巻二里仁第四之八
子曰 (子曰く)
朝聞道 (朝に道を聞かば)
夕死可矣 (夕に死すとも可なり)
道とは何であろう。聞くことよりも死よりも道である。果たして孔子は何であれば死んでもいいと言うのか。
朝に生きる意味が分かれば夜に死んでも構わない。それほど求めてやまない孔子の気持ちがある。だからこれは孔子の嘆きだ。そんなものが見つかるはずがないと。もし見つかるのであれば、朝に分かったら朝に死んでもいいではないか。道はそういうものではないか。朝に知り夕方まで何をしているのか。
曰未知生焉知死 - 孔子
あしたを誕生と例えれば、ゆうべは人生の終わりだ。生れて、死ぬ、その間にもし人の道を聞くことが出来たなら十分だ。
人は人生の意味を知りたがる。何故か。われわれは生きている。生きる意味とは何か。
それを知りたいと望むのは何か。形而上学へ行く理由は恐らく形而上にはない。この世界の、生きる原理を知りたい願望は極めて個人的な充実感に帰属する。それは思想の快楽と呼べるものかも知れない。
だとすればそれは人の生き死にを自由にするものではない。思想を見つけても誰の命も奪えない。生み出すこともできない。ただ死んでも後悔しないだけである。その自己満足に尽きる。そして朝に道を聞いても夕まで生き夕餉を食べ寝てまた翌朝を向かえるだろう。何も変わらない朝をそこまで求める根底にあるものは何か。
人生の秘密は恐らくこの世界のあらゆるものの根本だろう。根本なら人の生きる意義にも理由にも影響を及ぼすに違いない。そのようなものを手に入ればきっと世界も自由自在に操れるはずだ。つまり力の行使。つまりこれは実学である。
世界を変えるパワーを手にしたい。野心、夢、野望。これは世界と繋がる方法のひとつである。求めて止まぬ心。世界を求める心。人生の意義とは、世界を自由自在にする欲望だ。すると世界を自由自在に出来ても死んでは仕方がない。だからその延長線上には不老不死がある。
道を聞き、かつ死んでも構わないのなら、それは世界の秘密とは言えまい。道を手に入れて不死になるのなら、それはもう人の道ではない。
Why is there something rather than nothing?
ないのではなく、なぜそれがあるのだろうか。あるとは認識だろうか。あるのに理由は必要だろうか。では無がないとなぜ言えるのか。
世界は我々にとってひとつだろうか。ひとつだから違う世界を探しているのだろうか。その世界は形而上にあるのだろうか。この世界には自分の中にあるふたつのものが投影されている。光と影、明と暗、陰と陽。善と悪、女と男、縄文と弥生、直線と曲線、造形と輪郭。DNA が二重螺旋であった事には意味がある。一重ではこんなに感動はしなかったろう。
もし心に渇望があるならそれは感情と理知の不一致だろう。理性が正しいと訴えるのに感情がそれに同意しない。感情は満足しているのに理性が意義を唱える。何かが違っているのではないかという直感から逃れられない。その答えを別の世界を探す。つまり別の世界はなければならない。
われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか
Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?
P. Gauguin
なぜ目的地なのか。人生には最後に辿り着くべき場所があると信じているか。まだ見ぬ未来がある。それが人を不安にする。人は未知の出来事には備えるしかない。ではどう準備すれば最善か。生きる意義だけでは足りぬ。だが準備の役には立つのではないか。
未来を切り開くために人生の意義が知りたい。それは目的地ではなく自分を支える杖として。未来の洞窟からは獣が襲来してくる。それにどう立ち向かうか。不安とは獣への準備不足だ。不安が失くすには準備するしかない。安心を得るには十分な準備しかない。
それを人生の意義で行おうとする人がいる。生とは何か、死とは何か。根源から探ろうとする姿勢がある。それとは別に未来が分かるはずがない、それが自明なのだから頼りになる何もあるはずがない。そう見る人もいる。
この世界とは社会の事だ。脅威とは獣ではない。たとえ空から星が降ってこようとそれはこの世界の道理に過ぎない。つまり実学の範疇に過ぎない。漠然とした未来など考えても仕方がない。この世界とはつまりこの社会のことだ。それには意義など要らない。人生の実学があれば十分ではないか。どうせ死の役には立たぬのだ。
知恵とは別の方法を見つけ出す事だ。もしひとつしかなければ選べない。そう考えれば一神教の神様の住む世界でさえ、ふたつ目が必要になるのではないか。そして神の世界が不変であるなら、もうひとつの世界は変動でなければならない。そうでなければふたつの世界にならない。
巻六先進第十一之一二
季路問事鬼神 (季路[きろ]、鬼神につかえんことを問う)
子曰未能事人 (子曰わく、未だ人につかうること能わず)
焉能事鬼 (焉んぞ能く鬼につかえん)
曰敢問死 (曰わく、敢えて死を問う)
曰未知生 (曰わく、未だ生を知らず)
焉知死 (焉んぞ死を知らん)
生きる意味など知らない。生きているだけ十分である。その意味を知ってどうするのか。不老不死を目指すのか。明日の命さえ知らない。その後のことはもっと知らない。今日も飯を食い糞をひり笑い泣き、朝に出かけ夕に帰る。その繰り返しに不安があろうとも何の不満があるか。
分からないものと対峙した時に人の生き方が決まる。今はそれを科学と呼ぶ。それ以前には宗教があった。同根にあるものは未知に対する人間の態度だ。分からないものをどう保留しておくか。
この道しかない春の雪ふる
この道しかないただひとつ。そこに選択の余地はなく見える。決断するまでもない世界か。だがそのただひとつでさえ人には決断が必要だ。それをどう受け入れてゆくのか、それとも受け入れぬか。そこにふたつの世界が生まれる。人には立ち止まる権利がある。道を歩かぬ権利もある。我々は未来とどう歩くか。
思い出す光景がある。口腔に大きな一匹の虫歯菌を描いたポスターがある。その横に小さな沢山の虫歯菌を描いたポスターもある。絵がどれだけ稚拙であろうと、当時は気付けなかったが、そこに優越はない。当時は自分にないものを優れていると感じた。それは羨ましさであって優劣ではない。それが今になってはっきりした。