ひとりごと(記述者)
神が悪魔に許可を与えたと書いてみたものの、別に私がそれを見た訳でもない。もし神の声が聞こえるなら脳に腫瘍でも患っているのだろう。別に私に神の声が聞こえたのではない。それでも、なぜ見て来たかのように書く事が出来たか?そうする方が辻褄があうからだ。神に祝福されている筈のヨブが災いに見舞われた。悪い事は続くもので、子供たちも失った。
そんなもの悪魔の仕業に決まっている。ヨブは悪魔に魅入られたのだ。それでも神への信仰を吐露するヨブ。なんて立派な人間だろう。だが、私には疑いが拭えない。
神がサタンに出し抜かれるなどありえない。サタンでさえ神の元に自由などない。ならばヨブを苦しめているのは間接的ではあるが間違いなく神である。
私にはこの神の不条理を理解する事が出来なかった。この理解を受け入れるには私には信仰心が足りなかった。だが少なくとも悪魔は神の所へ赴き、神に許可を得た事は確かであろう。
サタンはヨブの命を奪う事はしなかった。ただ苦しみを与え続けた。
どんな強い信仰心でも痛みが消えるとは考えられない。どのような信仰心であれ肉体的な苦しみに打ち勝つ事は出来ない。
だから酷い病気になって、ヨブが神を罵るのは当然の事だと思った。そこで私は見た。神に悪態をつき、慄き、ぶつぶつと独り言ちした後に、ヨブが寝入ったのである。そこで苦しそうにしていたヨブは次第に快方へと向かっていった。
神を呪う事でヨブは病気を克服したのだ。わたしにはそう見えた。ならば、神はそれを祝福した事になる。
後からヨブが語る所では、そこで神と会ったらしい。わたしの目の前に現れて私の不信仰をお怒りになったのだと。
ヨブが信仰を取り戻したのは夢の中で神と出会ったからなのか、それとも病が治癒して痛みが取れたからなのか、私には分からない。
どんな苦しみも過ぎ去れば何も残らない。だから痛みを取り除きさえすれば人は再び幸福を感じる。幸福であれば信仰心を持つのは容易い。
だから信仰心をどうすれば宿らさせられるかと考えた時に神が出現する事が絶対に欠かせないと思った。どういう時に出現すべきか。
もし私の信仰が強固なら、何の疑いもなく信仰し続けられただろう。だが根拠ある信仰を持つ者はその根拠により簡単に砕かれる。
信仰が打ち砕かれぬ為には根拠などない方がいい。その場合は神さえ砕けまい。ヨブは神に願っていた。だから信仰は打ちひしがれたのだ。
試すとは試される事ではない。神に願う事だ。もう辞めてくれ、終わらせてくれと願う事だ。だから叶わぬ。
叶わぬならば、神に暴言も吐こう。だが、神はお前の苦しみをぬぐう為の道具ではあるまい。お前は私の奴隷ではない。私はお前の奴隷ではない。だからもし罵って気が済むなら好きにせよ。
そしてヨブが罵った時に彼の病は治癒したのだ。その時に初めて神は出現したのだ。何もかも私をお試しになるために。
熱うつつにあれば、夢の中で神の姿を見るなどごく普通の事だ。それは幻か、それとも神かさてはて悪魔であるか。誰に分かろう。
ヨブの回復が神の力によるのかどうかは私には決められない。病で命を失う人も居る、生き残る人もいる。その全てが神の意図か。すべてが神の自由か。ならばそこに人間が救われるかどうかは人間の自由はない。
神が常に人間を救うとも限らない。実際にヨブの息子たちは麦のように刈り取られたではないか。
ヨブの前に現れた神は、決してヨブの前にだけ現れた神ではない。その時に全ての人類の前に神が現れたという意味を持っている。その神は私の前にも現れたのだ。
神を居ようが居まいが病気が治るか治らぬかに関係ない。それは我々に体の問題であって痛みを感じる事も我々の体の問題であって、そこに神という補助線は必要ない。
どんなに祈ろうと痛みが取れる事はないのだ。
だがヨブは神が現れたと感じた。それが神であると信じた。全てが解決したと思った。
なぜ人間は神の姿を見るまでは信じられぬのにその姿を見るだけで信仰心を得るのか。この不思議さはどこにあるのか?
どれだけ過ちを繰り返しても神と対峙したら人は神の前に膝まづく。神さえ出現すれば。
ヨブは神に満足した。目の前に神が現れればこれほど簡単な話はない。だが多くの我々にとって神と出会うなど起きない。ヨブは珍しくもその簡単さの中で信仰を得た。それは本当に信仰心か。余りに安易ではないか。
ヨブは悪魔を通じて神の意志を味わった。そこに悪魔が必要だったのは何故か。
神は直接的ではない事を知らしめる為か。もしヨブが神への信仰を続けたならば、きっと病からの回復はなかった筈だ。
ヨブが信仰を失ってもやはり病からの回復はなかったであろう。肝心な事は、再び信仰を獲得しても神は受け入れる。何度捨ててもそこには戻れる。
それは一度だけ試みれば十分ではないか。なら全ての人々を代表してヨブ一人が試されたのか?そんな馬鹿げた事を書いて誰が納得できるだろう。
それはヨブの前にだけ現れた神ではないか、ヨブに痛みを与えただけの悪魔ではないか。それがなぜわたしと関係するのか。
苦しみの中に神を見出す事は人間の勝手だ。だが、神を捨てる事も人間の手中にはある。神は決して絶対ではない。もし神が人間を食べると言ったなら、それでも我々は家畜として信仰を続けるのだろうか。
自分の存在理由に神を使うな。それでは神に裏切られた時に我々に出来る事はない。神が我々を知らないと言うなら、我々にも神を知らないという事は可能な筈だ。神はそれを禁止していないのだから。
言いたい事があるならそこに神を使うな。どのような運命であれ、神に問えば全てが神の所作になってしまう。それで納得できるのは間違っている。
この世界の理不尽さに、苦しみに暴言を吐きたければ吐け。哀しみは泣けばよい、自暴自棄になるなら彷徨え。壁を壊して周れ。
その悪態の先に神が居るのは構わない。事実、神はそれを禁止していない。
なぜ神が禁止していないものを守らねばならないのか。神は我々をそう作らなかった。ならばそれは神の瑕疵か。だがそう作った理由を神のせいにするな。
もし神が出現しなければ唯のヨブの病の記録だ。それでは誰の心にも届くまい。悪魔がヨブを苦しめる前に神が止めたらどうだ?それでは残るまい。
苦しみのピークで神がいきなり出現してヨブを救うならそれは依怙贔屓になる。多くの人の前に神は現れない。ヨブに習って神と会いたいからと悪態をつく人も絶えなく続くだろう。
ヨブを叱咤した神には疑念を抱く。だがこの疑念が呪縛する。例え神を捨て去っても疑念は拭えない。そうして問い続ける事になる。
神がこのタイミングで出現したと書いたから、どちらの人も満たす事ができたのだ。その点は疑う余地はない。
信じようが信じまいが、どうでもいいのである。私が記したものに、そのような興味はどこにもない。神が出現すれば十分だ。
なぜ喜びの時に神は出現しないのか、なぜ苦しみの中でしか神は出現しないのか。随分と都合のいい神だ。
わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。
私もその大地の中にあった。ただの土くれだったかも知れないが、その時も私はそこにいた。
私へと繋がる全てはそこにあった。私は今の姿ではないかも知れないが、確かにそこに居たのである。星の欠片は、今日もこの星に降り注ぐ。
あなたの支配があなたの自由を意味するなどそれは傲慢である。
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