ひとりごと(とある予言者)
私は自由だろうか。いま、丘の上の道を行く。これは私の意志ではない。命じられてそれに従っている。誰に命じられているのだろうか?これが神の声であるなら従うのに不満はない。
どこかの王や地方の官吏ならば、私が従う相手ではない。では私には自由がないと言えるのだろうか。これは私の意志に反する行動だろうか?
私が山の上に登った時、それは確かに私の意志であったと思う。私は私に従った。その時の私は別に神の声に導かれた訳ではないのだ。
私の何によって行動しているのだろうか。
私は道の上を歩いている。歩く事は自分の意志だと思う。しかしよくよく考えれば、この道は別に私が切り開いたりした訳ではあに。舗装したのも私ではない。
自由意志といいながら既にある道に従っているだけである。遥か昔に誰かが切り開いた道をあたかも選んだ気になっている。その人たちが別の場所に道を敷いたならきっと私はそちらの道を歩いている筈だ。
既にある道を自由自在に歩く事は出来る。だが自由自在の道はない。そんなに広い道があるならそれは広野だ。ましてそこにも始めに大地がなければならない。
私にあるのは歩く能力だけだ。道は私の自由ではない。自分が選んだのではない。道に選ばれている。私が自由に選んだなどとは到底言えない。幾つかから選ぶ事が私の自由か。
もし神がずうっと前からこの道を歩くと決めていたのなら、私にはその違いは区別できないだろう。神が選んだと言われても私には反論できない。
自分で選んだ気になって、誰かが作った道を歩いて、それで自由な気になっている。この道か、あの道か、選ぶだけが自由だろうか?もし道がひとつしかないのであればどこが選択なのか。
私がその道を行くと決断したのは運命だろうか。もし行かないと決断したのならそれが私の意志だろうか。私にも拒否する自由くらいはある。
どうやら自由と感じる事と、自由である事は違うらしい。例え自由でなくとも満足できるならそれで十分だと思う。従うだけでも満足できるならそれを私の選択と意志と言っても構わない。私にも従う自由はある。
自分の感情が納得できるなら。どんな奴隷であれ自由はある。喜びも悲しみも怒りも痛みも心が納得できれば十分ではないか。そこに恐怖があるならそれは未来だからだ。道を外れる恐れではなく未来を覗き込んだ恐怖である。
未来に怯えるのは決してそこに死の影があるからではない。我々は決して死からは逃げ切れない。だがそれに怯える様には造られていない。
よくよく見れば、誰れも死には怯えてはいないではないか。みな未来に怯えているのである。その恐怖は死に起因しない。それは賢しらである。誰にも死を恐れる事は出来ないのだ。
我々は目の前の牙を避けるようには造られいるが、それを恐れるようには造られてはいない。感情があって危険に立ち向かう。様々な感情が帆のように張られて怯えずに逃げだす事ができる。船のように。虫や魚や獣らと同じ様に。
群れを作る羊は老いて獅子に狩られる。もし老いて強ければ幼子が狩られる。老いて強いものの群れは子を失い遅かれ早かれ滅びる。だから、死は恐れない。麦は死ぬ事で実を結ぶと語った通りだ。
私にも不安がある。この先で何が待っているのか。もし神が全てを決めているなら何故私たちに未来の恐怖を与えるのか。ここを楽園にしなかった理由は何か。私に未来が見えない理由は何か。
誰もがか細い細い綱の上を歩いている。絶えず慎重に生きている。世界と直面すれば本当にか弱い存在である。そんな我々でも遠くまで見渡した時、離れた場所にあるものを、安全な場所から大胆に叩く事ができる。決して落ちる事のない盤石な岩盤の上から。
遠い場所に居る人々を打ち砕く。我々は何かを叩く事で得られる安寧を知っている。叩かずには居られない人がいる。それが人の意志なのか。感情は人の意志なのか。自分の奥底から湧き出てくる感情の正体は何だ。そこに神が宿っているとしても不思議はない。
不安と未来、神が居ようと居まいと、神を取り除いても、私は私の中から出ずるものの正体を知らない。それが自由であるか、意志であるかも知らない。
ただ瞬間にそれは過去である。過ぎ去ったならもう自由はない。ただ満足がある。よって自由は未来にしかなく、満足は過去にしかない。
人間の意志とは未来を自由に選択する事である。それは不確定だから選べるのである。選べるから不安なのである。どれだけ多くを予測した所でどれかひとつに決まったなら過去である。未来の可能性は全て失われ自由は消える。その代償として感情が満たされる。
私たちが未来から選ぶ時、強制や脅迫がなく自由自在に選べる方が正解により近くなる可能性が高い。人間は正解は選べないだろう。だがこれだけが神の選択に近づけると感じられる方法である。そしてどれを選んでもそれは神が選択したのだ。
私たちに空を飛ぶ自由はない。だが神は空を飛ぶ事は禁止していない。よって私たちには空から落ちる自由がある。それを選択したのならそれが自由によって得られたのなら私たちはその選択に満足できる。
神は全知全能である。だから神は未来も過去も知っている。人間にとっての自由が未来に根拠を置くなら、神から見れば随分と退屈ではあるだろう。その未来は神にとっては過去でもあるから。
故に、未来は神を取り除いても成立する。それが神が敷いた道に相違ないとしても。そうと我々が知るのは常に過去であるから。
この人たちは私を憎んでいる。私の語る神は彼らには受け入れ難いらしい。同じ神とは認めてもらえないらしい。
だから私を除外する事で彼らは平穏を得る。その為に私に死を与える。彼らはその行為に嫌悪感はない。私を嫌悪すれば自らの行いは嫌悪しなくて済むからだ。
だから彼らは何も憎んでいない。自分の行為を正当化するためだけの憎しみである。自分の行為を嫌悪しない為の嫌悪である。感情は自在に動く水の如く。私を排除する為だけにもこれだけの複雑な心理的手続きが要求されるのである。それが人間である。捨てたい、遠くへ排除したい。そう思う為には心理は複雑な理由付けを必要とする。
心を守る為に、捨て去ってゆく。そう決めれば決めた通りに動けばいい。その為には感情は邪魔である。ひとつの色で満たすがいい。感情は力の源ではない。それは行動を揺るがず躊躇せずやり抜く為の舵だ。
そう決めたなら揺るがない。どこかに辿り着くまで一日の終わりがくるまで走り抜けばいい。これも一種の闘争だろう。喰うか喰われるか。そういう型をしている。
あちらに取り込まれるのか、それともこちらが取り込むか。支配するか支配されるか。戦争に負ければ色々なものを失う。奴隷となり文化を失い神を失い言葉を失う。
消えたくない、これが憎しみの根底なら、それは私たちが群れ作る者である事と関係している。群れからはぐれて根無し草になってどこへ行くのか。そういう恐怖は遥か昔から植え付けられたものであるだろう。
昨日と明日、その間を一本の軸が結ぶなら、その繋ぐ何かは神に違いあるまい。またはこの街であるかも知れない。この言葉か、それともこの空か。
私が消えれば世界は良くなるのだろうか。それを何度も繰り返せばいつかは全てが消えさるだろうに。世界は広いから今すぐ消えたりはしないだろう。だがいつかは消えてゆく。そういう世界が人々を不安に向かわせる。自由でも、未来でもなく、今が続けとこい願う。
私が死に私は忘れ去られ、そうしてこの人たちは今日までと同じ明日を過ごすだろう。私の言葉も消えてゆくし忘れられる。もし私の言葉が未来に残るなら、何が理由だろう。
ヨブは神に悪態をついたから聖書に名を刻んだ。だがヨブは神を拒絶したのだ。それは神さえも用意しなかった道ではないのか。それともそれも神が用意した道だろうか。
併せてヨブ自身が神でない事も明らかである。神が出現したのだから。ヨブはだから神になりそこねた。
私は神を試さないと言った。試さないとは問い掛けないがしないという事だ。もし問い掛けたのならそれは返事を求めている。返事を求めるならそれは神の実存を試した事に相違ない。
神の全能とはA=BとA≠Bが同時に成立する事である。故に神は矛盾が成立しても気にしない。全知全能だからどちらも成り立つからだ。だから返事は返すかも知れないし、返さないかも知れない。
この地上は砂粒で覆われている。この上を私は歩く。ここに舗装された道がある。この上を歩く。これは誰が作った道だ?私ではない。私ではない誰か。
私の未来はもう絶望だろう。苦痛が待っている。だが私はヨブではない。決してヨブのようにはならない。つまり神は答えを返さないという事だ。私が悪態をついても神は出現しない。だから私は神になる。
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