第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
短くすると
第七十六条 司法権は、下級裁判所に属する。○2 特別裁判所は、設置できない。行政機関は裁判できない。
○3 裁判官は、良心に従ひ独立して職権を行ひ、憲法、法律にのみ拘束される。
要するに
死刑について。考えるに(私刑)
[1] 司法が私刑を禁止する理由は理解しやすい。私刑には罰則の根拠がない。量刑を決めるのは司法だけとする。これを法に基づいて運用する。これが近代国家の要諦である。法の公平性は量刑の等しさとしてこの方法をもって保証する。同時に法の不遡及性も法により禁止する事で保証する。これらが罰則の濫用を防止する安全装置としての役割を果たす。[2] 見ず知らずの犯罪にさえ憤りを感じるのは自然な感情である。このとき、我々の中には集団への安定性を強く希求する気持ちがある。だから、集団を破壊しようとする勢力、安全性を脅かす行為に対しては、人間は極めて自然に罰則(ペナルティ)を求めるし、罰則の根拠もここにある。抑止と排除が安全保障の基本戦略である。だから、見せしめ(抑止効果)は罰則の根拠となり得る。認められるべきである。
[3] これによって得られる心理的な安心感が社会への帰属を支えている。この信用なくして社会は維持できない。もしこれが破壊されたなら人間は集団を形成できない。危機意識、恐怖感は人間の行動を過激化する。そして、そのような状況に対して人間は団結する事でしか対処する方法を知らない。団結するには内と外を区別する何かが必要だ。それは何でも構わない。極めて詰まらない差異を極めて重要であると認識する社会を数百年でも維持する。
[4] 恐怖が人の排他欲求を強固にする。日常に戻すためには、異分子を排除すればよい。それが暴力と結びつくのも簡単である。国家の危機、民族の純潔など、卑近な例を持ち出せば、人は幾らでも集合を形成する。国家が侵害されると思えば右傾化するし、凶悪犯罪が起きれば断固たる極刑を求める。これは社会が安定するために必要なスタビライザーである。
[5] いかなる理由を探そうと決して許すべきでない凶悪犯罪はある。極刑以外は考えられない。もし司法がそれを放棄するなら正義は市民に返上すべきだ。例えばコンクリート殺人事件の犯人たちはこれに該当する。Meurtre de Junko Furuta — Wikipédia
[6] この事件では誰も(15人程度)死刑にならなかった。当時の司法は、法の公平性と不遡及性を重んじ、彼らを死刑にする法がないと結論した。彼らは過去から未来へと続く司法制度の一貫性を最優先した。
[7] その時、司法は正義を失った。正義は間違いなく彼らの死刑を要求する。それが法的に不可能なら、どんな手段を使っても、司法の手で始末すべき事案であった。拘置所で首を括るなど、幾らでも方法はあった。だが、誰一人として司法の正義を選択する者はいなかった。彼らは司法の健全性の前にたじろぎ恐怖し影に逃げ込んだ。彼らは何もしない事を選択した。
[8] 確かに正義は暴力を正当化する唯一の根拠である。そして近代国家はこの暴力を封じ込める事を最優先とする機構である。そしてその矛盾と向き合うのが司法の人々である。
[9] だから正義を手放すのは容易い。その理由は幾らでも見つかる。暴力を封じ込める事は正義よりも優先するのだ。だが正義を失った国家に人が帰属するだろうか。正義を断念した者たちに何を託すのだろうか。彼らを釈放し今ものうのうと野放しにしている国家に何を求めるべきだろう。この時を以って司法は機能を停止した。正義を失った司法は機動する事ができない。
[10] どんな手段を使おうが見つけ出しこの世界から追放しなければならない。今からでも遅くはない。彼らを人間と呼ぶ必要はない。この世界の自由を謳歌する権利を認める必要もない。殺された者より殺した者が尊重される社会が認められてたまるものか。そんな馬鹿な話があってたまるか。正義は取り戻さなければならない。このまま大河の流れの中に忘却させてはならない。
[11] 司法の最重要事項は法を守ることではない。それは制度上の必然である。法の理念を守ることでもない。それは信頼を得るための根拠である。ただ正義あるのみである。千年先にも残せる正義を構築し、どのような困難を排してでも執行する義務が司法にはある。
[12] 我々の復讐権は未だ不履行のままである。国家は少年法を盾とし凶悪犯を擁護する側に回った。のみならず隠避した。逃亡に手を貸した。殺人者を守護する者になった。この事件が日本の司法を殺した。彼らは司法というフレームは後世に残したが、それは正義の入っていない抜け殻である。
[13] もちろん、この国の裁判所に勤務する 80% の者たちは事件の前で己れの人間性を問われながら、悩み、法規を調べ、法例と照らし、誠実に決断する事に努めている。アブラハムは十人の正しい者のためにソドムを滅ぼさないように懇願した。滅ぼすまい、神はそう語ったが、ロト一人しか見つからなかったために滅ぼした。
[14] 神は要求した人数に達しなかったから滅ぼしたのか。恐らく違う、正しい者が何千人いようと、許されれざる者が一人でもいたならば、神はソドムを滅ぼしたはずである。
[15] 例え、全人類の滅亡と引き換えにしても、追求されなければならない正義がある。もしその正義を執行できないなら、国家なぞ滅びて差し支えない。国家が正義を保てないなら、市民は革命権を行使するしかない。自衛権は市民の所有である。もし国家が崩壊したなら、我々は自らの手で自らを守るしかない。司法が犯罪者のための盾となるのなら、我々は司法に対して反撃するしかない。もし司法が正義を放棄したのなら我々には私刑という手段しか残っていないではないか。
[16] 近代国家の刑法は復讐を許さない。刑罰は法に定められた量刑で処置されなければならない。勘違いしてはならないのは、司法は復讐権の代理として刑罰を与えているのではない。復讐の度合いは人々の憎しみの強さで変わる。復讐が刑罰の根拠になると原理的に同じ罰は存在しない。それでは法の理念が構成できない。だから刑罰は復讐に依拠して決めてはならない。
[17] では量刑が軽いのはどういう訳か。その主体を決定するものは何か。その時になって始めて復讐という感情が登場する。復讐は司法ではなく立法に立脚すべき属性だ。だから、司法は憎しみの強さで量刑を決めない、決めてはならない。
[18] それでも、我々の想像を超える犯罪は起きる。司法が刑法が立法が量刑が、想定さえしなかった犯罪というものが必ず起きる。ここで司法は機能不全に陥る。立法が、つまり民主主義が考慮しなかったこの犯罪をどのように裁けばよいのかと。
[19] 今からでも遅くはない。彼らをきちんと死刑にすべきだ。それが不可能なら社会で抹殺するべきだ。この世界のどこにも生きる場所がない事を思い知らせなければならない。例え司法がそれを拒否しようと、市民の手になる魔女裁判によってでも、正義を取り戻す必要がある。たとえ魔女裁判であっても、それがどれだけ悲惨な結果を招こうと、正義を失った司法よりはましなのである。
死刑廃止論
[20] なぜヨーロッパは死刑を廃止したのか。だが死刑を廃止したからといって、人が人の命を奪う事を禁止した訳ではない。死刑を廃止した国でも、テロリストは射殺され、戦場では敵に銃弾を浴びせる。[21] 死刑を廃止した国家は、ただ司法制度では人を殺さないと決めただけだ。人を殺す事までを拒否した訳ではない。殺す事を拒否していない以上、殺される事も拒否できない。殺すのはいいが、殺されるのは嫌だという一方通行はない。だから、原理的には殺人が尽きるはずがない。
[22] なぜ司法だけが死刑を廃止したのか。多くの人が人道や冤罪を根拠とする。だが、これらを主張するのは社会の富裕層である。そのような決断をすることを私は拒否する、なぜなら、私は富裕層だからだ。これが死刑を廃止したい人々の本心である。それ以外の理由はどこにもない。
[23] なぜなら、そういう国でも富裕層でない者たちが手を汚す仕事をしている。テロリストを射殺する警察官、敵の施設にミサイルを撃ち込む兵士。それらは暴力ではない。国家への忠誠である。君たちの義務である。これは物理的に問題を解決したに過ぎない、人道上、何も気にする事はない。彼らはそう主張し、自分たちではない誰かにトリガーを引かせる。
[24] そうしておいて自分たちが殺す事は拒否する。そのような責任を嫌悪する。それは殺された被害者の代弁ではない。加害たちの代弁でもない。ただ自分たちの安住な世界の中にそのようなものを持ちこむ事を拒絶する主張、それは富んだ者たちの代弁である。そうして彼らは主張する、我々こそが人間であると。
[25] 死刑を考える事は人間をどう定義するかに等しい。裁判を受けられるのは人間だけである。その人間を死刑にする事は出来ない。だから、裁判を受けずに射殺されたテロリストは人間ではない。だから、殺す事に躊躇しなくてよい。
[26] 世界中を席巻する「人間」という思想を生み出したのはヨーロッパである。彼らの「殺さないで」「苦しめないで」という思想の延長線上には、それ以外ならば殺しても苦しめても構わないという地点がある。そこに境界はない。だから世界中で何百、何千万もの人ではない何かが殺されている。何かを直視しないで済むために発明されたもの、それが人間という思想である。
[27] ビーガンもまた、人間と関係する生物が苦しむのは見たくないという思想ではないか。だから野生動物が飢えようが、生きながら食われようが何も感じない。それは自然の世界での出来事である。人間が住む世界の外での出来事である。
[28] 牛を殺すなという主張は牛が人間の世界の内側にいる事を意味する。動物たちが苦しむのを見たくないのではない。人間という価値観を壊したくない。だから野生動物たちの狩りには言及しない。内と外がある。だから外の世界に無関心でいられる。
[29] だから排除する。本質的に外に排除する形でしか実現できない。従え、でなければこの世界から出て行け。
[30] 人間の手によっては生命を殺させない。それが「人間」という思想である。だから殺す必要がある場合は、外に連れ出す、それを誰かにやらせる。こういう構造から、死刑廃止は階級社会でしか起きえない。
残虐性
[31] 残された者の憎しみの強さに比例して、復讐心は強くなる。その結果として死刑では生温いという考え方も生まれる。少なくとも、古い時代の殺害には、無惨なものが多い。そこには人間の情念が含まれている。そこまでしなければ蕩尽できない心の傷がある。[32] 死んだほうがマシな拷問は幾らでもある。もっと苦しめるために殺しはしない。だからギロチンという人道的な処刑法が考案された。苦しめ苦しめ抜いて、相手からもう殺してくださいというまで苦しめる。その言葉を吐かせなければ気が済まない。そういう歴史がある。
[33] 皮剥ぎは残虐な刑のひとつである。剥ぐだけでは死ねない。バルトロマイのように長く呻吟する。この殺し方が相応しいものも居る。だが全ての死刑がそうであるとは思えない。この刑罰に何か死刑の根源となるものが潜んでいるような気がする。
[34] 歴史的に虐殺で知られるバートリ・エルジェーベトは、逮捕後、1日1回の食事を差し入れる小窓を残し、漆喰で塗り塞がれたチェイテ城の自身の寝室に幽閉された。その暗黒の中で彼女はなお3年半生きた。自由を奪われる恐怖、風もなく太陽も見えない恐怖、殺される方がましだという刑罰であっても人は生きるのを止めない。しかし、これは極めて極悪な犯罪者だけの例ではない。誘拐されて何年も地下室で過ごした被害者のなんと多い事か。その犯人はどうされたか。
[35] 刑罰の残虐性は、残虐な犯罪と比例してあるべきだ。残虐さの尺度は、暴力の内容と期間で決まる。同じ暴力であっても長く苦しめれば、それだけ刑罰も強くしなければ公平ではない。死刑を執行したら痛みを感じなくなる。それではわずか数秒の罰則ではないか。それを人道と呼ぶか。だが、復讐には足りない。生きている間に相応の苦しみを与える続けなければならない。それが残虐の必要性だ。
[36] 犯罪者は苦しめるべきである。被害者の苦しみと同等以上でなければならない。少なくとも、太古から人間が地獄を想像してきた根幹はこれが理由だ。情感が復讐を支える。同様に残虐性を支える。恨みを晴らさなければ浄化できない悲しみがある。その重要性は、犯罪者が苦しむかどうかよりも重要なはずだ。その多くが実現しなかったから、その残った情念が地獄を生んだ。
[37] ならば痛みも恐怖の一部ではないか。痛みもまた恐怖を含まなければ意味がない。罰則とは恐怖という意味になる。恐怖のない死刑に意味はない、逆に恐怖を与えられるならば死刑でなくとも構わない。残虐である必要性もない。
[38] だが恐怖だけは外せない。テロリストを恨まない、憎まない事が最大の勝利である、とアントワーヌ・レリスは堂々と主張した。しかし、テロリストたちは、この言葉さえも鼻で笑うだろう。残虐さの限りをつくしたコンクリート事件の殺人者が今日も笑って暮らしているように。
罰
[39] 我々が凶悪犯を死刑にしたいのは、この社会からその存在を消したいからである。社会の脅威である/あったから、完全に消さない限り、社会の安定性は復元できない。だから、刑罰は見せしめで構わない。排除が目的である。どのような凶行も恐怖を与えて排除する。それが社会の安定に必要だ。[40] では、我々は凶行を憎むべきか。ならば、それを行った人間を憎しみの対象に含めなくても構わないのではないか。罪を憎み人を憎まずという言葉がある。確かに、凶行を行った人間の体には罪はないはずだ。
[41] 罪を犯した者がいる。その人間は罰する対象であるか。死刑はこれに対する最も明確な罰則である。死刑はその体に対して作用するものだからだ。だが、その凶行が、その人物の中の何に起因して発生したのか、と分割してゆくと、罪の原因は、体ではない。
[42] ナイフを手にしたその指が悪いのか、ならばその指を切り落とせばよい。拳を使うなら手首から切り落とせばよい。腕を切り落とし、足を切り落とせば二度と暴力は振えない。これで原因を取り除いた事になるか。それとも過程を取り除いただけか。指も腕も足も手段を奪っただけではないのか。ならば命は暴力の主体ではないはずだ。
[43] だから、その者の心にこそ、その主体があると考える。だから罰は心と切り離せない。だから地獄という世界は生まれた。如何に罰を与えても心が変わらなければ意味がない、だから命ごと屠るのは話が早い、忘却できるから。歴史はそう考えてきた。これは完全に正しい。それが最も確実な道だ。だが、心とは何かという疑問が消えた訳ではない。
[44] 心が何であるかは分からない。しかし、それを行ったのが「脳」であるという事は確かであろう。
脳
[45] その罪を行ったのは「脳」である。その凶悪もその快楽も脳が司った。意識では到底太刀打ちできない依存性がある事を現代は知っている。人は意識が飛んだ状態でも犯罪を犯す事ができる。幻想を見て魔物から子供を救おうとナイフを振った人が誰かを刺す事もある。人間は脳に腫瘍を患うだけで暴力的な性格や小児性愛に変わったりもする。覚醒剤からどうしても抜け出せない、破滅すると分かっていても止められない、依存症に関する知見が次第に深まりつつある。空気を吸う事が依存症と診断されなくて本当に良かった。すべて脳の働きである。[46] 脳が感じない痛みには意味がない。脳が感じない恐怖に意味はない。恐怖こそが脳の根幹を形成するとても重要な機能である。これと切り離して死刑を論じても意味がない。
[47] 脳。この複雑な回路。何重にも入り交じった電気の流れ。それが我々の意識のみならず、様々な行動に影響する。我々は洞窟に囚われて影を見ているようなものであるとプラトンが語った。我々の意識は脳という洞窟の中に縛り付けられている。
[48] とき、ここに至り、問題の核心が「脳」にあるという場所へ辿り着いた。この凶行に及んだのは一体どのような「脳」だったのか。この問いに全てが極まる。このたったひとつの問いで良い。罰則とは脳に恐怖を与える事、しかし、それでは足りない。脳の働きを解明する事。それで十分である。そして、それを解明するのに死刑では不十分なのである。
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