拡張領域
ロボットアニメには肉体の延長として描かれてきた側面がある。これは人間が使用するエネルギーの増大に伴う現象である。エネルギーの増大が肉体感覚を相対的に縮小化する。この差を補完する機構としてロボットがある。故にロボットの巨大化は、肉体とエネルギーの差を埋める者である。肉体は巨大化できない。だからロボットが巨大化する。そのサイズはエネルギー量と吊り合う筈である。
ロボットは、操縦者が自由に扱う機構を通じて視聴者が万能感を得る。肉体の代理としてのロボットがある。宇宙戦艦が廃れた理由もここにある。宇宙船では個人を代理できない。人馬一体感はロボットが与える。
仮面を付ける、体をペイントする、入れ墨をする、体に傷跡を残す、これらはとても古い時代からある。未開と呼ばれる生活習慣の人たちの風習として今も残る。体に何かを残す事は相当に古くからある。
なぜ人間は肉体を改造しようとするのか。自分の体にマーキングする、ひとつにはアイデンティティの確認であろう。日記を付けるように肉体に自分の歴史を記録して残そうとする。
暗い空間で火に照らされた肉体には、影が静脈の色で青く浮かび上がって見える時がある。筋肉の筋に沿って模様状の影が浮かび上がる。これは明るい所で現れない現象で、それを定着させたいと言う欲求があっても不思議はない。
自分の中に見えない文様が隠れている、それをいつも感じたいという気分も分からないではない。その欲求が依存症まで高じても不思議はない。
肉体改造は自分に対する自然からの語り掛けへの応答である。意識は自己確認の方法であるし、自然に抗う手段のひとつでもある。自然に溶け込みたくない気持ちは一種死への抗いとも考えられる。意識は自然へのアンカーとして肉体を使う。
肉体を通じて意識は自然と対峙する。自分自身の肉体さえも疎外感を与える。この矛盾は脳の発達と無関係ではない。意識は無意識野がどう肉体を制御しているかを知らない。それを試すかの様に意識から働き掛け無意識を制御しようと試みる。
意識は変身、獲得、憑依などの方法を使ってトランス状態を作る。意識にも他者へなりたいと言う願望がある。この脳の働きは自然の厳しさに対する逃避行動だろう。
ロボットはこれらに対抗する手段のひとつだ。
具象化
初期のロボットは、鉄腕アトム(1952)、鉄人28号(1956)、魔神ガロン(1959)、マグマ大使(1965)、ロプロス(1971)、ポセイドン、ロデムなど自律型のロボットであった。これは科学的には全く正しい本来の姿で未来科学に基づいてロボットが具象化したものだ。しかし、この未来は少し早すぎた様だ。科学志向という点ではアトムも鉄人もアメリカの前で敗北した日本の国力を一気に埋める為の存在であった。正しく科学を使いこなせたならば、あの愚かな戦争は回避できた筈だと。
当時の日本の工業力ではアトムも鉄人も実現できない。暫くすればそれらは到達しえない遠い未来であった。そうは言っても日本の工業はアメリカ工業を模倣しながらも着実に独自の発展をし自動車産業が中心となって経済の中心となり普及していった。スバル360(1958)。
社会は未来科学から工業社会へとシフトしてゆく。日本は復興してゆく。それに先駆けてマジンガー(1972)が誕生した。
マジンガーの搭乗方式はそれまでの自律したロボットでも、外部からコマンドを受け自動実行するロボットでもない。オートバイの感覚で操縦できるロボットが誕生した。
ロボットアニメは常に日本の社会を後追いしながら時に先行しながら発展している。戦後直後は科学の象徴としてその次は製造業の象徴として。未来科学の結晶から工業品であるスーパーロボットへ。日本の製造業と共にロボットアニメも進んできた。
ガンダム(1979)が、天才科学者の発明、未知のエネルギー源、謎の太古文明の遺産、宇宙人が残したオーパーツ、オーバテクノロジーから、企業が開発し販売する工業品へと変えた。軍用であれ民需品であれ、ロボットは工芸品から工業品に変わった。
視聴者にとってロボットアニメは日本産業との接点でもある。そのリアリティは現在の工業の少し先に置かれる。そしてアニメと工業は互いにフィードバックしながら日本社会を形成してきた。
ロボットアニメは人型という型式からは逃れられなかった。それが個人の肉体を拡張する方法だったからだ。そして現実の技術は鉄腕アトムに連なる自律型のヒューマノイドを実用化しつつある。これがアニメ作品に影響を与えない筈がない。
物語
子供が戦争ごっこを好むから、ロボットアニメにそれが投影されるのは合理性である。物語の背景に日本の敗戦がある。早い話が沖縄戦にこれを投入できたなら、沖縄が陥落する事はなかった、そういう技術的怨念が通奏低音にある。ではマジンガーが原爆の炎で焼かれたらどうなるのか、この矛盾はその後の時代を生きる我々の宿題となろう。
だからマジンガーの敗北は戦争の敗北と重なる。そしてグレートという形で更に乗り越えるのも自然である。敗戦から立ち上がる物語。だが、グレードはあくまでその代理であったため反感が残った。
だからグレートの後半では甲児が、代理であるグレードを超えて、直接勝負し勝利する必要があった。鉄也の勝利だけでは駄目だったのである。
敗戦の結実として戦争は否定されなければならぬ。正義はこの一点で担保する。だからそれらは戦争ではなく戦闘として描かれる。侵略ではなく防衛戦として描かれる。
敵はその社会が潜在的に排除したいものの具象化であろう。それは正義と密接に係る。なぜ敵には正義はないのか。我々には何としても守りたいものがある。この価値観が正当性を与えている。その背後には敗北の劣等感も含まれる。
単純な支配者、侵略者に対しての防衛戦はどのような場合も支持される。そこには勿論欺瞞がある。そこに着目するのは作家性の問題として当然であった。リアルならば敵にも敵の事情がある。つまり敵の物語も描けるという事だ。バトラーV(1976)。
物語は日本を超えて地球の未来も含めた世界像に拡張されてゆく。世界にはまだ数多くの問題がある。火の鳥未来編(1967)、デビルマン(1972)、テラへ(1977)、伝説巨神イデオン(1980)。
メカニカル
桜花は電子回路の変わりに部品として人間を乗せる設計をした。操縦系から人間を排除する事は、最も脆く弱くコストの高い諸元である人間を他の部品に置き換える要求である。F104(1958-2004)が最後の有人戦闘機と呼ばれたが実現はしなかった。技術の発展に伴い鉄道も自動車も航空機も無人化の方向に進んでいる。
人件費の高騰もある。ビジネスから人間を排除する事は最終的には資本家だけで製造業が実現できる事だ。全ての利益を資産家が手にする。そういう世界に向かう。
システムの最大のリスクは人間である。システムの中で役割を与えられて其々の場所に配置され機能する。この中から人間を減らして行く、人間の変わりに機械に置き換える。
その方向に進むのは確かだが、では人間の存在価値はどこにあるか?市場の構成者である。これだけは機械では置き換えられない。
鉄人が遠隔操作であるのは今となってはドローン的で説得力がある。鉄人28号、ジャイアントロボがリアリティを持てる時代が来た。確実に戦闘機は無人化する。
機体の能力から言って人間の搭乗はリスクである。人間の生存の為に機能を制限したり諦める。それ以上の性能は見込めない。無人化は電子機器の変わりに人間を搭載した時代に遂に終止符を打つ。
もうじき搭乗型のロボットは誰の目にも旧式と映るだろう。ガンダムやパトレイバーも無人機の方向でリビルドされてゆくと予想する。
とは言え、無人機のロボットがどれくらいの販売力を持つだろうか。空母の艦載機よりも戦艦の主砲にロマンを感じる世代である。宇宙戦艦ヤマト(1974)。
無人機では肉体の拡張にも依り代にもなれない。この欲求をどこで満たすか。例えばAIとのペアリングは考えられる。対話型で操縦するのはほぼ鉄人的である。これでどのような一体感が得られるか。
目的地を入力すると地形を識別して自動的に歩行する。目標に対して攻撃命令を出せば自動応答する。これらの仕組みがあるなら、そこに操縦という操作が入り込む余地は少ないと思われる。
何より人間の反射神経では使い物にならない。
もしかしたらロボットアニメは廃れるかも知れない。人間という部品が必要とされなくなって。
パトレイバーのリアリティ
ロボットのサイズは何によって決定されるか。8mの巨体である。人間が搭乗するエリアは、自動車とほぼ同じ。そこに手足を付ければ最小サイズは計算できる。だがこのサイズを想定して道交法は作られていない。もしパトレイバー(1988)が実現するなら道交法は書き換えられる。ではどう書き換えるか。
高さ制限が想定を超えており、現行の道交法の中には組み込めない。そもそも移動速度が遅い。よって工事現場などの特殊車両に分類される。キャタピラ車両と同等の扱いで一般道の移動は禁止される。
そもそも暴れだす可能性があるなら、それを強制停止する対抗手段は警察の管轄ではなく、各メーカーが停止する機構を提供すべきだ。勿論ハッキングの可能性はあるが、それなら現在のクレーン車やシャベルカーでも十分に起き得る。
しかしそれではストーリーが非常に詰まらない。官僚の仕事の殆どは当たり前すぎて詰まらない所以である。
整備シーンを見れば、労災も不可避である。10m以上の高所で安全柵もなく作業する。立ち姿勢で作業するから落下による死亡事故は頻発するだろう。そんな機械をメーカーが販売すれば大問題になる筈である。官庁がそれに許可を与える筈もない。
社会を描く
ロボットは人間を拡張する技術として存在し、人間の暴力性に正当性を与える立場を与えられ、社会変革を担う手段を提供する。これらの作品に触れてイメージする力をエンジニアたちは蓄積してきた。その根底には人間が獲得したエネルギーの総量の増加がある。そのエネルギーを何に使うかという根源的な問い掛けがある。巨大ロボットがこれだけ動く社会ではエネルギー問題は解決している筈である。
そういう世界の描き方は石油問題への不安の反動とも考えられる。そういう不安から解消された上で好きなだけ戦闘が出来る世界を描く。
エネルギー問題を解決した世界をどう描くか。石油に代わるエネルギー源には何があるのか。科学はその説得力を失いつつある。それなら魔法でも十分ではないか。聖戦士ダンバイン(1983)。
やまとうたは人の心を種として万代の言の葉とぞなれりける。
なぜ転生した社会では魔法を好むのか。この設定も現実世界からの投射であろう。能力の獲得が難しくなっているこの世界で何かが固定化しつつある事へのアンチテーゼではないか。現実からの逃避?
そこに存在するリアリティは必ず現実社会へとフィードバックする。
人型ロボットの操縦法
陸軍における歩兵補助ロボットの研究
なぜロボットは巨大化するのか
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