾かれる。談合には一円のコストを掛ける事もなく品質を維持する仕組みが内包されていた。
確かに積極的なオープン性はない。どちらかと言えば閉鎖的である。しかし、それは集団の在り方の違いに起因するものであって、閉鎖性にはオープン性が備える機能がないという話ではない。
どのような組織でも必要な機能は何等かの形で備わっている。緩やかな閉鎖的なシステムならそのシステムに見合った形で機能が働いている。
何処かが業務不能に陥れば、素早く代替先を見つける。全体が常にバックアップとして機能する。業務規模に応じて臨機応変に労働力を提供し、また解散するスケーラビリティを持つ。これらを一円のコストも掛けずに自発的に提供できる体制になっている。すべて談合という仕組みを維持するために参加する各社の自発的な協力、協調、相互監視が要求される。一蓮托生、運命共同体的な性質が参加者の全てに性善説で行動する事を要求する。
談合は地域に安定性を安いコストで提供する。その見返りは未来への確約だけである。
システム論
システムは機能を提供する。しかし、機能が提供するものは表面に見える部分だけではなく、副産物的なもの、無意識的なもの、副次的なものも含む。システムは様々な部分の総計であるが、その効果の波及する部分はきっと総計より大きい。人の流入が激しい地域では、お互いに知らない人間ばかりだから、積極的に係わらなければ互いの信頼は生まれない。自然とオープンな社会になる。この基本的な態度は社会の様々な部分に見受けられる事になる。
人の流入が少ない土着の地域では、生まれてからずっと知っている人ばかりだ。互いの信頼は生まれている。そういう地域は閉鎖的になり、外から来た人への警戒感は強い。
これらは基本的な集団の在り方の違いから起きるもので、その違いを内包したまま社会の様々なシステムは構築されているので、それらの違いに起因する長所もあれば欠点もある。
世界は小さくなっている
世界が狭くなれば、数多くの出会いがある。不幸な対立もあれば幸せな統合もある。人の出入りの激しい地域ではビジネスはその場限りで完結する方がいい。短期的に瞬間風速が最大になる方がいい。一方で土着型の地域では、長期的な安定性を指向するので短期的な利益は必ずしも望ましくない。利益の確定は、もっと先にある。
これらの異なるモデル、短期的な利潤を最大にするモデルと、長期的な永続性を最大にするモデルが争えば、そのどちらかが勝利するにしても、それは互いの長所や欠点によるものではなく、その時の経済環境に適応したかどうかで決まる。この競争に晒されて談合は否定された。
談合というシステムをアメリカで導入するには何が必要か。求められているものは分配の平等であるはずだ。義務でも能力でもない。誰もに生きる権利がある。誰もが等しく生きてゆけるのが望ましい。ベーシックインカムという考えもそこにある。これ以上、今の方法は通用しない、経済システムがそのように要求している。人類はその分配を AI に託すべきではないのか。この社会変革を求める運動の背景にはそう思わずにはいられないものがある。
2020年7月24日金曜日
宇宙連邦の恒星系文明に対する警察権の取り組みについて
宇宙連邦銀河系第十六管区辺境支部警視監 12xx-6q3k-94db-3orz-8877 報告 s/12856:1280:3392i-j 訓令
宇宙連邦の警察権は次の三主要任務に分類される。
我々の科学的優位性はこれらの星系生命システムを浸潤する理由にはならないが、我々の接続プロトコルから逸脱したコンタクトに対しては、過度接触は避けつつも平和裏邂逅の導入により、上位級判定者と協議し、連邦レジストリとユニオン規約を公表しなければならない。
各星系の純自然発展を妨げる事は推奨しないが、速やかな現状復帰が不可能で、脅威侵略が不可避の場合、積極的介入の検討は許可する(LL0-7-3512以上)。
時に、高度な科学技術を持ちながら個体意識を持たない女王個体を中心とした高度真社会性生命体が出現する場合がある。このような生命が恒星間飛行を獲得し他星系へ進出するのは、その生命体からすれば生存エリアの拡大であるが、被進出生命体にとっては、自然発生の侵害であり、対抗措置を持たない種族は、ただちに捕食対象でなって環境依存に起因する絶滅に至る。我々はこのような状況でもどちらの利潤も保証した解法を開発し、共存可能な環境構築に努める。介入不可による静観黙認については手続き XC-22X-0009 以下 320 文書が定義する。
我々からのコミュニティ・コンタクトに失敗した事例には、辺境生命体が急激な科学発展を獲得し、不自然な発展のために自滅するケースがある。我々は様々な起因回避に努めるが、その場合に参考すべきはベースパターン UCM:77024 分類である。
我々のオペレーションは辺境星系を監視し、絶滅危機に瀕した場合、緊急的絶滅回避を試みる。そしてパターン AB-32 以上になれば、回避措置から救済対象にエスカレーションさせなければならない。
救済措置の主活動は文化保全である。GE/253-2184 条項により絶滅回避よりも優先する。緊急度Aクラスでは D009-CXB 項は除外され、武力的強制はCクラスの譲渡である。既に[124/*21]の歴史的保護が実行され、KMP(LL)保護は{13462-*/675211}が実行済みである。
内滅には、特に物理クラス文明(CategoryG4, ClassF7, Stage21)の成績が難治である。症例は多いのに、いずれも予後不良が激しい。
主な滅亡条件(Figure 1092A)
ClassF7では、工学的核融合技術にも達しないローエネルギー段階である。そのような技術レベルでは資源渇望が起きやすく、核分裂が魅力的で重宝されるフローは当然である。そのレベル文明で自滅が多発するのは、物理学的破壊活動と抑制的回復活動のアンバランスが解離するためである。
進化指向が多様性に基づく生存確率の向上を採用している星系では、その生存性は多様性の数量に依存する。よって、分裂個数の増加、活動エリアの拡張に基づく戦略が採用される。このような進化戦略を採用する生物種では、どのランクの精神性を保有しようが、生息分布の伸長と個体数増加が覇権主義的な生存確率根拠となる事が実測される。
このような星系では生物は増加と減少を繰り返しながら環境に応じた多様性を獲得し、種を増幅する。それは基本設計のパラメータの組み合わせで表現され、突出した大繁栄をした種は環境への最大適用の実用であり、その繁栄期間が長くなるほど、その後に訪れる環境変化には対応し難い形質で安定する。これはエネルギー効率の最適化問題であるが、形質獲得の固定化と変化率低下は常に観察される。
その根底にある進化的闘争性に資源枯渇が重なった時、生物は互いに絶望的な闘争戦略を採用する。相手よりも1秒でも長く生き残る事が最適解として導かれる。それが故に回避不可能な絶滅条件を満たす場合もある。
相手を出し抜く、より有利な状況に自らを置く事は、より未来までの時間を得る方が、何等かの解決手段の発見、状況の好転、救助者の登場などを期待できるからである。この思想に依拠する方が生き延びる可能性が高くなるという経験則的戦術である。
相手との闘争が発生すれば、相手を屈服させ、それが難しいなら相手の意欲を削ぎ、危険な相手にも警戒を持たせる事が合理的帰結になる。もし滅亡するなら相手を道連れにする、生き残ったとしても楽には生きさせない、そのような敵対コミュニケーションが活発になる。
生命素子の改変、微生物の特異的変化、化学物質の不安定拡散が、絶滅起因を増加させる。脅迫技術の保有が安全保障に貢献すれば、これへの対抗策は更に絶滅起因を加速する。
環境破壊はどの文明にも共通する初期現象であるが、その帰趨は星系が持つポテンシャルの属性である。不可逆的変動に入る閾値が小さい星系では環境変動が直ちに起き、我々の救助活動が間に合わない場合もある。極端に大きい星系では、環境変動の危険性に自ら気付く時間的余裕が長い。そこでは我々の環境修復力も十分な効力を発揮する。いずれも短期的快楽の追求が生存性向上と切断できるかが監視上のMQWQである。
そういう文明から敷衍できる共通特徴は、新しい知見の獲得と行動様式の非同期性にあって、古い規範を塗り替えるのに時間が必要という事である。それを上書きするための統治システムや書き換え儀礼の刷新があるとは言え、古い時代の速度と新しい時代の速度差が原因である。低い技術が技術革新によって高くなると、その脅威評価は一般的には絶滅指数 NN-32 に従う。
我々の例外的コンタクトにも係わらず、星系内の覇権争いは終息せず、我々の技術供与も対抗勢力への武力開発に応用され、信頼性、信用性のプロトコール確立も相手との駆け引きにしか使用されず、最終的に強制調停者としての第43次ドクトリンプランへパッチする。
ここにエージェント 3169 を派遣する。多くの異言語、異文化が乱立し、地域間で異なる統治思想に基づく指揮系統の国家体制で、緩やかな連合と所有概念に基づく資源獲得によって無目的な勢力拡大を性向する世界体系を展開する。
この辺境では、多くの事例は偶発的幸運に支配されており、法則的意思決定や集団的合意指向性よりも、神概念(ZGB-U666-Qを参照せよ)に基づく決定が多く見られる。個体毎の幸運を希求する文化(信仰とも呼ばれる)が広範囲で観察され、数学的偶発に対して、しばしば上位者の決定論的解釈(神、天、運など)で認識するため、過去の幸運が未来も続くと無根拠に信じ込む。
この星系ではCコンタクトを発揮するが、これはエージェントが現地人として入り込み、文化、文明、科学技術に貢献しながら、その星系で寿命を全うするケースを前提とするものである。これまでも様々なエージェントがその寿命を全うした。もちろん、不幸な殺人で亡くなったエージェントも存在する。
この星系の疫病に起因する絶滅条件がレベル E-54-CLVL0 を超えた。特に彼らが開発中の特効薬の危険性が致命的で、このまま蔓延すれば回復不能な遺伝素子改変が発生する確率86%が報告されている。安全保障では絶滅前提の戦略を採用する生命体にも係わらず、疫病に対しては極端に恐怖を起こしパニックする。わずか5%の生命危機に対してとった防御機構が種絶滅を誘引しようとしている。
そのような危機的状況が政体危機から紛争に転嫁される可能性が高まっている。弱体化した地域への侵入と対抗措置が偶発的勃発を起こし、混乱のパニックが連鎖拡散し、気候変動がそれに拍車をかける。
疾患の蔓延、飼料不足、交易低下、交換価値の減衰、資源の深刻な欠乏、これえらが略奪を使用した生存性向上を星系の上に蔓延する。その危機的状況に、別の方法が開発された形跡がない。
のみならず、他種絶滅が並列して発生する事も問題である。OP-ZZZ-63249 により、その該当種への絶滅は許容してもそれ以外の種保存は必須である。OP-ZZY-91 による強制保存も準備する事。
本令の基本方針に則り、以上の指令を直ちに発布する。
宇宙連邦の警察権は次の三主要任務に分類される。
- 宇宙連邦加盟星への警察任務(基本法案:基本刑事法、他126971関連法)
- 宇宙連邦非加盟星への警備任務(基本法案:辺境整備法、他3046関連法)
- 惑星文明への警護任務(基本法案:辺境警護法、他536関連法)
法定義
辺境警護となる対象星系は、哲学、倫理、道徳、文明、進化、科学、規範が連邦規範の比較軸 D-447321 を満たさず、そのため我々とのコミュニティ接触は Dランクに制限される。我々の科学的優位性はこれらの星系生命システムを浸潤する理由にはならないが、我々の接続プロトコルから逸脱したコンタクトに対しては、過度接触は避けつつも平和裏邂逅の導入により、上位級判定者と協議し、連邦レジストリとユニオン規約を公表しなければならない。
各星系の純自然発展を妨げる事は推奨しないが、速やかな現状復帰が不可能で、脅威侵略が不可避の場合、積極的介入の検討は許可する(LL0-7-3512以上)。
時に、高度な科学技術を持ちながら個体意識を持たない女王個体を中心とした高度真社会性生命体が出現する場合がある。このような生命が恒星間飛行を獲得し他星系へ進出するのは、その生命体からすれば生存エリアの拡大であるが、被進出生命体にとっては、自然発生の侵害であり、対抗措置を持たない種族は、ただちに捕食対象でなって環境依存に起因する絶滅に至る。我々はこのような状況でもどちらの利潤も保証した解法を開発し、共存可能な環境構築に努める。介入不可による静観黙認については手続き XC-22X-0009 以下 320 文書が定義する。
我々からのコミュニティ・コンタクトに失敗した事例には、辺境生命体が急激な科学発展を獲得し、不自然な発展のために自滅するケースがある。我々は様々な起因回避に努めるが、その場合に参考すべきはベースパターン UCM:77024 分類である。
文化救済と絶滅回避
辺境星系へのジョイン・ゾーンは、自発的文化への不干渉、星系文化の永続的保存、絶滅危機の回避が三大理念であり、これは加盟非加盟の如何を問わず保護活動のベースメソッドである。我々のオペレーションは辺境星系を監視し、絶滅危機に瀕した場合、緊急的絶滅回避を試みる。そしてパターン AB-32 以上になれば、回避措置から救済対象にエスカレーションさせなければならない。
救済措置の主活動は文化保全である。GE/253-2184 条項により絶滅回避よりも優先する。緊急度Aクラスでは D009-CXB 項は除外され、武力的強制はCクラスの譲渡である。既に[124/*21]の歴史的保護が実行され、KMP(LL)保護は{13462-*/675211}が実行済みである。
内滅と外滅
論文 KLC-392-0110-41 AV 項の記載から、絶滅文明の回避方法の手段は 4032 が発見されている。絶滅経路には大きく外滅と内滅があり、特に自然由来の外滅要因では極めてよい反応成績を残す。詳細は推励 Q-123-A を参照されたい。内滅には、特に物理クラス文明(CategoryG4, ClassF7, Stage21)の成績が難治である。症例は多いのに、いずれも予後不良が激しい。
主な滅亡条件(Figure 1092A)
- 生物兵器使用に起因する滅亡
- 疫病の特効薬に起因する滅亡
- 紛争の報復や道連れに起因する滅亡
- 環境汚染、破壊をもたらすインセンティブに起因する滅亡
- 新しい進化系保育拒絶に起因する滅亡
ClassF7では、工学的核融合技術にも達しないローエネルギー段階である。そのような技術レベルでは資源渇望が起きやすく、核分裂が魅力的で重宝されるフローは当然である。そのレベル文明で自滅が多発するのは、物理学的破壊活動と抑制的回復活動のアンバランスが解離するためである。
パターン分類
各星系の進化経路は一つではなく、そこに現れる資源獲得と競争的、闘争的進化の発生は、その星系に独自の生存原理を発生させる。その影響から逃れるJ対象はより上位のHレベルに昇格する必要がある。進化指向が多様性に基づく生存確率の向上を採用している星系では、その生存性は多様性の数量に依存する。よって、分裂個数の増加、活動エリアの拡張に基づく戦略が採用される。このような進化戦略を採用する生物種では、どのランクの精神性を保有しようが、生息分布の伸長と個体数増加が覇権主義的な生存確率根拠となる事が実測される。
このような星系では生物は増加と減少を繰り返しながら環境に応じた多様性を獲得し、種を増幅する。それは基本設計のパラメータの組み合わせで表現され、突出した大繁栄をした種は環境への最大適用の実用であり、その繁栄期間が長くなるほど、その後に訪れる環境変化には対応し難い形質で安定する。これはエネルギー効率の最適化問題であるが、形質獲得の固定化と変化率低下は常に観察される。
その根底にある進化的闘争性に資源枯渇が重なった時、生物は互いに絶望的な闘争戦略を採用する。相手よりも1秒でも長く生き残る事が最適解として導かれる。それが故に回避不可能な絶滅条件を満たす場合もある。
相手を出し抜く、より有利な状況に自らを置く事は、より未来までの時間を得る方が、何等かの解決手段の発見、状況の好転、救助者の登場などを期待できるからである。この思想に依拠する方が生き延びる可能性が高くなるという経験則的戦術である。
相手との闘争が発生すれば、相手を屈服させ、それが難しいなら相手の意欲を削ぎ、危険な相手にも警戒を持たせる事が合理的帰結になる。もし滅亡するなら相手を道連れにする、生き残ったとしても楽には生きさせない、そのような敵対コミュニケーションが活発になる。
生命素子の改変、微生物の特異的変化、化学物質の不安定拡散が、絶滅起因を増加させる。脅迫技術の保有が安全保障に貢献すれば、これへの対抗策は更に絶滅起因を加速する。
環境破壊はどの文明にも共通する初期現象であるが、その帰趨は星系が持つポテンシャルの属性である。不可逆的変動に入る閾値が小さい星系では環境変動が直ちに起き、我々の救助活動が間に合わない場合もある。極端に大きい星系では、環境変動の危険性に自ら気付く時間的余裕が長い。そこでは我々の環境修復力も十分な効力を発揮する。いずれも短期的快楽の追求が生存性向上と切断できるかが監視上のMQWQである。
そういう文明から敷衍できる共通特徴は、新しい知見の獲得と行動様式の非同期性にあって、古い規範を塗り替えるのに時間が必要という事である。それを上書きするための統治システムや書き換え儀礼の刷新があるとは言え、古い時代の速度と新しい時代の速度差が原因である。低い技術が技術革新によって高くなると、その脅威評価は一般的には絶滅指数 NN-32 に従う。
我々の例外的コンタクトにも係わらず、星系内の覇権争いは終息せず、我々の技術供与も対抗勢力への武力開発に応用され、信頼性、信用性のプロトコール確立も相手との駆け引きにしか使用されず、最終的に強制調停者としての第43次ドクトリンプランへパッチする。
対象分析
今回、我々は、恒星間飛行は実現しておらず、恒星内の無人飛行に成功した、N最大エネルギー源:核分裂、Fエネルギー源:核融合の生命体星系にコミットする。これまで議論してきた絶滅回避の主条件を満たしている星系として AS299-G458L を初適用する。ここにエージェント 3169 を派遣する。多くの異言語、異文化が乱立し、地域間で異なる統治思想に基づく指揮系統の国家体制で、緩やかな連合と所有概念に基づく資源獲得によって無目的な勢力拡大を性向する世界体系を展開する。
この辺境では、多くの事例は偶発的幸運に支配されており、法則的意思決定や集団的合意指向性よりも、神概念(ZGB-U666-Qを参照せよ)に基づく決定が多く見られる。個体毎の幸運を希求する文化(信仰とも呼ばれる)が広範囲で観察され、数学的偶発に対して、しばしば上位者の決定論的解釈(神、天、運など)で認識するため、過去の幸運が未来も続くと無根拠に信じ込む。
この星系ではCコンタクトを発揮するが、これはエージェントが現地人として入り込み、文化、文明、科学技術に貢献しながら、その星系で寿命を全うするケースを前提とするものである。これまでも様々なエージェントがその寿命を全うした。もちろん、不幸な殺人で亡くなったエージェントも存在する。
この星系の疫病に起因する絶滅条件がレベル E-54-CLVL0 を超えた。特に彼らが開発中の特効薬の危険性が致命的で、このまま蔓延すれば回復不能な遺伝素子改変が発生する確率86%が報告されている。安全保障では絶滅前提の戦略を採用する生命体にも係わらず、疫病に対しては極端に恐怖を起こしパニックする。わずか5%の生命危機に対してとった防御機構が種絶滅を誘引しようとしている。
そのような危機的状況が政体危機から紛争に転嫁される可能性が高まっている。弱体化した地域への侵入と対抗措置が偶発的勃発を起こし、混乱のパニックが連鎖拡散し、気候変動がそれに拍車をかける。
疾患の蔓延、飼料不足、交易低下、交換価値の減衰、資源の深刻な欠乏、これえらが略奪を使用した生存性向上を星系の上に蔓延する。その危機的状況に、別の方法が開発された形跡がない。
のみならず、他種絶滅が並列して発生する事も問題である。OP-ZZZ-63249 により、その該当種への絶滅は許容してもそれ以外の種保存は必須である。OP-ZZY-91 による強制保存も準備する事。
訓令
これらの活動は第3警護任務条例の範囲を逸脱して行ってはならない。特殊令により、本星系に対しては、支部 PX3EV-12742 に全指揮を委譲する。宇宙連邦加盟国、および、それに準ずる星系からのコンタクトに対しては、文明汚染、環境破壊、資源侵略から武力警護 P04-NC-5088S の権利を有す。そのための手順を OP83-9017625600-CDUV に定義する。本令の基本方針に則り、以上の指令を直ちに発布する。
2020年6月29日月曜日
Black Lives Matter
Matter
It doesn't matter 大したことないよ、別に問題ないよと訳す事から、BLM は黒人の命が大切、黒人の命は大切と訳される。黒人は問題の中を生きている、黒人が生きるのにこの世界には問題がある、タフである。世界中を見渡せば、問題は沢山ある。個人的な理由、家族の問題、社会的な阻害、そして民族浄化まで局面は多様である。不条理に立ち向かうのに、歴史的にも生物学的にも地学的にも世界は容赦なく人を襲う。幸運な人はそれを思わない。不運な人がそれを思わないように。
どの時代も偶然が生き残りに影響してきた。だから偶然の中に何かの意図を読み取る。その偶然に信仰を見出しても不思議はない。
奈良時代の終わり、疫病や災害により国は荒廃する。それを立て直すのに当時の人々が選んだのは仏教であった。なぜ宗教か。当時はまだ有効な科学はなかった。優れた薬草の知識はあったろうが、それを工業的に流通させるシステムは完成していない。食器を小分けにするなど接触を避ける工夫はしたらしい。だが、有効な打つ手が殆どない中で、最終的に気の持ちよう以外、困難に立ち向かう術がなかった。
一人の人が多くの人を救うなどできない。最澄は「照千一隅」を唱えた。一隅を照らせば千里に届く。自分のいる場所で助け合う、仏はこの世界のあらゆる場所、あらゆる時間、すべての空間にいる。何ひとつ見落としはないし、それを信じていれば十分である。あなたが今いる場所で輝きなさい。その輝きは人の間を渡ってゆき必ず世界の果てまで届く。
もちろん、反論は当時だってあったに違いない。そんな力を持つ仏が、なぜこの疫病から私を救ってくれないのか。病を治す力もないのにどこに人を救う力があるのか。その薬指は今まさに薬を塗ろうとしている姿と言うが、あなたが薬を塗っている姿を私は見た事がない。
今ならばコロナパンデミックも防げない神を良く信じる気になれるなと言う所か。もちろん、それにも反論はある。神はすべての命を慈しんでいる。人間だけのはずがない。
差別の事
人間はものごとを区別する能力に長けている。違いを見分けるだけならば、人間以外の動物も優れた能力を持っている。ただ人間は異なるものの内に共通点を見つけたり、同じものの内に違う点を見つけたり、複雑であるものを単純化したり、単純なものを複雑にしてきた。この天然由来の能力に長じて、人間は社会を構築してきた。当然70億人もいれば、全員が違うはずである。同じ遺伝子の双子でさえ命は違う。構成する原子は異なる。その違いを強調してゆけば、なにひとつ同じものはないという結論に至る。
全てが違うなら差別は起きない。起きようがない。同様に全てが同じなら差別は起きない。起きようがない。区別できるものがなければ差別は起きない。なぜ区別は差別へ繋がるのか。
人間は群れを作る。だから自然とグループを作る。そのグループの共通点は何でもよい。なくても良い。グループが共通点になるから。複数のグループが生まれれば、そこに区別が生じる。いじめさえグループがなければ発生しないのだ。
しかし、グループが異なるだけでは差別は起きない。グループ化は差別の必要条件だが、それでは足りない。何が差別まで繋げてゆくのか。
本当の所、人は違いを気にしない。ある部分を切り捨て、ある部分を強調する、その取捨選択に論理性はない。なんでも構わない。殆どの違う部分を無視しているくせに、ひとつかふたつの違いだけを殊更取り上げて「同じ」と「異なる」に区分けする。
黒と白の境界にグレーがあるとみんな信じている。その境界で問題が起きているのだと考える。だが、大部分がグレーなのである。その両端のほんの僅か少しにだけ黒と白はある。そのグレーの中に境界線を引き、白だ黒だと喚いている。
人は単純化を好む。部分を全体としたり、前提条件を無視しても気にしない。単純化は人間の脳の癖であろう。脳は複雑な事を記憶しきれないから簡単にする事で論理性と効率性を両立させる。そういう性癖は脳の諸元から生じた制約に過ぎない。単純化する事で論理的に考える事ができる。簡略にする事で効率よく高速に決定を下せる。
よって集団化とは集団をステレオタイプで区分する事だ。だから、差別はいつもステレオタイプを内包している。ステレオタイプにすれば深く考える事なく、世界を切り取る事ができるようになる。
この地球の70億人の中には次世代の類人猿と呼ぶべきホモサピエンスではない新しい進化した種が含まれている可能性がある。この違いさえ差別の理由になる。違い過ぎれば差別は起きない。牛と人間の間に差別という関係性はない。同じ過ぎるから差別は起きるのである。DNAが同じだから差別が起きるのである。何故なら、決して違いを排除するためではない。排除しないために差別するからである。
差別は集団同士の関係性のひとつである。ジェノサイドも関係性のひとつである。差別は相手を絶滅させない関係性に見える。近代国家というひとつの枠組みが差別を起こす。ひとつであるという幻想が差別を生む。互いに出会わなければ差別は起きなかった。
異なるものを同じと見做した軋轢が、同じものを違うと見做した軋轢が、差別にはある。理由は何でも構わない。人は群れを作る生き物である。群れに階層が生まれる。上下の関係性が生まれる。もし人間が虎から進化した生物なら差別はなかったであろう。別の問題で悩んでいるだろうが。
階級は人に何を求めるか、それは労働力である。差別の前に労働力の略奪があった。コストとベネフィットの最適解として奴隷は生まれる。すると差別とはその略奪を正当化するためのものではないか。
奴隷の事
奴隷制度は古くメソポタミアの頃からある。奴隷として生きた人は沢山いた。もし現在社会が石油の代替エネルギーの開発に失敗すれはローマ時代に戻るだろう。機械を失った社会は労働力としての奴隷を必要とするだろう。奴隷の禁止など雲散霧消しよう。つまり奴隷を廃止するためには条件があったという事だ。我々は化石エネルギーと工業力によって奴隷を必要としなくなっただけである。
アメリカは大規模に奴隷制度を経済基盤に組み込んだ恐らく最後の国家である。奴隷廃止は、アメリカ経済の作り替えの過程で起きた。それは帝国主義の終わりを先取りしたものである。
帝国主義とは植民地を軸にした経済体制で、植民地の第一次産業を中心とした経済基盤である。アメリカの南部はこの経済システムを採用していた。イギリスなどが植民地でやっていた事をアメリカ国内でやった。原住民が足りないのでアフリカに住む人間を買っただけである。
北部は重工業を中心とした経済基盤、資本主義経済である。アメリカは The War によって帝国主義と資本主義の戦いを時代に先駆けて行った。そして資本主義が勝利した。世界がこれを後追いして決着するのは World War II である。戦後の植民地放棄と同じ事がアメリカでも起きたが奴隷たちはそのままアメリカに残った。黒人もアメリカ人である、この方向転換からアメリカは多民族国家への模索を始めた。
アメリカの建国の人たちが今のような多様性を考えていたか。恐らく否である。しかし彼らが描いた理念と理想を片手に辿って行けば、このような帰結をする事は想定していたろう。しかし、リンカーンでさえ奴隷たちを元いた大陸に送り返せば良いと考えていた。彼の人間の定義にインディアンは含まれていなかった。アメリカはまだ白人の国だった。
差別と殺戮によって過去を屠るなら、アメリカは必ずリンカーンを否定する日が来る。アメリカは自由と民主主義の為に生まれた実験国家であるが、そのアメリカの理想は人種差別を否定するが、どの様に解決すれば良いか誰も知らないし、扉がどれかも分からない。
奴隷が差別される理由は何もない。工業化によって奴隷から労働者に変わった。だから解放された。必要なのは奴隷ではない、労働者である。技能の蓄積が必要な労働力は略奪では維持できない。
アメリカの人種差別は奴隷制度の問題ではない。黒人の問題でもない。労働力の問題のはずである。
経済の事
アメリカの格差拡大はレーガン政権以降の問題であって、恐らく、平等に多くの人が貧困層へ向かった。この中間層を破壊した政策によって、あらゆる階層の人が貧困に至り、1%の富裕層が全資産の3割を保有する社会が到来した。奴隷から解放された人々は不利な立場のまま自由競争に参加した。奴隷という鎖は断ち切られたが公民権運動まで激しい差別にあう。黒人は重りを身につけられたまま海に投げ込まれたようなものであった。それを泳ぐ自由を与えたと白人は考えていた。
資本主義が抱えていた人を平等に扱わないという性質はマルクスによって設計されレーニンによって実行されソビエト連邦によって失敗した共産主義という経済格差を是正しようとする彼の解答をもって解決を試みた。
ソビエト連邦の存在がアメリカを資本主義の略奪からよく守り、健全な市民を育んだ。図らずとも、冷戦構造によってアメリカの資本主義は大量の中間層を育て、強い労働者を供給し続けた。ソビエトが解体した時、資本主義は元の姿に戻る。マルクスが憂いた狂暴な姿。経済格差は更に拡大し、貧困がより厳しくなる。差別はより複雑になってゆく。恐らく公民権運動の頃と比べても状況はより悪くなっている。
ソビエトの崩壊が、格差拡大の切っ掛けか、それとも資本主義という工業が経済システムの中心でなくなりつつある事の証であるか。従来型の労働者の需要は減りつつある。重工業を基軸とする資本主義に変わる新しい産業が生まれつつある。この産業構造の入れ替えが経済格差の原因であろう。
経済格差を減らせば差別は減るか。たぶん減る。それは経済的満足が得られれば、より多くの不合理を許容できるようになるからだ。おい、くろんぼと呼ばれても、資産に余裕があるなら、相手を軽蔑すれば済む。必要なら相手を経済的に叩きのめす事も出来る。
しかし、お前は黒人だから、この程度で十分だと給与を減らされたらどうか。労働者は他に幾らでもいると言われたら拒否はできない。この僅かなお金を待っている家族がいる。ならば、どれほど悔しくともそれを受け取るしかない。受け取る時には笑っているように見えるだろう。それで正当な契約の成立である。これが、命の問題になるまで続いた。
なぜ、命の問題になるまで追い詰められるのか。それは、差別とは不要になった労働者を如何に扱うかという問題だからだ。余計なコストを払いたくない。ならば貧困に追い落とすしかない。こういう時に不要な労働力を虐殺しない所まで社会が成熟したと喜ぶべき所か。それともバックアップとして残す戦略なだけか。
かつて、肌の色や民族や性別は給与を下げるのに都合のよい理由となった。差別とは許容できない区別の事である。そう感じる人がひとりふたりなら差別とは呼ばれない。だから、多くの人が間違っているという声を上げるまで是正されない。
これらの属性は経済に影響するものではない、そう主張する事で初めて改善できる。経済に影響しない事項で区別する事が差別である、だから撤廃せよ。これは十分に正当な主張に見える。だから、能力によって給与が変わったり、学歴によって就職が左右される事は差別ではない。少なくとも今は、それらは差別とは考えられていない。それらが経済に直結する能力、競争を左右する能力と考えられているからだ。
銃の事
日本は刀の国であったから、後の先という考えが生まれた。これは剣の動きが人間の反応で対応可能なくらいに遅いからであって、銃にそんな余裕はない。銃は先手必勝。相手よりも先に撃つのが鉄則である。この銃の性質が社会全体に影響する。警察官の行動も規定する。治安の悪い場所に行く時、警察官はその脅威と対峙する。恐怖に支配される以上、間違って撃つ事件は起きる。これはアクシデントではない。互いが自らの安全のために銃を手にする。起きて当然である。
銃という脅威が社会を覆い、経済格差が治安を悪化すれば、最前線にいる警察官には強いストレスがかかる。パトロールをする度に今日が最後の日かも知れない、そう思うのは杞憂ではない。
強いストレスに晒されれば、そこに出るのはその人が本来持つ人間性ではなく、生物が元来持つ野生である。攻撃的、扇動的、排除的、これらが強化されるのは群れが生存確率を高めるための自然な行動である。
加えてパンデミックが世界全体に高いストレスをかけている。だから人々が攻撃的になるのは自然なのである。このような不幸な状況である一人の男が George Floyd になった。その抗議はアラブの春のようにアメリカ中に広がった。
いつも革命は警察官の横暴さから始まる。そして強いストレスは、警察官もデモ隊も区別しない。発端となった警察官にも言い分はあろう。しかし、彼の意識は一度もブレーキを踏まなかった。意識しない限りブレーキは踏めない。彼は何も意識していなかった。その時、彼の心理に何があったのか、落とし穴にすっぽりと嵌った。
彼の中に差別する気があったかどうかは重要でない。確かなのは黒人は危険であるという極めて確からしい彼の経験である。それは全ての黒人にとっては偏見であるが、それが銃と固く結びついた時、脅威は真理である。先に撃つしかない状況では疑う余地はない。その脅威に支配されるには十分である。
奴隷制度と同じくらい、アメリカの建国と共に存在する銃が、人間の恐怖の限界を超えている。黒人はその射影にいるに過ぎない。
もちろん、銃を廃絶しても黒人への差別はなくなりはしないだろう。だが状況は好転する。そうと分かっていても、アメリカは銃を手放す事はできまい。アメリカの理念が強靭な鎧を纏って立ちはだかってくる。
体制の事、法の事
公民権運動によって法的にも制度的にも人種差別はアメリカには存在しないはずである。だが、制度をどう変えても差別はなくならない。アメリカはこれを証明してきた歴史である。行政や立法では差別を解決できない事を示してきた。だから差別は政治では解決できない問題である。かと言って恐らく人々の心の問題でもない。全ての人が差別を止めようと思えば差別は無くなるのか。否。差別は人間の気持ちの問題ではない。誰もが差別をなくそうとしているのに差別はなくならない。我々の無意識の中に差別がある、そう考えた人たちは、それをひとつひとつ見つけては潰してゆけば差別はなくなると考えた。ポリティカルコレクトネスはそういう運動だろう。当然、差別は労働と密接に関係しているから、労働の在り方に注目がいくのも当然である。
しかし、我々には解明が足りない、あるべき理想形はこれじゃない。
黒人差別を撤廃するのに最も手っ取り早い方法は、黒人が白人を支配すればいいだけである。体制を変えれば黒人差別は確実に撤廃できる。だが、これでは別の差別に置換されただけである。体制を変える事は必ずしも社会を変革しない。
奴隷制度が差別の原因ではない。奴隷制度を始める前から黒人に人たちは人間でなかった。だから奴隷制度は成立した。そして奴隷制度の間、差別は存在しなかった。
偏見の事
差別されるのは黒人だけではない。白人同士でも差別はある。黒人同士でもある。アジア人への差別もある。人は階層を作る。階級は体制によって固定化する。階級は労働力を確保するための仕組みである。差別は労働力が不要になった時に発生する。これは制度が失われる時に何かが始まるためだ。
感情は人間の極めて自然な所から湧き上がる無意識も含めた総合的な脳の信号である。だから感情が「起きない」ようにする事も「起きる」ようにする事も意識の自由にはできない。
湧き上がる感情はそれを認めるしかない。人の好きとか嫌いという感情も差別とは切り離せないはずである。病気への嫌悪も差別に繋がる。我々の中には誰にでもそういう感情がある。この感情が我々の生存確率を高めるための能力である事は確かなはずである。つまり、感情は人間から切り離せない。
すると、差別の感情はどこから発生するのか。制度がある時は特に差別しなくてもよかった。制度が人々の階層を決定していたからである。奴隷は常に奴隷であった。だから差別をする必要がない。見下す必要もなかった。
人は、生存に関して敏感であるから、自分の置かれた有利不利にも鋭敏である。すると、今まで下の階級に居る人と平等になる事は脅威である。それは今まであったアドバンテージを失う事を意味するからだ。もちろん、失う程度なら構わない。平等なら問題ない。そういう場合もあるだろう。しかし平等は、自分が下になる可能性を示唆する。
私も人間である、相手も人間である。今まで下だった人と平等になった。とするなら、明日は私が下になっても不思議ではない。そのような状況を受け入れる事ができるだろうか。否。そういう気持ちが人を見下したい感情を生むのは当然の心理である。差別は人々のこの感情が何層もの濾過を通って社会の表層に湧出してきた現象だろう。
この世界は闘争なのである。人々は常に争うのである。少しでも優位に立つ事で勝利する。勝利する事で生存率を引き上げる。この自然に備わった人間の性向は否定できない。人を見下すのは、相手に自分の立場を分からせるコストの小さな戦術である。相手がそれで引き下がれば十分に効果的である。鰯の群れのように全員が一斉にそう動く。
だが、人を見下す事は差別の原因ではない。階層を下に落としたくないという気持ちが差別の温床になる。落ちて貧窮するなら、より一層激しくなる。差別は経済に起因する競争として表現される。差別する事で有利に働くならば誰が使わないでいられよう。
危険になれば誰だった攻撃的になる。どれほど仲の良い二人であろうが、亀裂が入れば簡単に、黒人のくせに、所詮は白人よ、と互いを罵る事もある。それを本心と受け取ってはいけない。人は危険に合えば道端の石ころでさえ武器にする。
我々の差別は多分に動物的、本能的な振る舞いの連続として起きている様に見える。だから、変えたいと思っても変わらない。変わりそうにない。
何も利得もないのに自然発生的に残っている差別が日本にもある。分かっているけれど、他人の目が気になる、排除されたらどうしよう、そういう理由から経済的な組織的な差別として固定化されたものが世界中にある。古い共同体ほど偏見は意味もなく残るのだろう。伝統が生まれるのと同じように。そして偏見を利用すれば簡単にジェノサイドに至る(Both)のはユダヤ人の歴史や、偏見がなくともジェノサイドに至るのはボスニア・ヘルツェゴビナの歴史からも推測される。
我々は偏見からは決して逃れられない。思い込みや誤解と同じ、すべての知識体系も解釈も偏見の一種であると言って差し支えない。だから、多くの人にとって偏見を変える理由はない。少なくとも、この世界は、その方法ではダメだという結果を淘汰という方法でしか評価しない。ダメなら絶滅するだけである。この方法論を人間も深く受け継いでいる。偏見を取り除く理由がどこにあろうか。
信じる事
偏見には根拠も論理もいらない。ただ信じる以外の根拠がない。偏見を奥底で支えているのは「信じる」という働きである。信じるとは前提条件の省略に等しい。人間は信じる事で効率的に高速に判断できる様になる。もし信じていなければ、いちいち検証しなければならなくなる。それでは遅い。他の星系の人たちは「信じる」以外の判断する仕組みを有しているかも知れないが、人類はこの方法である。
偏見は宗教と変わらない。人間の信じる力が支えている。我々は信じる以外に神と向き合う方法を知らない。偏見も信じる以外に存在する方法がない。デモをしている人はだから、これは偏見であると叫んでいるのだ。そうする事で、偏見をなくす事ができるからだ。
科学もそうやって始まった。慎重な臆病者が、疑問を抱え信じている事を疑ってみた。本当にそうか、ならば確かめてみよう。実験によって得られたデータと、それと結びつくであろう論理的帰結の確からしさを思う。この結果を信じてはいけない。常に疑う。疑う事を止めない事だけが確かさを支えている、これが確かなのは私が疑い続けているからだ、それしか私は方法を知らない。
常に立ち止まれと語りかける。それ以外の言葉は全て闘争の言葉だ。信じろとは闘争せよと同じ意味だ。人は闘争する生き物である。だから信じずにはいられない。人間は自分の生存率を高めるように行動する。だから、神を信じるのと同じように偏見も信じている。
だが、幸いにも偏見は決して差別の温床ではない。
敬意
人間は誰かを見下す事もすれば、誰かに敬意を感じる事もある。この働きは両立する。この自然由来の感情がどこから来るのか知らない。しかし、敬意を感じる相手を見下す事は少ないだろう。するとあのデモの更に根底にあるものは「敬意」になろう。全ての人に敬意を感じよう、それがテーマである。
例え偏見があろうと敬意を持てば行動は変わる。更には偏見が敬意を生む事さえある。逆に敬意は偏見を生まない。恐らく一方通行だろう。敬意を持てば見下す事も少なくなるだろうし、見下している自分に気づく切っ掛けにもなる。見下さなければ差別は小さくなる。暴力も小さくなる。助け合いや話し合いは増える。
生存への不安から生まれる経済的動機が差別の温床ならば、経済的な補填で生存権を向上させる事は差別の対策になる。3万年前の社会ならこういう議論はできなかった。生き残る事はもっとシビアだった。マルクスが思った貧困のない社会は、現在とは違う社会を想定している。ならばマルクスの理想は別の方法で追求できる可能性がある。社会保障は差別を完全には解決できなくとも、対抗するのに有効な手段と思える。
不安を持たずに生きられる人間などいない。我々はあらゆる方法でその恐怖と向き合っている。神はその筆頭の理由であろう。偏見もまたその理由になろう。誰かを見下すのもその為であろう。差別も同じであろう。
日常のほんのひと時に青い空や涼しい風を受けてまどろむ時間がある、そういう時、心は穏やかだろう。この世界に差別は現存する、しかし差別のない時間は全ての人にある。その時間を長くする事以外、何ができようか。
2020年5月2日土曜日
日本国憲法 第六章 司法 I (第七十六条)
第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
短くすると
第七十六条 司法権は、下級裁判所に属する。○2 特別裁判所は、設置できない。行政機関は裁判できない。
○3 裁判官は、良心に従ひ独立して職権を行ひ、憲法、法律にのみ拘束される。
要するに
死刑について。考えるに(私刑)
[1] 司法が私刑を禁止する理由は理解しやすい。私刑には罰則の根拠がない。量刑を決めるのは司法だけとする。これを法に基づいて運用する。これが近代国家の要諦である。法の公平性は量刑の等しさとしてこの方法をもって保証する。同時に法の不遡及性も法により禁止する事で保証する。これらが罰則の濫用を防止する安全装置としての役割を果たす。[2] 見ず知らずの犯罪にさえ憤りを感じるのは自然な感情である。このとき、我々の中には集団への安定性を強く希求する気持ちがある。だから、集団を破壊しようとする勢力、安全性を脅かす行為に対しては、人間は極めて自然に罰則(ペナルティ)を求めるし、罰則の根拠もここにある。抑止と排除が安全保障の基本戦略である。だから、見せしめ(抑止効果)は罰則の根拠となり得る。認められるべきである。
[3] これによって得られる心理的な安心感が社会への帰属を支えている。この信用なくして社会は維持できない。もしこれが破壊されたなら人間は集団を形成できない。危機意識、恐怖感は人間の行動を過激化する。そして、そのような状況に対して人間は団結する事でしか対処する方法を知らない。団結するには内と外を区別する何かが必要だ。それは何でも構わない。極めて詰まらない差異を極めて重要であると認識する社会を数百年でも維持する。
[4] 恐怖が人の排他欲求を強固にする。日常に戻すためには、異分子を排除すればよい。それが暴力と結びつくのも簡単である。国家の危機、民族の純潔など、卑近な例を持ち出せば、人は幾らでも集合を形成する。国家が侵害されると思えば右傾化するし、凶悪犯罪が起きれば断固たる極刑を求める。これは社会が安定するために必要なスタビライザーである。
[5] いかなる理由を探そうと決して許すべきでない凶悪犯罪はある。極刑以外は考えられない。もし司法がそれを放棄するなら正義は市民に返上すべきだ。例えばコンクリート殺人事件の犯人たちはこれに該当する。Meurtre de Junko Furuta — Wikipédia
[6] この事件では誰も(15人程度)死刑にならなかった。当時の司法は、法の公平性と不遡及性を重んじ、彼らを死刑にする法がないと結論した。彼らは過去から未来へと続く司法制度の一貫性を最優先した。
[7] その時、司法は正義を失った。正義は間違いなく彼らの死刑を要求する。それが法的に不可能なら、どんな手段を使っても、司法の手で始末すべき事案であった。拘置所で首を括るなど、幾らでも方法はあった。だが、誰一人として司法の正義を選択する者はいなかった。彼らは司法の健全性の前にたじろぎ恐怖し影に逃げ込んだ。彼らは何もしない事を選択した。
[8] 確かに正義は暴力を正当化する唯一の根拠である。そして近代国家はこの暴力を封じ込める事を最優先とする機構である。そしてその矛盾と向き合うのが司法の人々である。
[9] だから正義を手放すのは容易い。その理由は幾らでも見つかる。暴力を封じ込める事は正義よりも優先するのだ。だが正義を失った国家に人が帰属するだろうか。正義を断念した者たちに何を託すのだろうか。彼らを釈放し今ものうのうと野放しにしている国家に何を求めるべきだろう。この時を以って司法は機能を停止した。正義を失った司法は機動する事ができない。
[10] どんな手段を使おうが見つけ出しこの世界から追放しなければならない。今からでも遅くはない。彼らを人間と呼ぶ必要はない。この世界の自由を謳歌する権利を認める必要もない。殺された者より殺した者が尊重される社会が認められてたまるものか。そんな馬鹿な話があってたまるか。正義は取り戻さなければならない。このまま大河の流れの中に忘却させてはならない。
[11] 司法の最重要事項は法を守ることではない。それは制度上の必然である。法の理念を守ることでもない。それは信頼を得るための根拠である。ただ正義あるのみである。千年先にも残せる正義を構築し、どのような困難を排してでも執行する義務が司法にはある。
[12] 我々の復讐権は未だ不履行のままである。国家は少年法を盾とし凶悪犯を擁護する側に回った。のみならず隠避した。逃亡に手を貸した。殺人者を守護する者になった。この事件が日本の司法を殺した。彼らは司法というフレームは後世に残したが、それは正義の入っていない抜け殻である。
[13] もちろん、この国の裁判所に勤務する 80% の者たちは事件の前で己れの人間性を問われながら、悩み、法規を調べ、法例と照らし、誠実に決断する事に努めている。アブラハムは十人の正しい者のためにソドムを滅ぼさないように懇願した。滅ぼすまい、神はそう語ったが、ロト一人しか見つからなかったために滅ぼした。
[14] 神は要求した人数に達しなかったから滅ぼしたのか。恐らく違う、正しい者が何千人いようと、許されれざる者が一人でもいたならば、神はソドムを滅ぼしたはずである。
[15] 例え、全人類の滅亡と引き換えにしても、追求されなければならない正義がある。もしその正義を執行できないなら、国家なぞ滅びて差し支えない。国家が正義を保てないなら、市民は革命権を行使するしかない。自衛権は市民の所有である。もし国家が崩壊したなら、我々は自らの手で自らを守るしかない。司法が犯罪者のための盾となるのなら、我々は司法に対して反撃するしかない。もし司法が正義を放棄したのなら我々には私刑という手段しか残っていないではないか。
[16] 近代国家の刑法は復讐を許さない。刑罰は法に定められた量刑で処置されなければならない。勘違いしてはならないのは、司法は復讐権の代理として刑罰を与えているのではない。復讐の度合いは人々の憎しみの強さで変わる。復讐が刑罰の根拠になると原理的に同じ罰は存在しない。それでは法の理念が構成できない。だから刑罰は復讐に依拠して決めてはならない。
[17] では量刑が軽いのはどういう訳か。その主体を決定するものは何か。その時になって始めて復讐という感情が登場する。復讐は司法ではなく立法に立脚すべき属性だ。だから、司法は憎しみの強さで量刑を決めない、決めてはならない。
[18] それでも、我々の想像を超える犯罪は起きる。司法が刑法が立法が量刑が、想定さえしなかった犯罪というものが必ず起きる。ここで司法は機能不全に陥る。立法が、つまり民主主義が考慮しなかったこの犯罪をどのように裁けばよいのかと。
[19] 今からでも遅くはない。彼らをきちんと死刑にすべきだ。それが不可能なら社会で抹殺するべきだ。この世界のどこにも生きる場所がない事を思い知らせなければならない。例え司法がそれを拒否しようと、市民の手になる魔女裁判によってでも、正義を取り戻す必要がある。たとえ魔女裁判であっても、それがどれだけ悲惨な結果を招こうと、正義を失った司法よりはましなのである。
死刑廃止論
[20] なぜヨーロッパは死刑を廃止したのか。だが死刑を廃止したからといって、人が人の命を奪う事を禁止した訳ではない。死刑を廃止した国でも、テロリストは射殺され、戦場では敵に銃弾を浴びせる。[21] 死刑を廃止した国家は、ただ司法制度では人を殺さないと決めただけだ。人を殺す事までを拒否した訳ではない。殺す事を拒否していない以上、殺される事も拒否できない。殺すのはいいが、殺されるのは嫌だという一方通行はない。だから、原理的には殺人が尽きるはずがない。
[22] なぜ司法だけが死刑を廃止したのか。多くの人が人道や冤罪を根拠とする。だが、これらを主張するのは社会の富裕層である。そのような決断をすることを私は拒否する、なぜなら、私は富裕層だからだ。これが死刑を廃止したい人々の本心である。それ以外の理由はどこにもない。
[23] なぜなら、そういう国でも富裕層でない者たちが手を汚す仕事をしている。テロリストを射殺する警察官、敵の施設にミサイルを撃ち込む兵士。それらは暴力ではない。国家への忠誠である。君たちの義務である。これは物理的に問題を解決したに過ぎない、人道上、何も気にする事はない。彼らはそう主張し、自分たちではない誰かにトリガーを引かせる。
[24] そうしておいて自分たちが殺す事は拒否する。そのような責任を嫌悪する。それは殺された被害者の代弁ではない。加害たちの代弁でもない。ただ自分たちの安住な世界の中にそのようなものを持ちこむ事を拒絶する主張、それは富んだ者たちの代弁である。そうして彼らは主張する、我々こそが人間であると。
[25] 死刑を考える事は人間をどう定義するかに等しい。裁判を受けられるのは人間だけである。その人間を死刑にする事は出来ない。だから、裁判を受けずに射殺されたテロリストは人間ではない。だから、殺す事に躊躇しなくてよい。
[26] 世界中を席巻する「人間」という思想を生み出したのはヨーロッパである。彼らの「殺さないで」「苦しめないで」という思想の延長線上には、それ以外ならば殺しても苦しめても構わないという地点がある。そこに境界はない。だから世界中で何百、何千万もの人ではない何かが殺されている。何かを直視しないで済むために発明されたもの、それが人間という思想である。
[27] ビーガンもまた、人間と関係する生物が苦しむのは見たくないという思想ではないか。だから野生動物が飢えようが、生きながら食われようが何も感じない。それは自然の世界での出来事である。人間が住む世界の外での出来事である。
[28] 牛を殺すなという主張は牛が人間の世界の内側にいる事を意味する。動物たちが苦しむのを見たくないのではない。人間という価値観を壊したくない。だから野生動物たちの狩りには言及しない。内と外がある。だから外の世界に無関心でいられる。
[29] だから排除する。本質的に外に排除する形でしか実現できない。従え、でなければこの世界から出て行け。
[30] 人間の手によっては生命を殺させない。それが「人間」という思想である。だから殺す必要がある場合は、外に連れ出す、それを誰かにやらせる。こういう構造から、死刑廃止は階級社会でしか起きえない。
残虐性
[31] 残された者の憎しみの強さに比例して、復讐心は強くなる。その結果として死刑では生温いという考え方も生まれる。少なくとも、古い時代の殺害には、無惨なものが多い。そこには人間の情念が含まれている。そこまでしなければ蕩尽できない心の傷がある。[32] 死んだほうがマシな拷問は幾らでもある。もっと苦しめるために殺しはしない。だからギロチンという人道的な処刑法が考案された。苦しめ苦しめ抜いて、相手からもう殺してくださいというまで苦しめる。その言葉を吐かせなければ気が済まない。そういう歴史がある。
[33] 皮剥ぎは残虐な刑のひとつである。剥ぐだけでは死ねない。バルトロマイのように長く呻吟する。この殺し方が相応しいものも居る。だが全ての死刑がそうであるとは思えない。この刑罰に何か死刑の根源となるものが潜んでいるような気がする。
[34] 歴史的に虐殺で知られるバートリ・エルジェーベトは、逮捕後、1日1回の食事を差し入れる小窓を残し、漆喰で塗り塞がれたチェイテ城の自身の寝室に幽閉された。その暗黒の中で彼女はなお3年半生きた。自由を奪われる恐怖、風もなく太陽も見えない恐怖、殺される方がましだという刑罰であっても人は生きるのを止めない。しかし、これは極めて極悪な犯罪者だけの例ではない。誘拐されて何年も地下室で過ごした被害者のなんと多い事か。その犯人はどうされたか。
[35] 刑罰の残虐性は、残虐な犯罪と比例してあるべきだ。残虐さの尺度は、暴力の内容と期間で決まる。同じ暴力であっても長く苦しめれば、それだけ刑罰も強くしなければ公平ではない。死刑を執行したら痛みを感じなくなる。それではわずか数秒の罰則ではないか。それを人道と呼ぶか。だが、復讐には足りない。生きている間に相応の苦しみを与える続けなければならない。それが残虐の必要性だ。
[36] 犯罪者は苦しめるべきである。被害者の苦しみと同等以上でなければならない。少なくとも、太古から人間が地獄を想像してきた根幹はこれが理由だ。情感が復讐を支える。同様に残虐性を支える。恨みを晴らさなければ浄化できない悲しみがある。その重要性は、犯罪者が苦しむかどうかよりも重要なはずだ。その多くが実現しなかったから、その残った情念が地獄を生んだ。
[37] ならば痛みも恐怖の一部ではないか。痛みもまた恐怖を含まなければ意味がない。罰則とは恐怖という意味になる。恐怖のない死刑に意味はない、逆に恐怖を与えられるならば死刑でなくとも構わない。残虐である必要性もない。
[38] だが恐怖だけは外せない。テロリストを恨まない、憎まない事が最大の勝利である、とアントワーヌ・レリスは堂々と主張した。しかし、テロリストたちは、この言葉さえも鼻で笑うだろう。残虐さの限りをつくしたコンクリート事件の殺人者が今日も笑って暮らしているように。
罰
[39] 我々が凶悪犯を死刑にしたいのは、この社会からその存在を消したいからである。社会の脅威である/あったから、完全に消さない限り、社会の安定性は復元できない。だから、刑罰は見せしめで構わない。排除が目的である。どのような凶行も恐怖を与えて排除する。それが社会の安定に必要だ。[40] では、我々は凶行を憎むべきか。ならば、それを行った人間を憎しみの対象に含めなくても構わないのではないか。罪を憎み人を憎まずという言葉がある。確かに、凶行を行った人間の体には罪はないはずだ。
[41] 罪を犯した者がいる。その人間は罰する対象であるか。死刑はこれに対する最も明確な罰則である。死刑はその体に対して作用するものだからだ。だが、その凶行が、その人物の中の何に起因して発生したのか、と分割してゆくと、罪の原因は、体ではない。
[42] ナイフを手にしたその指が悪いのか、ならばその指を切り落とせばよい。拳を使うなら手首から切り落とせばよい。腕を切り落とし、足を切り落とせば二度と暴力は振えない。これで原因を取り除いた事になるか。それとも過程を取り除いただけか。指も腕も足も手段を奪っただけではないのか。ならば命は暴力の主体ではないはずだ。
[43] だから、その者の心にこそ、その主体があると考える。だから罰は心と切り離せない。だから地獄という世界は生まれた。如何に罰を与えても心が変わらなければ意味がない、だから命ごと屠るのは話が早い、忘却できるから。歴史はそう考えてきた。これは完全に正しい。それが最も確実な道だ。だが、心とは何かという疑問が消えた訳ではない。
[44] 心が何であるかは分からない。しかし、それを行ったのが「脳」であるという事は確かであろう。
脳
[45] その罪を行ったのは「脳」である。その凶悪もその快楽も脳が司った。意識では到底太刀打ちできない依存性がある事を現代は知っている。人は意識が飛んだ状態でも犯罪を犯す事ができる。幻想を見て魔物から子供を救おうとナイフを振った人が誰かを刺す事もある。人間は脳に腫瘍を患うだけで暴力的な性格や小児性愛に変わったりもする。覚醒剤からどうしても抜け出せない、破滅すると分かっていても止められない、依存症に関する知見が次第に深まりつつある。空気を吸う事が依存症と診断されなくて本当に良かった。すべて脳の働きである。[46] 脳が感じない痛みには意味がない。脳が感じない恐怖に意味はない。恐怖こそが脳の根幹を形成するとても重要な機能である。これと切り離して死刑を論じても意味がない。
[47] 脳。この複雑な回路。何重にも入り交じった電気の流れ。それが我々の意識のみならず、様々な行動に影響する。我々は洞窟に囚われて影を見ているようなものであるとプラトンが語った。我々の意識は脳という洞窟の中に縛り付けられている。
[48] とき、ここに至り、問題の核心が「脳」にあるという場所へ辿り着いた。この凶行に及んだのは一体どのような「脳」だったのか。この問いに全てが極まる。このたったひとつの問いで良い。罰則とは脳に恐怖を与える事、しかし、それでは足りない。脳の働きを解明する事。それで十分である。そして、それを解明するのに死刑では不十分なのである。
地球のサイズの測り方
エラトステネス(ギリシャ BC275-BC194)の方法
アレクサンドリアの場所:
アル=ビールニー(中央アジア 973-1048)の方法
山頂:
アレクサンドリアの場所:
- 太陽の光はどの場所も平行である。
- 同時刻に二つの地点では異なる影ができるなら、それはふたつの地点の傾きが違うからである。
- この傾きを球であると仮定するなら、この傾きは二つの地点の中心からの角度となるはずである。
アル=ビールニー(中央アジア 973-1048)の方法
山頂:
- ちょっと高い山に登り、水平線を見れば、角度が計測できる。
- 山頂の高さ(h)は測定できる。
- すると山頂(r+h)、水平線(r)、地球の中心の結ぶ三角形ができる。
- 山頂、中心、水平線が作る角度 a は次の cos を満たす。
\(\cos({a}) = \dfrac{r}{r+h}\) - この式を展開する。
\(\cos({a}) \times r + cos({a}) \times h = r\)
\(\cos({a}) \times r + cos({a}) \times h - r = 0\)
\(\cos({a}) \times r - r = -cos({a}) \times h\)
\((\cos({a}) - 1) \times r = -cos({a}) \times h\)
- 求めたい r で展開する。
\(r = \dfrac{-cos({a}) \times h}{(\cos({a}) - 1)}\)
2020年4月29日水曜日
ヴィヴィアーニの定理 - 正三角形と垂線
正三角形の中のどの位置をポイントしても、三本の垂線の長さの合計は常に等しい。
三角形(APB)(APC)(BPC)は底辺(AB)(AC)(BC)がみな同じ。
三角形(APB)(APC)(BPC)の面積を全て足したら (ABC)に等しい。
面積の式。
\((ABC) = BC \times \mathbb{A''A} \times \frac{1}{2}\)
\(\color{green}{(APB) = AB \times \mathbb{C'P} \times \frac{1}{2}}\)
\(\color{darkorange}{(APC) = AC \times \mathbb{B'P} \times \frac{1}{2}}\)
\(\color{blue}{(BPC) = BC \times \mathbb{A'P} \times \frac{1}{2}}\)
面積の関係は \(ABC = \color{green}{APB} + \color{darkorange}{APC} + \color{blue}{BPC}\) なので
\(BC \times \mathbb{A''A} \times \frac{1}{2} =\)
\((\color{green}{AB \times} \mathbb{C'P} \color{green}{\times \frac{1}{2}}) + (\color{darkorange}{AC \times} \mathbb{B'P} \color{darkorange}{\times \frac{1}{2}}) + (\color{blue}{BC \times} \mathbb{A'P} \color{blue}{\times \frac{1}{2}})=\)
\(((\color{green}{AB \times} \mathbb{C'P}) + (\color{darkorange}{AC \times} \mathbb{B'P}) + (\color{blue}{BC \times} \mathbb{A'P})) \times \frac{1}{2} =\)
辺の長さの関係は \(\color{green}{AB} = \color{darkorange}{AC} = \color{blue}{BC}\) なので
\(((\color{green}{BC \times} \mathbb{C'P}) + (\color{darkorange}{BC \times} \mathbb{B'P}) + (\color{blue}{BC \times} \mathbb{A'P})) \times \frac{1}{2} =\)
\(BC \times (\mathbb{C'P + B'P + A'P}) \times \frac{1}{2} =\)
\(BC \times (\mathbb{A''A}) \times \frac{1}{2}\)
よって
\( (C'P + B'P + A'P) = A''A\)
三角形(APB)(APC)(BPC)は底辺(AB)(AC)(BC)がみな同じ。
三角形(APB)(APC)(BPC)の面積を全て足したら (ABC)に等しい。
面積の式。
\((ABC) = BC \times \mathbb{A''A} \times \frac{1}{2}\)
\(\color{green}{(APB) = AB \times \mathbb{C'P} \times \frac{1}{2}}\)
\(\color{darkorange}{(APC) = AC \times \mathbb{B'P} \times \frac{1}{2}}\)
\(\color{blue}{(BPC) = BC \times \mathbb{A'P} \times \frac{1}{2}}\)
面積の関係は \(ABC = \color{green}{APB} + \color{darkorange}{APC} + \color{blue}{BPC}\) なので
\(BC \times \mathbb{A''A} \times \frac{1}{2} =\)
\((\color{green}{AB \times} \mathbb{C'P} \color{green}{\times \frac{1}{2}}) + (\color{darkorange}{AC \times} \mathbb{B'P} \color{darkorange}{\times \frac{1}{2}}) + (\color{blue}{BC \times} \mathbb{A'P} \color{blue}{\times \frac{1}{2}})=\)
\(((\color{green}{AB \times} \mathbb{C'P}) + (\color{darkorange}{AC \times} \mathbb{B'P}) + (\color{blue}{BC \times} \mathbb{A'P})) \times \frac{1}{2} =\)
辺の長さの関係は \(\color{green}{AB} = \color{darkorange}{AC} = \color{blue}{BC}\) なので
\(((\color{green}{BC \times} \mathbb{C'P}) + (\color{darkorange}{BC \times} \mathbb{B'P}) + (\color{blue}{BC \times} \mathbb{A'P})) \times \frac{1}{2} =\)
\(BC \times (\mathbb{C'P + B'P + A'P}) \times \frac{1}{2} =\)
\(BC \times (\mathbb{A''A}) \times \frac{1}{2}\)
よって
\( (C'P + B'P + A'P) = A''A\)
2020年4月1日水曜日
なぜ掛け算を先にやるのか
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割り算 In this Site前提条件
- 足し算は掛け算、掛け算は足し算
\( 2 + 2 + 2 = 3 \times 2\) - 引き算は足し算、割り算は掛け算
\( 2 - 3 = 2 + (-3)\)
\( 2 \div 3 = 2 \times \frac{1}{3}\) - 足し算と掛け算は、順番に影響されない
\( 2 + 3 = 3 + 2\)
\( 2 \times 3 = 3 \times 2\) - 引き算と割り算は、左から順番に計算する(順番を変えると結果が変わる)
\( 2 - 3 \neq 3 -2\)
\( 2 \div 3 \neq 3 \div 2\)
足し算と掛け算の混在
計算の順序がなければどうなるだろうか。
\(1 + 2 \times 3 - 4\)
- 頭から順番にやる。
\(1 + 2 \times 3 - 4 = ((1 + 2) \times 3) - 4 = (3 \times 3) - 4 = 9 - 4 = 5\) - 足し算・引き算を最初にやる。
\(1 + 2 \times 3 - 4 = (1 + 2) \times (3 - 4) = 3 \times -1 = -3\) - 掛け算を最初にやる。
\(1 + 2 \times 3 - 4 = 1 + (2 \times 3) - 4 = 1 + 6 - 4 = 7 - 4 = 3\)
足し算と掛け算が混じっている時に計算する順番が違うと結果は変わる。だから順序を決めておかないと同じ結果が得られなくなる。
足し算は掛け算、掛け算は足し算
以下の式。
\(a + a + a + a + b\)
上の式の足し算を掛け算に変える。
\(2 \times a + a + a + b = 3 \times a + a + b = 4 \times a + b\)
この時、足し算を先に計算するルールだと次のように計算しなければならない。
\(4 \times a + b = 4 \times (a + b)\)
上の式を足し算に戻す。
\(4 \times (a + b) = a + a + a + a + b + b + b + b\)
これは元の式とは異なる。
\(4a + b = 4 \times a + b = a + a + a + a + b\)
もうひとつ
以下の式。
\(a + a + a + b + b\)
掛け算の形にする。
\(3 \times a + 2 \times b\)
足し算を先にするルールだと次のようになる。
\(3 \times a + 2 \times b = 3 \times (a + 2) \times b = 3 \times b \times (a + 2) = 3b(a+2)\)
これを足し算の式に戻そうとすると元の式と違っている。
\(3b(a+2) = (3b \times a) + (3b \times 2) = 3ba + 6b = ab + ab + ab + 6b =\)
\((a \times b) + (a \times b) + (a \times b) + (b + b + b + b + b + b)\)
\((a \times b) + (a \times b) + (a \times b) + (b + b + b + b + b + b)\)
このような誤りを防ぐには次のようにカッコを書く。足し算を先にするというルールがある場合、足し算を掛け算の形にした場合は常にカッコを書かないといけない。
\(a + a + a + b + b = (3 \times a) + (2 \times b) = 3a + 2b\)
もしカッコを書き忘れると結果が変わる。常にカッコを書かなければいけないのは面倒。なるべくカッコを付けないようにしたい。
掛け算を先にするルールにすれば、カッコを書かなくてもいい。楽チン!
\(a + a + a + b + b = 3 \times a + 2 \times b = 3a + 2b\)
掛け算を先にするルールによって、掛け算記号を省略する記法も自然に感じる。
2020年3月20日金曜日
三角形の面積
直線
直線がある。この直線のある点から円状のある位置に線を伸ばせば三角形が出来る。こうしてみると、一次元から二次元に変わる時に最も簡単な操作で出来るのが三角形と言って良さそうだ。直角三角形
直線に対して、長さと角度を変えた点があれば色々な三角形を作る事が出来る。さて、この時の角度を90度に固定すれば長さを変えるだけで色んな三角形が作れる。なぜ90度に固定するかと言えば、ピタゴラスの定義で馴染み深いからだけである。片側だけの三角形の反対側にも点を設ければこれも三角形になる。もし二点が一直線上になければ(角度が180度でなければ)四角形になる。
垂線
三角形は頂点から辺に向かって垂線を引く事ができる。垂線は辺と交差しなくても引く事ができる。しかしひとつの頂点は必ず辺と垂線で交差する。
面積
つまり、三角形は必ず直角三角形に分割できる。直角三角形ならばピタゴラスで面積が求まる。角Aに対する辺BCに対して垂線をおろせば、ふたつの直角三角形が作れる。この三角形 ADB と ADC のそれぞれの辺の長さは次の計算で求まる。
\({BD} = \sqrt{{AD}^2 + {AB^2}} \)
\({CD} = \sqrt{{AD}^2 + {AC^2}} \)
分かっている事
辺 AB, AC, BC の長さ。
頂点 A, B, C の角度。
計算で求まる値
角 BAD は 90 - 角B。
角 CAD は 90 - 角C。
辺 AD の長さ。
\(辺BD = {辺AB} \times \sin({角BAD})\)
辺 CD の長さ。
\(辺CD = {辺AC} \times \sin({角CAD})\)
三角形 ABD の面積は AD * DB / 2
三角形 ACD の面積は AD * DC / 2
三角形 ABC の面積は ABD + ACD
\({BD} = \sqrt{{AD}^2 + {AB^2}} \)
\({CD} = \sqrt{{AD}^2 + {AC^2}} \)
分かっている事
辺 AB, AC, BC の長さ。
頂点 A, B, C の角度。
計算で求まる値
角 BAD は 90 - 角B。
角 CAD は 90 - 角C。
辺 AD の長さ。
\(辺BD = {辺AB} \times \sin({角BAD})\)
辺 CD の長さ。
\(辺CD = {辺AC} \times \sin({角CAD})\)
三角形 ABD の面積は AD * DB / 2
三角形 ACD の面積は AD * DC / 2
三角形 ABC の面積は ABD + ACD
2020年3月14日土曜日
ケーキを三等分する
角度で三等分する
ケーキをカットする方法
- 中心(B)からひとつの方向(A)へ切る。
- その反対側の位置(C)にめぼしを付ける。
- (C)の位置から同じ半径の円を描く。
- 交点で切る。
- または、(BC)の半分の位置(D)から垂直に線を引いた交点で切る。
半径を(R)とする面積 \( \pi \times R^2 \)
角度を三等分する角度 \(360 / 3 = 120 \)
角度を三等分する角度 \(360 / 3 = 120 \)
半径で三等分する
円の面積の\(\frac{1}{3}\)となる半径を求める。ケーキをカットする方法(ほぼ誤差なし)
- 中心から半径の半分より若干外側(1.1倍くらい)の所(R1)で円形に切る。
- 残り部分は半分の所(R2)で円形に切る。
半径を(R)とすると面積 \( A = \pi \times R^2\)
\(\frac{1}{3}\)の面積となる半径(r) \( \frac{1}{3} A = \pi \times r^2\)
\(\frac{1}{3}\)の半径 \( r^2=\frac{1}{3}A \div \pi ⇒ r=\sqrt{\frac{1}{3} \frac{A}{\pi}}\)
\(\frac{2}{3}\)の半径 \( r^2=\frac{2}{3}A \div \pi ⇒ r=\sqrt{\frac{2}{3} \frac{A}{\pi}}\)
\(\frac{1}{3}\)の面積となる半径(r) \( \frac{1}{3} A = \pi \times r^2\)
\(\frac{1}{3}\)の半径 \( r^2=\frac{1}{3}A \div \pi ⇒ r=\sqrt{\frac{1}{3} \frac{A}{\pi}}\)
\(\frac{2}{3}\)の半径 \( r^2=\frac{2}{3}A \div \pi ⇒ r=\sqrt{\frac{2}{3} \frac{A}{\pi}}\)
\(\frac{A}{\pi}=1\)とした時
\(\frac{1}{3}\)の半径R1は \(\sqrt{\frac{1}{3}}\)
\(\frac{2}{3}\)の半径R2は \(\sqrt{\frac{2}{3}}\)
\(\frac{3}{3}\)の半径R=R3は \(\sqrt{\frac{3}{3}}=1\)。
R1:R2:R3 の比は
\(\sqrt{\frac{1}{3}}:\sqrt{\frac{2}{3}}:\sqrt{\frac{3}{3}} \fallingdotseq 0.5774 : 0.8165 : 1\)。
\(\sqrt{\frac{1}{3}}\fallingdotseq0.57735026919...\)は半分(\(\frac{1}{2}=0.5\))よりも若干大きい。
\(0.5 \times 1.1 = 0.55, 1.5 \times 1.2 = 0.6\)だから1.1と1.2の間のどこか。
\(0.57735026919 \div 0.5 \fallingdotseq 1.15470053838...\)
辺の長さの比
R1:R2の比は1.4142で \(\sqrt{2}\)
R1:R3の比は1.7321で \(\sqrt{3}\)
R2:R3の比は1.2247で \(\sqrt{1.5}\)
R1:R2は \(\frac{R2}{R1} = \sqrt{2} = \sqrt{\frac{6}{3}} = \frac{\sqrt{6}}{\sqrt{3}} \)
R1:R3は \(\frac{R3}{R1} = \sqrt{3} = \sqrt{\frac{9}{3}} = \frac{\sqrt{9}}{\sqrt{3}} \)
R1:R2:R3 の比は
\(\sqrt{3}:\sqrt{6}:\sqrt{9} \fallingdotseq 1.7321 : 2.4495 : 3\)としてもよい。
\(\sqrt{3}\fallingdotseq1.73205080757...\)は半分(\(\frac{3}{2}=1.5\))よりも若干大きい。
\(1.5 \times 1.1 = 1.65, 1.5 \times 1.2 = 1.8\)だから1.1と1.2の間のどこか。
\(1.73205080757 \div 1.5 \fallingdotseq 1.15470053838...\)
\(\frac{1}{3}\)の半径R1は \(\sqrt{\frac{1}{3}}\)
\(\frac{2}{3}\)の半径R2は \(\sqrt{\frac{2}{3}}\)
\(\frac{3}{3}\)の半径R=R3は \(\sqrt{\frac{3}{3}}=1\)。
R1:R2:R3 の比は
\(\sqrt{\frac{1}{3}}:\sqrt{\frac{2}{3}}:\sqrt{\frac{3}{3}} \fallingdotseq 0.5774 : 0.8165 : 1\)。
\(\sqrt{\frac{1}{3}}\fallingdotseq0.57735026919...\)は半分(\(\frac{1}{2}=0.5\))よりも若干大きい。
\(0.5 \times 1.1 = 0.55, 1.5 \times 1.2 = 0.6\)だから1.1と1.2の間のどこか。
\(0.57735026919 \div 0.5 \fallingdotseq 1.15470053838...\)
辺の長さの比
R1:R2の比は1.4142で \(\sqrt{2}\)
R1:R3の比は1.7321で \(\sqrt{3}\)
R2:R3の比は1.2247で \(\sqrt{1.5}\)
R1:R2は \(\frac{R2}{R1} = \sqrt{2} = \sqrt{\frac{6}{3}} = \frac{\sqrt{6}}{\sqrt{3}} \)
R1:R3は \(\frac{R3}{R1} = \sqrt{3} = \sqrt{\frac{9}{3}} = \frac{\sqrt{9}}{\sqrt{3}} \)
R1:R2:R3 の比は
\(\sqrt{3}:\sqrt{6}:\sqrt{9} \fallingdotseq 1.7321 : 2.4495 : 3\)としてもよい。
\(\sqrt{3}\fallingdotseq1.73205080757...\)は半分(\(\frac{3}{2}=1.5\))よりも若干大きい。
\(1.5 \times 1.1 = 1.65, 1.5 \times 1.2 = 1.8\)だから1.1と1.2の間のどこか。
\(1.73205080757 \div 1.5 \fallingdotseq 1.15470053838...\)
縦に三等分する
円の方程式を積分に突っ込んで求める方法もあるらしいが、ここでは扇形の面積から三角形の部分を引いた面積が\(\frac{1}{3}\)となる高さ(H)を求める。きちんと割り切れない可能性が高いので有効 n 桁を決め、その精度の範囲内で求める。ケーキをカットする方法(誤差あり)
- 半径の1/4~1/3の所で切る。
- 反対側も同じ所で切る。
分かっているもの
半径 R と高さ H の三角形二つ分だから \( R \times H \div 2 \times 2 = R \times H \)
三角形の辺の長さ(B)
ピタゴラス \(R^2 = H^2 + B^2 \) から残りの辺(B)の長さは \( B = \sqrt{R^2-H^2} \)
扇形の面積(A2)
辺 R と B の関係から \( \cos(\theta) = \frac{R}{B} \)
扇形の角度(\(\theta\))
扇形の角度(\(\theta\))は \(\theta = \arccos(\cos(\theta)) = \arccos(\frac{R}{B}) \)
よって円の面積Aを \(\frac{\theta}{360}\)倍すればよい。
- 三角形の斜辺 = 円の半径 = R
- 三角形の高さ = H
半径 R と高さ H の三角形二つ分だから \( R \times H \div 2 \times 2 = R \times H \)
三角形の辺の長さ(B)
ピタゴラス \(R^2 = H^2 + B^2 \) から残りの辺(B)の長さは \( B = \sqrt{R^2-H^2} \)
扇形の面積(A2)
辺 R と B の関係から \( \cos(\theta) = \frac{R}{B} \)
扇形の角度(\(\theta\))
扇形の角度(\(\theta\))は \(\theta = \arccos(\cos(\theta)) = \arccos(\frac{R}{B}) \)
よって円の面積Aを \(\frac{\theta}{360}\)倍すればよい。
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